愚者 とゲブ神その③
「て、敵スタンドだッ!敵スタンドが水筒の中にいるぞッ!」
ほんの数秒前まで、確かに生きていた人間の頭部を捻り切った敵スタンドが潜む水筒が砂漠の砂の上に着地する。封がされていないので飲み口からは水に混じってドクドクと気分が悪くなる程の血液が滴り落ちている。
「くそっ!SPW財団の人間は無関係なのに襲いおってッ!アヴドゥル、どんなスタンドか見たか!?」
「見えたのは「手」だけでした。しかしまだ水筒の中にいます!出ていったところは見ていません!」
突然の強襲に地面に伏せたジョセフがいらだちを募らせる。スタンドも持たぬ、抵抗もできない一般人を襲うなんて相手は相当卑劣な人物である。
そんな彼からの問いに簡素に答えたアヴドゥルは水筒からは視線を離すことなく敵スタンドについての考察を始めていく。
残りのタロットに象徴されるのは「世界」ただ一つ。こいつは「世界」なのか?それとも数十分前に聞かされたばかりの「九人の男女」の内の一人なのかーー眉をひそめた彼の頬に一筋の汗が伝っていく。
「承太郎!アゲハ!敵の本体を探せッ!」
「今探しているぜ……だが今回も視界の中には敵本体は見えないな。「太陽」の時のように間抜けな鏡にも注意して探したが……どうやら敵はかなり遠くから操作しているようだ。スタンドも小柄だし多分そうだ」
「……私の方も半径一キロメートル内には確認出来ませんでした!三キロまで捜索範囲を増やしますッ!」
双眼鏡を介してのスタープラチナの視力で探索できる範囲はせいぜい五百メートルから一キロメートル程度だろうかーーそう高を括ったアゲハはそれより先の範囲を「
ここら辺一帯は観光で人間がくるような場所でもないので見つけ次第即射殺でも問題は無いだろう。まあ流石に二キロも距離が空いてしまうと着弾させられる自信はないのだが。
「ポルナレフ、水筒を攻撃しろ」
黙々と支給されたばかりの狙撃銃を組みたてていくアゲハの隣で水筒から目を離さずにそう言うのは花京院だ。今も尚、ボトルからは許容量を超えて入っている液体が流れ出ている。
「お……おれが……?……い、今あの小さい水筒の中にパイロットの頭が全部まるまる引き摺り込まれたんだぜ……つまりあれに穴を開けるということは……ゴクリ……」
そして急に話題を振られたポルナレフは顔中に汗を浮かべて狼狽える。それも無理はない事で穴を開けたら最後、今以上にグロテスクな状況が目の前に広がるだけなのだ。
「嫌だぜ!花京院オメーのほうが近いぜ、お前がエメラルドスプラッシュを食らわせてやりゃあいいじゃあねーか」
「ぼくだっていやだ!」
「自分が嫌なものを人にやらせるなッ!どおーゆー性格してんだてめーーッ」
あまりにも横暴な花京院にポルナレフが吠える。隣で音も立てず慎重に銃を組み立て終えたアゲハは自分の気遣いも水の泡ではないかと口を一文字に結ぶと喧しい二人にひと言物言いしてやろうと視線を下げる。
「こ……これはッ!」
そんな次の瞬間、驚愕し、思わず声を漏らす花京院とは打って変わってアゲハは目下に突如現れていた極小さな水溜りに言葉を失った。
やがてその水は不自然に盛り上がりその形状を人間の手の様な形に変えていくーーこれはあの時、財団員の頭をちぎり取ったスタンドの手だ。その手が今まさに花京院に向かって振り下ろされようとしている。
「え……ッ!?」
もう、そこからはすべてがスローモーションに見えた。アゲハには自分が発したそんな短いうわ言すらも、どこか遠くで、自分以外の誰かが口零したもののように感じたのだ。
目の前で、手を伸ばせば届くそんな距離で愛しき友人が倒れている。その光景が、彼女の純黒の瞳を捉えて離さない。
「か……か、かきょ……いん?」
どくり、心臓が痛々しく鼓動を打った。それと同時に身体中に怖気が走る。
大切な仲間が重症を負った場面なんか何度も見てきた筈なのに。それ以上にアゲハにとってこの花京院という男は酷く特別なのだろうーー心掻き乱された彼女はあろう事か、敵スタンド使いの探索を中止すると彼の顔を覗き込んだ。
「花京院ンンンーーッ!」
花京院は目をやられていた。一見すると瞼を切られただけのようにも見えるが素人目にはどうやっても判断には無理がある。それも、こんな希望的観測を見出してしまいそうな状況下なら尚更だ。
「あ……ぅ、嫌あ!嫌だよ花京院ッ!うう……ぅ……っ!」
「花京院がやられたッ!かッ!花京院が目をーーッ」
「二人ともッ!パニックになるんじゃあないッ!スタンドを出して身を守れッ!」
アゲハは自身と同じように花京院を心配し彼を抱き上げたポルナレフと共に混乱し、すっかり冷静さを無くしていた。
今すぐに帝アゲハがしなくてはならない本当の事は、本体の位置を見つけ出し仲間に共有する事である。
次点でジョセフが言う通り近くに潜んでいるはずの敵スタンドからの攻撃に備えること……なのだが、彼の後遺症をできるだけ軽くする為に何かできることは無いか、今私は自分の力で花京院にしてやれることは無いのだろうかーーと見当違いな方向に思考を振り切っていた。
「やばい…… アゲハとポルナレフもやられる……」
だからこそアゲハは、そしてポルナレフは自身に接近していた水たまりに気がつかなかった。
気がついた時には後の祭り、液状の体を鋭い爪を持った手に変化させたスタンドは今にもそれを振り下ろさんとしていたのだ。
「!?」
しかし、突如何も無いはずの砂漠で発せられた「ピピピピピピ」という電子音がその場を支配すると、その鋭い水の手は急激に方向転換し音の発生源ーー首から上の無い財団員の右腕を攻撃した。そんな不可解な一連の動きにその場の全員が目を見開く。
「な……なんだ、パイロットの死体を攻撃したぞ」
「いや違う死体ではない。時計だ、時計のアラームを攻撃したんだ」
「音だ!音で探知して攻撃しているんだ!」
すっかり冷静でなくなっていた脳みそが急激に冷えていくのがアゲハには身をもってわかった。
急激に冴えた五感は花京院の傷口から滴る血液が地面に落ちる音すらも機敏に拾う。
「敵は音で探知して追ってくる……つまりこんな水音すらも危険なんじゃあ……」彼女がそう思うのと、敵スタンドが再びアゲハとポルナレフに振り向いたのは同時だった。
「やばい!今度こそ襲ってくるぞッ!車まで走れッ!」
そんなジョセフの叫び声をまるで徒競走のピストルの合図のようにして走り出した二人は懸命に砂を蹴る。しかし、負傷した花京院を抱えていると言っても共に走るのは成人男性のポルナレフだ。当然先を行かれ遅れを取ったアゲハに敵の魔の手が忍び寄る。
「は、早いッ!」
髪を振り乱し、顔中に汗を吹き出したアゲハが思わず口に衝く。そして次の瞬間にはその鋭い切れ味の水が彼女の右足首辺りを切り裂いた。
必然的に縺れる足にこんな所で死んでたまるかと気合いで踏ん張ったアゲハは既にバギーに乗り込んでいたジョセフが差し出したハーミット・パープルの茨に掴まるとそのまま引き上げられる形で車の上に乗り込んだ。
「か……花京院はどうだ?ハァハァハァ」
「まずい……失明の危険がある。車を出そう、早く医者のところへ連れていかねば……」
命からがら辿り着いた車の上では息を切らしたポルナレフが心配そうに花京院の容態を聞いている。そして、そんな彼に承太郎が告げたのは「失明」の一言。
ルーズソックスに忍ばせていた自動拳銃をも切り裂き、自身の足首に切り傷を作った奴の攻撃の跡を見下ろしたアゲハは絶体絶命の状況ゆえに頭よぎる最悪な結末に酷く眉を寄せるとそれきりまともな思考を取り戻すことは叶わなかった。