06.恋人ごっこ
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ぜぇ、ぜぇ……。
私は息も絶え絶えになりながら、肩で大きく呼吸をする。
その一方で、数歩先を歩くブン太くんは、
「ほら、ちゃっちゃと歩けー」
なんて、涼しい顔でこちらを急かしていた。
な、なんでそんなに体力があるんだ……。
学校からここまで、結構な距離があったよね?
しかも、ほとんど全力疾走だったよね?
私なんて汗で髪も顔もぐちゃぐちゃだというのに、目の前のブン太くんは汗どころか、髪の毛一本乱れていない。
これが全国大会常連校のレギュラー……。
男子テニス部って、恐ろしい。
「ちょ、ちょっと待って…。肺が…肺がもう駄目だと言っている…」
「大げさだろい。まだ店にも入ってねぇぞ」
「誰のせいでこうなったと思ってるんだ!」
赤也くんから逃げるためとはいえ、何も学校からここまで走り続ける必要はなかったはずだ。
途中で何度も「もう追ってきてないよ!」と訴えたのに、ブン太くんは一度も足を緩めなかった。
絶対途中から楽しくなってただろ、こいつ。
「つーか、お前ひでぇ顔」
「君が言う!?」
「髪もぐちゃぐちゃじゃん」
「だから誰のせいだと――」
言い返している途中で、ブン太くんの手がこちらへ伸びてきた。
その指先が、額に張りついていた前髪をひょいと摘まみ、横へ流す。
「ほら。これでちょっとマシ」
あまりにも何気ない動作だった。
ブン太くんも特に気にした様子はなく、すぐに私から手を離す。
「恋人役がそんなボロボロじゃ、怪しまれるだろい」
「…今、一瞬だけ優しさを感じた自分を殴りたい」
「なんでだよ!」
やはりケーキのためだった。
この男の頭の中には、私への気遣いよりも限定ケーキしか詰まっていないらしい。
まあ、私も人のことは言えないけれど。
改めて顔を上げると、目の前にはチラシと同じ店が建っていた。
淡い桃色の壁に、白い縁取りの大きな窓。
入口の上には、苺と生クリームで飾られたケーキを模した看板が掲げられている。
窓の向こうには、色とりどりのケーキが並ぶショーケースが見えた。
「ケーキ…!」
先ほどまでの疲労が嘘のように、足が勝手に店へ向かっていく。
「おい、急に元気になったな」
「人間は希望があれば何度でも立ち上がれるんだよ」
「さっきまで肺が駄目だとか言ってたくせに」
細かいことを気にしてはいけない。
希望という名の糖分を求め、私は店の扉へ手をかけた。
からんからん、と軽やかなベルの音が店内に響く。
「いらっしゃいませ!」
甘い香りと共に、可愛らしい制服を着た店員さんが笑顔で出迎えてくれた。
「二名様ですか?」
「はい!」
元気よく答える私の隣で、ブン太くんが例のチラシを取り出す。
「これ、食いに来たんだけど」
「カップル限定メニューですね!」
店員さんの笑顔が、さらに輝きを増した。
「ただいまこちらのメニューをご注文のお客様には、恋人同士であることを確認させていただいております」
「…確認?」
嫌な予感がする。
店員さんは胸の前で両手を組み、にこにこと無邪気に告げた。
「まずは、手を繋いでいただけますか?」
…………。
私はゆっくりと隣を見た。
ブン太くんも、同じようにこちらを見ている。
「聞いてないんだけど」
「俺も知らねぇ」
入店早々。
私たちの恋人ごっこは、早くも最大の危機を迎えていた。
いや、待て。
落ち着け、私。
たかが手を繋ぐだけ。
幼稚園児だってお散歩の時には手を繋ぐ。
そう、これは普通のことなのだ。
「ほら」
自分に暗示をかけている途中、ブン太くんが鞄を持っていないほうの手を無造作に差し出してくる。
「軽いな!?」
もう少し戸惑ったり、恥ずかしがったりはないのか。
仮にも女子と手を繋ぐんだぞ?
「早くしろい。後ろ詰まってんだろ」
振り返れば、入口の外には数組の客が並んでいた。
その視線が一斉にこちらへ注がれている。
は、恥ずかしい……!
「ええい、どうとでもなれ!」
意を決し、差し出された手を勢いよく掴む。
見た目と違い、思っていたよりも大きな手だった。
指の付け根には硬いまめがあり、手のひらからじんわりと温かさが伝わってくる。
ああ、テニスをしている手なんだな。
なんて、柄にもなく感心した――その直後。
「握り方、かてぇ」
「うるさい!」
「これじゃ恋人っつーより、腕相撲始めるやつだろい」
「誰のせいで緊張してると思ってるの!?」
「なんで俺のせいなんだよ」
ブン太くんは呆れたように言うと、一度私の手を離した。
そして今度は、指と指の間へ自分の指を滑り込ませる。
ぎゅ、と手のひらが重なった。
「こうだろ」
「…………」
「なんだよ」
「いや……ずいぶん手慣れていらっしゃるなと思いまして」
「普通に繋いだだけだろい」
普通じゃない。
これは俗にいう、恋人繋ぎというやつではないだろうか。
まさか実物を体験する日が来ようとは。
しかも相手が、限定ケーキを食べるためなら友人を偽装恋人に仕立て上げる赤髪の男とは。
人生、何が起こるか分からない。
しかし、これで終わりはしなかった。
「では、これから10秒間見つめ合っていただきます!」
「はい?」
待ってくださいよ、手だけでも私の心臓がオーバーワーク気味なのに…。
チロリとブン太くんの顔を盗み見る。
こんなイケメンと10秒も顔を見合わせろと!?
あまりの眩しさで失明してしまうわ!!
しかし、店員さんは私の葛藤を待ってくれるほど暇ではないらしい。
混み合い始めた入口へちらりと目をやると、完璧だった営業スマイルの口元を、わずかにぴくつかせた。
『早くしろよ』
心の中でそう言ってる気がする。
よし、大丈夫。
人と話す時には相手の目を見ましょうと先生に教わってきた。
これは恋人同士の甘い見つめ合いなどではない。
学校教育の実践だ。
私は今、長年受けてきた教育の成果を試されているだけなのだ。
そう自分に言い聞かせ、意を決してブン太くんへ向き直る。
「…よし。来い」
「今から喧嘩でもすんのか?」
「心の準備をしてるんです!」
「顔見るだけだろい」
簡単に言ってくれる。
君は毎朝鏡で見慣れているから分からないだろうが、こっちは至近距離からその顔面を浴びるんだぞ。
しかも十秒間。
下手をすれば致死量である。
「それでは、お互いのお顔を見てください!」
店員さんに促され、私は恐る恐る顔を上げた。
目の前にはブン太くんの顔。
近い。
思ったよりずっと近い。
普段から顔がいいとは思っていたけれど、こうして真正面から見ると、改めて顔面の造りが整っている。
ぱっちりとした目。
すっと通った鼻筋。
つやつやとした唇。
そして何より、この距離でもまったく崩れない肌。
毛穴どこ?
家に置いてきた?
「お前、すげぇ顔してるぞ」
「うるさいな! 集中してるの!」
「何に?」
「十秒間を耐え抜くことに!」
「耐えるもんじゃねぇだろい」
ブン太くんは、からかうように口元を緩める。
やめろ。
そんな間近で笑うな。
顔の良さが暴力として襲ってくるだろうが。
「それでは数えますね。いーち……」
まだ一秒!?
体感ではすでに三十秒くらい経っている。
「にーい……」
長い長い長い!
一秒ってこんなに長かったっけ!?
「さーん……」
ブン太くんは平然としている。
なぜだ。
なぜそんな何とも思っていなさそうな顔でいられる。
もしかして私だけが異常に意識してしまっているだけなのか!?
待て。正気を保て私。
相手は私のこと何とも思ってない。
良くて、押せば鳴るお気に入りのおもちゃ程度にしか意識してない。
ここでは、私が踏ん張るだけだ。
至近距離から美形を直視するという、人類には過酷すぎる試練に耐えているだけだ。
「よーん……」
「おい」
不意にブン太くんが声を潜めた。
「な、何?」
「目ぇ逸らすなよ。最初からやり直しになんぞ」
「分かってるよ!」
そう言い返した瞬間、ブン太くんが少しだけ顔を近づけた。
近い近い近い!!!
「うわあ、ちょっと離れて!近づく必要はないでしょうが!?」
「お前が後ろに逃げるからだろい」
いつの間にか、私は上半身をのけぞらせていたらしい。
ブン太くんに繋がれた手を引かれ、元の位置へ戻される。
「ろーく……」
まだ六!?
嘘だろ!?
この店だけ時間の流れが遅くない!?
「なーな……はーち……」
限界だ。
目のやり場が分からない。
かといって、視線を逸らせばやり直し。
仕方なくブン太くんの眉間あたりを睨みつける。
「お前、なんで睨んでんだよい」
「目を合わせろと言われたから合わせてるんです!」
「それ、俺を倒そうとしてる目だろい」
「きゅーう……」
あと一秒!
頑張れ私!
この苦行を乗り越えれば、ケーキが待っている!
「じゅう!」
「終わったあああああ!!!」
店内に響き渡る声で叫び、私は勢いよくブン太くんの手を振り払った。
まるで長い戦いを終えた兵士のように、その場で膝に手をつく。
「大げさすぎんだろい」
「君は平気すぎるんだよ!」
「はい、確認できました!」
店員さんが満足そうに両手を叩いた。
「とっても仲の良いカップルさんですね!」
「どこを見てそう思ったんですか!?」
十秒間のうち、半分以上は睨み合いだったはずだ。
しかし店員さんは私の抗議など聞こえなかったかのように、にこやかな笑顔を崩さないまま店の奥を示した。
「それでは、お席までご案内いたします」
無視!?
えっ、今の完全に無視しましたよね!?
この店員さん、目が節穴なうえに人の話まで聞かないんですけど!
あまりの横暴さにその場から動けずにいると、店員さんの笑顔がほんの少しだけ深くなった。
けれど、目はまったく笑っていない。
『早く歩け』
声には出していないはずなのに、はっきりとそう聞こえた。
「……はい」
先ほどまで燃え上がっていた私の戦意は、しゅるるる……と音を立ててしぼんでいった。
店員さんのあとについて歩き出そうとした、その時だった。
ブン太くんが、当然のように私の手を掴む。
あっという間に指と指が絡まり、再び恋人繋ぎの完成である。
「ちょっと。もう終わったでしょ?」
「席まで繋いどいたほうが怪しまれねぇだろい」
「確認は終わったって、店員さんも言ってたよね!?」
「念には念を、だ」
なんだ、その無駄に慎重な姿勢は。
ケーキへの執念がすごい。
この男、限定メニューを前にして一切の妥協を許さない。
私は息も絶え絶えになりながら、肩で大きく呼吸をする。
その一方で、数歩先を歩くブン太くんは、
「ほら、ちゃっちゃと歩けー」
なんて、涼しい顔でこちらを急かしていた。
な、なんでそんなに体力があるんだ……。
学校からここまで、結構な距離があったよね?
しかも、ほとんど全力疾走だったよね?
私なんて汗で髪も顔もぐちゃぐちゃだというのに、目の前のブン太くんは汗どころか、髪の毛一本乱れていない。
これが全国大会常連校のレギュラー……。
男子テニス部って、恐ろしい。
「ちょ、ちょっと待って…。肺が…肺がもう駄目だと言っている…」
「大げさだろい。まだ店にも入ってねぇぞ」
「誰のせいでこうなったと思ってるんだ!」
赤也くんから逃げるためとはいえ、何も学校からここまで走り続ける必要はなかったはずだ。
途中で何度も「もう追ってきてないよ!」と訴えたのに、ブン太くんは一度も足を緩めなかった。
絶対途中から楽しくなってただろ、こいつ。
「つーか、お前ひでぇ顔」
「君が言う!?」
「髪もぐちゃぐちゃじゃん」
「だから誰のせいだと――」
言い返している途中で、ブン太くんの手がこちらへ伸びてきた。
その指先が、額に張りついていた前髪をひょいと摘まみ、横へ流す。
「ほら。これでちょっとマシ」
あまりにも何気ない動作だった。
ブン太くんも特に気にした様子はなく、すぐに私から手を離す。
「恋人役がそんなボロボロじゃ、怪しまれるだろい」
「…今、一瞬だけ優しさを感じた自分を殴りたい」
「なんでだよ!」
やはりケーキのためだった。
この男の頭の中には、私への気遣いよりも限定ケーキしか詰まっていないらしい。
まあ、私も人のことは言えないけれど。
改めて顔を上げると、目の前にはチラシと同じ店が建っていた。
淡い桃色の壁に、白い縁取りの大きな窓。
入口の上には、苺と生クリームで飾られたケーキを模した看板が掲げられている。
窓の向こうには、色とりどりのケーキが並ぶショーケースが見えた。
「ケーキ…!」
先ほどまでの疲労が嘘のように、足が勝手に店へ向かっていく。
「おい、急に元気になったな」
「人間は希望があれば何度でも立ち上がれるんだよ」
「さっきまで肺が駄目だとか言ってたくせに」
細かいことを気にしてはいけない。
希望という名の糖分を求め、私は店の扉へ手をかけた。
からんからん、と軽やかなベルの音が店内に響く。
「いらっしゃいませ!」
甘い香りと共に、可愛らしい制服を着た店員さんが笑顔で出迎えてくれた。
「二名様ですか?」
「はい!」
元気よく答える私の隣で、ブン太くんが例のチラシを取り出す。
「これ、食いに来たんだけど」
「カップル限定メニューですね!」
店員さんの笑顔が、さらに輝きを増した。
「ただいまこちらのメニューをご注文のお客様には、恋人同士であることを確認させていただいております」
「…確認?」
嫌な予感がする。
店員さんは胸の前で両手を組み、にこにこと無邪気に告げた。
「まずは、手を繋いでいただけますか?」
…………。
私はゆっくりと隣を見た。
ブン太くんも、同じようにこちらを見ている。
「聞いてないんだけど」
「俺も知らねぇ」
入店早々。
私たちの恋人ごっこは、早くも最大の危機を迎えていた。
いや、待て。
落ち着け、私。
たかが手を繋ぐだけ。
幼稚園児だってお散歩の時には手を繋ぐ。
そう、これは普通のことなのだ。
「ほら」
自分に暗示をかけている途中、ブン太くんが鞄を持っていないほうの手を無造作に差し出してくる。
「軽いな!?」
もう少し戸惑ったり、恥ずかしがったりはないのか。
仮にも女子と手を繋ぐんだぞ?
「早くしろい。後ろ詰まってんだろ」
振り返れば、入口の外には数組の客が並んでいた。
その視線が一斉にこちらへ注がれている。
は、恥ずかしい……!
「ええい、どうとでもなれ!」
意を決し、差し出された手を勢いよく掴む。
見た目と違い、思っていたよりも大きな手だった。
指の付け根には硬いまめがあり、手のひらからじんわりと温かさが伝わってくる。
ああ、テニスをしている手なんだな。
なんて、柄にもなく感心した――その直後。
「握り方、かてぇ」
「うるさい!」
「これじゃ恋人っつーより、腕相撲始めるやつだろい」
「誰のせいで緊張してると思ってるの!?」
「なんで俺のせいなんだよ」
ブン太くんは呆れたように言うと、一度私の手を離した。
そして今度は、指と指の間へ自分の指を滑り込ませる。
ぎゅ、と手のひらが重なった。
「こうだろ」
「…………」
「なんだよ」
「いや……ずいぶん手慣れていらっしゃるなと思いまして」
「普通に繋いだだけだろい」
普通じゃない。
これは俗にいう、恋人繋ぎというやつではないだろうか。
まさか実物を体験する日が来ようとは。
しかも相手が、限定ケーキを食べるためなら友人を偽装恋人に仕立て上げる赤髪の男とは。
人生、何が起こるか分からない。
しかし、これで終わりはしなかった。
「では、これから10秒間見つめ合っていただきます!」
「はい?」
待ってくださいよ、手だけでも私の心臓がオーバーワーク気味なのに…。
チロリとブン太くんの顔を盗み見る。
こんなイケメンと10秒も顔を見合わせろと!?
あまりの眩しさで失明してしまうわ!!
しかし、店員さんは私の葛藤を待ってくれるほど暇ではないらしい。
混み合い始めた入口へちらりと目をやると、完璧だった営業スマイルの口元を、わずかにぴくつかせた。
『早くしろよ』
心の中でそう言ってる気がする。
よし、大丈夫。
人と話す時には相手の目を見ましょうと先生に教わってきた。
これは恋人同士の甘い見つめ合いなどではない。
学校教育の実践だ。
私は今、長年受けてきた教育の成果を試されているだけなのだ。
そう自分に言い聞かせ、意を決してブン太くんへ向き直る。
「…よし。来い」
「今から喧嘩でもすんのか?」
「心の準備をしてるんです!」
「顔見るだけだろい」
簡単に言ってくれる。
君は毎朝鏡で見慣れているから分からないだろうが、こっちは至近距離からその顔面を浴びるんだぞ。
しかも十秒間。
下手をすれば致死量である。
「それでは、お互いのお顔を見てください!」
店員さんに促され、私は恐る恐る顔を上げた。
目の前にはブン太くんの顔。
近い。
思ったよりずっと近い。
普段から顔がいいとは思っていたけれど、こうして真正面から見ると、改めて顔面の造りが整っている。
ぱっちりとした目。
すっと通った鼻筋。
つやつやとした唇。
そして何より、この距離でもまったく崩れない肌。
毛穴どこ?
家に置いてきた?
「お前、すげぇ顔してるぞ」
「うるさいな! 集中してるの!」
「何に?」
「十秒間を耐え抜くことに!」
「耐えるもんじゃねぇだろい」
ブン太くんは、からかうように口元を緩める。
やめろ。
そんな間近で笑うな。
顔の良さが暴力として襲ってくるだろうが。
「それでは数えますね。いーち……」
まだ一秒!?
体感ではすでに三十秒くらい経っている。
「にーい……」
長い長い長い!
一秒ってこんなに長かったっけ!?
「さーん……」
ブン太くんは平然としている。
なぜだ。
なぜそんな何とも思っていなさそうな顔でいられる。
もしかして私だけが異常に意識してしまっているだけなのか!?
待て。正気を保て私。
相手は私のこと何とも思ってない。
良くて、押せば鳴るお気に入りのおもちゃ程度にしか意識してない。
ここでは、私が踏ん張るだけだ。
至近距離から美形を直視するという、人類には過酷すぎる試練に耐えているだけだ。
「よーん……」
「おい」
不意にブン太くんが声を潜めた。
「な、何?」
「目ぇ逸らすなよ。最初からやり直しになんぞ」
「分かってるよ!」
そう言い返した瞬間、ブン太くんが少しだけ顔を近づけた。
近い近い近い!!!
「うわあ、ちょっと離れて!近づく必要はないでしょうが!?」
「お前が後ろに逃げるからだろい」
いつの間にか、私は上半身をのけぞらせていたらしい。
ブン太くんに繋がれた手を引かれ、元の位置へ戻される。
「ろーく……」
まだ六!?
嘘だろ!?
この店だけ時間の流れが遅くない!?
「なーな……はーち……」
限界だ。
目のやり場が分からない。
かといって、視線を逸らせばやり直し。
仕方なくブン太くんの眉間あたりを睨みつける。
「お前、なんで睨んでんだよい」
「目を合わせろと言われたから合わせてるんです!」
「それ、俺を倒そうとしてる目だろい」
「きゅーう……」
あと一秒!
頑張れ私!
この苦行を乗り越えれば、ケーキが待っている!
「じゅう!」
「終わったあああああ!!!」
店内に響き渡る声で叫び、私は勢いよくブン太くんの手を振り払った。
まるで長い戦いを終えた兵士のように、その場で膝に手をつく。
「大げさすぎんだろい」
「君は平気すぎるんだよ!」
「はい、確認できました!」
店員さんが満足そうに両手を叩いた。
「とっても仲の良いカップルさんですね!」
「どこを見てそう思ったんですか!?」
十秒間のうち、半分以上は睨み合いだったはずだ。
しかし店員さんは私の抗議など聞こえなかったかのように、にこやかな笑顔を崩さないまま店の奥を示した。
「それでは、お席までご案内いたします」
無視!?
えっ、今の完全に無視しましたよね!?
この店員さん、目が節穴なうえに人の話まで聞かないんですけど!
あまりの横暴さにその場から動けずにいると、店員さんの笑顔がほんの少しだけ深くなった。
けれど、目はまったく笑っていない。
『早く歩け』
声には出していないはずなのに、はっきりとそう聞こえた。
「……はい」
先ほどまで燃え上がっていた私の戦意は、しゅるるる……と音を立ててしぼんでいった。
店員さんのあとについて歩き出そうとした、その時だった。
ブン太くんが、当然のように私の手を掴む。
あっという間に指と指が絡まり、再び恋人繋ぎの完成である。
「ちょっと。もう終わったでしょ?」
「席まで繋いどいたほうが怪しまれねぇだろい」
「確認は終わったって、店員さんも言ってたよね!?」
「念には念を、だ」
なんだ、その無駄に慎重な姿勢は。
ケーキへの執念がすごい。
この男、限定メニューを前にして一切の妥協を許さない。
