“開いた口が塞がらない”
みんなはこの「ことわざ」を聞いた事があるだろうか?
意味は「相手の行動・態度に呆れ返ってものが言えない様子」……と辞書に載っている通りだ。
では、みんなは実際に“開いた口が塞がらない”なんて場面に遭遇したことはあるだろうか?……ちなみに今現在私はまさにそんな場面に遭遇中だ。
「…… …… ……ッ!」
頭の中ではこんな風にいつもより饒舌な私が居もしない心の中のリスナーにくだらないことを語りかけているが、実際の舌は、唇は、喉は、声どころか音も発することが出来ない。
そして、ただただロータリーを抜けて段々と緩やかに加速していく水色の軽自動車の背中を見つめる私の手元にはたったひとつの小さな鞄のみ。
「す……スられた……!」
ようやく私の喉が声を乗せられたのは例の軽自動車が私の視界から完全に消え失せてからだった。もうあの車が市街地に向かったのか、別の地区へ移動しているのかも分からない。
胸の辺りがずんと重くなる様な感覚に額からは冷や汗が流れ落ちる。まさに今、自分の顔を鏡を見ればきっと見るに堪えないほどに青ざめているのだろう。
私ーー苗字名前の人生における第4回目のイタリア旅行、その最終日の午前8時頃、ネアポリス空港はタクシー乗り場周辺でのことーー私はキャリーバッグ計2個を個人運営タクシーを営む街の不良学生に強奪された。
手元に残ったのは日本円で約5万円と愛用の手帳一式、そしてそれに挟んでおいたパスポートのコピー、前日ホテルで聞いていたCDにガイドブックとデジカメのみ……あ、ポケットの中に携帯電話も発見した。
煌々と照りつける太陽に恨めしげな視線を向けた私は盛大なため息をつくとすぐに踵を返しタクシー乗り場ではなく、バスターミナルへと足を運ぶ。
予想外にもこんなにも手荷物が減ったのだ、バスに乗っても誰の迷惑にもなるまい!と、どこかヤケになった私はすぐに一番前の座席を陣取ると、すぐにガイドブックを開き近場の安いホテルを検索した。
サンタルチア地区にある、部屋の窓から卵城がほんの少しだけ見える小さなホテルをキープした私はチェックインの午後2時までの時間を有効に使おうと街に繰り出す。
不意に目に入った女性観光客1人でも入りやすそうな1軒のカフェのテラス席に腰を落ち着かせた私は手短にエスプレッソとスフォリアテッラをオーダーし、すぐに鞄から手帳道具一式を取りだし筆を走らせた。
書き出したのは以下の通りである。
まずは状況説明。
ローマからバスで揺られること数時間、ネアポリス・カポディキーノ空港に到着。のち、荷物を空港の預かり所に預けようとするも満杯という理由で断られてしまう。
仕方ないので荷物を持ったまま市街地へ向かう事にするもタクシー乗り場は長蛇の列……そこに「窃盗犯」が現れたのだ。
言葉巧みに私を誘導した個人運営タクシーのその男が提示したのは通常の料金よりもうんと安い金額。欲が出たのと、時間が無くて焦っていたのも合わさってまんまと騙されキャリーバッグ計2個を奪取されたのが……約午前8時頃のことである。
その時、難しい顔をして机上の手帳を睨みつける私の視界の端に遠慮がちに置かれたのは注文していたエスプレッソとスフォリアテッラだった。
ウェイターのこちらを気遣うような物静かな動作に眉間の皺を消し去った私は「グラッツェ」と、にこやかな笑みでお礼を述べた。
完璧に3層に別れたエスプレッソに目を見張った私は早速最上層に出来た「黄金の泡」と呼ばれるゴールデンブラウン色のクリームのような泡の上にシュガースティックを1本投入する。シルクのようなきめ細かい泡は砂糖を受け止め、やがてじんわりと沈めていく。
私はあまりエスプレッソについて詳しくはないが、その様子はまさに芸術のようにも感じられ、思わず感嘆の声を漏らした。
「ン……抽出してすぐだしてくれたのかしら、凄くいい香り……そして砂糖を入れたから甘味・酸味・苦味の調和が生まれて普通のコーヒーでは味わえない独特なうまみを感じる!」
そして見た目だけではなく、もちろん味も1級品だ。
最上層の「クレマ」中層の「ボディ」最下層の「ハート」と呼ばれる3層ごとに感じる香りも味も異なっていて、それでいて通常のコーヒーにある雑味を感じさせぬほどの深いコクに思わずため息をつく。もちろんこれは悲観的な意味を含むため息ではなく、幸福感から出た賛嘆のため息である。
次に私の手はごく自然と、流れるようにスフォリアテッラに伸びる。
スフォリアテッラとはバルやホテルの朝食などでよく目にするパイ生地でできた皮が貝殻の形をした美しいネアポリスの伝統菓子だ。
パイ生地をひだのように重ねて貝殻の様な形に成形しオーブンで焼いたパリパリとした皮の中にはリコッタチーズのクリームがたっぷり。南イタリア特産のリコッタチーズは比較的あっさりとした味わいで、レストランのデザートとして出てきてもペロリと平らげられてしまいそうだ。
パリパリな歯ごたえの生地に表面を覆う魅力的な白い粉砂糖、そして酸味と甘味のバランスが絶妙なクリームとの組み合わせには勝手に頬が緩んでしまう。
こんな最高の組み合わせに巡り会えたなんて世の中捨てたものじゃあないわね、と数分前とはまるで別人のように穏やかな表情をした私は机上のナプキンで口元を拭うとゆっくりとした動作で筆を取り、作業を再開する。
ネアポリス中高等学校の制服(改造制服)に身を包んだ15歳から18歳ぐらいの少年。胸部と腹部につけられたテントウムシのブローチが特徴的。
金色の髪で、同じ大きさの円を3つ横に並べた様な奇妙な前髪。サイドの髪は全て後ろに流していて後ろ髪は低い位置で三つ編みにしている。瞳の色はトルコ石に似たターコイズブルー……。
今記述したのは「窃盗犯の身体的特徴」だ。
私は隣のページに書きなぐるように並んだ状況説明の文章とは異なるその文字列を見て、気分によって文字にも特徴が出るなあ、と苦笑いを浮かべる。
(でもかなりの美少年だったわよね……あれだけ綺麗な顔してればこの辺じゃ有名人だったりするんじゃあないかしら)
私は手帳の空きスペースに窃盗犯の似顔絵を描いていく。あの端麗な顔立ちに、年に似合わぬほどの引き締まった無駄のない身体ーー当然上手く描けたとは言えない出来の似顔絵が私の視線を独り占めする。
なんだか恥ずかしくなった私は手帳を閉じると会計を済ませるために席を立つ。
これからダメ元で交番へ行き、まともに取り合って貰えないものならば最終手段に中等部まで乗り込むしかないだろうーー……。
私はそう決心するとガイドブックに付属していた簡易地図を頼りにネアポリスの街を歩き始めた。
「はあ、1人じゃあ交番へ行くのも一苦労ね。こんなときネアポリスで頼りになる人が……ブチャラティが傍にいてくれたらいいのに」
Buona giornata IF. ALIVE①
30分以上かけて探した交番へ被害を訴えるも空振りに終わった私は再び眉間に深いシワを刻みながらサンタルチア地区内を巡回していた。初めて来るこの地区の攻略は、ガイドブックに付属した大まかな地図だけでは不可能な様で一向に目的地のバス停には辿り着けそうもない。
しかしどこかの誰かさんのおかげで身軽な私は既に一時間ほど歩き回っているがまだまだ余力があった。これが不幸中の幸いというものだろうか?などとどこか現実逃避を帯びた思考で街を練り歩いていると不意にショーケースの中のクロスタータに目を奪われる。ローマで食べたナッツのヌッテラのものとは別の、オレンジジャムがふんだんに使われたそれが、きらきらと光を反射させ私に向かって食べてくれとアピールしているかのようにさえ錯覚した。
(ウッ……でも……私も今は我慢しなくちゃあいけないし……)
こんな緊急時に意味もない買い食いなど言語道断である、と厳しく自身を窘めた私はブンブンと頭を横に振って抵抗する。
しかしそんな心とは裏腹に未だ目で追っていたショーケースの前にふらりと背の低い学ラン姿の少年が現れ、私は落胆のあまり肩を落とす。そしてあるひとつの可能性に気づき「あ」と声を上げた。
(……取られるかもしれない!)
元々買う気なんて無かった私だが、いざ別の誰かが買うかもしれないとなれば話は別だ。そんな無意味なプライドの為に進行方向を90度変え、道路を挟んだ先にある歩道に乗り上げた私は先に並んでいた少年の後ろに付くと「どうか別のケーキを注文しますように」と願いながら店員との会話に聞き耳を立てた。
「お客さん、ケーキかサンドイッチでもいかがです?」
「い……いえ、その……」
「……?」
しかし、目の前に並んでいた灰色の髪を逆立てた少年は一瞬ショーケースの中のケーキに惚けた顔をしておきながら何も注文せずにそのまま立ち去っていこうと言うのだ。思わず後ろに並んでいた私と店員の瞳がかち合う。言葉を交わさずとも考えていることは全く同じだと分かった。
「いらっしゃいませ、お客さんはどうします?」
「え、ああ……私はオレンジジャムのクロスタータを……」
思わず購入してしまったクロスタータが店員の手によって包装される。これではまず1度ホテルに帰らなくては行けなくなったではないかと心の中のもうひとりの自分が悪態をつく。
店側を向いて左側では先程の少年が腹の音を奏でながらとぼとぼと歩いている。その後ろ姿は彼の小柄な身長も相まって本当にちっぽけだ。
「……それにしても凄いですね、テラス席の人だかり。有名人でも居るんですか?」
「さァ……ただの学生だと思いますけど」
一方で、店を正面にして右側に居たのはテラス席に座る1人の男の子とそれを囲む5人の女の子。騒ぎの原因は誰がその男の子とお茶をするのかという話で揉めているからみたいだ。
「うるさいな、ひとりが好きなんだ。あっち行けよ」
そしてその話し合いはそんな無慈悲な一言で決着した様だった。隣から聞こえてきた男の子のその言葉に「随分とハッキリ言うなあ……」と苦笑いしながら会計を済ませる。クロスタータを受け取り、さあホテルに戻ろうと踵を返した時、先程の小柄な少年がピタリと足を止めているのが目に付いた。どうしたのだろうかとその様子を伺っていると不意に振り向いた少年が叫ぶ。
「おっ……!おまえはッ!」
見ているのがバレたのかと一瞬で顔を逸らした私を他所に少年は目もくれず目の前を横切っていく。一体何を見てそんなに声を荒らげたのだろうかと私も彼の足取りを追い、進んだ方へ視線を向けるとそこに居た男に小さく「アッ」と声を漏らした。
「何だよ!?それ誰のおカネだよっ?使っちゃってるのか!もう残り少ないみたいじゃあないか!」
そしてそこに居たーーテラス席に座っていた男に叫びながら怒りをぶつける少年はまんまるの空色の瞳と眉を釣りあげ、悪者を追い詰めるように相手に指を指している。
対するその男は手に持った札束をがっちりと掴んだまま少年の登場に驚いたのか席を立つ。その姿は先程手帳に記した窃盗犯の特徴そのもので、私は思わず息を飲み込む。
「ぼくのパスポートを返せ!ぼくの荷物はどこだッ!」
「……!!」
続けてそう主張する少年に私はひとつの可能性を見出す。もしかするとこの少年もまた、彼に荷物を奪われてしまったのかーー?
そんな考えに至り、より一層窃盗犯の男に対する憤りを覚えた私もまた彼に抗議してやろうと足を踏み出そうとしたその時、男によるありえない発言に持ち上げた足をその場に降ろした。
「本当、心が痛むけど……もうないんだ……売っぱらっちゃってさあ……気の毒だけど……だからもう追ってこないで」
1ミリも反省の色が見えない、寧ろこちらを小馬鹿にしたような表情の窃盗犯はそう言い切るとそれを合図としたかのように一瞬で体の向きを180度回転させ逃走を開始する。
逃げられるーー私は咄嗟にそう思い重たい足をようやく1歩前に踏み出すも窃盗犯の迷いない逃亡の動きのキレとは雲泥の差だ。
「今度は逃がすもんかッ!」
しかし小柄な少年が強い口調でそう叫んだ瞬間、窃盗犯の男の右手が『ひとりでに』テーブルに叩きつけられたのだ。
すでに身体の向きを転回していた男は本来ではありえない向きに腕を曲げられ、机に沈んだ右手の甲を驚いた様に見つめる。
(な……何が起きているの……ッ?どうして『ひとりでに』腕が滅茶苦茶な角度に曲がっているの?……まるで『とびきり重たい何か』に右手が押しつぶされているかのように窃盗犯の手がテーブルにめり込んでいくッ!)
絶句する私を他所に窃盗犯を懲らしめる『とびきり重たい何か』は更に力を強めていく。やがて「重い!」と男が口を衝いて叫ぶとともに四足の頑丈そうなテーブルがついにひっくり返る。私がここに現れるずっと前に飲食していたのであろうケーキの皿とカップ&ソーサー、ジュースの入った瓶に角砂糖のケースが一瞬宙に舞ったあと、思わず耳を塞ぎたくなるほどの騒音を奏でながら固い石畳の上に着地した。
「……全く、分からない……ありえないじゃない……こんなこと……」
私はそう思わずぽつりと零した後、自身の二の腕をちんまりと抓ってみるも、確かな痛覚にそりゃあそうだと肩を落とす。夢ならとっくに覚めているはずだ。きっと荷物を盗まれた辺りで。
「『ACT3』!」
不意にそう叫んだのは小柄な少年。彼は倒れたテーブルや椅子に目もくれず、その先にある路地裏の方へ足を進める。
私はその様子に、もしかすると窃盗犯がその先に逃げ込んだのではないかと推理するとこっそりと少年の後をつけていく。
「バカな……あいつの「手」は引きずったら怪我するほど『重くなっている』んだぞ!簡単に動いて「3FREEZE」の射程外に出れるわけがないんだ!」
カフェの外壁に背中をくっつけ先に続くはずの路地裏の方へ顔だけを出した私は、焦ったように叫ぶ小柄な少年の吐き出した意味不明な言葉の文字列に眉をしかめる。そして先に続いていると思われたその路地は行き止まりになっていて、おまけに窃盗犯の姿もない。このこじんまりとした小路にあるのは少年の姿と1本の木だけーー……。
「もう一ペン言うけど追ってくるなんて考えないでよ。本当は一ペンでいい事を2度言うのは嫌いなんだ。なぜなら……2度言うっていうのは無駄だからだ……君の人生のために言うけど無駄はやめた方がいい」
そう、その1本の木の上に人が立っているのに気がついたのはきっと少年と私も同じタイミングだっただろう。ネアポリスの紺碧の空と煌々としたお日様を背後にこちらを見下ろす窃盗犯を乗せたぐんと伸びたそのか細い木は二階建てのカフェの屋根瓦に届くほどに成長している。いつの間に登ったのか、そもそもこんな都合のいい木がここに元々生えていたというのか。
「たたき落とせ『ACT3』!」
上記の言葉を叫んだのは少年で、その剣幕には目の前の男に対する怒りと動揺の感情が含まれているように見える……そして私は次の瞬間、再びとんでもない光景を目にしたのだ。
突然、少年が固い石畳の地面に身体を沈めたのだ。比喩表現でもなんでもなく本当に、石畳に少年の身体にフィットするような小さく浅い窪みが出来るほどにはめり込んでいたのだ。
その姿はまるで先程の窃盗犯の腕がテーブルに叩きつけられていた時と酷く似ていた。
「これは……?一体……この木は……?」
しかし見た目ほど深い怪我を負っている訳ではないようではっきりと言葉を発音する少年に私は胸を撫で下ろす。
しかしその隙に窃盗犯はその身をすでにカフェの屋根瓦の上に移していて今まさに逃走する数秒前といった所のようだ。
「あっ……」
「……あんた、今朝の……」
その時、不意に視線が交わり男が私の存在に気づいたのか小さく言葉を漏らす。実際に会ったなら言いたいことは山ほどあったのだが、今こうして摩訶不思議な現象を見せられたばかりの私には何をどう言葉にしていいのか分からずただ男から視線を逸らさない様にすることしかできない。
「一応あんたにも言っておくけど……もう荷物は全部売っぱらっちゃって手元にはないんだ……だから追ってくるなんて考えないほうがいい」
男は冷徹な目で、少年に対して見せた態度と寸分変わらぬ言葉遣いでそう言い放つと今度こそ屋根瓦の上を器用に進んでやがて見えなくなってしまった。数秒後、ようやく肩の力を抜いた私は盛大なため息をつき自身のコメカミをぎゅっと押す。ほんの少しの時間で構わないから整理する時間が欲しかったのだ。
「……立てる?」
「は、ハイ……」
そして次に私が視線を向けたのは石畳に身体を沈めたままの小柄な少年だった。
声変わり前のような高めの声色には動揺の色がハッキリと見られる。彼自身もまた、私と同じように何が起きているのか理解出来ていないのかもしれない。
「怪我はしてない?必要なら手当を……と言っても素人の適当な処置になるけど……」
「へ、平気です!……見た目ほど大きな怪我じゃあないみたいで」
私の手を掴み立ち上がった少年はそう言ってはにかんでみせるがその仕草からは「恐怖」の文字が浮かんでいる。彼の立場からすればそれは当然で、何ら不思議な事でもないと私は同情的な視線を向けた。
「……と、とりあえずぼくッ!電話をしないと!近くに公衆電話はありませんか?」
「公衆電話……?あ、あそこ、道路向かいの歩道にあるわ。おカネがないのならコレクトコール(料金受信人払い)にしてもらいなさい」
少年は先程の言葉通り怪我は無いようで「ありがとうございます」とこちらに頭を下げると軽い足取りで道路を跨いでいく。
その後ろ姿を見送った私は不意に自分のポケットの中身が震えているのに気がつき、おもむろにそれを取りだした。
「……ン?珍しいわね、コウタからだわ」
そしてディスプレイに表示された電話番号と登録された「コウタ・メロニード」の名前に私はなんの躊躇いもなく受信ボタンを押す。今の時期ならまだサルディニア島の別荘にいる筈だが何かあったのだろうか?
「もしもしッ!名前、お前生きてるよな!?」
「……は、はあッ!?急に何を言い出すのよ!」
急に耳元で告げられたその物騒な言葉に私は思わず強く言い返す。しかしスピーカーの向こうから僅かに聞こえた「……よかった」というコウタの声に私はすぐに冷静さを取り戻すと要件を催促することにした。
「名前お前どこにいるわけ?今日帰国だったよな?何時の便だよ?今空港か?いや違うか……空港ならとっくに携帯の電源切ってるし」
「……コウタ、落ち着いて。質問は1つずつ、確実に答えていくわ……私は今ネアポリスにいる。そして帰国は恐らく明日以降に変更になった。今いる場所はサンタルチア地区の街中よ」
「馬鹿!なんで今日帰らないんだよ!」
「パスポートと航空券を盗まれて帰れないの。私だって相当参ってるんだから……」
電話口の相手の熱が高まれば高まるだけ私の頭は冷えていく。いつもは冷静なコウタのこの慌てた口振りからサルディニア島で何か異常な事が起きているという可能性を見出す。ほんの2日前までサルディニア島に居た私にも何か関係があるのかもしれない。
「…… …… ……ハア、ごめん……ようやく冷静になってきた……1人で勝手に焦って悪かったな」
「ううん、構わないわ。それより……」
「……うん、話すよ。回りくどい説明は置いておいて『結果』から話すぜ」
私は耳元から聞こえるコウタの息を飲む音に釣られて自身の唾を飲み込む。視線は落ち着かず隣で倒れたテーブルやケーキ皿を回収するカフェ店員の姿を捉えている。
「名前の「祖父母」が『変死』した……2人ともだぜ、一夜にして同時に2人が死んだんだ……それもとても『不可解』な死因でな」
その場で思わず膝をつかなかった自分を褒めてしまいたくなるほどの衝撃が後頭部を直撃したようなーー形容するのも躊躇われるほどの精神的なショックがこのちっぽけな私の身体を襲う。
「サルディニア島」「両祖父母の死」……それらが結ぶ結論が自然と頭の中にパッと浮かび上がる。やはり私は彼らと出会うべきでは無かったのだ。
ーーもしもあの時私が誘惑から逃げ切れれば、もしくは逆にこちらから交渉を持ちかけることが出来ていれば。
荷物を盗まれず時間通りに日本行きの飛行機に乗れていたのかもしれない……しかしそれは同時にコウタからのこの電話を受け取ることが出来なかった可能性を示唆していた。
どちらの選択が、未来が正しかったのか今の私には分からない。
それでも『今』を生きる私はこの知ってしまった『事実』に向き合わなくてはならない……と、ただ漠然と思ったのだ。
そんな可能性の物語。