日本ではそこそこの大企業に若くも就職した私は趣味である海外旅行で人生4回目であるイタリアへ来ていた。
ネアポリス空港を出てからすぐのタクシー乗り場にはすでにたくさんの人の行列。ざっと見て30分以上待つことになると予想した私は歩いて予約したホテルまで向かうことにした。
ホテルへ向け懸命に歩いていると、人の流れが右へ続いているのが見えた。先には何があるのだろうかと人の波に乗って行けばそこにあったのはケーブルカー。計画的に日本で調べてから交通機関を乗る私には時刻表や進行方向の掲示板を今すぐ判断するのは難儀だったため、ギブアップしようとしたその時だった。急に肩を掴まれた私はどきりとしながら振り向く。
「日本のパスポート……君のだろう? 危うくスられるところだったぞ」
白いスーツを着た黒髪の男の手には確かに日本のパスポートがあった。私は彼の手からパスポートを受け取ると自分の物かどうか確認するためにページをめくる。それは本当に自分のもので感激した私は男の手を取ると満面の笑みを浮かべて「グラッツェ!」と言うと、続けて言葉を紡いでいく。
「お昼がまだならご一緒しませんか?」
Buona giornata!! Day,one Neapolis
男と別れホテルへ向かった私はチェックインを済ませるなりパンパンに膨らんだキャリーバッグから一番可愛い服を選ぶと備え付きのシャワールームで鼻歌を歌った。
意外なことにあの男からの返事はYESだったのだ。彼はまだ仕事中だったらしく、2時間後このホテルの前で待ち合わせることになった。
今日の目的であったサンテルモ城への予定はキャンセルにして例の男と食事……とするとさすがに時間が有り余ってしまう。話によると彼はネアポリスに在住しているようなのでこの街について詳しいだろうし、どこかオススメの場所を教えてもらうのもいいかもしれない……と私はシャワーのヘッドを掴むと曇ったガラスを濡らした。
予定よりも15分ほど早くでて男を待っていると彼は私の1分後ぐらいに待ち合わせ場所に現れた。少し早めに出たつもりだったが危なく相手を待たせてしまうところだったらしい。
「まさか待たせてしまうとは……すまなかった」
「いいえ 私もいま来たところですから 」
時計が狂っているのか……? と腕時計へ目を向ける男に私は「きっかり14分前ですよ」というと「日本人は律儀だな」と返ってくる。それをさらりと笑顔で受け流した私は、ホテルの近くに馴染みのリストランテがあるという男の横に並んだ。日本とは違う街並みに特別感を覚え、何度訪れたとしても感銘を受ける。
そんな私の様子を見て微笑んだ男は「イタリアに来るのは初めてなのか」と爽やかな声をあげた。
「いいえ、今回で4回目です!でもナポリに来るのはじめてなもので……」
「4回も……旅行が趣味なのか」
「ええ! 旅行はいいですよ……あなたも連休がとれたら国内でも旅行してみたら? 」
「……国内旅行か、いいかもしれないな」
そう言って考える素振りを見せてくれた男に私は「はい! 」と笑顔を返した。国内旅行なら忙しい人でも日帰りも出来るのでオススメである。
しばらくしてお目当てのリストランテに到着すると、男はこちらに振り返り店先のメニュー看板を指さす。ある程度どんなものがあるのか教えてくれるらしい。
「あなたのオススメは何? 」
「苦手なものはあるかい? 」
「……特にないわ」
男は私の答えを聞くやいなや迷うことなく看板のてっぺんに書かれたピッツア・マルゲリータを指さす。黒板帳のボードに描かれたイラストだけで既に美味しそうな料理だ。
「ここのマルゲリータは絶品だ ネアポリスにきたなら1度は食べておかないと損だろう」
「……そんなに? 」
「……そんなに、だ」
ドアベルの高らかな音をバックに入店し、テーブルに着くと彼はすぐに店員に注文を入れる。私の分のマルゲリータと、彼の分の料理名を本場の流暢な発音で発する男に感化された私は無理矢理店員を呼び止めると「白豆のスープも!!」と注文を加えた。
「本場の人に言うものじゃないかもしれないけど……イタリア語、上手ですね」
「君こそ若いのにすごく上手だ……店員にも一発で伝わっていたしな」
「まあ旅行が趣味ですしね……他にも英語と中国語が喋れますよ! 」
それはすごいな……と感心したように男がうなづいたそのタイミングでウェイトレスが私たちの前にコーヒーを差し出す。私が怪訝そうな顔で男の顔色を伺うと「俺が注文したんだ」と、ブラックコーヒーを1口すすった。
「グラッツェ ……ところであなたが持っているラッテ(ミルク)とズッケロ(砂糖)、頂いても? 」
「……もしかしてカッフェは苦手だったか? 」
「いいえカッフェは大好きよ……ただミルク無しではでは飲めないの」
男の分と自分の分の2つのラッテをカッフェに勢いよくいれてやると真っ黒だった液体にラッテが重力に従い沈殿していき次第に色が変わっていく。次にスティック状の袋に入っているズッケロを迷いなくカッフェに注ぎ込む……私にとってはラッテ2杯のズッケロ1杯が黄金比なのだ。
完成した自分の為のカッフェをソーサーの上に乗せられていた金色のティースプーンでかき混ぜる。
その時だった、やけに男からの視線を感じたのだ。何をそんなに真剣に見ているのだろうかと私が彼の視線を追ってみるとそこにはいつのまにかこぼしてしまっていた少量の砂糖が焦げ茶色のテーブルに散らばっている。
暗めの色合いのテーブルの上で嫌ってほどに映える白い粉に私は恥ずかしくなって机上に置かれたナプキンでそれを拭き取った。
「ごめんなさい……ちょっと粗相を致しました……」
誤魔化すように1口カッフェを啜る。しかし男は放心したかのように先程の砂糖が散らばっていた場所ばかりを見ている。まだ何かこぼれているのかとテーブルに睨みを利かせるがなにも問題は無いようだ。
男の切りそろえられた前髪から覗かれる青い瞳は険しいもので、怒らせるようなことをしたつもりは無かったのだが……と私は慌てふためいて辺りに助けを求めようと目線を散らした。
「おいブチャラティ そこに手を置いてちゃあ料理を置けねーだろう」
声のしたほうを向くために再び男のーーいやブチャラティの方へ私は視線を向けた。
そこにいた店員はポルチーニ茸の乗ったマルゲリータを持って私に歯を見せて笑う。
「すまん マルゲリータは彼女のだ」
「おっと、そりゃあ失礼」
そう言って私の目の前にマルゲリータを運んでくれた店員に小さな声で「グラッツェ」とお礼を告げると白豆のスープも隣に並ぶ。
それに対してブチャラティの元にはミネストローネと数枚のバケットが置かれていた。
「どれもおいしそうね! 」
「ああ 冷めないうちに食べてしまおう」
そういってバケットに手を伸ばすブチャラティをよそに私は「Buon,appetito!(いただきます)」と手を合わせた。
6等分にカットされたピッツアの1切れを大きく開けた口に放り込むと、トッピングされたポルチーニ茸の独特の風味とチーズの香ばしさが合わさった絶妙な美味しさに私は思わず「Buono(おいしい)」と口を零す。
「教えてくれてありがとう!ブチャラティ!このマルゲリータ、すっごくおいしいわ!」
「ン?……ああ、そうだろう 後で店主にも言ってやるといい……きっと喜ぶ」
私はブチャラティの言葉に「そうするわ」と返すと次の1切れを畳んでひとくちで食べてやる。
口内のピッツアを咀嚼して飲み込む。そしてナプキンで口の周りを拭き取ると正面に座るブチャラティとばっちり目が合う。彼ははにかむと自身の右側の頬を指す……つられて私も自身の右側の頬に触れると、冷めても美味しいようにクロワッサン生地で作られたピッツアのソースが手に付着した。
「ごめんなさいブチャラティ……みっともなかったわね」
急いで手に持っていたナプキンで頬についたソースを拭き取るが、恥ずかしさのあまり私の頬には熱が集まった。まったくもう!成人した女性のやることでは無い。
「いいや……ところで君は今いくつなんだ?」
「……? 25よ」
「そうだったのか……年齢よりもずっと若くみえる」
私はありがとうと微笑むと「あなたは? 」と聞き返した。ブチャラティはその質問に20歳だと答える。
「へえ!あなたは年齢よりももずっとたくましく見えるわ」
「褒めてくれているだよな? 」
「もちろん」
次の1切れを口に頬張る……ひとくちで食べきらずにちまちまと食べる。合間に白豆のスープも手につけると、これもまた絶品だった。
「そういえば私たち、自己紹介してなかったわね 」
「確かに……でも俺はする必要ないな? 」
「あるわよブチャラティ! ウェイターの口からじゃなくて、あなたの口からあなたの名前が聞きたいの」
私は2口分のピッツアを口に放り込んだ。口の中の水分が奪われてしまったのですぐにカッフェを口にする。
「私は苗字名前よ。年齢は25、職業は検索エンジンやWebデザインに関するお仕事……IT企業に勤務しているわ」
「……IT企業か。詳しくはないが……俺も知ってそうか? 」
「そうね……本社がアメリカにあるぐらい大きな企業よ。あなただけじゃなく、たぶんこの店にいる人全員知ってるかも! 」
ブチャラティは少し考えた後私に『大手SNS企業』の名前を耳打ちする。「ちがうわ」と首を振ると再び考え始めたので私はそんなことより!と、彼の思考を妨害した。
「次はあなたのことを聞かせてよ」
「俺の名はブローノ・ブチャラティ ネアポリスは結構長いからな……何か聞きたいことがあればなんでも言ってくれ」
そういったブチャラティに私は「私のことは 名前って呼んで? 苗字よりも呼びやすいでしょう? 」と目を細める。ブチャラティも今まで通りの呼び方で構わない口もとに弧を描いた。
「そうだわブチャラティ! 私この後どうするか決めてないのよ。ネアポリスでのおすすめスポットを教えて欲しいわ」
「そうだな……サンテルモ城には行ったか? 」
「あー……今日行く予定だったけどキャンセルにしたのよ。あなたと食事したかったからね」
私は腕時計に目をやると「午後8時にはホテルに戻りたいから……6時間ぐらいの滞在になるわね」と呟く。ブチャラティのおすすめを聞き逃すまいと私は手帳とペンを取り出すと『ネアポリス ブローノ・ブチャラティのオススメ』と大きく書いた。
「 名前、それは駄目だろう 女性が1人でそんな夜中まで出歩いていては無事ではすまないぞ」
「うっ……」
「同行者がいないのなら観光は午後5時までだ……それ以上は日も落ちているし危険だ」
ブチャラティの正論に私は肯定の言葉を口にした。当然ながら私に辱めを受ける願望はないので、現地のアドバイザーには逆らって一理もないだろう。
「じゃあ3時間ぐらいになっちゃうわ……そうだ!ショッピングできる場所とかはない? 」
「ショッピングって……お前いったい何日間旅行するんだ? 」
「8日間よ」
「それじゃあ残りの7日間ずっと大量の荷物を持って旅行するはめになるぜ」
またもやブチャラティの正論に私は肯定の言葉を口にした。当然ながら私に荷物に追われながら観光をする趣味はないので彼に逆らっても一理もないだろう。
「……もう、そんなに駄目駄目いうなら教えてよ!どこ行けばいいか」
「そうだな……サン・カルロ劇場はどうだ? 君の服装からみてオペラや美しいものが好きそうだと感じたんだが」
彼の言葉に私は自身の服装を振り返った。黒地に白の水玉模様のプリーツワンピースでウエストを細く、脚を長く見せるために腰の少し上辺りが絞られているデザインの服装で、オペラが好きとまではいかないが音楽鑑賞が好きそうな確かにおしとやかな格好だった。
しかし私はそんなことよりもいの一番に思いついたことがあって思わず吹き出してしまう。
「んふふっ……ブチャラティ、気づいていたかしら私たちの格好」
「ン……なんだ? 」
「へへへ、気づかないうちにペアルックみたいになってたわよ! 」
ブチャラティは驚いた顔で自身の服装と私の服装を見比べてひとこと「確かに」と言った。
私のワンピースは黒地に白の水玉、ブチャラティのスーツは白地に黒の雨玉?のマークではたからみたら色違いのペアルックに見える。
「ねぇねぇ! 写真撮りましょうよ! 記念に!」
私は笑顔のまま鞄からデジカメを取り出すとブチャラティに向けた。しかしブチャラティの顔は暗い。
「写真……悪いがそれは駄目だ」
私は彼の表情につられて笑顔を保つことが出来なかった。「それじゃあしょうがないね」と眉を下げた私はデジカメを鞄にしまう。
共に食事をしてもいいのに写真には写れない理由はなんだろう……私は真剣に考えるとある一つの可能性にたどり着く。
「 名前……」
「あ!もしかしてガールフレンドが嫉妬深いとか?」
「……は?」
「写真は残るものね……危ない危ない!」
私の言葉に心底訳が分からないと言った顔をしたブチャラティだったがしばらくして「違うが……まあそういうことにしておくか」と破顔する。彼の表情が明るくなったのを見て私は一安心だ。
「……それじゃあ次に会ったには絶対に写真撮りましょうね!これからネアポリスに来る時はこの服できますから、あなたもそのスーツで毎日仕事してください」
「おいおい 横暴だな……まあいいだろう」
その後も終始和やかな雰囲気で食事を進めていく私たち。互いのメインディッシュを食べ終えて、ブチャラティもわたしも同じタイミングでカッフェを口にしたので私達は再び吹き出した。
「ありがとう、楽しかったわブチャラティ。また会えるのが楽しみよ」
「ああ……もちろん俺もだ 」
リストランテを出て、サン・カルロ劇場へ向かうバス停まで送り届けてくれたブチャラティに私はお礼の言葉を述べる。
彼との食事は本当に有意義だった。こんなこと言っちゃあ悪いがサンテルモ城に行かなくて正解だったかもしれない……それほど有意義だった。
「私の名前忘れちゃあ駄目よ?ブチャラティ」
「忘れるわけないだろう……このスーツを見れば嫌でも思い出すよ、 名前」
ブチャラティはそう言って自身のスーツをほんの少しはだけさせた。そこから覗かれたタグには油性マジックで書かれた私の名前が見えた。人前なので見せることはしないが私の首襟のタグにはブチャラティの名が書かれている。
「……それじゃあ Arrivederci (さよなら)……いや、Ci vediamo(また今度) ブチャラティ! 」
予定通りに到着してしまったバスを前に私はブチャラティに振り返りそう口にする。ブチャラティは「Buona giornata(素敵な一日を)」と優しい瞳で言うと速くバスに乗るようにと私を促した。
「ブチャラティも! Buona giornata! 」
バスの窓を開け、そこから顔を出した私にブチャラティは笑った。しかし彼はその後すぐ今生の別れだと言うような寂しそうな表情を浮かべる。
「……ブチャラティ? 」
「 名前、 Addio(さよなら)だ」
私が彼に声をかけようとした瞬間だった。まるで図ったかのようにバスは動き出してしまった。ブチャラティに声をかけることはかなわなかった私はただ無言で彼に手を振った。
こうして私の4回目のイタリア旅行が始まった。