フラジャイル・ラブ その③
極度な緊張状態の中、花京院は確かにさざなみの音を聞いた。それは愚直にコバルトブルーの寄せては返す波の音だっただろうか、それとも隣に肩を並べる少女の心の内の事だったか。
ただ確かなことがひとつーーそのさざなみの音が彼の耳に響いた次の刹那、アゲハは仇敵の元へ突撃し、花京院はそんな彼女の思いを汲んで奴のスタンドが潜む樹林に足を踏み入れた。
花京院はアゲハが気を取り乱し、決して冷静ではないことを理解していた。それでも彼女の考えを尊重したのはそんな彼女だからこそ支えてやりたいと深く思ったからだと彼自身が気がつくのはもう少しだけ後の話である。
二丁拳銃戦法を満足に行うにはアゲハは完全に力不足だった。勿論それは彼女自身も気づいている。
発砲による反動に左腕は耐えられないだろうし、手が小さい彼女に安全装置を片手で解除できるはずもないからだ。(そもそも左利き用の銃ではないのだから当たり前なのだが)一度映画で見たアクションスターの真似をして痛い目に遭っているので嫌でも理解していた。
「シャープ・ディスタンスッ!」
ミスルトーの叫び声と共に鼓膜を震わせた微弱な木々のさざめきにアゲハはスニーカーを周囲に弧を描く様に地面に這わせた。それによって勢いよく巻き上げられた薄い砂の壁が重力に従いはらりと僅かに揺れながら地面へと落ちていく。
(私の右斜め後ろ側、つまり樹林側ーー南東から風速「四・六メートル」!なんとなく分かる……目に見えている、肌に感じている、髪に感じる……ッ)
発砲する前、相手のどこを狙うのかよく見極めることは大切だ。必殺を狙い頭部や心臓を狙ったり、とにかく重症を負わせたいと胴を狙うとかそういう話のことである。
ミスルトーとの距離は約五メートル、弾丸は空中でほんの数コンマ沈むだろう。奴が発生させた南東の風で弾道は僅か左に三・一ミリは逸れる。
「
アゲハは決めていた。
照準点は、放たれた弾丸が向かうのは、奴の心臓だ。
引き金を引いてしまえば後は回転する弾丸がやつのクソッタレのハートを撃ち抜いてくれる。だから私が次にやらなければならないことはたった一つ、向かって飛んでくる風をギリギリで避けることだーー。
自身の黒髪に全神経を集中させたその刹那、ひらりとその束が揺れるのを感知したアゲハは左方向に滑り込み身を低くして急所を銃身でガードした。勿論完全に防ぎきれるはずもなく身体に新たな傷を増やしてしまったが大事なのはそこでは無い。
「オレの風に乗って帝の弾丸が向かってくるッ!!」
南東からの追い風ーーミスルトーからすれば「背後からの不意打ち」のこの風は、彼女からすれば弾丸を加速させてくれる『追い風』でもあるのだ。まるでマストにピンと貼った帆に、進行方向と全く同じ向きに程よい風が吹いてくれたかのようにグングン進み、勢いをつけてくれる。
「ナイス『追い風(アシスト)』だよッ!」
弾丸の速度は加速する。弾丸に込められたエネルギーは衰えない。弾丸は照準点に向かって進んでいる。アゲハの計算に間違いは……無い!
そしてミスルトーの風は能力発動の性質とスタンドとの物理的距離も手伝ってかなりのズレがある。あと一秒も掛からず奴の心臓を撃ち抜く弾丸を防ぐことは絶対に出来ない。
「ーーうぐッ」
ーーだのに、痛みに目を見開き額に脂汗を浮かべたのはミスルトーでは無かった。
朱色のスニーカーをさらに深い赤で染め上げたアゲハは一度深い息を吐くとミスルトーから距離をとる。一歩、二歩……後ずさる彼女の足取りは不確かで、砂浜にこぼした血液はあっという間に吸い取られてしまった。
「ふっ……っはは……お前は今!「絶望」しているなッ!自分の計算を疑っている!己の風を利用し加速した弾丸をガード出来る程オレのスタンドは素早くないと思ってたんだろォ〜?」
「……ッ」
「オメーはそもそもオレのスタンドの分析から間違ってるんだよ……「風に決まった形は存在しねェ」お前の弾丸と共にオレの元にやってきた「風」は弾丸のエネルギーを受け止め弾ませる『空気のバネ』となったッ!!」
アゲハは砂が受け止めた弾丸を横目で見たーーフルメタル・ジャケットのその弾丸は私の肉を突き破りそのままの綺麗な形で転がっている。
つまりこの銃弾はミスルトーの空気のバネという反発するもので「跳ね返された」のだ。
飛び乗った子供を受け止め跳ねさせるトランポリンのようにアゲハの放った弾丸を受け止め、勢いをつけて跳ね返したのだ!
「銃使いが風に逆らえるもんかよ。ホル・ホースの元で狙撃手として育てられたお前なら分かるだろ?……そうだな、奴の言葉を借りるなら「風」は「銃」よりも強し!ってな」
アゲハは大量の出血のせいで呑気に頭を過ぎったカウボーイ風のナリの師の教えを思い返すーー「銃使い」は戦場において「数打ちゃ当たる」などといった楽観的な思考は絶対に持ち合わせない。発砲音による場所の感知、装填の手間、排莢不良など膨大でとてつもない破壊エネルギーを生み出す武器だからこそ、その分短所も多いからだ。
「ハッキリ言うぜ、お前のスタンドじゃあオレは倒せない。オレは風なんだ……弾丸が宙を突き進む限り、風向きを無視する事はできないんだからな」
「……うるさいな」
勝ち誇ったミスルトーに、無意識に紡がれた言葉はそんな粗暴なものだった。アゲハは数十秒ぶりに発せられた自身の声色が何故か異様に冷静で動揺したが次の瞬間にはニヤリと口の端をつりあげ目を細めるーー対峙するミスルトーのほんの少しだけ驚いた表情がなんとも滑稽だったのだ。
「貴方のなが〜いおしゃべりにウンザリしてきたつってんのよ。喜びなさいミスルトー、貴方をぶちのめす算段がようやくついたの」
これみよがしにと続けられた言の葉はもちろんハッタリだった。
左手の拳銃をルーズソックスに納めたアゲハは血に染まり網目がボロボロになってしまったカーディガンを脱ぎミスルトーに向かって投げつける。左手を背中に回し、どこからともなく創り出した弾丸をリボルバーに装填する。
そして奴の姿がぼろきれで見えなくなると同時に一度だけ引き金を引けば何食わぬ顔でその場から数歩右に退けたミスルトーと目が合った。
「……こんな使い古された手に引っ掛かるヤツがいるかよ」
「……いるかもよ?」
心底呆れた様子で髪をかきあげたミスルトーに「そりゃそうだわね」と内心賛同の声をあげたアゲハは度重なる負傷により上がっていた息を整える。
ミスルトーが思い出させてくれた自身の師の存在、弾丸の動き操作するスタンドを持つホル・ホースならーー……彼のスタンドなら風の影響は受けないのだろう。奴の風が触れないように軌道を自在に動かすことが出来るホル・ホースの「皇帝」ならば!
(だけど私のスタンド能力には軌道を変える力はない……ッ!一発だけでいい、「あの一発」だけ!どうにかしてミスルトーに悟られないように直線にしか飛べない弾丸を奴にブチ当てなくては……!)
一方で花京院はこの樹林の中に佇んでいるという黒い薔薇の木……ミスルトーのスタンドを攻撃する為に生い茂る草木を掻き分け奔走していた。足元にハイエロファントの触手を這わせ半径二十メートル程を探索する。
(つい一分ほど前に周りの草木が大きく揺れたのはミスルトーという男が再びスタンドの真空刃を使い帝に攻撃したからに違いないだろう……はやく見つけてやらなくては)
花京院は自身が感じた風の発生源に向かい足を進めていく。幸いこの島は小さい、地に根を張るように動かないスタンドだというのなら「法皇の緑」の力を使えばすぐに見つけられるはずだ。
「ムッ!」
目を見開き声をあげた花京院は早速ハイエロファントが発見した土に根を張る温かな一本の木……恐らく例の薔薇の木の方向へ足を運ぶ。「鬱蒼と生い茂る樹林」と上記しているがその一つ一つの背は低い。花京院の頭皮に影をかける草木は少なく、そのまま太陽光に照らされ続けたら気分が悪くなりそうだった。
(……あれ)
そう思った傍ら、自身を太陽から守るように覆いかぶさってきた「なにか」を花京院は感知した。誰もが知っているだろう、日向は明るくて日陰は暗いのだ。
そして振り返った先を見て花京院は息を漏らした。自身の後方をつけてきたかのように集まる「ハートのヴィジョン」……ざっと見ただけで十三個、それぞれが日向で体全体に太陽光を浴びている。
「帝からこのヴィジョン自体は無害だと聞いていたが……」
花京院はアゲハの言葉を信じ宙に浮かぶひとつのハートを触手で捕まえ破壊した。彼女の言う通り反撃などは無く、恐らく自動操縦型でこのダメージはミスルトーには全く行き届いていないのだろうことは容易に分かるーーそう油断していた次の刹那、花京院は突如自身に向かって吹き荒れた紅海の海風に肝を冷やした。
「い、今のは一体……!?突然なんの前触れもなくぼくの方へ風が吹いてきた……このハートのヴィジョンを破壊した直後だぞッ」
触手でもう一つだけハートを手繰り寄せた花京院はそのままそれを破壊した。そして、僅かに感じられた熱気。
「ハートのヴィジョンの中には「熱された空気」が入っているッ!そしてそれが器から放出された瞬間海側から風が吹く……」
二つ目のヴィジョンの破壊により吹き付けられた風で靡く前髪を鬱陶しそうに撫で付けた花京院は薔薇の木の方角に向けて歩き始めた。立ち止まって悩んでいる時間はない。
(後方に浮かぶいくつものハート……全て破壊してやりたいが海風が吹いているというのなら海岸線にて戦闘中のミスルトーにぼくの行動が感知されてしまう可能性がある。先に何としてでも薔薇の木を破壊し決着をつけなければ……)
そう広くない島の、既に目的地にマークを付けていた花京院とって、その場にたどり着くというのはさほど難しい話ではなかった。
新緑とコバルトブルーに囲まれたこの島で、まるで淡い色の水彩画にポツリと落とされた墨汁のように異質感を放つ漆黒のその木は約二メートル程の高さといったところだろうか。
「みつけたぞ……くらえッ!エメラルドスプラッシュ!」
エメラルド色をしたエネルギーの固まりが立派に剪定された黒薔薇の花弁たちを散らせる。幹から分かれた枝が見えぬほど咲き誇っていた花は残り三分の一程に減って、すっかりみすぼらしくなってしまった。