不死鳥の騎士団
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次の瞬間、ナマエはホグワーツの医務室の床に膝をついた。
「マーリンの髭!」
マダム・ポンフリーの声が飛んだ。すぐに、次のポートキーが医務室の真ん中へ生徒を吐き出した。ジニーが半ば倒れ込むように現れ、ルーナがその肩を支えていた。
ルーナがナマエを見ると目を見開いて言った。
「予言は壊れちゃった!ハリーが落っことしちゃったんだ」
「あの時のルシウス・マルフォイの顔!」
ジニーが気丈に笑った。すぐにマダム・ポンフリーがすっ飛んできた。
「騎士団が来たわ、マッド-アイ、ルーピン、シリウス、トンクス、キングズリー……」
「あと、チチオヤ先生も。ポートキーをくれたよ」
ルーナは床に落ちた黴臭そうなまな板を指差した。続いてネビル、ロンが現れた。ネビルの顔は血で汚れ、ハーマイオニーの杖を握った手は震えていた。
「だ、ダンブルドアが来た──それで──例のあの人と、戦ってた!」
ネビルが言うと、医務室が一瞬凍りついた。
「それじゃ、ハリーは?」
ナマエが言った。
「へへへ……すごかった……ハリーは、ダンブルドアと一緒だ」
ロンがへらへらしながら答えた。
マダム・ポンフリーは青い顔できびきび患者をベッドに乗せていった。ネビルの顔を睨みながら、ポンフリーは杖を鼻に当てた。
「まあ、雑な治療をされたのね!」
それを聞いたジニーがナマエを見てにやりとし、ナマエは顔をしかめた。
そのとき、医務室の扉が開き、慌てた足音が入ってきた。
「ミスター・ミョウジ!」
フリットウィック先生だった。先生は真っ直ぐにナマエの元へ走ってやってきた。先生は小さな背丈で爪先立ちをして、座っているナマエを見上げて、顔をこわばらせていた。
「おお──無事じゃったか、無事じゃったか──レイブンクロー生がみんな君を探していた──」
「先生!お静かに願います!」
それからしばらく、疲れた生徒たちは誰も話さなかった。ナマエは椅子に座らされ、袖をまくられて、知らないうちに切れていた腕と膝に薬を塗られた。
「ナマエ」
ネビルが近くの寝台から声をかけた。鼻はすでに治されていたが、声はまだ詰まっていた。
「ハーマイオニー、大丈夫かな」
ナマエはハーマイオニーのベッドの脇に座り、手を握りしめた。
「大丈夫だ」
ナマエは自分に言い聞かせるようにきっぱりと言った。
「親父が、安静が必要だって──」
そのとき、ハーマイオニーは重たげにまぶたを開けた。苦しそうに息を吸い、咳き込むように小さく喉を鳴らし、上体を起こそうとした。
「ハーマイオニー!」
生きている。
そう分かった途端、ナマエは自分がどれほど息を詰めていたのかに気づいた。ナマエはハーマイオニーの肩を支え、そのまま強く抱きしめていた。
「よかった……よかった、ハーマイオニー」
声が掠れた。腕の中でハーマイオニーは一瞬、驚いたように体をこわばらせた。ナマエは慌てて力を緩め、ハーマイオニーの顔を覗き込んだ。
目が合うと、ハーマイオニーはほんの少し顔を歪めた。
「……ごめんなさい」
「え?」
ナマエは目を瞬かせた。
ハーマイオニーは目を赤くして、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「気にするな。どこか痛むのか?苦しい?」
ハーマイオニーはふるふる首を振った。
「違うの、わたし──間違ってた。わたし、勝手に──もっと、あなたのことを──」
ナマエは、すぐには返事ができなかった。
ハーマイオニーは今、ようやく目を覚ましたばかりだった。ついさっきまで、息をしているのかどうかさえ気がかりだった。そのハーマイオニーが、目を開けるなりそんなことを言うので、ナマエには何の話なのかわからなかった。
「今は休んで。ハリーもダンブルドアと一緒だ。俺たちは大丈夫だから」
混乱しているのかもしれない。ナマエはハーマイオニーの背中をさすった。
ハーマイオニーは、何か言おうと唇を動かしたが、再び眠りに落ちた。命の心配が薄れたぶん、今度は、その涙が気にかかった。
また、医務室の中が少しずつ静かになった。ハリーも、チチオヤも、まだ来ない。
ナマエは椅子から立ち上がった。
「どこへ行くのです!」
マダム・ポンフリーがすぐに振り返った。
「俺はもうどこも悪くない──」
その時、医務室の扉が開いた。
ナマエは振り返った。ハリーが立っていた。
「ハリー!」
ハリーのローブはあちこち擦り切れて、眼鏡にひびが入っていた。
「これでみんな無事だ、ハリー!」
ナマエがハリーに駆け寄ると、ハリーはナマエから顔を背けた。ナマエはその顔を追うように覗き込んだ。
「……どうした、ハリー?」
「ダンブルドアが、君を呼んでる」
ハリーは振り絞るように言った。
「校長室で待ってる」
「さあ、こっちへいらっしゃい!」
ナマエが何かを言う前に、ハリーはマダム・ポンフリーに肩をつかまれ、白いカーテンの向こうへ連れて行かれた。ハリーは最後まで、ナマエと目を合わせなかった。
ナマエはハリーの様子を怪訝に思いながら、そっと医務室を出た。
ハリーは責任を感じているのかもしれない。ヴォルデモートの罠に生徒を何人も連れて行ったこと。予言を失ったこと。そう考えれば、あの様子にも説明がついた。
ダンブルドアが自分を呼んだ理由にも、心当たりはあった。ナマエは試験のあと城内で姿を消し、神秘部には杖も持たずに現れた。どこにいたのか、どうやってハリーたちの行き先を知ったのか、聞かれないはずがない。
そうなれば、ドラコのことを話さなければならなかった。
隠す理由はない。むしろ、きちんと報告しなければならないことだった。それなのに、ドラコの名前をダンブルドアの前に差し出すことを考えると、ひどく気が重かった。何を庇いたいのか、自分でも分からなかった。
校長室へ続く廊下に着くと、石のガーゴイル像はすでに脇へ退いていた。口を開いた壁の奥で、螺旋階段が静かに回っている。
階段に足を乗せると、石段はナマエを上へ運び始めた。
校長室の扉が近づいてくる。中から話し声は聞こえなかった。
扉を開けると、すぐ近くにシリウスが立っていた。
「やあ」
シリウスは片手を上げた。いつものように笑おうとしたのだろうが、うまくいっていなかった。頬に切り傷があり、黒い髪にはキラキラと細かくなったガラス片がついていた。
「父上は?ほかの騎士団は?まだ魔法省にいるのか?」
ナマエが尋ねたとき、部屋の奥で、ダンブルドアが机の向こうから立ち上がった。
最初はナマエのほうを見ず、ダンブルドアは扉の脇にある止まり木のところに歩いて行き、ローブの内ポケットから小さな、醜い、羽毛のないフォークスを取り出し、成鳥のフォークスがいつも止まっている金色の止まり木の下の、柔らかな灰の入った盆にそっと載せた。
「さて、ナマエ」
ダンブルドアが静かに言った。
「そのことを話す前に、どうしても確かめねばならぬ。君は、如何様にしてこの城から消え、神秘部に現れたのか」
「先生、でも──」
「君が今夜どこにおったのかは、チチオヤのこととも無関係ではない。君自身の口から聞く必要がある」
ナマエはダンブルドアを見た。半月形の眼鏡の奥の青い目は、いつもと同じように静かだった。
シリウスが一歩踏み出しかけるのを、ダンブルドアは手で制した。
「必要の部屋にいました」
ナマエはいっそ早く済ませようと急いで言った。
「ドラコ・マルフォイに話があると連れて行かれて、杖を取られました。それで、ドラコがハリーの行き先を漏らしたから、俺は後から魔法省へ行きました。暖炉をいくつか経由して。神秘部で父に会いました。父上は、ハーマイオニーを診た。一時間後に話そうって言ってたんだ。けど、もうとっくに過ぎてる──それで、父上はどこですか」
最後のほうは、ほとんど息継ぎをしていなかった。
ダンブルドアは目を細め、シリウスが低く息を吸う音がした。
「聖マンゴですか?誰か怪我をしたんですか」
「ニンファドーラ・トンクスは少しばかり聖マンゴで過ごさねばならぬかも知れんが、完全に回復する見込みじゃ」
ナマエはだんだん嫌な予感で全身に汗が滲むのを感じていた。
空が白みはじめ、明るさを増してきた。部屋中の肖像画が、ダンブルドアの一言一言に聞き入っている気がした。
「スネイプ先生が、事情を騎士団に伝えれくれたのじゃ。そして、すぐにチチオヤは君の安否を確認した。脱出用のポートキーを持ち、騎士団とともに学生たちの救出に向かってくれた」
「知ってます、俺はそのポートキーで帰ってきました」
不安と苛立ちで心臓の音が早まった。ナマエは、今度はシリウスを見た。
「シリウス、父上はどこ」
声がわなわな震えた。シリウスは厳しい声を出した。
「ダンブルドア」
「分かっておる、シリウス」
その声は静かだった。
「じゃが、ナマエには聞く権利がある。チチオヤが何をしようとし、なぜ戻らなかったのかを」
「戻らなかった、って何ですか」
ナマエの声が少し裏返った。
「父上は、一時間後に会おうって言った──俺はまた すっぽかされたんですか?」
「チチオヤは、嘘はついておらなんだ」
ダンブルドアは言った。
「彼は、君と話すつもりでおった。少なくとも、あの時までは」
シリウスが低く唸った。
「ダンブルドア、もう言え」
ナマエはシリウスを見た。シリウスの顔は硬かった。怒りをこらえているようにも見えた。どちらにしても、ナマエはそんな顔を見たくなかった。
「言うって何を」
誰もすぐには答えなかった。
肖像画たちは、ひとつ残らず黙っていた。ナマエは奥歯を噛み締めて、ほとんど睨むようにダンブルドアを見つめた。聞きたいのか聞きたくないのか、わからなかった。
ダンブルドアは、両手を机の上に置いた。
「チチオヤ・ミョウジは死んだ」
ナマエは瞬きをした。
死んだ。
それは、あまりにも短い言葉だった。チチオヤに使うには短すぎた。あの人は、もっと面倒で、もっと回りくどくて、複雑で、もっとたくさんの説明を必要とする人だった。そんな人間が、死んだ、の一言で片づくはずがなかった。
「……なんで」
シリウスが答えた。
「ルシウス・マルフォイだ。私が、その現場にいた」
ナマエの頭の中に、白金色の髪が浮かんだ。神秘部の薄闇に浮かび上がった、嘲るような顔。けれど、そのすぐ後に浮かんだのは、ドラコの顔だった。
言いようのない不安が胸を圧迫し始めた。
チチオヤが、死んだ?
けれど、チチオヤの安否がわからないことなんて、今に始まったことじゃない……。死んだように見せているだけかもしれない。いつものように、チチオヤらしく神経質に、狡猾に、抜け目なく……。
「今夜のことは、ただ神秘部で偶然起きた一つの殺害ではない。君には酷な話になるが、チチオヤとルシウス・マルフォイの間には、長い、複雑な因縁があった」
「そんな話は今しなくていい」
シリウスが言った。
「今この子に必要なのは、父親が殺された理由じゃない」
「理由を知らぬままでは、ナマエはもっと残酷な想像の中に置き去りにされる」
父親が殺された。それが自分に関係のある言葉なのかよくわからなかった。
ダンブルドアはシリウスに言い、それからナマエへ視線を戻した。
ダンブルドアはしばらく黙っていた。
静まり返った校長室で、フォークスの雛が、灰の中で小さく鳴いた。
ナマエはそれを見て、急に腹が立った。死んで、また生まれる鳥。そんなものを今、見たくなかった。
「ナマエ」
ダンブルドアが言った。
「君に、話しておかねばならぬことがある」
「今の話以上に?」
ナマエの声が、勝手に尖った。
「それに関わることじゃ」
ダンブルドアはゆっくりと机の前まで戻った。ナマエはその背中を見て、白熱した怒りと動揺が体の内側をメラメラと舐めるのを感じた。落ち着きはらって虚しい言葉を吐くダンブルドアから逃げ出したい衝動に駆られた。この場を離れなければ、自分が何をしでかすかわからなかった。
「ナマエ、待て」
シリウスが言った。
ナマエは踵を返して校長室の扉を開こうとしたが、ドアノブがガチャガチャとうるさく響くだけで、扉はびくともしなかった。ナマエは扉を蹴り飛ばしたい気持ちをなんとか飲み込んで振り返った。
「出してください!──話なら、俺は全部父上から聞く!こんな形でなにも知らされたくない!」
これ以上の言葉を詰め込まれたら、頭の中に残っているチチオヤまで、ダンブルドアの説明に塗り替えられてしまうような気がした。
ナマエは扉に向き直り、荒い息を吐いた。
それから、耳に手をやった。
黒石のピアスを引き抜くと、周囲の音が急に遠のいた。指先に触れている真鍮の取っ手が、微かに震えているような気がした。
「ナマエ、よせ」
シリウスの声がした。
ナマエは聞かなかった。両手で扉を押さえ、磨かれた木肌に口づけた。
ほんの一瞬、扉の向こうから息を呑むような震えが伝わった。
次いで、鍵の奥で金属が鳴った。ドアノブがナマエの掌の中で回り、扉がゆっくりと開いた。
校長室の肖像画が一斉にざわめいた。
「怒りに任せて、その力を使ってはならぬ」
背後からダンブルドアの声がした。
ナマエは顔が熱くなった。
「あなたが閉じ込めるからだ」
開いた扉の向こうへ足を踏み出すと、シリウスが追いかけてくる気配がした。
「ナマエ、待て」
「来るなよ!」
ナマエは振り返って言った。
シリウスは扉の前で立ち止まった。追いすがろうと上げた片手が、所在なさそうに宙に残った。
「来ないでくれ……」
背後で、ダンブルドアが静かに言った。
「明日、続きを話そう。君が聞くことを望むならば」
ナマエは答えず、扉を乱暴に閉めた。全身が震えていた。そのまま背中を押しつけるようにもたれ、ピアスを耳たぶの穴へねじ込んだ。
そのとき、螺旋階段の下から、誰かの足音が聞こえた。
あり得ない期待が、喉の奥で跳ねた。
父上だ。
そんなはずがないと、同時に分かっていた。
階段を駆け降りた先に現れたのは、ドラコ・マルフォイだった。
その手に、ナマエの杖を持っていた。
高い窓から射し込む光は、廊下の石床を白く照らしていた。夜のあいだに起きたことなど何も知らないような、明るすぎる光だった。遠くで生徒の声がした。誰かが走る足音もした。
ナマエは、一瞬、何を見ているのか分からなかった。ドラコは夜のあいだに血を抜かれたような白い顔をして、そこに立っていた。ローブの胸元を片手で握りしめ、もう片方の手に一本の杖を持っている。
ナマエの杖だった。
「……これを」
ドラコは掠れた声で言った。
「返しに来た」
ナマエは差し出された杖を見た。神秘部で何度も欲しいと思った、ずっと自分の手になかった杖だった。
「……どうして、今なんだ」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
ドラコの指が、杖を握ったまま強張った。
「持っていられなかった。あの部屋を出てから、ずっと──」
「俺が返せと言った時には、持っていられたのに?」
ナマエが冷たく言うと、ドラコは口を閉じた。
「あんたの都合だ。持っていられなかったんじゃなくて、もういらなくなっただけだろう」
ドラコの顔が歪んだ。怒ったのではなかった。言い返す言葉を探したが、どれも自分を救わないことに気づいたような顔だった。
「僕は、あそこまで行くとは思わなかった」
「そうだろうな」
ナマエは言った。
「思わなかったんだろうな。あんたは、思わないまま人の杖を取った。思わないまま人を閉じ込めた。思わないまま、ハリーを神秘部へ行かせた」
ハリーの名前を聞いたドラコの顔に、押し殺した憎しみが滲んでいた。けれど、その憎しみはナマエの前では行き場を失ったようだった。ドラコは唇を噛み、目を伏せた。
「──じゃあ、僕はどうすればよかったと言うんだ?」
「……はあ?」
「君を逃がして、ポッターに全部話せばよかったと言うのか?そうしたら、僕は──僕の家族はどうなる?父上と母上は誰が守るんだ!」
ナマエは黙ってドラコを見た。
ドラコは肩で息をしていた。怒鳴ったことを後悔しているようにも見えたが、もう言葉を止めることはできなかった。
「僕は、君を死なせるつもりは最初から無かった。必要の部屋にいれば安全だと思ったんだ。誰にも見つからない。神秘部にも行かない。父上にも──あの方にも、君を渡さずに済むと」
「だから杖を取ったって?」
「君が出ていこうとするからだ!」
「みんなして、そんなに俺を閉じ込めたいのか……」
ナマエはふーっと息を吐いて俯いた。
ナマエは下唇を噛んだ。まだ、硬い木に押しつけた時の乾いた感触が残っているような気がした。
喉の奥から、息とも笑いともつかない音が漏れた。
「じゃあ、あのときお前にキスして、逃がしてくれって頼めばよかったな」
ドラコの顔から、残っていた血の気まで消えた。
「そうすれば、あんたは杖を返して、扉も開けた。俺が頼めば、家族のことだって忘れて、喜んでそうしたんだろ」
ナマエはドラコの顔を見て、胸の奥が鈍く痛んだ。傷つけたかったはずなのに、実際に傷ついた顔を見ると、少しも気が晴れなかった。
「君は──」
ドラコの唇が震えた。
「そんなことをするはずがない」
ナマエは顔を上げた。
一瞬、何を言われたのか分からず、ドラコを見つめた。ドラコの顔は怯えきっていた。それでも、ナマエから目を逸らさなかった。
ナマエの指から、少しだけ力が抜けた。そこで初めて、自分がポケットに手を入れていたことに気がついた。指先は、奥に沈んだロケットの縁を掴んでいた。
すぐに、口元が歪んだ。笑おうとしたのかもしれないが、頬が引きつっただけだった。
「君なら、父親を見捨てられたのか?」
ドラコの声は、先ほどよりも小さかった。
ナマエの顔から、表情が消えた。
ドラコは、言ってから何かに気づいたようだった。目を見開き、口を閉じた。
「俺の父親は、」
その先が出てこなかった。
喉の奥で言葉がつかえた。ナマエは唇を開いたまま、浅く息を吸った。ダンブルドアが言った通りに、短い言葉を続ければよかった。けれど、それは声にならず、別の言葉を選んだ。
「……あんたの父親が、何をしたのか分かってるのか」
ドラコの手が震えた。杖の先が、わずかに下がった。
ドラコは何か言おうとした。だが、ナマエはそれを待たなかった。
ナマエは差し出されたままの杖へ目を落とした。
「それは、神秘部で俺の手になかった。ハーマイオニーを助けるための杖で、ロンを治すための杖で、ハリーを守るための杖で、父上の後ろに立つための杖だった。今さらここで返されて、ただの俺の杖に戻ると思ったのか」
ドラコの目が揺れた。
「どんなつもりでここにきたんだ」
ナマエはまた一歩近づいた。言葉がするすると口をついて出るのを止められなかった。
「謝りに来たのか?返せば許されると思ったのか?それを俺に渡して、自分の手からなくなれば、自分のやったことが少しは軽くなるとでも思ったのか?」
「思ってない!」
すぐに、ドラコ自身がその声に怯えたように黙った。二人の息だけが、妙に近く聞こえた。
「思ってないなら、何しにきたんだよ」
ナマエは低く言ったつもりだったが、声が上擦った。
「僕が持っていていいものじゃないと思った」
「最初から、あんたのものじゃない」
ナマエは吐き捨てた。
「ハリーを誘き出すために俺を利用したのは、他でもないお前だ、ドラコ」
ドラコは唇を噛んだ。泣きそうに見えた。ナマエはその顔を見て、胸の奥が冷たくなった。
泣くな、と思った。
その顔まで、こちらから持っていくなんて、許せなかった。
「ナマエ」
ドラコがかすれた声で呼んだ。
試験のあと、ドラコにその名を呼ばれた時のことが蘇った。ほんの数時間前のことなのに、ひどく遠い昔のように感じられた。
「俺の名前を呼ぶな」
ドラコの顔が、殴られたように変わった。
ナマエはそこでようやく手を伸ばし、杖を奪うように受け取った。ドラコの指から杖が離れる時、ほんの少し抵抗があった。離したくなかったのか、離すのが怖かったのか、ナマエには分からなかった。
柄が自分の手の中へ収まった。神秘部であれほど欲しかったものが戻ってきたはずなのに、ただ手のひらに慣れた木の感触があるだけだった。
「頼むから、やめてくれ」
ナマエは言った。
「もうたくさんだ」
ドラコは何か言おうとしたが、声にはならなかった。
ナマエは杖を握りしめた。取り戻したはずの杖が、掌の中でひどく冷たかった。
「俺は、あんたを信じたかった」
その言葉が出た瞬間、喉の奥が焼けるように痛んだ。
「必要の部屋に連れて行かれた時も、あんたが本当に聞きたいなら話そうと思った。呪いのことも、昔のことも……それで──あ、あんたが──俺の、友達だって思ってくれるなら──」
視界が急に歪んだ。
瞬きをすると、涙が頬を伝った。
自分が泣いているのだと気づいた瞬間、もう止まらなくなった。ドラコの前で泣きたくなかった。絶対に泣きたくなかった。
けれど、頬を伝う涙は熱く、顎から次々と落ちた。止めようとすればするほど、喉の奥が詰まった。
ドラコは息を呑んだ。
「ナマエ──」
「俺が、あんたに、ついて行かなければよかった!」
声はもう、うまく形にならなかった。
「ひっ、必要の部屋になんか、行かなきゃ──よかった!あんたの話なんか、聞くべきじゃ、なかった──そうしたら、ハ、ハリーは俺を探しに神秘部になんか行かなかった。ハリーが行かなきゃ──ち、父上も来なかった。父上が来なければ──」
「違う」
ドラコが震える声で言った。
「それは違う、君のせいじゃない」
「じゃあ、誰のせいだよ!」
ナマエは顔を上げた。涙でドラコの輪郭が滲んでいた。
「あ──あんたのせいって言えばいいのか。それとも、あんたのパパか?ヴォルデモートのせい?父上が勝手に神秘部に残ったせいか?どれなら正しいんだ。どれを憎めば、父上は俺のところに戻ってくるんだ?」
泣くなら、チチオヤの前で泣きたかった。父に怒りたかった。どうして何も言わなかったのか、どうしてあとで話すなんて言ったのか、どうして自分だけ先に行ってしまったのか、全部、本人にぶつけたかった。けれど、チチオヤはここにはいなかった。
「俺は──あんたが嫌なやつでも、意地悪でも、マルフォイでも──俺はまだ、あんたと友達でいたかった!」
ナマエは袖で乱暴に目元を拭ったが、すぐにまた涙が溢れた。ドラコがどんな顔をして、この醜態を見つめているのかわからなかった。
「だけど──今は無理だ」
ドラコは何も答えなかった。
ナマエは急に、もう全部どうでもよくなった。ドラコが何を言うのかも、自分が何を言えばいいのかも、誰が悪くて、誰が悪くなくて、どこまでが罠で、どこからが自分の選択だったのかも、もう考えたくなかった。
ナマエは杖をローブの内側にしまい、ドラコの横を通り過ぎた。肩がぶつかりそうになったが、避ける気にもならなかった。
一歩進んだところで、喉の奥から変な音が漏れた。
止めようと息を呑むと、余計にひどくなった。胸が震え、涙が次々に落ちた。
ナマエは振り返らなかった。
気づいた時には、ナマエはレイブンクロー塔へ続く長い螺旋階段を上っていた。高い窓から射し込む光が、階段を照らしていた。
窓の外を眺めると、湖が水面を煌めかせているのが目に入った。あそこで、チチオヤと話したことがあった。初めて父の口から魅了の呪いの話を聞いた。短い言葉で、過ちを告白したのだった……。あの時も、チチオヤはダンブルドアの頼みで来たと言っていたっけ……。
「……父上」
小さく呼んだつもりだった。情けない声だった。子供みたいにしゃくり上げて、息をするたびに胸が震えた。
レイブンクローの入口の前に着いた時、ナマエはもうまともに息ができていなかった。青銅の鷲のノッカーが、静かに嘴を開いた。
「失われてなお、手に残るものは何か?」
ナマエは答えられなかった。
問いの意味は分かった。いつもなら、きっと答えを考えただろう。いくらでも言葉は出てきたはずだった。
今は、何も出てこなかった。
ノッカーはしばらく黙っていた。ナマエは扉に手をつき、額を押し当てた。冷たい木の感触がした。その冷たさに縋るようにして、どうにか落ち着こうと試みた。
すると、扉の内側で足音がした。
「誰かいるのかい?」
アンソニーの声だった。ナマエが答える前に扉が開いた。
「一年生?今日の謎かけはそんなに難しかったかな──」
顔を出したアンソニーは、ナマエを見てぎょっとした。すぐに表情を改め、何も聞かずに扉を大きく開けた。
中は、思ったより明るかった。窓からは午後の光が斜めに差し込んでいた。談話室には、アンソニーだけではなかった。テリーが肘掛椅子から立ち上がりかけていて、マイケルは暖炉のそばで腕を組んでいた。ほかにも何人かのレイブンクロー生が、入口のほうを見た。
待っていたのだろうか。
ナマエはぼんやりそう思った。フリットウィック先生から、ナマエが戻ったと聞かされたのだろう。
テリーは、最初、何か明るいことを言おうとしていたようだった。
「ナマエ!おかえ──」
言葉が途中で消えた。
テリーの目が、ナマエの顔に止まった。泣き腫らした目、止まらない涙、まともに息を吸えない喉。テリーの表情から、安堵がゆっくり引いていった。
談話室が静まり返った。
マイケルは何かを言いかけて、やめた。誰も、どうしたの、と聞かなかった。聞けなかったのだと思った。
ナマエの足がもつれた。アンソニーが慌てて腕を伸ばしたが、ナマエはその手に掴まるより早く、談話室の床に膝をついた。杖を握りしめたまま、もう片方の手で顔を覆った。
もう、どうでもよかった。
誰が見ているのかも、あとで何を聞かれるのかも、レイブンクローの談話室のど真ん中で泣くことがどれほどみっともないのかも、どうでもよかった。
「ち、父上が」
そこまで言って、声が壊れた。アンソニーが息を呑んだ。
ナマエは戻ってきた杖を握りしめたまま、レイブンクローの談話室で声を上げて泣いた。
「マーリンの髭!」
マダム・ポンフリーの声が飛んだ。すぐに、次のポートキーが医務室の真ん中へ生徒を吐き出した。ジニーが半ば倒れ込むように現れ、ルーナがその肩を支えていた。
ルーナがナマエを見ると目を見開いて言った。
「予言は壊れちゃった!ハリーが落っことしちゃったんだ」
「あの時のルシウス・マルフォイの顔!」
ジニーが気丈に笑った。すぐにマダム・ポンフリーがすっ飛んできた。
「騎士団が来たわ、マッド-アイ、ルーピン、シリウス、トンクス、キングズリー……」
「あと、チチオヤ先生も。ポートキーをくれたよ」
ルーナは床に落ちた黴臭そうなまな板を指差した。続いてネビル、ロンが現れた。ネビルの顔は血で汚れ、ハーマイオニーの杖を握った手は震えていた。
「だ、ダンブルドアが来た──それで──例のあの人と、戦ってた!」
ネビルが言うと、医務室が一瞬凍りついた。
「それじゃ、ハリーは?」
ナマエが言った。
「へへへ……すごかった……ハリーは、ダンブルドアと一緒だ」
ロンがへらへらしながら答えた。
マダム・ポンフリーは青い顔できびきび患者をベッドに乗せていった。ネビルの顔を睨みながら、ポンフリーは杖を鼻に当てた。
「まあ、雑な治療をされたのね!」
それを聞いたジニーがナマエを見てにやりとし、ナマエは顔をしかめた。
そのとき、医務室の扉が開き、慌てた足音が入ってきた。
「ミスター・ミョウジ!」
フリットウィック先生だった。先生は真っ直ぐにナマエの元へ走ってやってきた。先生は小さな背丈で爪先立ちをして、座っているナマエを見上げて、顔をこわばらせていた。
「おお──無事じゃったか、無事じゃったか──レイブンクロー生がみんな君を探していた──」
「先生!お静かに願います!」
それからしばらく、疲れた生徒たちは誰も話さなかった。ナマエは椅子に座らされ、袖をまくられて、知らないうちに切れていた腕と膝に薬を塗られた。
「ナマエ」
ネビルが近くの寝台から声をかけた。鼻はすでに治されていたが、声はまだ詰まっていた。
「ハーマイオニー、大丈夫かな」
ナマエはハーマイオニーのベッドの脇に座り、手を握りしめた。
「大丈夫だ」
ナマエは自分に言い聞かせるようにきっぱりと言った。
「親父が、安静が必要だって──」
そのとき、ハーマイオニーは重たげにまぶたを開けた。苦しそうに息を吸い、咳き込むように小さく喉を鳴らし、上体を起こそうとした。
「ハーマイオニー!」
生きている。
そう分かった途端、ナマエは自分がどれほど息を詰めていたのかに気づいた。ナマエはハーマイオニーの肩を支え、そのまま強く抱きしめていた。
「よかった……よかった、ハーマイオニー」
声が掠れた。腕の中でハーマイオニーは一瞬、驚いたように体をこわばらせた。ナマエは慌てて力を緩め、ハーマイオニーの顔を覗き込んだ。
目が合うと、ハーマイオニーはほんの少し顔を歪めた。
「……ごめんなさい」
「え?」
ナマエは目を瞬かせた。
ハーマイオニーは目を赤くして、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「気にするな。どこか痛むのか?苦しい?」
ハーマイオニーはふるふる首を振った。
「違うの、わたし──間違ってた。わたし、勝手に──もっと、あなたのことを──」
ナマエは、すぐには返事ができなかった。
ハーマイオニーは今、ようやく目を覚ましたばかりだった。ついさっきまで、息をしているのかどうかさえ気がかりだった。そのハーマイオニーが、目を開けるなりそんなことを言うので、ナマエには何の話なのかわからなかった。
「今は休んで。ハリーもダンブルドアと一緒だ。俺たちは大丈夫だから」
混乱しているのかもしれない。ナマエはハーマイオニーの背中をさすった。
ハーマイオニーは、何か言おうと唇を動かしたが、再び眠りに落ちた。命の心配が薄れたぶん、今度は、その涙が気にかかった。
また、医務室の中が少しずつ静かになった。ハリーも、チチオヤも、まだ来ない。
ナマエは椅子から立ち上がった。
「どこへ行くのです!」
マダム・ポンフリーがすぐに振り返った。
「俺はもうどこも悪くない──」
その時、医務室の扉が開いた。
ナマエは振り返った。ハリーが立っていた。
「ハリー!」
ハリーのローブはあちこち擦り切れて、眼鏡にひびが入っていた。
「これでみんな無事だ、ハリー!」
ナマエがハリーに駆け寄ると、ハリーはナマエから顔を背けた。ナマエはその顔を追うように覗き込んだ。
「……どうした、ハリー?」
「ダンブルドアが、君を呼んでる」
ハリーは振り絞るように言った。
「校長室で待ってる」
「さあ、こっちへいらっしゃい!」
ナマエが何かを言う前に、ハリーはマダム・ポンフリーに肩をつかまれ、白いカーテンの向こうへ連れて行かれた。ハリーは最後まで、ナマエと目を合わせなかった。
ナマエはハリーの様子を怪訝に思いながら、そっと医務室を出た。
ハリーは責任を感じているのかもしれない。ヴォルデモートの罠に生徒を何人も連れて行ったこと。予言を失ったこと。そう考えれば、あの様子にも説明がついた。
ダンブルドアが自分を呼んだ理由にも、心当たりはあった。ナマエは試験のあと城内で姿を消し、神秘部には杖も持たずに現れた。どこにいたのか、どうやってハリーたちの行き先を知ったのか、聞かれないはずがない。
そうなれば、ドラコのことを話さなければならなかった。
隠す理由はない。むしろ、きちんと報告しなければならないことだった。それなのに、ドラコの名前をダンブルドアの前に差し出すことを考えると、ひどく気が重かった。何を庇いたいのか、自分でも分からなかった。
校長室へ続く廊下に着くと、石のガーゴイル像はすでに脇へ退いていた。口を開いた壁の奥で、螺旋階段が静かに回っている。
階段に足を乗せると、石段はナマエを上へ運び始めた。
校長室の扉が近づいてくる。中から話し声は聞こえなかった。
扉を開けると、すぐ近くにシリウスが立っていた。
「やあ」
シリウスは片手を上げた。いつものように笑おうとしたのだろうが、うまくいっていなかった。頬に切り傷があり、黒い髪にはキラキラと細かくなったガラス片がついていた。
「父上は?ほかの騎士団は?まだ魔法省にいるのか?」
ナマエが尋ねたとき、部屋の奥で、ダンブルドアが机の向こうから立ち上がった。
最初はナマエのほうを見ず、ダンブルドアは扉の脇にある止まり木のところに歩いて行き、ローブの内ポケットから小さな、醜い、羽毛のないフォークスを取り出し、成鳥のフォークスがいつも止まっている金色の止まり木の下の、柔らかな灰の入った盆にそっと載せた。
「さて、ナマエ」
ダンブルドアが静かに言った。
「そのことを話す前に、どうしても確かめねばならぬ。君は、如何様にしてこの城から消え、神秘部に現れたのか」
「先生、でも──」
「君が今夜どこにおったのかは、チチオヤのこととも無関係ではない。君自身の口から聞く必要がある」
ナマエはダンブルドアを見た。半月形の眼鏡の奥の青い目は、いつもと同じように静かだった。
シリウスが一歩踏み出しかけるのを、ダンブルドアは手で制した。
「必要の部屋にいました」
ナマエはいっそ早く済ませようと急いで言った。
「ドラコ・マルフォイに話があると連れて行かれて、杖を取られました。それで、ドラコがハリーの行き先を漏らしたから、俺は後から魔法省へ行きました。暖炉をいくつか経由して。神秘部で父に会いました。父上は、ハーマイオニーを診た。一時間後に話そうって言ってたんだ。けど、もうとっくに過ぎてる──それで、父上はどこですか」
最後のほうは、ほとんど息継ぎをしていなかった。
ダンブルドアは目を細め、シリウスが低く息を吸う音がした。
「聖マンゴですか?誰か怪我をしたんですか」
「ニンファドーラ・トンクスは少しばかり聖マンゴで過ごさねばならぬかも知れんが、完全に回復する見込みじゃ」
ナマエはだんだん嫌な予感で全身に汗が滲むのを感じていた。
空が白みはじめ、明るさを増してきた。部屋中の肖像画が、ダンブルドアの一言一言に聞き入っている気がした。
「スネイプ先生が、事情を騎士団に伝えれくれたのじゃ。そして、すぐにチチオヤは君の安否を確認した。脱出用のポートキーを持ち、騎士団とともに学生たちの救出に向かってくれた」
「知ってます、俺はそのポートキーで帰ってきました」
不安と苛立ちで心臓の音が早まった。ナマエは、今度はシリウスを見た。
「シリウス、父上はどこ」
声がわなわな震えた。シリウスは厳しい声を出した。
「ダンブルドア」
「分かっておる、シリウス」
その声は静かだった。
「じゃが、ナマエには聞く権利がある。チチオヤが何をしようとし、なぜ戻らなかったのかを」
「戻らなかった、って何ですか」
ナマエの声が少し裏返った。
「父上は、一時間後に会おうって言った──俺は
「チチオヤは、嘘はついておらなんだ」
ダンブルドアは言った。
「彼は、君と話すつもりでおった。少なくとも、あの時までは」
シリウスが低く唸った。
「ダンブルドア、もう言え」
ナマエはシリウスを見た。シリウスの顔は硬かった。怒りをこらえているようにも見えた。どちらにしても、ナマエはそんな顔を見たくなかった。
「言うって何を」
誰もすぐには答えなかった。
肖像画たちは、ひとつ残らず黙っていた。ナマエは奥歯を噛み締めて、ほとんど睨むようにダンブルドアを見つめた。聞きたいのか聞きたくないのか、わからなかった。
ダンブルドアは、両手を机の上に置いた。
「チチオヤ・ミョウジは死んだ」
ナマエは瞬きをした。
死んだ。
それは、あまりにも短い言葉だった。チチオヤに使うには短すぎた。あの人は、もっと面倒で、もっと回りくどくて、複雑で、もっとたくさんの説明を必要とする人だった。そんな人間が、死んだ、の一言で片づくはずがなかった。
「……なんで」
シリウスが答えた。
「ルシウス・マルフォイだ。私が、その現場にいた」
ナマエの頭の中に、白金色の髪が浮かんだ。神秘部の薄闇に浮かび上がった、嘲るような顔。けれど、そのすぐ後に浮かんだのは、ドラコの顔だった。
言いようのない不安が胸を圧迫し始めた。
チチオヤが、死んだ?
けれど、チチオヤの安否がわからないことなんて、今に始まったことじゃない……。死んだように見せているだけかもしれない。いつものように、チチオヤらしく神経質に、狡猾に、抜け目なく……。
「今夜のことは、ただ神秘部で偶然起きた一つの殺害ではない。君には酷な話になるが、チチオヤとルシウス・マルフォイの間には、長い、複雑な因縁があった」
「そんな話は今しなくていい」
シリウスが言った。
「今この子に必要なのは、父親が殺された理由じゃない」
「理由を知らぬままでは、ナマエはもっと残酷な想像の中に置き去りにされる」
父親が殺された。それが自分に関係のある言葉なのかよくわからなかった。
ダンブルドアはシリウスに言い、それからナマエへ視線を戻した。
ダンブルドアはしばらく黙っていた。
静まり返った校長室で、フォークスの雛が、灰の中で小さく鳴いた。
ナマエはそれを見て、急に腹が立った。死んで、また生まれる鳥。そんなものを今、見たくなかった。
「ナマエ」
ダンブルドアが言った。
「君に、話しておかねばならぬことがある」
「今の話以上に?」
ナマエの声が、勝手に尖った。
「それに関わることじゃ」
ダンブルドアはゆっくりと机の前まで戻った。ナマエはその背中を見て、白熱した怒りと動揺が体の内側をメラメラと舐めるのを感じた。落ち着きはらって虚しい言葉を吐くダンブルドアから逃げ出したい衝動に駆られた。この場を離れなければ、自分が何をしでかすかわからなかった。
「ナマエ、待て」
シリウスが言った。
ナマエは踵を返して校長室の扉を開こうとしたが、ドアノブがガチャガチャとうるさく響くだけで、扉はびくともしなかった。ナマエは扉を蹴り飛ばしたい気持ちをなんとか飲み込んで振り返った。
「出してください!──話なら、俺は全部父上から聞く!こんな形でなにも知らされたくない!」
これ以上の言葉を詰め込まれたら、頭の中に残っているチチオヤまで、ダンブルドアの説明に塗り替えられてしまうような気がした。
ナマエは扉に向き直り、荒い息を吐いた。
それから、耳に手をやった。
黒石のピアスを引き抜くと、周囲の音が急に遠のいた。指先に触れている真鍮の取っ手が、微かに震えているような気がした。
「ナマエ、よせ」
シリウスの声がした。
ナマエは聞かなかった。両手で扉を押さえ、磨かれた木肌に口づけた。
ほんの一瞬、扉の向こうから息を呑むような震えが伝わった。
次いで、鍵の奥で金属が鳴った。ドアノブがナマエの掌の中で回り、扉がゆっくりと開いた。
校長室の肖像画が一斉にざわめいた。
「怒りに任せて、その力を使ってはならぬ」
背後からダンブルドアの声がした。
ナマエは顔が熱くなった。
「あなたが閉じ込めるからだ」
開いた扉の向こうへ足を踏み出すと、シリウスが追いかけてくる気配がした。
「ナマエ、待て」
「来るなよ!」
ナマエは振り返って言った。
シリウスは扉の前で立ち止まった。追いすがろうと上げた片手が、所在なさそうに宙に残った。
「来ないでくれ……」
背後で、ダンブルドアが静かに言った。
「明日、続きを話そう。君が聞くことを望むならば」
ナマエは答えず、扉を乱暴に閉めた。全身が震えていた。そのまま背中を押しつけるようにもたれ、ピアスを耳たぶの穴へねじ込んだ。
そのとき、螺旋階段の下から、誰かの足音が聞こえた。
あり得ない期待が、喉の奥で跳ねた。
父上だ。
そんなはずがないと、同時に分かっていた。
階段を駆け降りた先に現れたのは、ドラコ・マルフォイだった。
その手に、ナマエの杖を持っていた。
高い窓から射し込む光は、廊下の石床を白く照らしていた。夜のあいだに起きたことなど何も知らないような、明るすぎる光だった。遠くで生徒の声がした。誰かが走る足音もした。
ナマエは、一瞬、何を見ているのか分からなかった。ドラコは夜のあいだに血を抜かれたような白い顔をして、そこに立っていた。ローブの胸元を片手で握りしめ、もう片方の手に一本の杖を持っている。
ナマエの杖だった。
「……これを」
ドラコは掠れた声で言った。
「返しに来た」
ナマエは差し出された杖を見た。神秘部で何度も欲しいと思った、ずっと自分の手になかった杖だった。
「……どうして、今なんだ」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
ドラコの指が、杖を握ったまま強張った。
「持っていられなかった。あの部屋を出てから、ずっと──」
「俺が返せと言った時には、持っていられたのに?」
ナマエが冷たく言うと、ドラコは口を閉じた。
「あんたの都合だ。持っていられなかったんじゃなくて、もういらなくなっただけだろう」
ドラコの顔が歪んだ。怒ったのではなかった。言い返す言葉を探したが、どれも自分を救わないことに気づいたような顔だった。
「僕は、あそこまで行くとは思わなかった」
「そうだろうな」
ナマエは言った。
「思わなかったんだろうな。あんたは、思わないまま人の杖を取った。思わないまま人を閉じ込めた。思わないまま、ハリーを神秘部へ行かせた」
ハリーの名前を聞いたドラコの顔に、押し殺した憎しみが滲んでいた。けれど、その憎しみはナマエの前では行き場を失ったようだった。ドラコは唇を噛み、目を伏せた。
「──じゃあ、僕はどうすればよかったと言うんだ?」
「……はあ?」
「君を逃がして、ポッターに全部話せばよかったと言うのか?そうしたら、僕は──僕の家族はどうなる?父上と母上は誰が守るんだ!」
ナマエは黙ってドラコを見た。
ドラコは肩で息をしていた。怒鳴ったことを後悔しているようにも見えたが、もう言葉を止めることはできなかった。
「僕は、君を死なせるつもりは最初から無かった。必要の部屋にいれば安全だと思ったんだ。誰にも見つからない。神秘部にも行かない。父上にも──あの方にも、君を渡さずに済むと」
「だから杖を取ったって?」
「君が出ていこうとするからだ!」
「みんなして、そんなに俺を閉じ込めたいのか……」
ナマエはふーっと息を吐いて俯いた。
ナマエは下唇を噛んだ。まだ、硬い木に押しつけた時の乾いた感触が残っているような気がした。
喉の奥から、息とも笑いともつかない音が漏れた。
「じゃあ、あのときお前にキスして、逃がしてくれって頼めばよかったな」
ドラコの顔から、残っていた血の気まで消えた。
「そうすれば、あんたは杖を返して、扉も開けた。俺が頼めば、家族のことだって忘れて、喜んでそうしたんだろ」
ナマエはドラコの顔を見て、胸の奥が鈍く痛んだ。傷つけたかったはずなのに、実際に傷ついた顔を見ると、少しも気が晴れなかった。
「君は──」
ドラコの唇が震えた。
「そんなことをするはずがない」
ナマエは顔を上げた。
一瞬、何を言われたのか分からず、ドラコを見つめた。ドラコの顔は怯えきっていた。それでも、ナマエから目を逸らさなかった。
ナマエの指から、少しだけ力が抜けた。そこで初めて、自分がポケットに手を入れていたことに気がついた。指先は、奥に沈んだロケットの縁を掴んでいた。
すぐに、口元が歪んだ。笑おうとしたのかもしれないが、頬が引きつっただけだった。
「君なら、父親を見捨てられたのか?」
ドラコの声は、先ほどよりも小さかった。
ナマエの顔から、表情が消えた。
ドラコは、言ってから何かに気づいたようだった。目を見開き、口を閉じた。
「俺の父親は、」
その先が出てこなかった。
喉の奥で言葉がつかえた。ナマエは唇を開いたまま、浅く息を吸った。ダンブルドアが言った通りに、短い言葉を続ければよかった。けれど、それは声にならず、別の言葉を選んだ。
「……あんたの父親が、何をしたのか分かってるのか」
ドラコの手が震えた。杖の先が、わずかに下がった。
ドラコは何か言おうとした。だが、ナマエはそれを待たなかった。
ナマエは差し出されたままの杖へ目を落とした。
「それは、神秘部で俺の手になかった。ハーマイオニーを助けるための杖で、ロンを治すための杖で、ハリーを守るための杖で、父上の後ろに立つための杖だった。今さらここで返されて、ただの俺の杖に戻ると思ったのか」
ドラコの目が揺れた。
「どんなつもりでここにきたんだ」
ナマエはまた一歩近づいた。言葉がするすると口をついて出るのを止められなかった。
「謝りに来たのか?返せば許されると思ったのか?それを俺に渡して、自分の手からなくなれば、自分のやったことが少しは軽くなるとでも思ったのか?」
「思ってない!」
すぐに、ドラコ自身がその声に怯えたように黙った。二人の息だけが、妙に近く聞こえた。
「思ってないなら、何しにきたんだよ」
ナマエは低く言ったつもりだったが、声が上擦った。
「僕が持っていていいものじゃないと思った」
「最初から、あんたのものじゃない」
ナマエは吐き捨てた。
「ハリーを誘き出すために俺を利用したのは、他でもないお前だ、ドラコ」
ドラコは唇を噛んだ。泣きそうに見えた。ナマエはその顔を見て、胸の奥が冷たくなった。
泣くな、と思った。
その顔まで、こちらから持っていくなんて、許せなかった。
「ナマエ」
ドラコがかすれた声で呼んだ。
試験のあと、ドラコにその名を呼ばれた時のことが蘇った。ほんの数時間前のことなのに、ひどく遠い昔のように感じられた。
「俺の名前を呼ぶな」
ドラコの顔が、殴られたように変わった。
ナマエはそこでようやく手を伸ばし、杖を奪うように受け取った。ドラコの指から杖が離れる時、ほんの少し抵抗があった。離したくなかったのか、離すのが怖かったのか、ナマエには分からなかった。
柄が自分の手の中へ収まった。神秘部であれほど欲しかったものが戻ってきたはずなのに、ただ手のひらに慣れた木の感触があるだけだった。
「頼むから、やめてくれ」
ナマエは言った。
「もうたくさんだ」
ドラコは何か言おうとしたが、声にはならなかった。
ナマエは杖を握りしめた。取り戻したはずの杖が、掌の中でひどく冷たかった。
「俺は、あんたを信じたかった」
その言葉が出た瞬間、喉の奥が焼けるように痛んだ。
「必要の部屋に連れて行かれた時も、あんたが本当に聞きたいなら話そうと思った。呪いのことも、昔のことも……それで──あ、あんたが──俺の、友達だって思ってくれるなら──」
視界が急に歪んだ。
瞬きをすると、涙が頬を伝った。
自分が泣いているのだと気づいた瞬間、もう止まらなくなった。ドラコの前で泣きたくなかった。絶対に泣きたくなかった。
けれど、頬を伝う涙は熱く、顎から次々と落ちた。止めようとすればするほど、喉の奥が詰まった。
ドラコは息を呑んだ。
「ナマエ──」
「俺が、あんたに、ついて行かなければよかった!」
声はもう、うまく形にならなかった。
「ひっ、必要の部屋になんか、行かなきゃ──よかった!あんたの話なんか、聞くべきじゃ、なかった──そうしたら、ハ、ハリーは俺を探しに神秘部になんか行かなかった。ハリーが行かなきゃ──ち、父上も来なかった。父上が来なければ──」
「違う」
ドラコが震える声で言った。
「それは違う、君のせいじゃない」
「じゃあ、誰のせいだよ!」
ナマエは顔を上げた。涙でドラコの輪郭が滲んでいた。
「あ──あんたのせいって言えばいいのか。それとも、あんたのパパか?ヴォルデモートのせい?父上が勝手に神秘部に残ったせいか?どれなら正しいんだ。どれを憎めば、父上は俺のところに戻ってくるんだ?」
泣くなら、チチオヤの前で泣きたかった。父に怒りたかった。どうして何も言わなかったのか、どうしてあとで話すなんて言ったのか、どうして自分だけ先に行ってしまったのか、全部、本人にぶつけたかった。けれど、チチオヤはここにはいなかった。
「俺は──あんたが嫌なやつでも、意地悪でも、マルフォイでも──俺はまだ、あんたと友達でいたかった!」
ナマエは袖で乱暴に目元を拭ったが、すぐにまた涙が溢れた。ドラコがどんな顔をして、この醜態を見つめているのかわからなかった。
「だけど──今は無理だ」
ドラコは何も答えなかった。
ナマエは急に、もう全部どうでもよくなった。ドラコが何を言うのかも、自分が何を言えばいいのかも、誰が悪くて、誰が悪くなくて、どこまでが罠で、どこからが自分の選択だったのかも、もう考えたくなかった。
ナマエは杖をローブの内側にしまい、ドラコの横を通り過ぎた。肩がぶつかりそうになったが、避ける気にもならなかった。
一歩進んだところで、喉の奥から変な音が漏れた。
止めようと息を呑むと、余計にひどくなった。胸が震え、涙が次々に落ちた。
ナマエは振り返らなかった。
気づいた時には、ナマエはレイブンクロー塔へ続く長い螺旋階段を上っていた。高い窓から射し込む光が、階段を照らしていた。
窓の外を眺めると、湖が水面を煌めかせているのが目に入った。あそこで、チチオヤと話したことがあった。初めて父の口から魅了の呪いの話を聞いた。短い言葉で、過ちを告白したのだった……。あの時も、チチオヤはダンブルドアの頼みで来たと言っていたっけ……。
「……父上」
小さく呼んだつもりだった。情けない声だった。子供みたいにしゃくり上げて、息をするたびに胸が震えた。
レイブンクローの入口の前に着いた時、ナマエはもうまともに息ができていなかった。青銅の鷲のノッカーが、静かに嘴を開いた。
「失われてなお、手に残るものは何か?」
ナマエは答えられなかった。
問いの意味は分かった。いつもなら、きっと答えを考えただろう。いくらでも言葉は出てきたはずだった。
今は、何も出てこなかった。
ノッカーはしばらく黙っていた。ナマエは扉に手をつき、額を押し当てた。冷たい木の感触がした。その冷たさに縋るようにして、どうにか落ち着こうと試みた。
すると、扉の内側で足音がした。
「誰かいるのかい?」
アンソニーの声だった。ナマエが答える前に扉が開いた。
「一年生?今日の謎かけはそんなに難しかったかな──」
顔を出したアンソニーは、ナマエを見てぎょっとした。すぐに表情を改め、何も聞かずに扉を大きく開けた。
中は、思ったより明るかった。窓からは午後の光が斜めに差し込んでいた。談話室には、アンソニーだけではなかった。テリーが肘掛椅子から立ち上がりかけていて、マイケルは暖炉のそばで腕を組んでいた。ほかにも何人かのレイブンクロー生が、入口のほうを見た。
待っていたのだろうか。
ナマエはぼんやりそう思った。フリットウィック先生から、ナマエが戻ったと聞かされたのだろう。
テリーは、最初、何か明るいことを言おうとしていたようだった。
「ナマエ!おかえ──」
言葉が途中で消えた。
テリーの目が、ナマエの顔に止まった。泣き腫らした目、止まらない涙、まともに息を吸えない喉。テリーの表情から、安堵がゆっくり引いていった。
談話室が静まり返った。
マイケルは何かを言いかけて、やめた。誰も、どうしたの、と聞かなかった。聞けなかったのだと思った。
ナマエの足がもつれた。アンソニーが慌てて腕を伸ばしたが、ナマエはその手に掴まるより早く、談話室の床に膝をついた。杖を握りしめたまま、もう片方の手で顔を覆った。
もう、どうでもよかった。
誰が見ているのかも、あとで何を聞かれるのかも、レイブンクローの談話室のど真ん中で泣くことがどれほどみっともないのかも、どうでもよかった。
「ち、父上が」
そこまで言って、声が壊れた。アンソニーが息を呑んだ。
ナマエは戻ってきた杖を握りしめたまま、レイブンクローの談話室で声を上げて泣いた。
