デイ・ドリームその①
「ーーはっ!!」
横たわった身体に伝わる僅かな振動に、ゆっくりと意識を覚醒させたアゲハは声を上げて起き上がった。
私たちは確か、エジプト九栄神は「ゲブ神」、ンドゥールとの戦いを終えて、負傷したアヴドゥルと花京院を病院へと連れいく最中だったハズーー……目を見開き、動揺に震えたアゲハは見慣れない景色に一筋の汗を流す。
「目が覚めたようだね……良かった良かった。でももう少し安静にしていなさい、傷が開いたら大変だ」
「貴方は……いいや!それよりも二人はッ!?」
「……安心するといい、もう既に手は打ってある。君とは別の搬送車で既に然るべき治療を受けているよ」
頭の追いつかない状況に取り乱すアゲハを宥めた初老の男は不安を感じさせない人当たりの良い笑みでそう言うと彼女を再びストレッチャーに寝かしつける。冷静さを取り戻し始めていたアゲハはここでようやくこの場所が救急車の中であると理解した。
すっかり自分は軽傷者だと思い込んでいるらしい彼女も、わたしから見てみれば立派な負傷者だーー医師である男はアゲハの痛ましい傷跡と、気の毒な程に火照った顔色を見やるとこれまた一層と顔を引きしめた。
「花京院……アヴドゥルさん……」
目を瞑り、酷く熱を持った額に手の甲を添えたアゲハは魘されるように呟く。あの時の事を思い出すだけで、自分の非力さに嫌な気分になる。
「病院へ到着するまで、まだ寝ていなさい」と諭す医者の声に小さくうなづいた彼女はそのままゆっくりと、ゆっくりと、白くて深い泥に飲み込まれるように意識を手放した。
次に意識を覚醒させたアゲハは静かに自身の腕に繋がれた点滴針の行方をたどった。少し黄身がかった透明な液体は発熱を抑えるための薬なのだろう。
「……私と一緒に病院に搬送されたモハメド・アヴドゥルと花京院典明の病室を伺っても?」
特段何か騒ぎ立てることも無く、ベッドサイドのナースコールを押した彼女はいの一番にそう口にした。勝手に注射針を外して無作為に院内を探し回るよりも効率的だと思ったのだ。
結論から言ってやはりと言うべきか、先に医師からの診察を受けるように促されたアゲハはこれまた大人しく指示に従った。 早く前線に復帰するにはこうすることが一番の近道だと理解していた……というのもあるが、何よりそんな荒事を成し遂げるだけの気力もすっかり失われていたというのが実情だった。
「……アヴドゥルさん、花京院。帝です、アゲハです……」
診察を終え、質素な院内着から着替えたアゲハはようやく目的の人物のいる病室へと訪れた。扉の前で迷惑にならない程度に声をかければアヴドゥルの
「入りなさい」という返事が聞こえてくる。
「アヴドゥルさん……!ご無事で良かった……」
「うむ、君もな。ヤツにやられた足の怪我はどうだ?」
「ちょいと痛みますが……なんてことはありません、これぐらいすぐに治りますよ」
彼に促されるままに入室したアゲハはまず声のトーンをひとつ下げた。
病室は二人部屋だった。ベッドで上体だけを起こしたアヴドゥルと未だ眠っているらしい花京院の二人部屋だったのだ。
とりあえず元気そうなアヴドゥルの傍の椅子に腰掛けたアゲハは適当に買ってきていた水を手渡す。
首の当たりを怪我していたから、飲み物を飲むのも痛かったりするのだろうかーーと思案する彼女を他所に笑顔でそれを受け取ったアヴドゥルはペットボトルを自身の口元に宛てがい傾けた。
「……花京院はどうですか?」
「先程までは起きていたんだが……また眠ってしまったらしい。あまり気に病むことは無い、痛々しい姿をしているが当人は元気そうだったよ」
わかりやすく青ざめながら、窓辺のベッドに横たわる花京院の目元を凝視するアゲハを見て、アヴドゥルはひとつおかしそうに笑った。
困った顔を、次第に無理やりな笑顔に作りかえた彼女はそんな彼の仕草に疑問を覚えながらも
「それならいいんですけど……」とつぶやく。
「あのっ!やっぱり……花京院はこの先の旅の同行は不可能……ですよね……?目元を包帯で覆ったまま戦うなんて無理だもの……」
「ああ。最終的な判断は彼に委ねるだろうが……少なくともわたしは同行に反対するだろう。恐らくジョースターさんもだ」
「そ、そうですよね……当たり前なこと聞いちゃってすみません……」
取り繕った笑みが崩壊するのも忘れて悲しそうに眉を寄せたアゲハは少しだけ俯いた。覚悟してなかった訳じゃあない、この旅で誰かが、もしくは自分がリタイアすることになるのなんて想像の範疇だった筈だ。
「……寂しいか?」
「……そうですね、花京院は頼もしい仲間でしたし、とにかく強い人でしたから。でも……彼がこの先の旅に同行できないと聞いて……少しだけ安心しているんです」
アゲハの返答に予想外と言った表情を浮かべるアヴドゥル。こちらに続きを催促するように
「なぜ?」と囁かれた声色は酷く安心させられるもので、占い師という職業柄、こういうのが得意なのだなと感じながらもアゲハの唇は動き、喉は震える。
「花京院に聞かれたら……きっと嫌われちゃうんでしょうけど、私、彼にだけは死んで欲しくないんです。本当のことを言えばこんな怪我だってして欲しくなかった。花京院がこれから戦いの場に立つ事が……怖いんです」
「……」
「だってだってッ!花京院が怪我をしただけで!私っ、自分のやらなきゃならない事が全て吹っ飛んでしまったのよ!他人に自慢できる様なものじゃあ無いけどッ、ホル・ホースに教えこまれたスナイパーとしての在り方だっていとも簡単に見失ってしまったッ!」
「…… アゲハ、声を抑えた方がいい」
アヴドゥルの制止の声に、アゲハは短く声を漏らし視線を逸らした。勿論、その行く末は窓際のベッドの君だ。
幸い彼が目覚めることはなく、冷や汗を頬に伝わせたアゲハは深く安堵のため息をつく。ついつい何のオブラートも無く思いの丈をぶつけてしまった。一時の感情に身を委ねて口走ってしまうのはヒジョーによくない。反省しなくては。
「分かってはいるんですよ。花京院は花京院で、目的があって命がけの旅に身を投じているって。だから……自分のこの思いが彼に対する「侮辱」に当たるっていうのは重々承知しているんです」
バツが悪そうに視線を下げていたアゲハは無意識のうちに組んでいた自身のちゃちな手指に力を込めた。
過去のことを掘り返すようだが彼の事を殺そうと刺客として現れた自分が言うことではないのかもしれないなーーとどこか冷静な頭の隅っこの方が彼女を嘲笑う。
「だけど……花京院だけに限った話じゃあなく、アヴドゥルさんも、ジョースターさんやポルナレフ、イギーに承太郎も……みんな大切だから、長生きして欲しい。そう思うこと自体は絶対に悪い事だとは思いません」
それでもーーアゲハは顔を上げてアヴドゥルの目を真っ直ぐにとらえた。彼女の黒い瞳が彼の姿をぼんやりと映し出す。
アヴドゥルは彼女のそんな瞳を「夜の海」のようだと思った。日毎に異なる月の光を受けて輝く水面と今の彼女の鈍く輝く濡れ羽色の眼があまりにも似ていると思ったのだ。
「アゲハ……この旅を続けている限り、わたし達は君に「絶対に生きて帰る」なんて約束はできない。元凶であるDIOとの戦いは文字通り命を賭してかからなければならないほど厳しいものになると考えられるからだ。それでもどうか信じてやって欲しい」
「……何を、ですか?」
「花京院は自ら死ににいくような男ではない。聡明に立ち回り、慎重に行動できる賢い男だ。だから必ず……彼はわたし達の元へ戻ってくる。恐怖を乗り越え、成長した姿でな」
駄々をこねる子供をあやすように、穏やかな口調で告げられた言葉にアゲハはゆっくりと頷いた。そうだ、自分はあの日、サウジアラビアの砂漠で花京院の事をしっかりと理解しようと決めたのではないか。
改めて顔を上げたアゲハの顔は先程までの不安そうな雰囲気は一切なく、それを確認したアヴドゥルは小さく笑う。
アゲハとアヴドゥルは同行のタイミングや一時離脱の期間が上手い具合に合わさってあまり付き合いが長いわけでは無かったのだが確かにお互いを信頼していた。
「あの日ーー我々が初めて顔を合した時、ポルナレフが君に突き出したカードを覚えているか?」
「……覚えてますよ。「愚者」のカードでしたよね」
アヴドゥルはもうすっかり元気になったアゲハに安堵したのか薄く唇を釣り上げて満足気に笑う。そんな彼の労りの気持ちに気づくこともなく
「敵地でぐっすり眠ってたヤツにはこのカードがお似合いなんじゃあねーの」……なんて人を小馬鹿にした笑みを浮かべながら挑発してきたんだったかーー未だ鮮明に思い返せる人生の転機とも言えるあの日の出来事にアゲハは目を細めた。
「そうだ。『愚者の逆位置』……あいつは「直観」でそのカードを選び君にそれを突きつけた。その行動に意味があるとわたしは思っている」
「愚者の逆位置……う〜ん、あまり良いイメージは湧きませんけど……」
「チッチッチッ、確かに手放しで喜べるような示しばかりでは無いが決して悪いカードではないのだよ」
得意げにウインクしたアヴドゥルは懐から出したタロットから一枚のカードを抜きとるーー愚者のカードだ。脳天気な顔をした貧相なナリの旅人が前方の崖に気づかずまた一歩また一歩と前進する様が描かれている。
アゲハの方から見て逆位置となるように置かれたそのカードを彼女はじいっと見つめた。その眉はやや下がっていてどう考えても良いカードには思えないといった様子だ。
「このカードの意味は「警告」ーー将来を顧みずその場しのぎでDIOの元で刺客として生きてきた君への警告のカードだったのだ。アゲハが愚者と聞いて頭によぎるイメージそのものというわけだな」
「……っ」
「自分自身では気づいていなかったかもしれないが当時の君は自暴自棄になっていたように見えたのだ……自分の命の価値を低く見積っているように思えてならなかった」
アゲハはぐっと息を飲んだ。アヴドゥルの宣告は、まるで自身の考えが全て手に取るように分かっているかのように正確だった。
DIOの元でスタンド使いとして育てられていた期間の事はあまり鮮明には覚えていない。それでも、彼の手を取ってジョースター家に復讐しようとしたことは自分自身の選択であったし、目的達成の為には無関係の人間を傷つけることも厭わなかった。正に、あの時の彼女は「愚者」だった。
「だが君は変わった……今までの旅の頑張りはジョースターさんや承太郎からよく聞いていたよ。その「無限の可能性を秘めたスタンド能力」で彼らの旅を常にサポートしてきてくれたんだろう」
「無限の可能性……?」
「うむ、君のスタンド「
「愚者のカードは新たな旅の始まりを示している。これからの人生と経験を通して君はもっと成長出来る……わたしはそう思っているよ」
「!……はいッ!」
アヴドゥルのぷっくらとした下唇が柔和に歪む。これ以上の鼓舞はないという程の激励を受けたアゲハは嬉しくなってハキハキと返事をすると不意に目に掛かった時計に目を丸くする。そして
「投薬の時間なので病室に戻ります」と申し訳なさげに頭を下げ、慌ただしく去っていく彼女を見送ったアヴドゥルはゆったりとした動作でタロットカードを片付けはじめた。
病室の扉が閉まり、しばらくした所で僅かに身を捩り動き出した隣の男に呆れたように息をつく。
「……すみません、アヴドゥル……」
アヴドゥルが何か言う前に先行をとった花京院が力なくつぶやく。その声色は掠れてはおらず、いつもと違うのは申し訳なさから声のトーンがひとつ下がっていることぐらいだろうか。
「わたしは構わん」
簡素で一見冷たく聞こえる文字列とは裏腹にとびきり優しく返されたその言葉は花京院を安心させた。
「はい……」と口について出た文字は彼自身も驚くほど緩みきっている。
対して、いくら立派なスタンド使いの戦士だとしても、二人はまだ十代の少年少女なのだーーと、アヴドゥルも少し安堵していた。
旅の最中、方意地を張って気丈に構えていた彼女の方は特に年相応の反応が見られて本当に良かった。
アヴドゥルは窓の外をーー空を仰いだ。
翌朝にはここを経つ事になるだろうか、と簡単なタイムスケジュールを立てていく。
今のふたりには『対話』が必要だ。なんとかふたりきりで話が出来る時間を作ってやらねばーーと、一人ひっそり孤軍奮闘するアヴドゥルなのだった。