デイドリームその③
病院へ戻ったアゲハは一先ず自身の病室に戻った。そして紙袋から取り出したプレゼントに段々と後悔の念を抱き始め酷い唸り声をあげる。
「勢いに任せて買ったはいいけど……どうやって渡せばいいんだろ〜……」
胸に抱いた小さなコインケースに憂いを帯びた視線を向けた彼女は盛大なため息を着く。買った以上渡さないという選択だけはしたくなかったがそれ以上に平然とした顔で渡せるとも思えない。
固いベッドに寝転んで天井を仰ぐ。無意識に額に当てた手の甲は自身のいつもより高い体温を明確に感じ取っていた。これは流石に高熱のせいだ。花京院のことは関係ある……はずが無い。
(……ううん、迷っている時間はないんだ。明日にはここを立つ。それまでに「これ」と私の「気持ち」をしっかりと渡さなきゃね)
真っ白な病室の、無機質に自身を照らす蛍光灯を睨みつけたアゲハは決意を固めてベッドから起き上がる。
しかし次の瞬間、そうと決まればまずは二人の病室に行かなくちゃーーと己を鼓舞する彼女の出鼻を挫くようにして病室の引き戸が開いた。思わずズッコケそうになるアゲハが顔をあげれば、そこにいたのは我らが頼れる仲間、モハメド・アヴドゥル。
「アゲハ!戻っていたか、連絡も無しに病院を出るから驚いたよ」
「すっすみません、軽率な行動でした……」
「うむ。次からは頼むぞ」
昼間顔を合わせた時と変わらず、元気そうなアヴドゥルから返された小言にアゲハは申し訳なさげに眉を伏せる。言い訳を列べる必要も無いほど自分に過失があるのは明らかだった。
「ちょうど一時間ほど前に連絡を受けたんだがジョースターさん達も遅れてアスワンに到着したようだ。もう面会時間も過ぎているから今夜は近くのホテルに泊まるらしい」
「そうですか……!これで明日から旅を再開出来ますね!」
明日の朝ここを立ちコム・オンボへ向かうそうだーーというアヴドゥルの言葉にアゲハは思案する。やはりタイムリミットは今日しかない。そもそも先を急ぐ旅なので仕方の無いことなのだが。
「それでなんだが明日以降の旅の日程について今からジョースターさんと電話で話し合わなくてはいけなくてね。小一時間ほど席を外すからその間だけ花京院を見ていてやってくれないか」
「はい!……って、ええ!?」
「フフフ、そんなに気張らなくてもいい。同じ病室にいてやるだけでいいよ。彼は目が見えないから一人にするのは些か心配なのだ」
頼んだぞと一言添えてさっさと行ってしまったアヴドゥルの背中を見送ったアゲハは壁掛け時計に目を向ける。現在時刻は十八時を少し過ぎたところだ。少なく見積っても四十分ほどで帰ってくるのだろう。
「……これって結構チャンスだったりして」
アゲハはぽつりと落としたひとりごとに背中を押されると花京院の病室へと足を運んでいく。
二人きりならどうにかなるかもしれない。最悪彼の荷物の中にこっそりプレゼントを紛れ込ませてしまえばいいのだ。
そんなちょいと小狡い事を考えながら迷うことも無く花京院の待つ部屋にたどり着いた彼女は驚かせてしまわないようにと優しく扉を開いた。
「失礼しま〜す……って、きゃあ!」
「…… 帝!」
アゲハの悲鳴に驚いた花京院の声と共にシュルシュルと解れ、ベッドの上の彼の裡へ戻っていく緑色の触手たち。これなら自分が見守っていなくても十分だったのでは?と感心しながらレナはゆっくりと部屋の中へ踏み入れる。
(……目の代わりにハイエロファントの触手から触覚情報を得ているのかな)
彼女が思わず悲鳴をあげたその理由はただのひとつ。部屋中に張り巡らされたハイエロファントの触手の結界に危うく足が触れそうになってしまったのだ。もしも引っかかっていたら今頃別の容態でお医者様のお世話になるところだったのだ。
「気が利かなくってごめん、入室前に確認すべきだったね」
「こちらこそ驚かせてしまったようですまない。君の方はどうだ?確か発熱と足を怪我していたんだろう」
「もう大分熱も下がったし足の傷も適切な処置を受けたんだ。平気だよ。それよりも花京院はどうかな?気分とか悪くない? 」
「ありがとう、僕の方も問題ないよ。数日したら包帯もとれる……傷も瞳の所を切られた訳じゃあないみたいだしね」
アヴドゥルから事前に聞いていたが本当に元気そうでよかったーーアゲハは自然と顔を綻ばせると彼の寝台の近くの椅子に腰掛けた。数分前まで緊張していたのが嘘みたいに、今は花京院と沢山話がしたかった。
彼に対する今までの感謝の気持ちも、まだ話したことの無い彼女自身の生い立ちも、旅の中でのくだらないワンシーンも、互いが出会う前の日常についてもーーアヴドゥルから授かった「小一時間」というタイムリミットじゃあ物足りない程に話したいことは沢山あった。
「少しお話しない……?」
「勿論、かまわないよ」
いつもより少しだけ上擦ったアゲハの小高い声が花京院の鼓膜をふるわせた。何か、大事な事でも話したいのだろうかーー緊張していると取れる彼女の声色に花京院はすぐさま肯定の意を返す。
「……花京院はこの旅が終わったら……何がしたい?」
無数にあるどんなに楽しくて明るい話題よりも自然に口零れたのはそんな、そう遠くない未来の話だった。予想外の切り口に一瞬動きを止めた彼の唇にアゲハはまずいことを聞いたかなと心臓をどくりと鳴らす。
「学校に行きたい……かな」
「へ?」
「出席日数が足りなくて進級できないかもしれないからね。きみと承太郎もきっと忙しくなるだろう」
一考してから紡がれたその言葉はこれまた予想外のものでーーアゲハは不安を浮かべていた顔を破顔させた。
彼は、花京院は信じているのだ。自分自身も、承太郎もアゲハも……きっと皆が目的を成し遂げて無事に日常に戻れると信じているのだ。
「……はは。私たち、きっと春休みも補習だね」
「ああ。きっと僕は三年生に進級できてもよっぽどの事がない限り休む事も出来ないんだろうな」
参ったなーーと言うように笑う花京院とそれに釣られて微笑むアゲハ。こんな非日常の中に長い事放り出されていてすっかり失念していたが自分達はまだまだ子供なのだ。
のほほんとしたムードが二人を包み込む。それは直近の忙しさによる荒んだ精神を酷く和ませるものだった。
「そして何よりも先ず、君を両親に合わせたいと思っているよ」
そんな雰囲気が普段はいまひとつ核心に迫る事を言えぬ花京院の背中を押したのか、彼が紡いだ驚くべき発言にアゲハは目を見張る。
不謹慎なことを言うようだが花京院が目を負傷していてよかったーー思わずそう思わずにはいられないほど彼女は酷く頬を赤らめた。
「……紹介したいんだ。大切な『友達』が出来たんだって」
「ーー!」
しかし後に続いた言葉にアゲハは急激に体温を低下させた。自分の勘違いで、とんでもなく恥ずかしいことを口走るところだった。
噴き出てきた冷や汗と心臓をぎゅうと握られたかのような痛みに顔を青ざめさせたアゲハは、その紫色にも見える最悪の顔色で困ったように笑う。
「……そっか。じゃあその時は承太郎も一緒に連れていこうよ!きっと花京院のお父さん達ビックリしちゃうよ〜」
それは、思わず本人も気づくほどの空元気であったが幸いな事に花京院がそれに触れることはなかった。わざとスルーしたのだろうか
「そうかもしれないね」と慎ましく笑う彼は口元に大きな弧を描く。
「帝は?この旅が終わったら何をしたい?」
「ーー私?」
閑話休題、とでも言うようにこちらに顔を向けた花京院が問いかける。当然の切り返しに困ってしまったアゲハはうぐぐと唸る。
私だって、まずは卒業するために授業日数の遅れを取り戻さなくてはならない。そして次には留年して大学受験に再挑戦するか、諦めて就職活動を始めるかの二択になるのは間違いない。
「私はーー……」
そこまで考えてーーアゲハは改めて自身の愚かさに直面した。流されるがままに生きてきた、というのは何もDIOに出会ってからではなかったのだ。小さい頃からずっと、今の高校に進学したのも全て、将来への決断が出来ない自分を誰かが手引きしてくれた結果に過ぎなかったのだと気づいてしまった。
「あれ……まいったな。やらなきゃならない事はたくさん思い浮かぶのに「やりたい事」が全然思い付かないや……」
「…… 帝?」
「あっ……!!いいや!きっとそんな事ないんだよ?ある筈だよ、やりたい事……今は思いつかないだけで……やりたい事……」
弁明を試みようと顔を上げたところでアゲハを待っていたのは花京院の藤色の瞳ではなくてーー真っ白な包帯に巻かれていて判別がつきづらい彼の感情を、勝手に「困惑」と決定づけたアゲハは瞼を強く閉じて唇をきゅっと結んだ。
くどい様だがもう一度言おう、不謹慎なことを言うが花京院が目を負傷していてよかった。こんな情けない姿を、弱った姿を見られるのだけは嫌だった。
「……将来に対する明確なヴィジョンが浮かばないのは、きっと帝が「不安」なんだからだと思う。やらなきゃいけない事をこなすのに精一杯で、やりたい事に目をかけていられないんだ」
「そういう事……なのかな……」
「質問を変えるよ。君は「今」、何をしたい?」
「そんなの決まってる……!一日でも早く家族を助け出してDIOを倒したい!!」
「なら、その目標を叶えられると信じてみるんだ。日本で待っている家族がいて、DIOを倒して……すっきりとした気持ちで家に帰ったら君は何がしたい?」
花京院に質問され、自答する度にアゲハは思い知らされた。
自分はどこかで、諦めていたのかもしれない。この旅を無事に終わらせられる自信が無かったのだ。だからこそ将来のヴィジョンに明確な自分の姿と家族の姿が思いつかなかったのだ。
「……謝りたい……謝りたいよ。そうだ、私……ずっとずっと謝りたかったんだ……!あの日、勝手にホテルを抜け出してごめんなさいって言いたかったんだ……」
本当に、思わず吹き出してしまいそうな程に簡単でくだらないことに、彼女の根底にある意思は変わってはいなかった。
アゲハには、帝アゲハには他人に誇れるほど大切で素晴らしい家族がいる。全員が全員の良き理解者で、全員が全員を大好きなのだ。
そんな大好きな人達を傷付け、あまつさえ命の危険に晒してしまったのだから当然彼女が望むのは謝罪だ。そしてーー……。
「許して貰えたのならーー大切な仲間達の事を……大好きな花京院の事をめいいっぱい話すよ」
大好きな人達に今までの旅の頑張りを、何よりも「自分の大好きな人」のことを知って欲しいと、アゲハは漠然と思った。
「挫けそうになった私に何度も手を差し伸べてくれたとっても素敵な人だって!」
改めて明確に口にした希望溢れる未来へのヴィジョンにアゲハは混み上がってきた笑みを惜しみなく浮かべる。いつだってそうだった。辛くなって、助けを求めたらみんなはーー花京院は必ず私の手を掴んでくれた。深い泥濘に足を取られた時は必ず引き上げてくれたのだ。
「……君は、随分と真っ直ぐなもの言いをするね」
「あっ……ごめん、少し恥ずかしいことを言ったかも」
「いいや、謝らないでくれ。凄く嬉しいよ。……だからこそ余計に自分が情けない」
対して、花京院はそんな彼女をほんの少しばかり羨んでいた。こうして思いの丈を誰かに伝えるのはどれだけ勇気のいることだろう。先刻は「友達」と口八丁で言いつつも、心の中では未だに帝アゲハという人間に対しての立ち位置を決めかねている彼にとっては彼女のそんな素直な性格が眩しかった。
「花京院ーー……」
あからさまに気を沈めた彼にぽつりと声を漏らしたアゲハは膝立ちでベッドに乗り上げるとそのまま花京院を抱きしめた。密着する二人の体は温かい。
突然のハグに驚き身を固めた彼を余所に、更にその温もりを得ようと花京院の肩口に頬を寄せたアゲハは確かに互いの心臓の鼓動を感じた。
「わたし待ってるから。ううん……私だけじゃあなくて、みんなであなたの事を待ってるから」
アゲハの激励に応えるように彼女の背に腕を回した花京院はその小さな身体をぎゅっと抱き寄せた。
腕の中で僅かに震えている少女は、あの日初めて出会った時のような不安定で脆い人間では無い。今日に至るまでの過酷な戦いの中で確かに成長し、強くなってきた。例えどんなに距離が離れていて姿が見えなくても、帝ならば必ず承太郎達と共に進んでいけると信じられるーー……。
「ああ、必ず……!必ず帝達の元へ戻るよ」
確かな信頼がそこにはあった。アゲハが花京院を、花京院がアゲハを信頼し、二人は共に旅をしてきた仲間たちを信じていた。
そして何よりもアゲハは花京院が好きだった。彼の腕の中でいつもよりも早鐘を打つ自身の心臓が恨めしくなる程には花京院が好きだった。
好きだから失いたくないし信じたい、彼の望むまま送り出してあげたい……離れたくない。矛盾する感情に苦しみながら彼女は花京院の寝衣にしがみつく。
(私、やっぱり花京院の事が好きなんだ……友愛だけじゃない確かな気持ちがそこにはある!他のみんなに抱く感情とは少し違って……やさしい気持ちになったり時には思わず泣きそうになってしまう気持ちは紛れもない「恋」だ。)
みっともない事にアゲハは大切な人を失いかけて初めてこの気持ちに気がついた。他者の行動一つでこんなに心乱されるだなんて生まれて初めての事だったのだ。
笑いかけてもらえれば嬉しいし、触れてもらえたらもっと嬉しくて心がふわふわする。怒られると悲しいし怖くなってしまうけど、それ以上に彼に気にかけてもらえることは心地良かった。
「花京院」
優しく彼の名を呼べば、すっと音もなく外される腕。それを少し寂しく思いながらもアゲハも花京院の背中に通していた手を解く。もうシンデレラタイムは終わりだ。
「私と出会ってくれてありがとう」
タイムリミットを告げる足音が聞こえてーーいいや、正確に言えば体温が見えてーーアゲハは最後にとびきりの笑顔で微笑んだ。それは自然とこぼれてしまった笑みで、彼女はそのまま瞳を閉じる。
そしてーー体中に響き渡る心音を少しでも押さえ込もうとカーディガンの袖を握りしめたアゲハは目の前の愛しき人の無防備な唇に自身の唇を重ねた。
ほんの一秒にも満たないその行為に理解が追いついていないであろう花京院は薄く口を開けて小さく声を漏らす。
「すまん、わたしだ、アヴドゥルだ。入ってもいいだろうか」
「はい、どうぞ」
そんな甘美な雰囲気を切り裂くように響くノックの音に、アゲハは返事をすると共にベッドから降りた。そして何事も無かったかのように帰ってきたアヴドゥルを迎え入れ、当たり障りのない会話をした彼女は未だ俯き黙りこくっている花京院の名前を優しげに呼ぶ。
「……また明日ね」
眉を寄せて、酷く悲しそうに、まるで泣くのを我慢している子供のようにーーそれでも酷く目を細めて嘯いたアゲハの笑みにアヴドゥルは目を見開いた。
そのまま二人の病室を去っていく彼女の気配が完全に消えるまで彼も花京院も、一言も発することが出来なかった。
「……なにかあったのか?」
「わ、分かりません……ぼくにも……」
明らかに様子のおかしい二人を気にかけたアヴドゥルが窺いみる様にして問いかける。それに曖昧な答えを返すのはわなわなと震えながら口元をゴツゴツとした大きな手で覆う花京院だ。
「まさか……あの感触って……」
そんな彼の隠された顔は真っ赤だった。月並みな表現を用いるのならまるで茹で蛸のよう。
あの時確かに自身の唇に押し付けられた何かーーふにふにとしていて、すこし乾燥していた何か。そう言えば、数日前紅海の小島で見た帝の唇は乾燥していたっけかーー。
(ぼ、ぼくはなんてことを考えているんだ……)
なんて考えて、花京院は更に顔を赤くした。
いいや!あれが唇だったかなんて、誰かとのキスの経験がないぼくには分からないし、そもそもその後の彼女の様子からしてその可能性は低いとも言えるだろう。でも、確かにあれはーー……。
悶々と唸る花京院はそんな自分を見つめるアヴドゥルの不思議そうな視線に気づくこともなくベッドに背中を預けると自身の唇をそっと指でなぞった。