愚者 とゲブ神その①
『エジプト』ーーその国土の九十七パーセントは砂漠地帯であり降雨量は世界で最も少ない地域の一つである。
しかし砂漠の中にありながらナイル川の恵みにより食べ物は満ち、河岸には美しい緑輝く肥沃地帯が続く。かつての古代エジプト文明にペルシア、ギリシア、ローマ、イスラム、アラブという多様な文明が入り込んだ混淆の国。
この五千年の時の流れを持つ悠久の地でジョセフ、承太郎、ポルナレフ、花京院、アヴドゥル、そしてアゲハは一体どんな旅を続けるのであろうか……。
「来たな、スピードワゴン財団のヘリだ……降りれる場所を探している」
バタバタと風を切る大きな音が何も無い砂漠に響く。直径十メートルもありそうな巨大なプロペラから吹き付ける風で巻き上げられる足元の砂が身体にぶつかって痛いーーアゲハは鬱陶しそうにはためく髪を手で押えながら上空を飛ぶそれを見上げた。
エジプトのとある漁村を出発したジョースター一行は、永遠とも思えるほどの広大な砂漠の真ん中にいた。まあ、砂地を走るのに適したバギーに乗っていたので、道のりはそこまで厳しいものでは無かったのだが。
「SPW財団?日本でおふくろを看病、護衛してくれているじいさんの昔からの知り合いか?まさか……今度はあのヘリに乗るんじゃあねーだろうなあ」
「いや……できることなら乗りたいが彼らはスタンド使いではない。攻撃にあったら巻き込むことになる」
事前に連絡をとっていたのだろう、ジョセフは嫌そうな顔の承太郎にそう言うと自身の口内に砂埃が入らないように新調したばかりの義手で顔を覆う。一方でヘリコプターがこんな近くを飛んでいる所なんて初めて見るとアゲハは誰にも悟られないように心躍らせると適当な所に着陸を開始した機体をじいっと眺めた。
「それじゃあ何故あのヘリがやって来たのですか?」
「『助っ人』を連れてきてくれたのだ」
助っ人ーーという言葉に色めきたつ四人の少年少女を他所に、問題のある性格をしているヤツで、連れてくるのに時間がかかったのだとジョセフからの補足が入る。そしてそれにすぐさま声を上げたのはアヴドゥルで、彼は
「あいつがこの旅に同行するのは不可能です!とても助っ人なんて無理です」とやたら不名誉な太鼓判を押す。その会話を聞く限りどうやらアヴドゥルも「助っ人」についてよく知っている間柄のようだ。
「助っ人ってことは……当然、スタンド使いって事ですよね?」
「うむ、『愚者』のカードの暗示を持つスタンド使いだ」
「
正位置においては自由だとか天真爛漫だとか、はたまた天才だなんて意味を持つこのカードだが、冷静なアヴドゥルのあれほどまでの動揺を見たあとではそれを期待するのは中々に難しい。
「「
「敵でなくてよかったって思うぞ。お前には勝てん!」
「戦車」のカードの暗示を持つ騎士からすれば愚かな者と書いて「フール」と読める助っ人など大マヌケに違いないと思っていたのにも関わらず、寡黙な「魔術師」が告げるのは忠告。か〜っと頭に血がのぼったポルナレフがアヴドゥルの胸ぐらを掴む。
「なんだとこの野郎、口に気をつけろ!えらそーにしやがって」
「本当のことだ。なんだこの手は?痛いぞ」と、ついこの間感動の再会を果たしたばかりとは思えぬほどいつも通りの、微笑ましい喧嘩にアゲハは困ったように笑いながらもそれを止めようとは思わなかった。
「Mr.ジョースター、ご無事で……」
そんないつまでも続く下らない言い合いを窘める花京院を他所に、操縦席から現れたのは二人の男達。「SPEED WAGON」という文字と車輪のようなマークが刺繍された帽子を被る彼らの肉体は制服なのであろう薄暗い色のツナギの上からでも分かるほど逞しい。
機内にいたのはこの二人だけの様で、開け放たれた扉から覗く後部座席には毛布が一枚適当に放られているだけで他の人物の影は見えない。
「どっちの男だ?スタンド使いは」
「いえ……我々ではありません。後ろの座席にいます」
挨拶もそこそこに、品定めをするように二人に鋭い視線を向けていた承太郎は予想外の返答に僅かに動揺する。
それも無理はないことで、先述した通り後部座席に人の姿は無かったのだ。ヘリコプターの中で、大の大人が隠れるスペースなどあるわけもない。
「おいおいいるってどこによッ!とてつもなくチビの野郎か!?でてこいコラァ!」
するとアヴドゥルからの警告が短気なポルナレフを誘発してしまったのだろう、彼はおもむろにヘリに近づくと後部座席にいるはずの「まだ見ぬ助っ人」を焚きつけるように叫ぶ。おまけに、とでもいうようにシートを叩き催促するのも忘れない。
「……なんだ?このベトベトは?」
「気をつけてくださいッ!ヘリが揺れたんでゴキゲンななめなんですッ!」
「近づくなッ!性格に問題があるといったろーーッ」
そしてシートを叩いていた左手に付着したぬめりとした液体にポルナレフは自身の掌を見つめる。透明で粘っこくて、ほんのり臭うそれが何なのか彼が分かるのはすぐの事だった。
「おおおおおおおおお!おわああああッこっこっこっ、こいつはーーーーッ!」
「助っ人」と呼ばれるヤツからの突然の襲撃に叫ぶポルナレフの悲鳴にも負けず劣らずの声量で聞こえてきたのは喉をふるわせ唸るような鳴き声。
そう、SPW財団の男が言うように「助っ人」は確かに後部座席にいたのだーーあの毛布にくるまって、確かに潜んでいたのだ。
「犬!」
「犬だと!まさかこの犬がッ!」
「そう、あの犬が「愚者」のカードのスタンド使いだ」
思わぬ正体に驚きが隠せない承太郎達に、すかさずジョセフからの説明が入る。
現在進行形でポルナレフの自慢のヘアスタイルに牙をむいている彼の名前はイギーといって、人間の髪の毛を大量に毟り抜くのが大好きなボストンテリアの雄犬なんだとか。出生地は定かではないがニューヨークの野良犬狩りにも決して捕まらなかったところをアヴドゥルがやっとの思いで捕まえたらしい。
「ああ、そうだ思い出した。髪を毟るとき人間の顔の前で「屁」をするのが趣味の下品なヤツだった」
そしてジョセフの説明そのままに小高く「プ……」と音を立てて放屁したイギー。さっきまで抵抗し暴れていたポルナレフもあまりの出来事に静止している。
「このド畜生ッ!こらしめてやるッ「戦車」!」
しかしそれは当然ながら嵐の前の静けさというやつでーー激昂したポルナレフが自身のスタンドを構える。銀色に鈍く輝く甲冑を全身に纏った騎士のような風貌のそのスタンドからのぞく瞳が彼から飛び退き地に足を着けたイギーを睨んでいる。
「こ……これはッ!これが「愚者」!」
そしてその剣針を差し向けたその時だった、ぴくりと瞼を動かしたイギーの背後の砂が盛り上がり形になっていくではないか。
あらわになった四足歩行のスタンドの後ろ足には車輪が設けられていて、パッと見たところ歩行補助具をつけたメタリックな獣であるーーと、総括できるデザインだろうかとアゲハはひとりでに納得した。
「てめぇ!本当にブッた切るぞッ!」
すっかり冷静でないポルナレフは犬畜生の分際で反撃しようだなんて!とか、アヴドゥルがお前では敵わないと豪語したコイツのスタンドなんか軽くいなしてやるんだからな!といった様々な感情を込めてレイピアを振りかざす。彼の鋭い剣先に触れた場所からザ・フールの身体がガパリと割れてゆくーー。
「ゲッ!す……砂のようになって!きっ、切れないッ!」
しかし、剣を握るポルナレフの言う通りザ・フールの身体は切り裂かれている訳ではなく、しなやかな砂となり相手の攻撃をかわしていた。そしてそのまま砂を自在に操りチャリオッツの剣針を掴んだザ・フールは身を固めて相手の武器を奪い取ってしまった。これではもうポルナレフに打つ手はない。
「簡単に言えば砂のスタンドなのだ」
「うむ……シンプルな奴ほど強い……おれにも殴れるかどうか……」
「ひっひーーっおい!助けてくれ!この犬どけてくれーーっ」
アヴドゥルと承太郎の真面目な分析を他所に、人間を見下しているところがあるのだろうイギーは勝負に負けたポルナレフの顔面に引っ付くと再び彼の髪を毟り放屁する。
その下品な光景に顔を引き攣らせたアゲハはじたばたと踠くポルナレフを心配そうに見つめると助けを求めるように視線を散らす。
「例の大好物をもってるか?」
「持ってなきぁ連れて来れませんよ」
調子にのっていたポルナレフにお灸を据えられたところでようやくアヴドゥルが動く。彼はSPW財団の男から一箱のチューインガムを受け取ると封を切り、ガムを一枚抜き取り紙を剥がしてイギーに差し出した。
「イギーはコーヒー味のチューインガムが大好物でな。こいつには目がない」
「アヴドゥルさん箱の方はヤツの見えない所へ隠してッ!」
「あ」
鼻をすんと鳴らしコーヒーガムの匂いのする方へと駆け寄ってきたイギーはアヴドゥルの差し出した一枚のガムーーではなく、もう片方の手に持っていたガムの箱に飛びかかった。前足を器用に操りそれを抱えたイギーは紙のフィルムも剥がさずにバリバリクチャクチャと音を立てながら好物のガムを咀嚼している。
「コーヒー味のチューインガムは大好きだけれど決して誰にも心は許さないんじゃこいつは」
「こんなヤツが助っ人になれるわけない」
眉をひそめた一行が突然の助っ人に思い思いの言葉を口にしていく。第一印象は最悪といっても過言ではないようだ。「やれやれ」と帽子の鍔で顔が見えない承太郎が呟く。
「でもすごく強そうだよ。私イヌ大好きだし大歓迎!」
「のんきなやっちゃの〜。舐めてかかるとお前もさっきの俺みたいにやられちまうぜ」
そんな中、ひとりだけ歓迎ムードで出迎えるのはアゲハだ。単純に犬という動物が好きだというのもあるが、彼女はイギーの「強さ」に惹かれていた。
早速その強さに形無しにされたポルナレフだってアゲハからしてみれば頼りになる心強い存在だというのにそれを見事に上回る立ち回りとパワーを見せられては感心し、尊敬せざるおえないというものである。
(このまま誰一人欠けることなく無事にDIOとの決着をつける……!この仲間たちとなら不可能な事なんかじゃあない気がする!)
この旅が終わって、みんなと別れる頃には笑顔でいたいーー……。改めて自分と共に旅をする五人と一匹の姿を見て、決意を新たにするアゲハの視線の先では、クンクンとイギーの黒い鼻が僅かにひくついた。