エメラルド海岸に面した立派なメロニード家の別荘の玄関を後にした私は、見送りのために外まで出てきてくれたコウタとその両親に深々と頭を垂れる。
今年から中学生になるというコウタは少し早めの思春期だからだろうか俯いたままこちらに目を合わせることはなく、それを見てたしなめることも出来ず困ったように笑う母親は「ごめんなさいね」とこちらの様子を伺うように声を絞りだした。
「いいえ、お気になさらず。また機会があったら祖父母の様子を見に来てくれると嬉しいです。きっと2人も……喜んでくれると思いますし」
手短に別れの挨拶を済ませた私は車に乗り込みエンジンキーを回す。去り際サイドガラス越しに手を降れば最後尾にいたコウタが小さく手をあげているのが確認できた。
そんな可愛らしい反応に頬を緩めざるをおえない私は、注意散漫で事故を起こしてしまう前に喝を入れるため自身の二の腕をつねりあげる。そのままたどたどしい手つきでカーラジオのスイッチを入れると、スピーカーから流れる音楽のリズムに合わせて体を揺らした。
「サイドブレーキを引いて……ギアをリバースにして……徐々にフットブレーキを緩めて……」
ウインドウを全開に開けて窓から顔を出した私はゆっくりとゆっくりと、操作方法を口に出して復唱しながら車を停車させた。駐車したのはコスタ・ズメラルダに程よい近さの無料開放された駐車場だ。
達成感からふう、と盛大なため息をついた私はウインドウを閉め、キーを抜くと車外に足を踏み入れた。
普段、通勤もプライベートも公共の通行手段を選んでいた私には外車の左ハンドルも、教習所以来1度も乗っていなかったマニュアル車も、初めて走るサルディニアの道路も全てが未知なるもののようで鼓動が幾ばくか早まるのもわけなかった。
「でもやっぱりサルディニアの海岸通りは車で走るとちょー気持ちいいわね……。車をレンタルして正解だったわ」
オルビアのレンタカー店でレンタルした四角い目が特徴のマニュアル車は1980年代ものの廃車まがいのものであった。しかし、運転に不慣れで気を抜けば辺りに擦ってしまいそうな私にはそれが返って好都合だった。理由はもちろん私が乗る以前から傷だらけのこのボディならば少しぐらい新しい傷を作ってもバレっこないだろうからだ。
閑話休題、車に鍵をかけた私は早速海の方へ足を運ぶ。暫く海岸沿いの歩道を歩き、降りられそうなところから緑と岩場を突っ切って海の方へと降りていく。
幼い頃から祖父母に会いに行くために訪れていたエメラルド海岸沿いの地図なら大体は頭の中にインプットされていた。
(だからこの場所を抜けたらーー……)
コロコロと音を立てて先を転がったのは、私に蹴飛ばされた岩場に出来た小さな砂利だ。それに続くように海岸沿いの岩場に到着した私はいつも聞こえてくるはずのサッカー少年たちの叫び声が聞こえないことを不審に思いながらも1年前、3人のギャングたちに出会った場所まで歩を進め始めた。
「……!」
その時だった。不意に鼻腔を掠めた甘い香りに私は足を止める。花の匂いだーーと私は瞬時に察知した。しかし普段此処いらでこれほどまでの強い花の香りなど嗅いだことはなかった筈だと思考をめぐらせる。
(海岸沿いではあまり嗅がない匂いのようだけれど……?)
そう思いながらも再び前に動きだした私の足はいよいよ匂いの発生源の元までたどり着く。匂いの根源は岩場の一角に群生したニオイヤグルマギクのなかでも特別な品種である色艶やかなイエローサルタンのようだった。
「!」
その時、遠目に1人の男性の姿を捉えた私は何故か悪い事をした子供のように思わず岩陰に隠れると、次には覗き込むようにして男の様子を伺った。
不思議と見つかってはいけないという使命感に駆られながらも監視を続ける私の方へ、太陽を真っ向から受けて逆光となったその後ろ姿が振り返ろうとしたその瞬間。私にぶつかってきたのはサルディニアの潮と足元に咲くイエローサルタンの甘い香りと花弁を巻き込み吹き込んだ可視化された黄金の風。そしてそこに立っていたのはーー
「名前……?」
声変わりしたのだろうか?すこし低くなったその声と、それでも変わらぬ黄金色の絹のような髪とトルコ石のようなターコイズブルーの瞳を携えたその男は紛れもなく私の友人であるジョルノ・ジョバァーナであった。
Buona giornata!! Epilogue one year later①
「イエローサルタン……へえ、花言葉は「強い意志」かあ」
「ついでに「優美」という意味も持っていますが……基本的にその花は試験などに備えて努力している友人に送るものだと言われているんですよ」
さすがジョルノ!……と心の中で賞賛を口にした私は手元の電子辞書を閉じ、椅子に腰かける1年ぶりに再会を果たした友人の姿をまじまじと見つめる。
あの日と変わらず前髪は特徴的な円を描いていて、後ろに束ねた髪は……少し伸びただろうか?
場所はコスタ・ズメラルダから移動して、オリビアの海が見えるトラットリアに来ていた。1年前まで祖父母が経営しながら住んでいた二階建ての建物だ。
3ヶ月に1度のペースで信頼出来る清掃会社に建物の維持を任せている為目立った欠陥はないが長いこと誰にも使われていないメインホールや調理場が私を物悲しい気分にさせた。
「……それにしても、ジョルノがサルディニア島にいるなんて驚いちゃった。再会するならネアポリスだと思ってたから」
「僕も同じですよ。今日はどうしてサルディニアに?観光ですか?」
あの日から時間が止まったように生活感が残る2階のリビングで2人分のカッフェを淹れながら私がそう問えば、窓の外に見えるボロボロのレンタカーを見下ろすジョルノからも似たような返答が帰ってくる。
私は真実を言うべきか言うまいか一瞬迷った後、彼にならば言っても良いだろうと重い口を開いた。
「……私はお墓参り。去年私が日本に帰国した頃と同時にこの家に住んでいた祖父母が死んじゃったの……老衰による老死だって。『到底信じられないけど』」
「……!すみません……軽率に聞いてしまって」
「いいのよ。嫌だったら嘘ついてたし」
律儀に申し訳なさそうな顔をするジョルノを見て、私は1年経っても彼の本質は変わっていないのだと理解し口の端を緩ませる。
「……それで、ジョルノは?学生の貴方がこんなリゾート地に何をしに来たのかしら」
「僕は友人から預かったものを届けに来たんです。彼の気持ちを尊重するならば、直接来るべきだと思ったので」
「へえ」
私は感心したように、そして柄にも無いことを言うものだとどこか失礼な事を考えながら言葉を漏らす。そういうことなら協力は惜しまないと、私は祖父の書斎からノートパソコンを持ってくるとジョルノが読みあげた住所をキーボードに打ちこんだ。
もしも遠くても今日は幸い「足」がある。私は勿論自信がないのでその場合はジョルノに自分で運転してもらうことになるのだが。
「……これは!」
検索ページの1番上に現れたサイトをクリックする。そして表示された1面を見て私は思わず叫ぶとパソコンごと立ち上がった。そこに映し出されていたのは「トラットリア・マゴ」の文字、そして洋風な建物に不釣り合いな『のれん』が架かった独特な店構えの写真ーーそう、それはまさに今、私達が滞在するこの建造物を写していたのだ。
「トラットリア・マゴ……!よく見ればレナの淹れてくれたカッフェのマグカップにも同じ文字が焼印されているッ!まさか、こんな偶然があるなんて……」
さすがのジョルノも予想外だったのか瞳孔は開き、額からは1粒の汗が滴りおちている。
対する私は一体何の届け物なのだと眉を寄せた。一応友人であるジョルノからの配達であるから信用はしているがイマイチ手放しでは喜べない。
「ええと…… 名前。一応確認させて貰います。……ここは「シゲル・苗字さん御夫婦」が住んでいられた家で間違いはありませんね?」
「え、ええ。「苗字シゲル」は確かに私の祖父に当たる人物よ」
「……なら届け先はここで間違いないようだ。肝心の祖父母が亡くなられた今、この封筒を受け取るのは親族である貴方になります」
なんとも奇妙なものだーーと私は喉まで出かかった言葉を飲み込む。
ジョルノから手渡された厚さ5ミリ程の茶封筒を360度の角度から観察する。その飾り気のない封筒にはイタリア語でこのトラットリアの住所と宛名として祖父の名前が記されているのみだった。
「あれ、名前が無い……フツーなら送り主の名前と住所も封筒に記載する筈よね?」
「そうですね……でも送り主の彼は書かなかったみたいなんだ。まるで「そうするのが当たり前」だったかのように」
「……?」
ジョルノの含みを持たせた言い方に首を傾げた私は考えていても埒が明かないといよいよ封を開けることにした。
糊付けされた封筒の口を慎重に剥がしていく。そして中から現れた新たな白い便箋を見て私は思わず声を上げた。
「れ、レオーネ!?」
その白い便箋に書かれていた「レオーネ・アバッキオ」の文字に私の心臓は早鐘を打つ。そして裏側に書かれた私の名前に胸がジンと痛みを覚える。
まさかレオーネがまた手紙をくれるなんて!喜びのあまり飛び上がりそうになりながらもジョルノの手前上それをぐっと堪える。ああでも嬉しくて堪らないーー!!
「……待って下さい、まさか……アバッキオと文通をしていたのは貴方だったんですか?」
「ええ!幼い頃にポンペイで知り合って……10年近くはやり取りしてたんじゃあないかしら」
「……そう、だったんですね……」
しかしジョルノの表情は反比例して暗く俯いている。どうしてそんな顔をしているのか理解できない私はどうしたのかと彼の元へ距離を詰めて顔色を伺う。
「アバッキオの手紙が貴方に向けたものであったというのなら僕は名前に本当の事を……いいや、『本質』を話さなくてはならなくなった……単刀直入に言います。実は僕も、この島で亡くなった仲間を弔う為にここに来たんです」
「……!」
「僕が何を言っているか、分かるでしょう。名前、貴方はそこまで鈍い人じゃありません」
今だけは、このジョルノの割り切った性格が恨めしかった。
目と鼻の先にあるターコイズブルーの鋭い瞳から、手元の便箋を守るように身を竦める。先に続くジョルノの言葉がなんとなく理解出来る自分に嫌気がさす。
「僕はさっき偶然だ、と言いましたが訂正します……これは紛れもなく運命だ。今日ここで僕ら2人が出会ったのは必然的なものだったんだ」
先に続く言葉を聞きたくないと思う気持ちをとは裏腹に上手く言葉を発音出来ずにパクパクと動くだけの唇が情けない。他にできることといえばその場で二の足を踏むことぐらいなものだった。
「僕にはーー『生き残った僕ら』には『死んでしまった彼ら』の想いをつなぐ義務があるッ!……アバッキオ、貴方が名前に渡せずに懐にしまい込んでいたその手紙、確かに届けましたよ」
ジョルノは私から視線を外すと窓の外に見える紺碧の空を瞳に映した。
対して私はそんなジョルノの瞳に反射するサルディニアの空を呆然と見つめ、そして彼の瞳の中の空がまばたきとともに落ちるのをただじっと見ていることしか出来なかった。