10.あまのじゃくナイチンゲール
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仁王に支えられながら、何とか自分の部屋まで戻ってきた。
「ほら、さっさと寝んしゃい」
「ちょ、ちょっと待って!」
部屋の中へ一歩踏み出す仁王の制服を、慌ててつかむ。
「なんじゃ」
「こっちの心の準備ってものがあるでしょ!?」
「今さら何を言っとるんじゃ?あ、もしかして…」
わざとらしく口元を隠し、ニヤつきながら続ける。
「俺に襲われるとでも思っとるんか?」
は、は…
「はぁ!?!?!?!?」
違う違う、断じて違う!!!!
強く否定すると、「意外とむっつりじゃのぉ」そう言いながらくねくねしだす。
殴っていいですか?
「そうじゃなくってさ!」
私は仁王を押しのけ、改めて部屋の中を見回す。
脱ぎっぱなしのカーディガン。
机の上に積んだままの漫画。
枕元に鎮座している、昔から使っている少しくたびれたぬいぐるみ。
よし。致命傷になるようなものはない。
……たぶん。
いや違う。そういう問題じゃない。
家族以外の男子が自分の部屋に入るなんて、初めてだ。
しかも私は寝起きそのままの髪に、よれたパジャマ姿。おまけに熱で顔は真っ赤、片頬まで腫れている。
最悪だ。
せめて、もう少しきちんとしたときに来てほしかったよ…。
「何をキョロキョロしとる」
「部屋に変なものが出てないか確認してるの!」
「もう見たあとじゃ」
「見たの!?」
反射的に仁王の視線を追う。
その先にあったのは、枕元に置かれたぬいぐるみだった。
「……それは違うから」
「まだ何も言っとらん」
「その顔が言ってる!」
仁王の口元が、先ほどと同様面白そうに緩んでいる。
ああ、もう。
これも含め、絶対あとでからかわれる。
「昔から置いてあるだけだからね。別に今も一緒に寝てるわけじゃ――」
「分かったから、早よ寝ろ」
「最後まで聞いてよ!」
抗議する私を無視して、仁王は「世話が焼けるやつじゃのう」一言呟いて私の肩と膝の裏へ腕を回した。
「え、ちょ――」
ふわりと体が浮く。
玄関からここまでは支えてもらっただけだったのに、今度は完全に抱き上げられていた。
いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
「に、仁王!歩けるって!」
「さっさと来ないおまんが悪いんじゃ」
「でも、これは近い!近いから!」
目の前に仁王の顔がある。
いつもなら少し見上げる位置にある顔が、今はすぐそばにあった。
銀色の髪が頬に触れそうなほど近い。
どこを見ればいいのか分からず、仕方なく仁王の肩越しへ視線を逃がす。
「暴れたら落ちるぞ」
「暴れてないし!」
「声もでかい」
「誰のせいよ!」
ベッドまでは、ほんの数歩しかない。
それなのに、やけに長く感じた。
仁王は私をそっとベッドへ下ろすと、乱れた掛け布団を持ち上げ、肩までかけ直してくれた。
「……ありがと」
「ん」
仁王がベッド脇に立ったまま、こちらを見下ろしている。
なんだろう。
見慣れているはずの制服姿なのに、自分の部屋にいるだけで妙に落ち着かない。
男子の制服がこの部屋の景色に馴染んでいないというか、存在感がありすぎるというか。
しかも、私はベッドの中。
なんだ、この状況。
「何じゃ。顔赤いぞ」
「熱!」
「まだ何も聞いとらんが」
「熱だから! 全部熱のせいだから!」
「はいはい」
絶対、100億パーセント、分かって言ってるんだこの男は。
病人にも容赦がなさすぎやしないか?
仁王は勉強机の前に置いていた椅子を引き寄せると、当然のように腰を下ろした。
膝を少し伸ばせば触れてしまいそうな距離に仁王がいる。
い、意識すると落ち着かない!
がばっと布団を鼻の下まで引き上げると、仁王が不思議そうに眉を上げた。
「寒いんか?」
「そう!」
「…変なやつじゃの」
誰のせいだと思ってるんだ。
仁王はそんな私の心中などお構いなしに、薬を飲んだか確認したり、枕元のペットボトルを手の届きやすい位置へ移したりしている。
「もう、ぬるくなっとるぞ」
そう言って、私の額へ手を伸ばしてきた。
「自分で取れるから!」
「大人しくしとれ」
額に張りついていた冷えピタが剥がされる。
続いて、新しいものがひたりと肌へ張りつけられた。
そのとき、仁王の指先が前髪をそっと避けた。
ただそれだけの動作なのに、妙にくすぐったくて、心臓が跳ねる。
「……まだ腫れとるの」
さっきまでの気だるそうな声より、少し低い。
仁王の方を見ると、視線は私の頬へ落ちていた。
何か聞かれる前に、私は慌てて口を開く。
一番、疑問に思っていたことを。
「そ、そういえば!昨日のあの子たち、あのあとどうなったの?」
「話を逸らしたな」
「逸らしてない。普通に気になるだけ」
仁王は納得していない顔をしていたが、それ以上は追及せず、再び椅子へ腰を下ろした。
「先生に連れていかれた。柳が呼んどったらしい」
「柳くんが?」
出てきた意外な名前に目を丸くする。
柳くんってあれだよね?おかっぱ頭で背が高い…。
でも、今まで話したこともなかったしまったく接点がないから私のことなんて知らないはずじゃ…。
「ハッ!!」
そうじゃん、居るじゃん、私を知ることになる情報源が!
ばッと仁王の方に顔を向ける。当の本人は?マークを頭の上に浮かべているが…。
「その…柳…くん?にもあることないこと私の話したんじゃないでしょうね…?」
「…ピヨッ」
「逃げるな卑怯者!」
咄嗟に、某少年漫画のような台詞を叫んでしまった。
仕方ない。病人は判断力が低下しているのだ。
てかピヨッてなんだよピヨッて!小鳥さんなのかな?そしてやっぱり質問の答えは“YES”ってことでいいんだろうなぁこの銀髪野郎は!
くそ、説教は後回し。それより今は事の顛末が大事だ。
私は短く息を吐いた。
「それで、柳くんはどうして昨日のことを知ってたの?」
「お前さんが女子らに囲まれとるところを見たらしい」
「見られてたの!?」
全然気がつかなかった。
「旧校舎の方へ連れていかれとったじゃろ。様子がおかしいと思って、柳が後をつけたらしい」
そこで仁王は一度言葉を切った。
「スマホで居場所を俺に送ったあと、先生を呼びに行ったんじゃと」
そんなことが…あったんだ。
今度柳くんにもお礼をしに行かなくちゃな。
「名前、あいつらに無理やり連れていかれたんじゃろ?」
「む、無理やりじゃ…」
完ぺきに否定できず、口をつぐむ。
確かに私は、彼女たちについていきたくなかった。
けれど、騒ぎを大きくしたくなくて、抵抗することもできなかった。
「それで、走ってきてくれたんだ?」
私の問いに、仁王は答えなかった。
でも、分かってる。
ぼんやりと、あのときの仁王の姿を思い出す。
いつもきれいに整えている銀色の髪は乱れ、肩は小さくだが上下していた。
あの場では驚きすぎて深く考えられなかったけれど、どう見ても走ってきた人間の姿だった。
「なんじゃ、その顔は」
「別にぃ?」
口元が勝手に緩む。
私のために、仁王が走ってきてくれた。
そう思うと、胸の奥がむずむずするような、落ち着かない気持ちになった。
「……ほんと、ありがとね」
小さく呟くと、仁王は一瞬だけ目を丸くした。
けれど、すぐにいつもの気だるそうな顔へ戻り、私の額を指先で軽く小突く。
「今さらじゃの」
「ちゃんと伝えておかないとって思ったの!」
感謝は、伝えられるときに、伝えられるだけ伝える。
それが私のモットーだ。
胸を叩いてどや顔で言ってみたが、強くたたきすぎてむせてしまった。
私は肝心なところで決まらないんだから…。
仁王は、少し笑ってから真剣な目つきになり「それと…」と再び口を動かした。
「あいつらは先生に事情を聞かれとる。怪我させたこともあるし、親にも連絡が行くじゃろうな」
「そんな大ごとにしなくても……」
「大ごとじゃろ」
間髪入れずに返された。
仁王は眉を寄せ、私を真っすぐに見つめる。
「自分が殴られたこと、分かっとるんか?」
「殴るって…平手打ちだったよ」
「どっちも一緒じゃ」
ぴしゃり、言われた。
少し怒っているような声で「あいつらの心配はするな」と付け加える。
怒られているはずなのに、不思議と嫌な気はしなかった。
それどころか、大切にされているような気がして、また胸の奥が落ち着かなくなる。
「……前にも、同じようなことがあったんか?」
不意に投げかけられた言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「なんで?」
「…黒瀬が保健室で寝てる名前を見て、“また”って言っとったぞ」
まずい。
この話題は非常にまずい。
様子をうかがうが、仁王の目は冗談を言っているときのものではなかった。
「別に。あんなこと初めてだよ」
昨日の女子たちに絡まれたのは、確かに初めてだ。
嘘は言っていない。
ただ――似たようなことが、以前にもあっただけ。
私は精一杯普段通りに振る舞う。
出来てた、はずだ。
「……本当か?」
「ほんとほんと」
あの子たちのことは、元気になってから考えよう。
それより、今はこっちだ。
「それよりさ」
私は強引に話を打ち切り、貼りなおしてもらった冷えピタを触る。
「仁王って、意外と看病慣れてるんだね」
明らかに不自然な話題転換だった。
仁王もそう思ったのだろう。
しばらく黙ったまま私を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「これくらい、誰でもできるじゃろ」
そう言うと、手つかずのまま置かれているお粥を指さす。
「あれ、食えるか?」
よかった、無事に話題を逸らせたようだ…。
内心安堵の息をつく。
そして、仁王の問いに、まだ食欲のなかった私は首を横に振る。
すると、なぜか仁王は自信たっぷりにニヤリと笑い、持ってきたビニール袋を掲げた。
「おまんが食欲なかったらと思って、持ってきたんじゃ」
そう言いながら、ベッド脇の机に次々と並べられていく色とりどりのプリンやゼリー。
「おぉー! すごい、こんなにいっぱい……いいの!?」
「どれなら食えるか分からんかったからの」
そんな理由で、わざわざこんなに買ってきてくれたの?
思っていた以上に心配されていたらしい。
なんだか急に申し訳なくなって、並んだ中から桃味のゼリーを選んだ。
「じゃあ、これ食べようかな」
容器を手に取ろうと腕を伸ばす。
けれど、思うように力が入らず、指先がゼリーの蓋を撫でただけで終わった。
……あれ?
もう一度手を伸ばしたところで、仁王が先にゼリーを取り上げた。
「ちょっと、取らないでよ」
「取っとらん。開けてやるだけじゃ」
仁王は慣れた手つきで蓋を剥がすと、付属の小さなスプーンを手に取った。
「ほれ」
「ありがと」
差し出されたスプーンを受け取ろうとする。
しかし仁王は、私の手を避けるようにスプーンを引っ込めた。
「……何?」
意味が分からない。くれるんじゃなかったのか?
再びスプーンに腕を伸ばす。
ーヒョイ
再び空振り。
「ちょっと、いい加減に…」
「ほれ」
ずいっと目の前に出されたそれに視線を落とす。
透明で涼やかなそれがスプーンの上で小さく揺れる。
えっと、これはつまり…。
「た、食べろということでしょうか…?」
「唐揚げの時の礼じゃ」
「か、唐揚げ…」
確かに、以前唐揚げを食べさせたことはあったが…。
「お、お気持ちだけで結構です…」
「ほらほら遠慮せんと」
「自分で食べれるよ…」
「頑固な奴じゃのう…病人なんじゃから甘えときんしゃい」
まただ。ひどく優しい声色に、私の心臓が跳ねる。
私をおぶってくれた時もそうだった。
ねえ、なんでそんなに優しくしてくれるのさ。
顔が熱くなるのを感じる。
照れくさくて、嬉しくて…そんなことを悟られるのが恥ずかしくて、私は目の前に差し出されていたそれを口に入れる。
「どうじゃ」
「…おいしいです」
「それはよかったのう」
満足げな笑みを浮かべる仁王。
食べさせるのも恥ずかしかったが、食べさせられるのもなかなか恥ずかしいじゃないか。
ひんやりしたゼリーは口に入れるとするっと喉奥へ流れていった。
「どれ、もう一口」
「あとは自分で食べます」
「そんな遠慮せんで」
「いいや、これは遠慮ではありません」
二口目をすくおうとする仁王の手から、さっとゼリーを奪い取る。
すると仁王は、少し不服そうに眉を寄せた。
まるで、おもちゃを取り上げられた子供のようだ。
へん!いい気味さね!
いつも何でも思いどおりになると思ったら、大間違いだよ坊や!
勝ち誇った気持ちで、残りのゼリーに手をつける。
あれだけ食欲がなかったというのに、気づけばぺろりと平らげてしまっていた。
その瞬間を見計らったように、仁王が机の上にあった薬を差し出す。
「あ、ありがと」
薬を受け取り、ペットボトルの水で流し込む。
口の中に残った苦みに顔をしかめると、仁王は空になったゼリーの容器を見ながら、満足そうに頷いた。
「薬も飲んだし、もう寝んしゃい」
仁王は私の手からペットボトルを取り上げると、枕元へ戻した。
そのまま掛け布団を持ち上げ、肩までしっかりとかけ直してくれる。
「子供じゃないんだけど」
「分かっとる。中学三年生じゃろ?」
「なんでその言い方、ちょっと馬鹿にしてるの?」
「気のせいじゃ」
絶対、気のせいじゃない。
文句の一つでも言ってやろうとしたが、その前に大きなあくびがこぼれた。
急に瞼が重くなってくる。
薬が効き始めたのだろうか。
さっきまであれだけ騒いでいたのに、体から力が抜けていくようだった。
「ほら見ぃ。眠いんじゃろ」
「別に……眠く、ないし……」
「目ぇ閉じとるぞ」
「これは……瞬きが、長いだけ……」
「器用じゃのぉ」
仁王の呆れたような声が、少しずつ遠ざかっていく。
もう何かを言い返す気力もない。
私は布団の中で小さく丸まり、そのまま目を閉じた。
誰かが近くにいるというだけで、不思議と安心する。
「仁王……」
「なんじゃ」
「帰るとき……ちゃんと、鍵閉めてね……」
「俺を何じゃと思っとる」
「不法侵入者……」
「寝ぼけとるんか」
その声が、どこか笑っているように聞こえた。
意識が、深いところへ沈んでいく。
完全に眠りへ落ちる、その直前。
大きな手が、私の頭をゆっくりと撫でた。
優しく髪を梳くように、何度か。
そして、仁王が何かを呟いた――そんな気がした。
けれど、その言葉を聞き取る前に、私の意識は途切れてしまった。
「ほら、さっさと寝んしゃい」
「ちょ、ちょっと待って!」
部屋の中へ一歩踏み出す仁王の制服を、慌ててつかむ。
「なんじゃ」
「こっちの心の準備ってものがあるでしょ!?」
「今さら何を言っとるんじゃ?あ、もしかして…」
わざとらしく口元を隠し、ニヤつきながら続ける。
「俺に襲われるとでも思っとるんか?」
は、は…
「はぁ!?!?!?!?」
違う違う、断じて違う!!!!
強く否定すると、「意外とむっつりじゃのぉ」そう言いながらくねくねしだす。
殴っていいですか?
「そうじゃなくってさ!」
私は仁王を押しのけ、改めて部屋の中を見回す。
脱ぎっぱなしのカーディガン。
机の上に積んだままの漫画。
枕元に鎮座している、昔から使っている少しくたびれたぬいぐるみ。
よし。致命傷になるようなものはない。
……たぶん。
いや違う。そういう問題じゃない。
家族以外の男子が自分の部屋に入るなんて、初めてだ。
しかも私は寝起きそのままの髪に、よれたパジャマ姿。おまけに熱で顔は真っ赤、片頬まで腫れている。
最悪だ。
せめて、もう少しきちんとしたときに来てほしかったよ…。
「何をキョロキョロしとる」
「部屋に変なものが出てないか確認してるの!」
「もう見たあとじゃ」
「見たの!?」
反射的に仁王の視線を追う。
その先にあったのは、枕元に置かれたぬいぐるみだった。
「……それは違うから」
「まだ何も言っとらん」
「その顔が言ってる!」
仁王の口元が、先ほどと同様面白そうに緩んでいる。
ああ、もう。
これも含め、絶対あとでからかわれる。
「昔から置いてあるだけだからね。別に今も一緒に寝てるわけじゃ――」
「分かったから、早よ寝ろ」
「最後まで聞いてよ!」
抗議する私を無視して、仁王は「世話が焼けるやつじゃのう」一言呟いて私の肩と膝の裏へ腕を回した。
「え、ちょ――」
ふわりと体が浮く。
玄関からここまでは支えてもらっただけだったのに、今度は完全に抱き上げられていた。
いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
「に、仁王!歩けるって!」
「さっさと来ないおまんが悪いんじゃ」
「でも、これは近い!近いから!」
目の前に仁王の顔がある。
いつもなら少し見上げる位置にある顔が、今はすぐそばにあった。
銀色の髪が頬に触れそうなほど近い。
どこを見ればいいのか分からず、仕方なく仁王の肩越しへ視線を逃がす。
「暴れたら落ちるぞ」
「暴れてないし!」
「声もでかい」
「誰のせいよ!」
ベッドまでは、ほんの数歩しかない。
それなのに、やけに長く感じた。
仁王は私をそっとベッドへ下ろすと、乱れた掛け布団を持ち上げ、肩までかけ直してくれた。
「……ありがと」
「ん」
仁王がベッド脇に立ったまま、こちらを見下ろしている。
なんだろう。
見慣れているはずの制服姿なのに、自分の部屋にいるだけで妙に落ち着かない。
男子の制服がこの部屋の景色に馴染んでいないというか、存在感がありすぎるというか。
しかも、私はベッドの中。
なんだ、この状況。
「何じゃ。顔赤いぞ」
「熱!」
「まだ何も聞いとらんが」
「熱だから! 全部熱のせいだから!」
「はいはい」
絶対、100億パーセント、分かって言ってるんだこの男は。
病人にも容赦がなさすぎやしないか?
仁王は勉強机の前に置いていた椅子を引き寄せると、当然のように腰を下ろした。
膝を少し伸ばせば触れてしまいそうな距離に仁王がいる。
い、意識すると落ち着かない!
がばっと布団を鼻の下まで引き上げると、仁王が不思議そうに眉を上げた。
「寒いんか?」
「そう!」
「…変なやつじゃの」
誰のせいだと思ってるんだ。
仁王はそんな私の心中などお構いなしに、薬を飲んだか確認したり、枕元のペットボトルを手の届きやすい位置へ移したりしている。
「もう、ぬるくなっとるぞ」
そう言って、私の額へ手を伸ばしてきた。
「自分で取れるから!」
「大人しくしとれ」
額に張りついていた冷えピタが剥がされる。
続いて、新しいものがひたりと肌へ張りつけられた。
そのとき、仁王の指先が前髪をそっと避けた。
ただそれだけの動作なのに、妙にくすぐったくて、心臓が跳ねる。
「……まだ腫れとるの」
さっきまでの気だるそうな声より、少し低い。
仁王の方を見ると、視線は私の頬へ落ちていた。
何か聞かれる前に、私は慌てて口を開く。
一番、疑問に思っていたことを。
「そ、そういえば!昨日のあの子たち、あのあとどうなったの?」
「話を逸らしたな」
「逸らしてない。普通に気になるだけ」
仁王は納得していない顔をしていたが、それ以上は追及せず、再び椅子へ腰を下ろした。
「先生に連れていかれた。柳が呼んどったらしい」
「柳くんが?」
出てきた意外な名前に目を丸くする。
柳くんってあれだよね?おかっぱ頭で背が高い…。
でも、今まで話したこともなかったしまったく接点がないから私のことなんて知らないはずじゃ…。
「ハッ!!」
そうじゃん、居るじゃん、私を知ることになる情報源が!
ばッと仁王の方に顔を向ける。当の本人は?マークを頭の上に浮かべているが…。
「その…柳…くん?にもあることないこと私の話したんじゃないでしょうね…?」
「…ピヨッ」
「逃げるな卑怯者!」
咄嗟に、某少年漫画のような台詞を叫んでしまった。
仕方ない。病人は判断力が低下しているのだ。
てかピヨッてなんだよピヨッて!小鳥さんなのかな?そしてやっぱり質問の答えは“YES”ってことでいいんだろうなぁこの銀髪野郎は!
くそ、説教は後回し。それより今は事の顛末が大事だ。
私は短く息を吐いた。
「それで、柳くんはどうして昨日のことを知ってたの?」
「お前さんが女子らに囲まれとるところを見たらしい」
「見られてたの!?」
全然気がつかなかった。
「旧校舎の方へ連れていかれとったじゃろ。様子がおかしいと思って、柳が後をつけたらしい」
そこで仁王は一度言葉を切った。
「スマホで居場所を俺に送ったあと、先生を呼びに行ったんじゃと」
そんなことが…あったんだ。
今度柳くんにもお礼をしに行かなくちゃな。
「名前、あいつらに無理やり連れていかれたんじゃろ?」
「む、無理やりじゃ…」
完ぺきに否定できず、口をつぐむ。
確かに私は、彼女たちについていきたくなかった。
けれど、騒ぎを大きくしたくなくて、抵抗することもできなかった。
「それで、走ってきてくれたんだ?」
私の問いに、仁王は答えなかった。
でも、分かってる。
ぼんやりと、あのときの仁王の姿を思い出す。
いつもきれいに整えている銀色の髪は乱れ、肩は小さくだが上下していた。
あの場では驚きすぎて深く考えられなかったけれど、どう見ても走ってきた人間の姿だった。
「なんじゃ、その顔は」
「別にぃ?」
口元が勝手に緩む。
私のために、仁王が走ってきてくれた。
そう思うと、胸の奥がむずむずするような、落ち着かない気持ちになった。
「……ほんと、ありがとね」
小さく呟くと、仁王は一瞬だけ目を丸くした。
けれど、すぐにいつもの気だるそうな顔へ戻り、私の額を指先で軽く小突く。
「今さらじゃの」
「ちゃんと伝えておかないとって思ったの!」
感謝は、伝えられるときに、伝えられるだけ伝える。
それが私のモットーだ。
胸を叩いてどや顔で言ってみたが、強くたたきすぎてむせてしまった。
私は肝心なところで決まらないんだから…。
仁王は、少し笑ってから真剣な目つきになり「それと…」と再び口を動かした。
「あいつらは先生に事情を聞かれとる。怪我させたこともあるし、親にも連絡が行くじゃろうな」
「そんな大ごとにしなくても……」
「大ごとじゃろ」
間髪入れずに返された。
仁王は眉を寄せ、私を真っすぐに見つめる。
「自分が殴られたこと、分かっとるんか?」
「殴るって…平手打ちだったよ」
「どっちも一緒じゃ」
ぴしゃり、言われた。
少し怒っているような声で「あいつらの心配はするな」と付け加える。
怒られているはずなのに、不思議と嫌な気はしなかった。
それどころか、大切にされているような気がして、また胸の奥が落ち着かなくなる。
「……前にも、同じようなことがあったんか?」
不意に投げかけられた言葉に、心臓が大きく跳ねた。
「なんで?」
「…黒瀬が保健室で寝てる名前を見て、“また”って言っとったぞ」
まずい。
この話題は非常にまずい。
様子をうかがうが、仁王の目は冗談を言っているときのものではなかった。
「別に。あんなこと初めてだよ」
昨日の女子たちに絡まれたのは、確かに初めてだ。
嘘は言っていない。
ただ――似たようなことが、以前にもあっただけ。
私は精一杯普段通りに振る舞う。
出来てた、はずだ。
「……本当か?」
「ほんとほんと」
あの子たちのことは、元気になってから考えよう。
それより、今はこっちだ。
「それよりさ」
私は強引に話を打ち切り、貼りなおしてもらった冷えピタを触る。
「仁王って、意外と看病慣れてるんだね」
明らかに不自然な話題転換だった。
仁王もそう思ったのだろう。
しばらく黙ったまま私を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「これくらい、誰でもできるじゃろ」
そう言うと、手つかずのまま置かれているお粥を指さす。
「あれ、食えるか?」
よかった、無事に話題を逸らせたようだ…。
内心安堵の息をつく。
そして、仁王の問いに、まだ食欲のなかった私は首を横に振る。
すると、なぜか仁王は自信たっぷりにニヤリと笑い、持ってきたビニール袋を掲げた。
「おまんが食欲なかったらと思って、持ってきたんじゃ」
そう言いながら、ベッド脇の机に次々と並べられていく色とりどりのプリンやゼリー。
「おぉー! すごい、こんなにいっぱい……いいの!?」
「どれなら食えるか分からんかったからの」
そんな理由で、わざわざこんなに買ってきてくれたの?
思っていた以上に心配されていたらしい。
なんだか急に申し訳なくなって、並んだ中から桃味のゼリーを選んだ。
「じゃあ、これ食べようかな」
容器を手に取ろうと腕を伸ばす。
けれど、思うように力が入らず、指先がゼリーの蓋を撫でただけで終わった。
……あれ?
もう一度手を伸ばしたところで、仁王が先にゼリーを取り上げた。
「ちょっと、取らないでよ」
「取っとらん。開けてやるだけじゃ」
仁王は慣れた手つきで蓋を剥がすと、付属の小さなスプーンを手に取った。
「ほれ」
「ありがと」
差し出されたスプーンを受け取ろうとする。
しかし仁王は、私の手を避けるようにスプーンを引っ込めた。
「……何?」
意味が分からない。くれるんじゃなかったのか?
再びスプーンに腕を伸ばす。
ーヒョイ
再び空振り。
「ちょっと、いい加減に…」
「ほれ」
ずいっと目の前に出されたそれに視線を落とす。
透明で涼やかなそれがスプーンの上で小さく揺れる。
えっと、これはつまり…。
「た、食べろということでしょうか…?」
「唐揚げの時の礼じゃ」
「か、唐揚げ…」
確かに、以前唐揚げを食べさせたことはあったが…。
「お、お気持ちだけで結構です…」
「ほらほら遠慮せんと」
「自分で食べれるよ…」
「頑固な奴じゃのう…病人なんじゃから甘えときんしゃい」
まただ。ひどく優しい声色に、私の心臓が跳ねる。
私をおぶってくれた時もそうだった。
ねえ、なんでそんなに優しくしてくれるのさ。
顔が熱くなるのを感じる。
照れくさくて、嬉しくて…そんなことを悟られるのが恥ずかしくて、私は目の前に差し出されていたそれを口に入れる。
「どうじゃ」
「…おいしいです」
「それはよかったのう」
満足げな笑みを浮かべる仁王。
食べさせるのも恥ずかしかったが、食べさせられるのもなかなか恥ずかしいじゃないか。
ひんやりしたゼリーは口に入れるとするっと喉奥へ流れていった。
「どれ、もう一口」
「あとは自分で食べます」
「そんな遠慮せんで」
「いいや、これは遠慮ではありません」
二口目をすくおうとする仁王の手から、さっとゼリーを奪い取る。
すると仁王は、少し不服そうに眉を寄せた。
まるで、おもちゃを取り上げられた子供のようだ。
へん!いい気味さね!
いつも何でも思いどおりになると思ったら、大間違いだよ坊や!
勝ち誇った気持ちで、残りのゼリーに手をつける。
あれだけ食欲がなかったというのに、気づけばぺろりと平らげてしまっていた。
その瞬間を見計らったように、仁王が机の上にあった薬を差し出す。
「あ、ありがと」
薬を受け取り、ペットボトルの水で流し込む。
口の中に残った苦みに顔をしかめると、仁王は空になったゼリーの容器を見ながら、満足そうに頷いた。
「薬も飲んだし、もう寝んしゃい」
仁王は私の手からペットボトルを取り上げると、枕元へ戻した。
そのまま掛け布団を持ち上げ、肩までしっかりとかけ直してくれる。
「子供じゃないんだけど」
「分かっとる。中学三年生じゃろ?」
「なんでその言い方、ちょっと馬鹿にしてるの?」
「気のせいじゃ」
絶対、気のせいじゃない。
文句の一つでも言ってやろうとしたが、その前に大きなあくびがこぼれた。
急に瞼が重くなってくる。
薬が効き始めたのだろうか。
さっきまであれだけ騒いでいたのに、体から力が抜けていくようだった。
「ほら見ぃ。眠いんじゃろ」
「別に……眠く、ないし……」
「目ぇ閉じとるぞ」
「これは……瞬きが、長いだけ……」
「器用じゃのぉ」
仁王の呆れたような声が、少しずつ遠ざかっていく。
もう何かを言い返す気力もない。
私は布団の中で小さく丸まり、そのまま目を閉じた。
誰かが近くにいるというだけで、不思議と安心する。
「仁王……」
「なんじゃ」
「帰るとき……ちゃんと、鍵閉めてね……」
「俺を何じゃと思っとる」
「不法侵入者……」
「寝ぼけとるんか」
その声が、どこか笑っているように聞こえた。
意識が、深いところへ沈んでいく。
完全に眠りへ落ちる、その直前。
大きな手が、私の頭をゆっくりと撫でた。
優しく髪を梳くように、何度か。
そして、仁王が何かを呟いた――そんな気がした。
けれど、その言葉を聞き取る前に、私の意識は途切れてしまった。
