夕暮れの鈍行列車、シェードもないので遮るものがなくこちらを照りつける西日に目を細めながらアゲハは窓の外を見ていた。向かいの席で自分と同じように外を眺めるポルナレフは一体どこを見ているのだろうと少しだけ考えて、すぐにそれを放棄した。
すらすらと、まるでなんどもなんども読み返した恋愛小説を読み上げるようにアゲハは教科書を音読し終えると席に着いた。少し大きめのカーディガンの裾をそのままに板書を写す時間でもないのに手に持ったシャープペンシルをカチカチとノックする。
「ーー精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
淡々とそう読み上げていく後ろの席のクラスメイトの声に気だるそうに首を擡げたアゲハの視界に映るのは窓際の席の友人と曇天。
しばらくそうしていると視線に気がついた彼女が口をパクパクさせてそっとアゲハを窘めた。真面目な彼女らしい、納得のいく行動だった。
「……」
ようやく前を向いたアゲハは次はシャーペンをくるりと回してみせた。その惚けた様子に、先程の彼女からの鋭い視線を覚えたが全く気にならなかった。
アゲハは窓の外が気になっているのだ。今朝、珍しくこの街では霜が降った。それはまるで今からなにか大きな物語が動き出す前触れのようで。彼女は気になって仕方がなかったのだ。
揺れ動くドリーム・トラベル
アゲハの日常は脅かされない。
いつの日かの異常気象なんてすっかり忘れたある日の朝、彼女はいつも登下校を共にしている友人との待ち合わせに走っていた。今日はいつもより少し早く待ち合わせるのをすっかり忘れていたのだ。
「はあ、お待たせ〜……待った?」
「ううん、おはようアゲハ」
「おおっと……いっけないんだ、口紅塗ってるじゃん」
そして妙にソワソワしながら彼女を待っていた少女はアゲハのつぶやきに顔を青くした。恐らく母親のものを借りたのであろうその鮮やかなルージュは友人の年相応のあどけない顔には少し不釣り合いにさえ思えてしまう。
「えっ……分かる?」
「分かるよ。それに香水の匂いもするもの」
そっかあ、と胸に手を当てた彼女にとりあえず
「似合ってるよ」と告げたアゲハは学生鞄を左手に持ち替えて肩を叩く。友人の頑張りは認められるべきものだ。「好きな人」に見初めてもらうために努力をしたことは普段は流行に疎い彼女の変わりようを見ればよく分かる。
「JOJO……たしか、空条承太郎……って人に会いに行くんだよね?彼は一体どういう人なの?」
「私も詳しくは分からないけど……とにかく凄いハンサムなのよ!!一目惚れってやつ?しちゃってね〜♡」
「あ、そう……何も知らないの……」
ハイテンションの友人に苦笑いを零しつつ二人は自身の通学路を外れてゆく。彼女たちが向かうのは友人の想い人空条承太郎の通学路にあるとある階段の下だ。遠くからでいいから再び彼に会いたいという熱烈な思いに付き合ってやることにしたのだ。
「でも〜〜なんだか最近まで留置所にいたらしくてさァ、昨日ようやく出てきたみたいなのよ」
「留置所……やっぱ噂通りのやばい人なんじゃあないの。いくら顔が良くても暴力する人は駄目だよ」
「も〜……違うもん。話によると自分から留置所に入ったらしいのよ。捕まったわけじゃなくね」
友人の話に思わず怪訝そうな顔を浮かべたアゲハは自身の中にある空条承太郎という男のイメージを思い浮かべる。無銭飲食を繰り返し、己の通う学校の教師を何人か辞めさせたりするいわゆる「不良」というのがいの一番の印象だった。
あくまでこれらはアゲハの周りを飛び交う噂だけで形成されたイメージなのだが目的の場所に着き、ターゲットを目の辺りにした瞬間その感想は間違ってなどいなかったのだと直感した。
「きゃーーッ!みてェ!あれがJOJOよッ!あれがJOJO!ああもう、アタシも同じ学校ならあの女達みたいに一緒に登校できるのにッ」
「お……女の子を侍らせてる……すご〜……」
膝裏まで届きそうなまでの改造長ランに学生帽を被ったそのがっしりとした体格の男は離れたところからでも分かるほどに美形だった。大きなエメラルドグリーンの瞳に整った眉毛。日本人離れしたそのプロポーションから見るに彼はどこかの国のハーフなのだろう。後ろに沢山の女のコを侍らせることが出来るのも納得の美男子だった。
「でも確かにカッコイイね。一目惚れしちゃうのも分かるかも」
「ちょ、ちょっとォ!!やめてよ!絶対にダメなんだから!アゲハはJOJOを好きになっちゃダメなんだから〜ッ!」
「そんなにコーフンしないでよ。別に誰も好きになっただなんて言ってないでしょーー……」
正直にJOJOを褒めるアゲハに焦りを覚えたのか友人が彼女に詰め寄る。それに困ったように眉を下げて笑ったアゲハは弁明を試みようとしてーーその途中言葉を失った。
「ーー痛ッ!もう、なに……?なんか……飛んできたような……」
不意に視界の端になにか黒っぽいものを捉えたと思った瞬間、頬に電気が走ったような痛みを感じたのだ。思わず頬に手を添えたアゲハは手のひらに感じたさらりとしたーーそれでいて鼻につくあまり嗅ぎなれてはいないが確かに知っているその匂いに額に汗を浮かべる。
「キャアァーーッ!JOJOォーッ」
そしてそれと同時に辺りに響く悲鳴とバキバキと小枝が折れる音。自身の頬に走る痛みよりもその悲痛な叫びに視線を向ければ取り巻きの女子生徒が階段から転げ落ちてしまった空条承太郎を心配する声だったようでアゲハは愕然とした。
承太郎が足を踏み外した階段はかなり急で高さもある。膝に切り傷が出来ているようだがそれだけで済んだのはかなりの幸運だ。
「あ…… アゲハ!その頬の傷……」
とにかく目の前で重傷者が現れなくてよかったーーとほっと息を着いたアゲハは友人の血相を変えた指摘に再び我に返る。そうだった、人の心配をしている場合じゃあない。
思い出した途端ぶり返す痛みに顔を歪めたアゲハが患部に触れれば頬から流れ落ちた血液はとっくのとうに彼女の首元を伝っていたらしい、手首まで付着した薄い赤にごくりと息を飲む。
「きっと折れて飛んできた木の枝で切ったんだわ。JOJOもそれで足を怪我をしたようだし……風が強いわけでもないのに一体どうしたのかしら」
友人がアゲハの足元に落ちた木の枝に視線を向けながら心配そうに独りごちる。ああなるほど、あの時視界の影にとらえた黒っぽいものは飛んできた木の枝だったのかーーとにかく傷口を洗わなくてはと顔を上げたアゲハは近くの公園はどこだったかと視線をさまよわせる。
「きみ……ケガをしたのか。このハンカチをあてるといい」
「え……」
その時だった、不意にこちらに歩いてきていた男子学生がアゲハに真っ白なハンカチをひとつ差し出したのだ。
生まれも育ちもこの街の彼女は即座に見かけない顔だな、と男をまじまじと見つめる。そして申し訳なさそうに綺麗な方の手でハンカチを受け取ると傷口にあてた。
「ありがとうございます……でもごめんなさい、新しいのを買ってお返しします。良かったらお名前を聞かせてもらっても?」
その男子生徒は深緑の学ランをきっちりと着こなした真面目な雰囲気の青年だった。肩にかけた白のスカーフがそよ風に揺れて、儚げなイメージも魅せている。
「最近この街に越してきた花京院典明といいます……よろしく」
「私は帝アゲハです。ハンカチ、必ずお返ししますね花京院くん」
花京院は会話の間微笑むことも無く淡々と言葉を紡いでいたのだがアゲハはそれに酷く胸をときめかせた。
正直にすごく素敵だと思ったのだ。当然のように初対面の人にハンカチを渡せる彼の人間性に惹かれてしまったのだ。
それでもアゲハは学生で、それなりにマジメちゃんなのでーーこれ以上ここに留まっていては登校時間に間に合わなくなってしまうとその場を後にすることにした。
恩人の花京院に「それでは失礼します」と頭を下げた彼女は友人と共に自分たちの通学路へと戻っていく。
「花京院典明くん……か。ステキな人だったなあ」
名残惜しそうに振り返ったアゲハは再び階段下にいる花京院を見つめる。どうやら同じく怪我をした承太郎にも声をかけているらしい。
男女関係なく、困っている相手に声をかけられる人なんだわーーとアゲハは彼の行いに再び尊敬の念を抱くと自然と頬に熱が集まるのを感じながら隣を歩く友人からの労りの言葉に空返事を返したーー……。
「ーー!」
アゲハはハッとして顔を上げた。薄暗くなった車内の状況から少しの間眠っていたのだということを理解する。
そして突然顔を上げたものだから斜め向かいに座っていた承太郎が少し驚いたようにこちらを見ていることに気がついた彼女はバツが悪そうに
「おはよう」と言葉をこぼす。
(今のは……夢だったかあ)
アゲハは朧気に覚えている先程見た夢の事を思い出していた。夢の中でまで怪我をするだなんて全く嫌な感じーーと頬に触れる。
「……おもしろい夢でもみたのか」
「……へ?」
「ずっとにやにやと締りのない顔をしているぜ」
「ええっ!?」
そんな緩やかな心情に一石を投じたのは帽子の鍔を引き下げてそう言った承太郎の指摘だった。その内容に動揺し上擦った彼女の声に返事はない。
も、もしかしなくても花京院が出てきたからだったりするのかな……と顔に集まった熱に眉を下げたアゲハは隣に座るアヴドゥルに逸る心臓の音が聞こえないだろうかと気に病みながらも誤魔化すように首を擡げた。
夜の帳の降りた鈍行列車、シェードもないので遮るものがなく顔を覗かせた美しい夜空に自然と笑みを零しながらアゲハは窓の外を見ていた。向かいの席で無防備に眠るポルナレフは一体どんな夢を見ているのだろうと少しだけ考えて、再びそれを放棄した。