フールズ・メイト
途中立寄ったコム・オンボにて「アヌビス神」の暗示のスタンド使いを討ち取ったと話すポルナレフを乗せた船は夕暮れを前にエドフへと到着した。
ナイル川西岸に位置するこのエドフの町は古代に栄えたギリシャ都市であり、 現在ではフレンドリーな商業都市としての目覚しい発展を遂げている。地元の住人が育てたサトウキビで出来た砂糖や陶器なんかが有名だ。
そしてこの町の一番の名所と言えば隼の姿をした神「ホルス」へと捧げられた神殿だろう。観光客たちはそのエジプトにおいて最も保存状態が良い御殿へとよく足を運ぶという。
なんの下調べもしていないただの旅行者であるアゲハには知る由もないが、古代の文明や信仰を解き明かそうと奔走する歴史学者たちにはまさに貴重な資料なのであるーー……。
「次の街ルクソールへは明日の朝旅立つ!今夜はこのホテルに滞在するぞ」
場所は変わって、町一番の大きなホテルを訪れたジョセフは声高々にそういうと部屋のキーを承太郎とアゲハに手渡す。部屋割りは彼が独断で決めてくれたらしいーーアヴドゥルとジョセフ、承太郎とポルナレフ…… アゲハはイギーと同室のようだ。
「よろしくね、イギー。あなたと同室だなんて心強いよ」
アゲハはかしこまって豪華絢爛なカーペットに膝をつくと小さなボストンテリアの彼に挨拶をしてみせた。しかしこれは不発だったようでイギーはふんとそっぽを向いてしまう。それを見ていたポルナレフからは
「何かされたらすぐにオレたちの部屋にこいよ」なんて慰めの言葉まで貰ってしまう始末だ。
「……ところでポルナレフったら、その剣持ってきちゃったの?」
「ああ、この剣は警察に届けるんだぜ。どうみても凶器だからな、あの遺跡の所に捨てておくと誰が拾うかわからんぜ。高価そうだしよ」
アゲハは自分を慰めようと肩に腕を回してくれたポルナレフの持つ大きな太刀をじいと見つめた。アヌビス神の使い手の男が持っていたというその刀の柄の部分には煌びやかな黄金の装飾が施されており、その飾り模様の中心に嵌め込まれているのは本物のルビーだろうか。物凄く美しくて思わず抜刀してみたくなるその逸品にアゲハはポルナレフの言葉に深く賛同した。
「まあその前に床屋に行ってくるんだがな……そうだ、承太郎に付き合ってもらおうと思ってたんだがお前も来るか?」
「ううん、今回は遠慮しておく。今日は一日イギーについて行ってみようかなって思ってるんだ」
「はぁッ!?お、オメー正気かよッ!信じらんねー、この犬畜生が誰かと仲良くお出かけ〜なんて出来るわきゃあねーだろうが」
「べ、別に一緒に出かける訳じゃないよ。勝手について行くだけ!少しずつ仲良くなっていこうかなって……ねっ?いいでしょ?イギー」
「アギ……」
アゲハからの問いかけに心底呆れた様子でひと鳴きしたイギーはポテポテと今にもホテルを出て行ってしまいそうだ。気に触れてしまったのだろうか。
それに「ああっ」と残念そうに声を漏らした彼女はそのまま後を追うようにポルナレフたちの元から駆け出していくと
「暗くなる前に戻ります」と叫んで彼らの視界から消え去っていった。
「さ、オレ達も行くか……転げ回ったせいでせっかくのハンサムが薄汚れちまったからな」
「やれやれ、大して変わらんと思うがな……」
「はあ……はぁっ……はっ……」
あれから、アゲハはずっと全力で走っていた。元々生まれ持った種族としての運動能力の差があるのだから仕方の無いことなのだが一向に縮まらないイギーとの距離に息を乱していたのだ。(いいや縮まらないどころか着々と差が開いていないか?)
セーラー服の下の素肌には汗が伝い、前髪は額に張り付いている。今すぐにでも泣き言を言ってしまいたくなるほどにはもう限界だった。
「……アギ」
「イギー!やっと立ち止まってくれた……っ!いま追いつくから待って……!」
そして、それを感じ取ってくれたのか突然立ち止まるイギー。比較的小柄なアゲハの腕にすっぽりと収まってしまうほどのその小さな身体がゆっくりとこちらに振り向いたのだ。アゲハはその青い瞳に嬉々として足を早めるとすぐさま彼の元に駆け寄っていく。
「へへ、私も結構やるでしょ?今日はこれからどうするの……ってイギー、あなた一体どこへ行くつもり……」
イギーはまだ私を認めていないから、こんなにも冷たくあたってくるのだろうかーーと思っていたアゲハは数十分における持久走になんとか着いてこれた事を評価して立ち止まってくれたのだと仮定して顔を綻ばせた。
しかし、後に続くイギーの動きに思わずその微笑みは崩壊していく。なんと、沿道沿いに店を構えるレストランの方へ向かっていった彼はテラス席で食事をする中年の男の元へ近づくとテーブルのクロスに噛みつきそれを豪快にひっぺがしてしまったのだ。
「こ、こ、こここの畜生がァーーッ!俺の、俺のメシに何をしやがるってんだッ!!!」
次の瞬間、辺りに響く硬い地面に食器が落ちる破壊音と、そんな思わず耳を塞ぎたくなるような騒音に負けじと張り上げられた被害男性の怒声にアゲハは新たに一筋の汗を流したーー何を考えているというのだ?イギーの考えていることが分からない、どうして急に人様に迷惑をかけだしたのだーー……。
「イギー!なんて事をするんだ!どうしてそんな事を……」
とにかくこんな事をしてはいけないと言わなくてはーーとアゲハが一歩踏み込んだその時だった。怒りで震える男の足元でイギーがこちらを向いて笑ったように見えたのだ。
犬という生き物は生物学上微笑むことは無い。そんなことは彼女にだって分かっているのだが確かに、彼は、イギーはアゲハをほくそ笑んでいた。
「……オイ嬢ちゃん、いま確かにこの犬の名前を呼んだよな〜〜……いくら悪いのがこの犬コロでも責任、取るのは「飼い主」のお前さんの仕事だよな〜〜」
「ま、まさか……!「足止め」なのか……?ただのがむしゃらに走り回るだけでは私を出し抜くのに時間がかかると判断してこの男を利用して……?」
「おいテメーに言ってんだぞこのアジア人のガキがッ!!身体バラバラにされて売りさばかれたくなかった「飼い犬」の不始末の落とし前ぐらいさっさと付けろって言ってんだぜーーッ!!」
その様子にまさか嵌められたのかと結論を出したアゲハは信じられないものを見るようにイギーを見つめた。彼は男の怒りの矛先が彼女に移ったのをいい事に段々とこちらと距離を取り始めている……余裕綽々、という風貌を隠すこともなく欠伸までしている。その様子にアゲハは酷く眉を顰めると深く俯いてしまう。
「……言葉を返すようだけど、それは違うよ」
しかし、唾を飛ばし怒鳴るエジプト人と思しき男に一歩、また更に一歩と歩み寄ったアゲハの声色には「怯え」や「恐怖」の色は見えなかった。それどころか彼女は徐に黒い痣が浮き出た人差し指を突き立ててみせたのだ。男が着ていた伝統衣装のカラベーヤの胸部分には彼女の指の圧で僅かな皺が刻まれてしまっている。
「イギーと私は「飼い主と飼い犬」の関係などではないッ!同じ旅の終着点を目指す『仲間』なのよッ!!」
「な、なにふざけた事をーー」
「私を見なさいッ!イギー!……私は確かに弱いけど……私の「スタンド」は強いんだからっ!」
アゲハはピンと張った右腕に身体中のエネルギーが流れていく力強い感覚に息を飲んだ。
あの時、紅海沖の村で大好きな彼と共にめいいっぱい練習した私の新たな力……。その努力を!頑張りを!仲間であるイギーに認めてもらわなくてはならない。
「D・D弾……あなたは「座り込む」」
まるで完熟した大豆の莢が爆ぜて乾燥した身を弾くようにーーアゲハの指先から放たれた弾丸は目の前の男の皮膚を突き破り体内に侵入した。
彼女の特殊な弾丸「D・D弾」は相手の体内に侵入することでようやく効果を発揮できるスタンドである。
そしてその効果はさまざまで、あえて一言でまとめるのなら「相手になにかを思い込ませる」事が出来る、といった所だろうか。
「……「思い込ませる」事で貴方の足を止めることなら不可能じゃあないと思うよ。私だってイギーに一発ぶち込む位の実力はある筈だもの。でもね……それは違うでしょ?」
目の前で膝から崩れ落ちる男から視線を外したアゲハが少し離れた所で驚いた様子のイギーを捉える。少しは認めてくれたかなーー逸る気持ちを抑えきれない彼女は軽い足取りで彼の元へ近づいていく。
「私はまずあなたを知りたい!コーヒーガムや他人の髪の毛をメチャクチャにする事以外の好きな事を知りたいんだ!どんな人が好きなのかどんな事が嫌いなのか……まだ知らない事だらけなんだもの!」
しゃがみ込んだアゲハの手が呆気にとられて動けないイギーの頬に触れた。
数十分における鬼ごっこはこれで終わりだ、ほんのちょっぴり位は認めてもらえただろうかーーなんて、目を細めてその紺碧の瞳を覗き込んだレナは彼の頬からそっと手を離す。レストランの従業員が来るより先にトンズラしなくては。
「よ〜〜しそろそろ逃げようか、イギー。言っておくけど貴方のせいなんだからね?次はダメなんだよ?」
「……イギ」
アゲハの咎めるような声にひと鳴きしたイギーは彼女を置いて先に駆けていく。申し訳ないことをしてしまったが、ここはひとまず逃げてしまおうか。私たちには時間が無いのだ……面倒事は困るのだ。
疲労困憊で重くなっていた筈の足が軽いーー今のほんの僅かな時間でほんのちょっぴりだけイギーと分かり合えたような気がしたアゲハはより一層力強く地面を蹴る。視界の先に捉えたイギーまでの距離はあと十メートルだ!
ーー……その後、ややあって満身創痍の承太郎とポルナレフと落ち合うのはこれからあと数分後の事。