フラジャイル・ラブ その②
アゲハは逃げ出していた。亡くなった仲間の父親がいるあの場に留まることがどうしても出来なかったのだ。
鬱蒼と生い茂る植物たちをかき分けて砂浜に足を踏み入れる。背の低い草木に囲まれていて、尚且つこの島の土地勘がなくても迷うことなく海へ出られたのは彼女の目元に装着されたスタンドのモニターのお陰であった。
「アヴドゥルさんの父親……家族かぁ。今頃どんな話をしているんだろう……」
誰もいない浜辺をひとしきり歩いたアゲハは適当な岩場に腰掛け誰に向けてでもなく呟く。背中を丸め膝の上で頬杖をついた彼女の視線の先は遥か遠くに見える筈のエジプトの海岸線だ。
「この紅海を渡ればエジプトに入国できる……DIOはそこに居る。そして私の家族を殺したあの「親子」にも会える」
エジプトにいるDIOを倒すためにジョセフ達は言葉通り「命」を賭けて戦ってきた。いつ、どんな時ーー敢えて言うのなら今この瞬間だって!ジョースター一行を狙うDIOの刺客は暗躍している。彼に従う動機は各個違うが確かに刺客たちはジョースターの血統を、そしてボスの殺害を目論む我々を狙っているのだ。
(私達はいつ死んだっておかしくない……それぐらいは覚悟してこの旅に同行しているんだけど)
私がいなくなった時、悲しんでくれる人がいない事だけは寂しいかなーーアゲハはそう頭の中で考えながらぼんやりと海を見つめた。クラスの友達なら一ヶ月ぐらいは悲しんでくれるかも。
そう思いふけっていた次の刹那、アゲハは振り向きざまに背中から拳銃を引き抜き構えた。指はトリガーに掛けられシリンダーの中は全弾装填済みである。
目元にうかべていた「
「あ……花京院!」
「おどろかせてしまったようだな…… 帝、少しいいかい?」
しかし振り向いた先にいたのは見慣れた仲間の顔で、彼女はほっと胸を撫で下ろす。続いて申し訳なさげに眉をさげた花京院の姿にアゲハは急いで銃口を下げた……こちらこそ嫌な思いをさせてしまったかな。アゲハは苦笑いを零すと「もちろんだよ」と言って岩場を飛び降りた。
「承太郎と一緒に待ってなくていいの?」
「ああ。問題ないよ」
「そっか」
隣に並んだ二人はどちらともなく砂浜を歩き出す。当たり障りのない会話を続けていれば、アゲハの黒髪を煌々と照りつける太陽の光が淡く青色に染め上げていた。純黒に見えていた彼女の髪もこうして見れば随分と雰囲気が変わるものだ……と、花京院はその様子をまじまじと見つめた。
「ど……どうかしたかな?」
「…… 帝の髪の毛が光にあたって綺麗な濡羽色になっていたからつい見入ってしまったんだ。きみが健康な証拠だね」
「そ〜お?髪が綺麗だなんて初めて言われちゃったよ……お世辞でも嬉しいね。ありがとう!」
花京院の言葉に照れてしまったらしいアゲハは立ち止まり頬を赤く染めてくしゃりと自身の髪を撫で付けた。「ヌレバ色って何色だろ……?」と呟いたそんな彼女の白く細い指が絹のように艶やかな黒髪のカーテンを掻き分け滑り落ちる。
「……花京院?」
たかが「手櫛」、アゲハも無意識のうちに行ったそんな何気ない動作が花京院の胸を射ったらしい。敵スタンドによる攻撃で真っ直ぐに切りそろえられてしまった彼女の横髪を人差し指と中指で挟んで撫でた花京院はそのままアゲハから視線を逸らすことが出来なくなっていた。
(帝が旅に同行してから何日経っただろうか……最近は特に心を休める時間もないから手のマメは破れているし唇だって酷く乾燥している)
花京院は目の前で困った様子の小さな女の子の心労を気遣っていた。ほんのちょっぴり充血したアゲハの大きな瞳が揺れる。
年頃の女の子だというのにオシャレをする暇もなく、野宿をすることだって少なくないこの旅の中で彼女は不満のひとつ言わずに花京院達に着いてきた。それどころか野営の際は率先して見張りをし、旅路の車中でもスタンドを酷使して警戒を怠らない。
(……ぼくよりもずっと小さな身体で……無理をしていなければいいんだが)
花京院は足音を立てず、気配を消して近づいたのに見破られ、銃口を向けられた先刻の出来事を思い返す。常に辺りを警戒するのは悪いことではないし、スタンドの持続力に長けている彼女には大きなお世話かもしれないが毎秒スタンドを出し続けているのは気疲れしてしまうのではなかろうか。
「…… 帝、」
ーーくれぐれも無茶はしないでくれ。そう紡ぐ予定だった花京院の言葉は遮られた。
ガサリと葉っぱを踏む音がしてアゲハはその赤く染めていた顔を引き締め音の鳴るほうへ視線を向けた。目元にはモニター、引き抜いたリボルバーはすでに構えられている。
「推定百八十五センチ程度の男がこっちに向かってる……人数は一人!私としたことがここまで接近を許すなんて……」
正確な情報とほんの少しの後悔を口にしたアゲハの視線は花京院が抜けてきた密林に向けられている。気落ちして周囲を散歩しているポルナレフだろうか…… アゲハがそんな呑気なことを一応視野に入れながら隣にいた花京院に視線を送れば、彼は一際険しい顔で戦闘の姿勢を形作った。
数秒後、レーダーに反応した男と花京院達の距離が約七メートルとなったその時、狙撃手としてホル・ホースに育てられたアゲハだけが感じられた僅かな気流の変化ーー不自然にこちらに寄ってくる微弱な風に彼女は心臓をドキリと高鳴らせた……もちろん「最悪な意味」でだ。
「花京院!」
アゲハの劈くような声に花京院はただならぬ危機感を覚えその場を飛び退く。彼のローファーに蹴りあげられ宙を舞った砂は次の刹那、空中にて四つに切り裂かれた。砂が切れたのだ(正確にいえば四つに割れた、が正しい)。
「……ふ〜ん?いいセンスしてるじゃんかよ帝アゲハ……隣にいるのは裏切り者の花京院だな」
草陰から現れたのはアヴドゥルと同じくネグロイド系の褐色の肌を持つミスルトーだった。シンガポールでSPW財団員や街の人を殺し、アゲハに襲いかかった男。
「…… 帝、この男はDIOの刺客か?」
「ううん……ちょっと違う。やつの名はハバロフ・J・ミスルトー……彼は直接関係はないんだけど父親がDIOと繋がっているらしくて」
切れ長の瞳をさらに細めて眉を釣りあげた花京院がスタンドを構えながら冷静な声色で問う。アゲハが掻い摘んでミスルトーとの関係を説明すれば彼は「なるほど……」と小さく頷いた。
「そうなんだよなァー……オレはあくまで親父の為なんだ……だから親父のプライドの為にも「モルモット」はしっかり連れ戻さねーとなッ!!」
エジプト上陸を目前に控えたアゲハの前に現れた忌々しき男は挨拶もそこそこにその銀の髪を靡かせアゲハに飛び込んでくる。すかさず銃弾を撃ち込むがミスルトーの身体を「台風の目」として身に纏った旋風が彼女の放つ弾丸をすべて弾き飛ばしてしまった。
「うああああッ!」
「帝ーーッ!」
そしてそのまま突き飛ばされたアゲハは数メートル先のコバルトブルーの海に身を沈めた。水面に登る大量の赤黒い血液にとんでもない重傷だと花京院は叫ぶ。
「はーはー……ゲホッ、以前よりもスタンドの破壊力が増加している気がする……ガホッ、なぜだろう……何か、理由があるのか……?」
身体中に深い裂傷を負ったアゲハは海面から起き上がると辺りを見渡す。まさに息も絶え絶えといった様子の彼女はミスルトーのヴィジョンであるはずの「宙に舞うハート」を探しているのだ。
(ミスルトーのスタンドは「漆黒の薔薇の木」とそれに付属する「宙に舞うハート」というデザイン……そして薔薇の木の花弁が揺れることにより発生した真空刃を放出する単純な能力!それなのに見つからない……奴のスタンドの片割れが見つからないッ!)
視線はミスルトーに注意を払いながら彼のスタンドを探すためにモニターを見つめ、手元ではシリンダーを解放し排莢したアゲハは砂浜にあがる。このまま無意味に銃弾を無駄にするのは非常に良くない。リボルバーは再装填に時間がかかるのだ。
「花京院……相手のスタンドのヴィジョンは見た?」
「見ていない。ヤツのスタンドの射程距離は分かるか?」
「私の推測では多く見積って十メートル……つまり中距離パワー型!そして『木を隠すなら森の中』……奴のスタンドの片方はこの樹林の中に隠れている!」
ミスルトーのスタンド「ハートオブ・ザ・サンライズ」は先述した通り二種類の異なるデザインのヴィジョンから成る。そしてそれ等にはそれぞれ「特徴」があるのだ。
複数体いる宙を舞うハートの形をしたヴィジョン自体は無害でただ漂っているだけで何をする訳でもない。どれぐらいの高さを飛ぶことが出来るのかは把握していないが地面スレスレに飛んでいる所も見たことがある。
そしてそのパートナーである薔薇の木は相反して凶暴だ。花弁も枝も幹もすべてが黒に統一されたそのヴィジョンは何故か温かい。そしてさらに決められた場所に根を張っているかのように動かないのだーー恐らくそうするメリットがあるのだろうが、詳しいことは何度か応戦したアゲハにも分からなかったーー。
「奴の「薔薇の木」には人間の基礎体温以上の温度があるの……どうしてなのかは分からないけど確かに「ある」んだ。私のスタンドが「見えている」!そしてその木はあの樹林の中にたった一本佇んでいる……周りの草木に隠れるようにして私たちを狙っているんだ!私たちはそれを見つけ破壊しなくてはならないッ」
「いいや帝ッ!きみはこの場を離れてジョースターさん達を呼びに行くんだ!次の攻撃をまともにくらってしまったらきみは再起不能になってしまうッ」
感情を剥き出しにして吠えるアゲハを気遣って諭す花京院は彼女を庇うようにスタンドを構えた。アゲハの身体に刻まれた数え切れないほどの傷はひとつひとつ深いものだった。そんな状態でまともに戦えるはずがない。
「それは「違う」よッ!いま私がしなければならない事は承太郎達に「助けを求める」ことじゃあない!「次の攻撃が繰り出される前に奴を倒す」ことなんだッ!奴は私たち二人で倒す……!」
右手のリボルバーを定位置に戻したアゲハはおもむろに左右のルーズソックスの内側に手をのばす。そして引き出された濡羽色の二丁の拳銃を両手に構えた彼女は花京院の隣に並びミスルトーに銃口を向けた。装填数がリボルバーに比べて遥かに多い自動拳銃だ。
帝アゲハの純黒の瞳が対峙する因縁の男の姿を映し出すことなくそのまま闇に飲み込む。
隣に並ぶ花京院は彼女からにじみ出る紛うことなき「憎しみ」の感情にほんの少しだけたじろいだ。