デイドリームその②
自身の病室に戻り、軽い食事と投薬を済ませたアゲハは人目を忍んでアスワンの街にくり出していた。
何時どこからDIOの刺客が現れるかも分からない今、勝手に一人で行動するのは褒められたことじゃあないと知りながらもアゲハは小さなマーケットに足を運んでいた。
「カイロのハーン・ハリーリに比べれば見劣りしちゃうけど……この市場も中々活気づいてるわね」
小さく呟かれた言葉は市場の喧騒に揉まれて消えていく。それもそのはず、彼女の周りには今も所狭しと地元の商人や買い手が人の波を作っているのだ。
そんな光景にごくりと生唾を飲んだアゲハはスカートのベルト通しに紐で繋がれた制服の胸ポケットの財布をカーディガンの上から確認すると自分を鼓舞するようにきゅっと唇を結び一歩を踏み出した。
今回彼女がこの市場に訪れた理由はただのひとつーー今まで親身に付き合ってくれた花京院へのプレゼントを探す為だった。彼の回復速度次第ではこれが最後の別れになるかもしれないと考えると実質今日しか時間はないのである。
「一応目星はつけてあるけど……あれで喜んでもらえるのかなあ」
うんうんと唸りながら人を避けて歩くアゲハはお目当ての品が並ぶ露店を前に足を止める。少しばかり鼻につくオイルの匂いに一瞬たじろぎながらもどんどんと近づいていく。
「あのう……これ、ラクダの革ですか?」
「そーそー、お嬢ちゃん見る目あるねェ。これ全部ラクダの革を加工して作った物よ、ホンモノだよ」
やっぱりーーとアゲハは店主の男の言葉に顔を輝かせると
「少し見ていってもいいですか」と簡素なポーチを手に取る。しなやかで耐久性に優れ、その実力は牛革の二倍以上と言われるラクダ革は日本で買おうと思ったら非常にお高くつく高級革製品だ。
「高校生の友人に送ろうと思っているんですけど……何かオススメはありますか?」
「それならやっぱりコインケースだよ。硬貨は勿論こっちには紙幣も入るようになっている。カードも入るね、色も何色かあるよ」
革製品らしいデザートカラーにブラック、ブラウンと三色展開で並べられた三つ折財布にレナは感心する。経年変化も、起毛っぽい触り心地が無くなり使い込まれたアンティーク感が美しい非常に味のある革になるというのだから堪らない。
「……ビカム?」
神妙な面持ちで、デザートカラーの財布を手に取ったアゲハは店主の顔を伺うようにして言葉を紡いだ。
ビカム……和訳すると「おいくらですか?」という意味で、これすなわち、アラブ諸国名物値段交渉の始まりのホイッスルを意味する。
彼女はまだ学生の身で、そんなに多くのお金を持っている訳では無い。できる限り値段を削らなくてはどんなにいい物であっても買えないのだ。
「……七五〇ポンドね」
「なっ、ななひゃく……ッ?それってつまりーー……」
アゲハは急いで日本円とのレートを計算する。日本円で表すところ約四千二百円といった所だろうかーーこれは高い、高すぎる。いいや、日本でラクダ革を買おうと思えばもっとするんだけどーー。
「ガーリー(高い)ッ!三百ポンドにして!」
「ちょっとォ!そんなに安くはできないよ。五百ポンドならどう?」
「うう……」
換算するとだいたい二千八百円かーーアゲハはうぐぐと頭を抱えそうになる。
値段交渉というのは最安値に負けさせることが目的ではなく、「自分が価値のあると判断した物をその値段で買う」という考え方から生まれてものなのである。その点から考えれば決して出せない金額ではないし、寧ろこんなに安く買えちゃっていいの?という感じなのだがそれでもここで終わらせるのはいまいち納得できない。
(思い出すんだ……あの日、家族でハーン・ハリーリに行った時、ガイドの男はどんな風に交渉していた?)
アゲハの頭の中に浮かぶのは数ヶ月前の幸せな日々。異国のマーケットで楽しそうにはしゃいでいた自分とその大好きな家族のことだ。
そうだあの時、祖母へのお土産として茶器をワンセットだけ買おうとした時ーー……。
「ならこのキーケースも下さいな。それでまとめて五百ポンド!どうです?」
花京院への贈り物と同じデザートカラーのコンパクトなキーケースを手に取ったアゲハは更なる段階へと畳み掛ける。
日本人相手なのだから相手は当然高い金額を提示しているに違いないのである。それならばこのまま地道に金額を削っても仕方がないので『値段はそのままに品物を増やす』のがあの時のガイドのやり方だった。
そこからさらに数分、粘り強く交渉を重ねた二人は互いに五百五十ポンドで落ち着いた。競り合いの最後には
「シュクラン(ありがとう)」としっかりと挨拶を交わして市場を出る頃にはすっかり日は傾き空には夜の帳が降りてしまっていた。
「あ〜、緊張した!でもお陰でいい物が安く買えちゃった!」
張り詰めていた緊張の糸を解いたアゲハは大きく身体を伸ばす。恐らくあれでも相場よりは遥か高めの値段で買うことになっていたのであろうがほんの三千円ちょいで本革製品がふたつも買えたとなれば安いものである。
(……喜んで貰えるかな。あの時はお礼なんかいいよって言ってたけどあの花京院の事だ、きっとあげたらあげたで喜んでくれるんだろうなあ)
病院までの道のりを跳ねるように歩くアゲハの足取りは文字通り軽い。今は値段交渉という一大行事を誰の手も借りずやり遂げた事による達成感でどうやって彼にプレゼントを渡すのか、なんていう大事なことに気づいていないのだ。素直にいつものお礼だよ、とのたまって渡せる程、今の彼女は鈍感ではない。
「わっ……」
その時だった、浮ついていたアゲハに不意に大きな風が吹き付ける。すっかり呑気してた彼女は紙袋を胸に抱きスカートを抑えた。
記憶に新しい例のスタンド使いの顔が一瞬頭に過り、それを頭を横に振ることで再びかき消す。
やつは確かに絶命した。それに、この風だって、何の変哲もない風だったじゃあないかーー顔を上げて、なんとも言えぬ違和感に視線を散らしたアゲハは息を飲む。
「…………あ」
目の前に、一人の男が立っていた。褐色の肌によく映える銀色の長髪、切れ長の瞳はグレーだ。あまりにも、自身の好敵手に似通った容姿にアゲハは二の足を踏む。
それでも彼女は確かにこの男とすでに面識があった。
「こんばんは日本のお嬢さん。わたしの事、覚えていてくださったみたいですね」
その男は正に、あの日「ハーン・ハリーリ」で出会ったアクセサリー屋の男だった。DIOと出会ったモスクへの行き方を彼女に教えた男だ。
上空の雲が取り払われ顔を出した月が二人を鈍い銀に染める。
「ハーン・ハリーリで露店をやっていた方……ですよね。あの時は素敵なネックレスをありがとうございました」
「いいえ。美しい貴方の御手元へ招かれてきっとジュエリーも本望でしょう」
男の顔は見れば見るほどハバロフ・J・ミスルトーに似ていてアゲハは当然居心地が悪くなる。早々に話を切り上げてホテルに帰ろうと必死になる彼女を他所に、長ったらしく話を続ける男は自然な動作で髪をかきあげると次の瞬間心配そうに眉を伏せてアゲハの手を取った。
「……この指はいかがなさったんですか?」
「指……?なッ、これはッ!?」
突然手を取られたことよりも何よりも先にアゲハは自身の右手人差し指に起きた異常事態に声を上げた。彼女の指は指先からグラデーションをかけたように、まるで壊死したかのように黒く染っていたのだ。
(腐っている?いいや指先の「温度」は正常だッ!何らかの要因で血液の循環を悪くさせられたのなら患部の体温は低くなっていなければならないはずなんだ!つまりこれは『壊死』じゃあない!)
ーーそもそも指は動く、とアゲハはピクピクと人差し指を三度ほど動かしてみる。少し第三関節が動かしづらい気もするが特にこれといった支障はない。
「すぐ近くに病院があるんです、ご案内しましょうか?」
「い、いいえ、お気持ちだけで結構です。それでは私はこれで……」
兎にも角にもこれは逃走のチャンスだ、アゲハは男に強引に別れを告げるとそのまま駆け出した。ミスルトーに酷く似た顔で優しく話しかけられるのは、身体中に毛虫が這いまわっているかのような物言えぬ気味悪さがあった。
それでも、ひとつ安心できることもある。男はアゲハの目元に忽然と現れたパトロール・ハンターに何の反応も示さなかったのだ。
あの様子から見て彼はスタンド使いでは無いらしいーーとアゲハは安堵する。
「心当たりはないけど……どこかにぶつけたかなあ」
何せ命懸けの旅の途中だ、軽い打撲などの怪我なら数え切れぬほど受けている。アゲハはひとつ思い当たる節として砂漠を走るバギーの中でぶつけただろうかと仮説を立てるとそのままの足取りで病院へと帰還した。