不死鳥の騎士団
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ナマエは枕へ顔を押しつけた。一睡もできなかったような気がした。
どうして自分のベッドまで我慢できなかったのだろう。どうして談話室などという、人の出入りする場所で泣いたのか。せめて階段を上がって、カーテンを閉めてから泣けばよかった。誰にも見られないところまで、あと少しだったのに。
そのうえ、泣いたことを後悔している自分にも腹が立った。
チチオヤが死んだ翌日に、自分が気にしているのは、父親の最期よりも、同級生にどんな顔を見られたかということなのか。
今日は一日、このままベッドにいようかと思った。
カーテンを閉めていれば、少なくとも誰にも顔を見られずに済む。
けれど昨日、自分はダンブルドアの話を聞かず、怒鳴って逃げ出した。あれもまた、思い返せばひどい有様だった。ダンブルドアにも、シリウスにも、挙げ句の果てにはドラコにも、どうしようもなく幼稚なところを晒した。
ナマエは乱暴に掛布を押しのけた。
談話室へ降りていくと、本棚のそばにいた三年生が、ぱっと口を閉じた。
別に、ナマエの話をしていたとは限らない。そうとは限らないのだが、その沈黙があまりに素早かったので、ナマエは足早に談話室を出た。
校長室の前までくると、今度はガーゴイル像を前に立ち尽くした。
合言葉を知らなかった。昨日は、呼ばれてここへ来たのだ。
ナマエが困っていると、石の怪物がごろりと動いた。螺旋階段が動き、ダンブルドアが静かに降りてきた。
ナマエが何か言うより先に、ダンブルドアはゆっくりと微笑んだ。
「ナマエ。昨日は、怒って当然の夜じゃった」
そう言って、杖を振った。
杖先から流れた淡い青色の光が、ナマエの目元を冷たい風のように撫でた。熱を持っていた瞼が少しずつ軽くなり、狭かった視界が開けていく。
ナマエはされるがままになりながら、先ほどより開けやすくなった目でダンブルドアを見上げた。
「それに、シリウスは君がくることを信じておった。さあ」
ダンブルドアは校長室の扉を開いた。
校長室に入ると、銀色の細い器具が、いつものようにかすかな煙を吐いていた。壁の肖像画たちが薄目を開けてこちらを窺っているのが分かった。灰を入れた盆の中では、雛の姿をしたフォークスが、時おり頼りなく身じろぎしている。
部屋の真ん中に、大きな黒犬が伏せていた。
黒犬は窓から注ぐ陽に照らされながら、新聞を下敷きにして長い鼻先を前脚の上にのせていた。眠っているようにも見えたが、片方の耳だけがぴくりと動いた。
それから黒犬の姿が揺らぎ、次の瞬間、ナマエの前にはシリウス・ブラックが膝をついていた。
「腰掛けてくれんかの」
ダンブルドアが言った。命令しているのではなく、頼んでいた。ナマエはゆっくりとダンブルドアの机の前の椅子に腰掛けた。話の続きを聞きたいと望んでいるのか、自分でもわからなかった。
「君の気持ちはよくわかる、ナマエ」
ナマエは目を細めてダンブルドアを見た。何がわかるものか、という苛立ちのあと、自分の何倍もの人生を過ごした老齢の魔法使いが、一体どんな経験と重ねてそう言っているのだろうかと、ぼんやり思った。
「後生、大事なことじゃ。愛する者を失ったとき。平生の憎しみ、欠点。それらを忘れてしまう。それどころか、争ったことさえ切実に回想されるようになる。死に直面して、はじめて。我々はその人というものへ、羽根ペンをインクに浸すのじゃ」
半月形の眼鏡の奥の青い目はナマエを見ていたが、その声はどこか、もっと遠い場所に向けられているようだった。
「チチオヤには、急がねばならぬ理由があった」
ダンブルドアは机の縁に軽く手を置いた。
「君の呪いを解く方法を探すことじゃ。チチオヤは、君の中に流れ込んだものを、どうにかして君自身から切り離せないかと考えておった。時には危険を犯しても……じゃが、残念ながら、芳しい答えは得られておらなんだ」
「だからって、どうしてそんなに急ぐんですか」
ナマエは言った。
「チチオヤがホグワーツへ来た時、彼はすでに強い呪いを受けておった」
ナマエは目を見開いた。日の光がダンブルドアのその銀色の眉に、顎鬚に、深く刻まれた顔の皺に降り注いだ。
「……呪い?」
「特任校医としてこの城へ来たことは事実じゃ。しかし、それだけではなかった。チチオヤは、セブルスの助けを得るためにも、ここへ来た。セブルスの見立てでは、彼に残された時間は一年余りだった」
ナマエは、すぐには何も言えなかった。
ホグワーツにいる間、チチオヤは普通に歩いていた。いつもと同じように背筋を伸ばし、普通に話していた。
のらりくらりとアンブリッジの追及をかわし、双子の悪戯に加担して、生徒たちに囲まれていた。
あのどこに、死に近づいている人間の姿があったのだろう。
「ルシウス・マルフォイが呪いをかけたんですか」
「いいや、違う。しかし、君は、その呪いのもとになったものを一度見ておる」
ダンブルドアは静かに言った。
「四年生の時、わしと共に、チチオヤの記憶を見たじゃろう」
ナマエの喉が、ひどくゆっくりと固くなった。
あの記憶。寂れたティールーム。蛇と話す母。若いチチオヤの、野心的で、どこか眩しい顔。巾着袋から転がり出た、大きな金の指輪。あの時、チチオヤはひどく険しい顔になり、ハハオヤに、指にはめたことはないか、誰かに触れさせたことはないかと問い詰めていた。
「……あの指輪ですか」
「さよう」
ダンブルドアは頷いた。
「あの指輪には、きわめて強い呪いが込められていた。身につけた者、あるいは扱いを誤った者を、ゆっくりと内側から損なう類いの呪いじゃ。チチオヤはその危険を、記憶の中ですでに見抜いていた。だからこそ、母君から預かったのじゃろう。だが、あの指輪がただ危険な呪物であったなら、チチオヤも、そしてわしも、そこまで長く関心を持ち続けはしなかった」
「ヴォルデモートに関係していると、先生は言いました」
ナマエは思い出すように言った。
「でも、あの時は、それ以上は推量にすぎないって」
「今も、君に語れることには限りがある」
ダンブルドアは言った。
「じゃが、一つだけ言える。あの指輪に嵌め込まれていた黒い石は、ただの宝石ではなかった。古い言い伝えの中で、死者の影を呼ぶものとされてきた石じゃ。蘇りの石、と呼ぶ者もおる」
蘇りの石。ナマエは、その名を知らないわけではなかった。
三人兄弟の物語だ。「死」から贈り物を受け取った兄弟のうち、二番目の兄弟が手に入れた石。死者を呼び戻すという、子供向けの昔話に出てくるはずのもの。
けれど、それは物語の中の道具だった。寝物語や、古い本の挿絵や、子供なら誰でも知っている教訓話の中にあるもので、チチオヤが命を削ってまで使うものではないはずだった。
「……あの、おとぎ話の?」
ナマエは怪訝な声で言った。
ダンブルドアは、静かに頷いた。
「さよう。多くの者は、ただの寓話だと思っておる」
「俺も、そう思ってます」
ナマエは言った。
「子供に、死を受け入れさせるための戒めの話だと」
言いながら、ナマエは腹の奥が冷えていくのを感じた。
死を受け入れる。それがこんなにもむごいことだとは、思ってもいなかった。
「……父は、あの指輪をずっと持っていたんですか」
「封じていた、と言うべきじゃろう。チチオヤは、あの指輪の危険を知っておった。若い頃の彼ならばなおさら、その価値も危険も理解していたはずじゃ。彼はそれを長く手元に置き、調べ、隠していた」
ダンブルドアの指が、机の上でわずかに動いた。
「そして、わしはあの記憶の中で指輪の存在を知り、自分へ渡してくれぬかとチチオヤに頼んだ。彼はわしへ手渡す前に、一度だけ、その石を使った」
ダンブルドアの声は、そこで少し低くなった。
「ハハオヤに会おうとしてな」
「……会えたんですか」
「チチオヤは、そのことについて多くを語らなかった。だが、呪いには十分だった。セブルスは呪いの進行を遅らせたが、取り除くことはできなかった。チチオヤ自身も、自分が何をしたのか、その代償が何であるのかを理解していた」
「でも、じゃあ、父上は」
ナマエは抑揚のない声で言った。
「どのみち死ぬはずだったと」
「違う」
それまで黙っていたシリウスが低く、強い声で言った。
「それとこれは違う。チチオヤが呪いを受けていたとしても、あいつが殺されていい理由にはならない」
ナマエはシリウスを見た。
シリウスは怒ったような顔で、ナマエから目を逸らさずに立っていた。ダンブルドアも頷いた。
「シリウスの言う通りじゃ。チチオヤは死期を抱えていた。だが、彼の命は、そのときまで彼のものじゃった」
ナマエは虚な頭でダンブルドアの声を聞いていた。
「チチオヤとルシウスは、単なる友人ではなかった。旧友という言葉でも足りぬ。若い頃、二人は互いに利用し、時には助け合い、互いの弱みと恩を知りすぎるほど知っていた。闇の陣営にさらわれた赤子の君を、一時的に保護していたのはルシウスじゃ。そして、ルシウスが魔法界で失いかけた立場を取り戻す時、チチオヤもまた力を貸した」
「……知ってます」
「君を守るためだと、彼は思っておった。あるいは、君に軽蔑されるのが恐ろしかったのかもしれぬ。チチオヤは、多くのことを正しい理由のためにしたが、その手段がいつも正しかったとは限らない」
ダンブルドアは続けた。
「現在のチチオヤは、ルシウスにとって危険な存在になっておった。チチオヤはヴォルデモート卿の復活を阻むため、いくつもの場所を動かし、いくつもの糸を引いた。その結果、ヴォルデモート復活後のルシウスの立場は危うくなっていた。加えて、ルシウスは息子のことも見ていた。ドラコが君を完全には切り捨てられぬことを知り、君の呪いが息子に及んでいるのではないかと疑っておった」
「呪ってません」
ナマエは即座に言った。膝の上で握った拳が冷たかった。
「分かっておる。チチオヤは君を疑ってはおらなんだ」
「そうですか?」
ナマエは唇が冷たくなり、感覚を失っていた。
「俺に呪われるかもしれないから怖がって遠ざけて、ハリーにも俺に近づくなって言った。俺のことはいつも後回しにしてた。自分の死期を悟ったから、捨て鉢になっただけなんじゃないのか。何もかも、俺の周りで勝手に決めて、勝手に隠して、勝手に死んだ」
最後の言葉を口にした瞬間、胸の奥が裂けるように痛んだ。
死んだ。
自分で言ってしまった。
シリウスが一歩動いたが、また止まった。それを見て、ナマエは自分が立ち上がっていることに気がついた。
「つまり、俺に何を言いたいんですか」
今しがたの自分の言葉を取り消すように、ナマエは口を動かし続けた。
「父上は、ルシウスにわざと殺されたとでも言いたいんですか?」
「違う」
シリウスはじっとしていられないように暖炉の前を歩きはじめた。
「チチオヤが殺されるところを見たのは、私だけだ。つまり──私はまだ逃亡犯で、証言ができない。ルシウスは他の死喰い人とともにアズカバンに投獄されたが、チチオヤの件は明るみにはならなかった」
シリウスは舌打ちし、乱暴に髪を掻いた。
「神秘部で、チチオヤは生徒をみんな避難させていた。リーマスがトンクスを庇って退却し、私とハリーは、ベラトリックスと戦っていた」
「ヴォルデモートとダンブルドアがやってきて、ベラトリックスは去った。入れ替わるようにルシウスがやってきた……ルシウスはひどい顔をしていた。予言は砕け、子供は逃げ、主人が来た。あいつは、自分が何を差し出せば許されるか考えていた」
シリウスは吐き捨てるように言った。
「ダンブルドアはハリーを守りながらヴォルデモートと戦っていた。あの部屋に残ったのはもはや私とチチオヤ、ルシウスだけになった。チチオヤは私に『ハリーのところへ行け、この男に二人がかりは可哀想だ』と笑って言い放った」
ナマエは一瞬、息を忘れた。
「ルシウスは、今にも杖を折りそうな顔をした。チチオヤはそれを見て、ますます煽り立てた。最初のうちは、私も止めなかった」
シリウスの口元が、ほんのわずかに歪んだ。しかし、その笑みはすぐに消えた。
「チチオヤは、ルシウスを自分に引きつけて、私をハリーのところへ行かせようとしていると気づいた」
「じゃあ、やっぱり父上は、ルシウスに殺されるつもりだったんだ」
声が震えた。ナマエはそれを隠すように、シリウスへ背を向けた。
「違う」
シリウスは即座に言った。
「チチオヤはいつも君の身を案じていた。以前がどうだったのか、私には知る由もないが──今のあいつにとって、自分の愛情が呪いから生まれたものかどうかなど、もうどうでもよかったんだ」
シリウスは目を閉じ、額に手を当てて深く息を吐いた。
疲れなのか、悲しみなのか、それとも別の何かなのか、ナマエには分からなかった。シリウスらしくない仕草を見ても、胸の中に固まったものは少しも解けなかった。
父のことを知りたいと思う一方で、いつも自分より周りの人間の方がチチオヤをよく知っている。そのことが、ナマエにはたまらなく腹立たしかった。
「……あいつは勇敢だった。だが、独りよがりで傲慢だった。誰も信用しない。危険な役目は何でも自分で引き受けて、それでも最後には、自分の方が相手より一枚上手だと思っていた。あるいは、ルシウスなら最後には踏みとどまると、まだ信じていたのかもしれない」
シリウスはそこで言葉を切った。
「チチオヤは、『ダンブルドアにくだれ。ハリー・ポッターが、必ずヴォルデモートを討つ』──ルシウスにそう言った」
それは命乞いではなかった。ルシウスを罵り、道連れにしようとする言葉ですらなかった。
ナマエはゆっくりと顔を上げた。
ハリー・ポッター。
赤ん坊の時にヴォルデモートを退けた、生き残った男の子。
賢者の石を守り、秘密の部屋へ降りて、ナマエをあの暗闇から連れ出した。三年生の時には、魔法省も教師たちも信じようとしなかったシリウスを救い出した。
そして今度は、ナマエを助けるために神秘部まで来た。
罠だった。それでも、ハリーがナマエを見捨てるという選択をしなかったことだけは、疑いようがなかった。
無鉄砲で、頑固で、ひどく運が悪い。行く先々で騒ぎに巻き込まれるくせに、誰かが暗闇の中に残されていると知れば、いつも自分から飛び込む。そして傷だらけになりながら、その誰かを連れて帰ってくる。
そのことを、おそらく誰よりもナマエが知っていた。
ハリーは一度も、ナマエを置き去りにしなかった。
チチオヤもまた、ハリーの中に同じものを見ていたのだ。
ハリーなら、最後まで行く。
ヴォルデモートを前にしても逃げず、誰かを守るために立ち続け、いつか必ず打ち倒す。それは期待ではなく、チチオヤにとって、確信だったのかもしれない。
自分が死ぬかもしれない瞬間にさえ、父はハリーの勝利を信じていた。
その確信は、ナマエには少し悔しく、同時に、ひどく眩しく思えた。
チチオヤは、ルシウスにもまだ、その未来を選ぶ余地が残っていると思っていたのだろうか。
そのとき、必要の部屋で青ざめていたドラコの顔が浮かんだ。
しばらく、誰も何も言わなかった。ナマエは力が抜けたように椅子に座ると、ダンブルドアが目を細めた。
「さて、わしはそろそろ行かねばならん」
ダンブルドアは机から立ち上がり、ローブの裾を整えた。
「ハグリッドが戻ったとの知らせがあってな。長旅から帰った友人を、いつまでも待たせるわけにもいくまい」
ナマエは顔を上げた。ダンブルドアは机の脇を回り、ナマエのそばで足を止めた。
「君は急いでここを出る必要はない。シリウスと話したければ、好きなだけ残ってゆくとよい」
ナマエは頷きかけたが、ダンブルドアが扉へ向かうのを見て、椅子から立ち上がった。
「先生」
ダンブルドアが振り返った。
「……昨日は、すみませんでした。扉に……あんなことをして」
「昨日の君をあの部屋へ留めたのは、わしじゃ。謝るべき者が一人だけだとは思っておらんよ。幸い、扉も君に腹を立ててはおらんようじゃ」
半月形の眼鏡の奥で、青い目が穏やかに光った。
ダンブルドアが出ていくと、校長室の扉は、昨日のことなど何一つ覚えていないように静かに閉じた。
どうして自分のベッドまで我慢できなかったのだろう。どうして談話室などという、人の出入りする場所で泣いたのか。せめて階段を上がって、カーテンを閉めてから泣けばよかった。誰にも見られないところまで、あと少しだったのに。
そのうえ、泣いたことを後悔している自分にも腹が立った。
チチオヤが死んだ翌日に、自分が気にしているのは、父親の最期よりも、同級生にどんな顔を見られたかということなのか。
今日は一日、このままベッドにいようかと思った。
カーテンを閉めていれば、少なくとも誰にも顔を見られずに済む。
けれど昨日、自分はダンブルドアの話を聞かず、怒鳴って逃げ出した。あれもまた、思い返せばひどい有様だった。ダンブルドアにも、シリウスにも、挙げ句の果てにはドラコにも、どうしようもなく幼稚なところを晒した。
ナマエは乱暴に掛布を押しのけた。
談話室へ降りていくと、本棚のそばにいた三年生が、ぱっと口を閉じた。
別に、ナマエの話をしていたとは限らない。そうとは限らないのだが、その沈黙があまりに素早かったので、ナマエは足早に談話室を出た。
校長室の前までくると、今度はガーゴイル像を前に立ち尽くした。
合言葉を知らなかった。昨日は、呼ばれてここへ来たのだ。
ナマエが困っていると、石の怪物がごろりと動いた。螺旋階段が動き、ダンブルドアが静かに降りてきた。
ナマエが何か言うより先に、ダンブルドアはゆっくりと微笑んだ。
「ナマエ。昨日は、怒って当然の夜じゃった」
そう言って、杖を振った。
杖先から流れた淡い青色の光が、ナマエの目元を冷たい風のように撫でた。熱を持っていた瞼が少しずつ軽くなり、狭かった視界が開けていく。
ナマエはされるがままになりながら、先ほどより開けやすくなった目でダンブルドアを見上げた。
「それに、シリウスは君がくることを信じておった。さあ」
ダンブルドアは校長室の扉を開いた。
校長室に入ると、銀色の細い器具が、いつものようにかすかな煙を吐いていた。壁の肖像画たちが薄目を開けてこちらを窺っているのが分かった。灰を入れた盆の中では、雛の姿をしたフォークスが、時おり頼りなく身じろぎしている。
部屋の真ん中に、大きな黒犬が伏せていた。
黒犬は窓から注ぐ陽に照らされながら、新聞を下敷きにして長い鼻先を前脚の上にのせていた。眠っているようにも見えたが、片方の耳だけがぴくりと動いた。
それから黒犬の姿が揺らぎ、次の瞬間、ナマエの前にはシリウス・ブラックが膝をついていた。
「腰掛けてくれんかの」
ダンブルドアが言った。命令しているのではなく、頼んでいた。ナマエはゆっくりとダンブルドアの机の前の椅子に腰掛けた。話の続きを聞きたいと望んでいるのか、自分でもわからなかった。
「君の気持ちはよくわかる、ナマエ」
ナマエは目を細めてダンブルドアを見た。何がわかるものか、という苛立ちのあと、自分の何倍もの人生を過ごした老齢の魔法使いが、一体どんな経験と重ねてそう言っているのだろうかと、ぼんやり思った。
「後生、大事なことじゃ。愛する者を失ったとき。平生の憎しみ、欠点。それらを忘れてしまう。それどころか、争ったことさえ切実に回想されるようになる。死に直面して、はじめて。我々はその人というものへ、羽根ペンをインクに浸すのじゃ」
半月形の眼鏡の奥の青い目はナマエを見ていたが、その声はどこか、もっと遠い場所に向けられているようだった。
「チチオヤには、急がねばならぬ理由があった」
ダンブルドアは机の縁に軽く手を置いた。
「君の呪いを解く方法を探すことじゃ。チチオヤは、君の中に流れ込んだものを、どうにかして君自身から切り離せないかと考えておった。時には危険を犯しても……じゃが、残念ながら、芳しい答えは得られておらなんだ」
「だからって、どうしてそんなに急ぐんですか」
ナマエは言った。
「チチオヤがホグワーツへ来た時、彼はすでに強い呪いを受けておった」
ナマエは目を見開いた。日の光がダンブルドアのその銀色の眉に、顎鬚に、深く刻まれた顔の皺に降り注いだ。
「……呪い?」
「特任校医としてこの城へ来たことは事実じゃ。しかし、それだけではなかった。チチオヤは、セブルスの助けを得るためにも、ここへ来た。セブルスの見立てでは、彼に残された時間は一年余りだった」
ナマエは、すぐには何も言えなかった。
ホグワーツにいる間、チチオヤは普通に歩いていた。いつもと同じように背筋を伸ばし、普通に話していた。
のらりくらりとアンブリッジの追及をかわし、双子の悪戯に加担して、生徒たちに囲まれていた。
あのどこに、死に近づいている人間の姿があったのだろう。
「ルシウス・マルフォイが呪いをかけたんですか」
「いいや、違う。しかし、君は、その呪いのもとになったものを一度見ておる」
ダンブルドアは静かに言った。
「四年生の時、わしと共に、チチオヤの記憶を見たじゃろう」
ナマエの喉が、ひどくゆっくりと固くなった。
あの記憶。寂れたティールーム。蛇と話す母。若いチチオヤの、野心的で、どこか眩しい顔。巾着袋から転がり出た、大きな金の指輪。あの時、チチオヤはひどく険しい顔になり、ハハオヤに、指にはめたことはないか、誰かに触れさせたことはないかと問い詰めていた。
「……あの指輪ですか」
「さよう」
ダンブルドアは頷いた。
「あの指輪には、きわめて強い呪いが込められていた。身につけた者、あるいは扱いを誤った者を、ゆっくりと内側から損なう類いの呪いじゃ。チチオヤはその危険を、記憶の中ですでに見抜いていた。だからこそ、母君から預かったのじゃろう。だが、あの指輪がただ危険な呪物であったなら、チチオヤも、そしてわしも、そこまで長く関心を持ち続けはしなかった」
「ヴォルデモートに関係していると、先生は言いました」
ナマエは思い出すように言った。
「でも、あの時は、それ以上は推量にすぎないって」
「今も、君に語れることには限りがある」
ダンブルドアは言った。
「じゃが、一つだけ言える。あの指輪に嵌め込まれていた黒い石は、ただの宝石ではなかった。古い言い伝えの中で、死者の影を呼ぶものとされてきた石じゃ。蘇りの石、と呼ぶ者もおる」
蘇りの石。ナマエは、その名を知らないわけではなかった。
三人兄弟の物語だ。「死」から贈り物を受け取った兄弟のうち、二番目の兄弟が手に入れた石。死者を呼び戻すという、子供向けの昔話に出てくるはずのもの。
けれど、それは物語の中の道具だった。寝物語や、古い本の挿絵や、子供なら誰でも知っている教訓話の中にあるもので、チチオヤが命を削ってまで使うものではないはずだった。
「……あの、おとぎ話の?」
ナマエは怪訝な声で言った。
ダンブルドアは、静かに頷いた。
「さよう。多くの者は、ただの寓話だと思っておる」
「俺も、そう思ってます」
ナマエは言った。
「子供に、死を受け入れさせるための戒めの話だと」
言いながら、ナマエは腹の奥が冷えていくのを感じた。
死を受け入れる。それがこんなにもむごいことだとは、思ってもいなかった。
「……父は、あの指輪をずっと持っていたんですか」
「封じていた、と言うべきじゃろう。チチオヤは、あの指輪の危険を知っておった。若い頃の彼ならばなおさら、その価値も危険も理解していたはずじゃ。彼はそれを長く手元に置き、調べ、隠していた」
ダンブルドアの指が、机の上でわずかに動いた。
「そして、わしはあの記憶の中で指輪の存在を知り、自分へ渡してくれぬかとチチオヤに頼んだ。彼はわしへ手渡す前に、一度だけ、その石を使った」
ダンブルドアの声は、そこで少し低くなった。
「ハハオヤに会おうとしてな」
「……会えたんですか」
「チチオヤは、そのことについて多くを語らなかった。だが、呪いには十分だった。セブルスは呪いの進行を遅らせたが、取り除くことはできなかった。チチオヤ自身も、自分が何をしたのか、その代償が何であるのかを理解していた」
「でも、じゃあ、父上は」
ナマエは抑揚のない声で言った。
「どのみち死ぬはずだったと」
「違う」
それまで黙っていたシリウスが低く、強い声で言った。
「それとこれは違う。チチオヤが呪いを受けていたとしても、あいつが殺されていい理由にはならない」
ナマエはシリウスを見た。
シリウスは怒ったような顔で、ナマエから目を逸らさずに立っていた。ダンブルドアも頷いた。
「シリウスの言う通りじゃ。チチオヤは死期を抱えていた。だが、彼の命は、そのときまで彼のものじゃった」
ナマエは虚な頭でダンブルドアの声を聞いていた。
「チチオヤとルシウスは、単なる友人ではなかった。旧友という言葉でも足りぬ。若い頃、二人は互いに利用し、時には助け合い、互いの弱みと恩を知りすぎるほど知っていた。闇の陣営にさらわれた赤子の君を、一時的に保護していたのはルシウスじゃ。そして、ルシウスが魔法界で失いかけた立場を取り戻す時、チチオヤもまた力を貸した」
「……知ってます」
「君を守るためだと、彼は思っておった。あるいは、君に軽蔑されるのが恐ろしかったのかもしれぬ。チチオヤは、多くのことを正しい理由のためにしたが、その手段がいつも正しかったとは限らない」
ダンブルドアは続けた。
「現在のチチオヤは、ルシウスにとって危険な存在になっておった。チチオヤはヴォルデモート卿の復活を阻むため、いくつもの場所を動かし、いくつもの糸を引いた。その結果、ヴォルデモート復活後のルシウスの立場は危うくなっていた。加えて、ルシウスは息子のことも見ていた。ドラコが君を完全には切り捨てられぬことを知り、君の呪いが息子に及んでいるのではないかと疑っておった」
「呪ってません」
ナマエは即座に言った。膝の上で握った拳が冷たかった。
「分かっておる。チチオヤは君を疑ってはおらなんだ」
「そうですか?」
ナマエは唇が冷たくなり、感覚を失っていた。
「俺に呪われるかもしれないから怖がって遠ざけて、ハリーにも俺に近づくなって言った。俺のことはいつも後回しにしてた。自分の死期を悟ったから、捨て鉢になっただけなんじゃないのか。何もかも、俺の周りで勝手に決めて、勝手に隠して、勝手に死んだ」
最後の言葉を口にした瞬間、胸の奥が裂けるように痛んだ。
死んだ。
自分で言ってしまった。
シリウスが一歩動いたが、また止まった。それを見て、ナマエは自分が立ち上がっていることに気がついた。
「つまり、俺に何を言いたいんですか」
今しがたの自分の言葉を取り消すように、ナマエは口を動かし続けた。
「父上は、ルシウスにわざと殺されたとでも言いたいんですか?」
「違う」
シリウスはじっとしていられないように暖炉の前を歩きはじめた。
「チチオヤが殺されるところを見たのは、私だけだ。つまり──私はまだ逃亡犯で、証言ができない。ルシウスは他の死喰い人とともにアズカバンに投獄されたが、チチオヤの件は明るみにはならなかった」
シリウスは舌打ちし、乱暴に髪を掻いた。
「神秘部で、チチオヤは生徒をみんな避難させていた。リーマスがトンクスを庇って退却し、私とハリーは、ベラトリックスと戦っていた」
「ヴォルデモートとダンブルドアがやってきて、ベラトリックスは去った。入れ替わるようにルシウスがやってきた……ルシウスはひどい顔をしていた。予言は砕け、子供は逃げ、主人が来た。あいつは、自分が何を差し出せば許されるか考えていた」
シリウスは吐き捨てるように言った。
「ダンブルドアはハリーを守りながらヴォルデモートと戦っていた。あの部屋に残ったのはもはや私とチチオヤ、ルシウスだけになった。チチオヤは私に『ハリーのところへ行け、この男に二人がかりは可哀想だ』と笑って言い放った」
ナマエは一瞬、息を忘れた。
「ルシウスは、今にも杖を折りそうな顔をした。チチオヤはそれを見て、ますます煽り立てた。最初のうちは、私も止めなかった」
シリウスの口元が、ほんのわずかに歪んだ。しかし、その笑みはすぐに消えた。
「チチオヤは、ルシウスを自分に引きつけて、私をハリーのところへ行かせようとしていると気づいた」
「じゃあ、やっぱり父上は、ルシウスに殺されるつもりだったんだ」
声が震えた。ナマエはそれを隠すように、シリウスへ背を向けた。
「違う」
シリウスは即座に言った。
「チチオヤはいつも君の身を案じていた。以前がどうだったのか、私には知る由もないが──今のあいつにとって、自分の愛情が呪いから生まれたものかどうかなど、もうどうでもよかったんだ」
シリウスは目を閉じ、額に手を当てて深く息を吐いた。
疲れなのか、悲しみなのか、それとも別の何かなのか、ナマエには分からなかった。シリウスらしくない仕草を見ても、胸の中に固まったものは少しも解けなかった。
父のことを知りたいと思う一方で、いつも自分より周りの人間の方がチチオヤをよく知っている。そのことが、ナマエにはたまらなく腹立たしかった。
「……あいつは勇敢だった。だが、独りよがりで傲慢だった。誰も信用しない。危険な役目は何でも自分で引き受けて、それでも最後には、自分の方が相手より一枚上手だと思っていた。あるいは、ルシウスなら最後には踏みとどまると、まだ信じていたのかもしれない」
シリウスはそこで言葉を切った。
「チチオヤは、『ダンブルドアにくだれ。ハリー・ポッターが、必ずヴォルデモートを討つ』──ルシウスにそう言った」
それは命乞いではなかった。ルシウスを罵り、道連れにしようとする言葉ですらなかった。
ナマエはゆっくりと顔を上げた。
ハリー・ポッター。
赤ん坊の時にヴォルデモートを退けた、生き残った男の子。
賢者の石を守り、秘密の部屋へ降りて、ナマエをあの暗闇から連れ出した。三年生の時には、魔法省も教師たちも信じようとしなかったシリウスを救い出した。
そして今度は、ナマエを助けるために神秘部まで来た。
罠だった。それでも、ハリーがナマエを見捨てるという選択をしなかったことだけは、疑いようがなかった。
無鉄砲で、頑固で、ひどく運が悪い。行く先々で騒ぎに巻き込まれるくせに、誰かが暗闇の中に残されていると知れば、いつも自分から飛び込む。そして傷だらけになりながら、その誰かを連れて帰ってくる。
そのことを、おそらく誰よりもナマエが知っていた。
ハリーは一度も、ナマエを置き去りにしなかった。
チチオヤもまた、ハリーの中に同じものを見ていたのだ。
ハリーなら、最後まで行く。
ヴォルデモートを前にしても逃げず、誰かを守るために立ち続け、いつか必ず打ち倒す。それは期待ではなく、チチオヤにとって、確信だったのかもしれない。
自分が死ぬかもしれない瞬間にさえ、父はハリーの勝利を信じていた。
その確信は、ナマエには少し悔しく、同時に、ひどく眩しく思えた。
チチオヤは、ルシウスにもまだ、その未来を選ぶ余地が残っていると思っていたのだろうか。
そのとき、必要の部屋で青ざめていたドラコの顔が浮かんだ。
しばらく、誰も何も言わなかった。ナマエは力が抜けたように椅子に座ると、ダンブルドアが目を細めた。
「さて、わしはそろそろ行かねばならん」
ダンブルドアは机から立ち上がり、ローブの裾を整えた。
「ハグリッドが戻ったとの知らせがあってな。長旅から帰った友人を、いつまでも待たせるわけにもいくまい」
ナマエは顔を上げた。ダンブルドアは机の脇を回り、ナマエのそばで足を止めた。
「君は急いでここを出る必要はない。シリウスと話したければ、好きなだけ残ってゆくとよい」
ナマエは頷きかけたが、ダンブルドアが扉へ向かうのを見て、椅子から立ち上がった。
「先生」
ダンブルドアが振り返った。
「……昨日は、すみませんでした。扉に……あんなことをして」
「昨日の君をあの部屋へ留めたのは、わしじゃ。謝るべき者が一人だけだとは思っておらんよ。幸い、扉も君に腹を立ててはおらんようじゃ」
半月形の眼鏡の奥で、青い目が穏やかに光った。
ダンブルドアが出ていくと、校長室の扉は、昨日のことなど何一つ覚えていないように静かに閉じた。
