不死鳥の騎士団
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緑の炎が裂け、暖炉がナマエを吐き出した。
膝をついて咳き込み、顔を上げると、そこは魔法省ではなかった。花柄の壁紙、傾いた家族写真、暖炉の上で悲鳴を上げる肖像画。──誰かの家だ。
「すみません……すみません!」
ナマエは答えにならないことを言い、暖炉脇の壺から再び煙突飛行粉 を掴んだ。
「魔法省!」
次も違った。埃っぽい店の裏部屋に転がり出て、積まれた木箱を崩した。ナマエは息を整える暇もなく、また粉を掴んだ。
三度目か、四度目か。
ナマエは足元を取られ、膝から大理石の床に落ちかけた。片手をついて体を支えると、掌の下は冷たく、磨き上げられた床に、暖炉の緑の火だけがいやに明るく映っては消えた。
魔法省のアトリウムは、夜の底に沈んでいた。
壁沿いに作りつけられたいくつものマントルピースはどれも口を閉ざし、噴水だけが、使われなくなった劇場の飾り物のように黙って立っている。魔法使いと魔女の杖、ケンタウルスの矢尻、小鬼の帽子の先、しもべ妖精の両耳から、間断なく水が噴き上げ、周りの水盆に落ちていた。
昼間なら魔法使いや魔女の靴音で満ちているはずの広間に、夜勤の役人も、警備の魔法使いも、書類を抱えて急ぐ職員もいない。受付の机に置かれた羽根ペンだけが、誰かに途中で見捨てられたように斜めを向いていた。魔法省が無人であることなど、あり得るのだろうか。ナマエの荒い息が、広すぎる床に跳ね返った。
走り出すより先に反射的にローブの内側を探った指は、何も握れなかった。ドラコの顔が、炎の残像のように頭の奥でちらついた。ナマエは奥歯を噛みしめた。
ナマエはエレベーターへ向かった。靴音が広い床に響いた。呼び出しの格子が開くまでの数秒が、ひどく長かった。ようやくリフトに飛び込むと、ナマエは息を切らしながら押しボタンの列を見上げた。
神秘部。
指で押しただけなのに、その文字が、こちらを押し返してくるように思えた。
格子扉が閉まり、リフトが沈み始めた。古い鎖が軋み、床が頼りなく揺れた。ナマエは壁に肩を押しつけて止まるのを待った。
格子が開くと、そこには黒々とした廊下が続いていた。魔法省の下層の空気は、上よりも重い。
ただ、遠くから、誰かが叫ぶ声がした。
ナマエは走った。
ズボンのポケットの奥で、ロケットが冷たく腿に当たっていた。走るたび、金属の重みが小さく跳ねる。まるで、そこに心臓がもう一つあるようだった。
丸い扉の部屋に入った瞬間、壁に扉がいくつも並んでいるのが見えた。どれも同じに見えるが、どれも違う場所へ続いている。ナマエは息を詰めた。迷っている暇はない……。
その時、右手の扉の向こうで、はっきりと叫び声がした。
「ハリー!」
自分の声は、扉に吸い込まれる前から裏返っていた。ナマエは取っ手を掴み、肩で押し開けた。物音を頼りに部屋を走りきると、開け放たれたままの扉をいくつかくぐり抜けた。たどり着いたそこは、棚で埋め尽くされていた。高い棚が列をなし、その一つ一つに、曇ったガラス球がぎっしりと並んでいる。ほの暗い光の中で、それらは虫の卵のように鈍く光っていた。どこかでまた、誰かの声がした。
奥に、人影があった。
ハリーは棚の間に立っていた。手には小さなガラス球を抱えている。ハリーだけではない。ロン、ハーマイオニー、ネビル、ジニー、ルーナが互いに身を寄せ合って、杖を構えている。ナマエはその顔ぶれに驚きつつ、足を早めた。
ハリーが振り返った。
その顔に、ほんの一瞬だけ、安堵が浮かんだ。
「ナマエ……?」
それが、ナマエにはたまらなかった。
「俺は無事だ、ハリー!罠なんだ!」
棚の向こうで、誰かが低く笑った。
「ようやくお気づきか」
列をなす予言球のあいだから、白金色の髪が、ぼんやりした光を受けて浮かび上がっていた。ルシウス・マルフォイだった。黒いローブの袖口から、長い指が杖を支えている。顔には仮面がなかった。隠す必要などもうない、とでもいうように、薄い口元だけがわずかに笑っていた。ナマエは身を固くした。
「ミョウジ家のご子息までおいでとは。今夜はずいぶん賑やかになる」
ナマエは返事をしなかった。ルシウスの目が、ナマエの顔から、空いた両手へゆっくり落ちた。
「……ほう」
その一音だけで、ナマエは何を見抜かれたのか分かった。
「勇気と無謀を取り違えるのは、ポッター氏の悪癖だと思っていたが、どうやら伝染するらしい」
「黙れ」
ハリーが言った。声は震えていなかったが、杖を握る手には力が入りすぎていた。
その時、別の笑い声がした。
高く、弾むような、けれどどこか壊れた笑い声だった。
棚の影から、ベラトリックス・レストレンジが現れた。黒い髪は乱れ、目は熱に浮かされたように光っている。彼女はナマエを見て、唇を吊り上げた。
「ああ、かわいそうな坊やたち。助けに来たつもり?それとも、助けられに来たの?」
ベラトリックスは杖先を小さく揺らした。まるで子供をあやすような仕草だった。
ルシウスの笑みが深くなった。
「使われる価値があるというのは、名誉なことよ」
ナマエは息を吸った。杖はない。ハリーたちは囲まれている。
「ナマエ」
ハリーの声がした。
闇に目を凝らすと、黒い影がいくつも蠢いた。死喰い人は、二人だけではなかった。
「いまだ!」
ナマエが絶望した瞬間、ハリーが叫んだ。 五つの声がハリーの背後で叫んだ。
「レダクト!」
五つの呪文が五つの方向に放たれ、狙われた棚が爆発した。聳え立つような棚がぐらりと揺れ、何百というガラス球が割れ、真珠色の姿が空中に立ち昇り、宙に浮かんだ。砕けたガラスと木っ端が雨霰と降ってくる中、久遠の昔からの予言の声が鳴り響いた。
「逃げろ!」
ハリーが叫びながら走ってきて、ナマエのローブをぐいと引っ張った。壊れた棚の塊やガラスの破片が、大音響とともに頭上に崩れ落ちてきた。死喰い人が一人、もうもうたる埃の中を突っ込んできた。ナマエはその覆面の顔に強烈な肘打ちを食らわせた。
ナマエたちは来た道を引き返し、弾丸のように扉を通った。
「コロポータス!」
ハーマイオニーが息も絶え絶えに唱えると、扉は奇妙なグチャッという音とともに密閉された。ナマエは肘をさすりながらハリーを見た。
「何があったんだ?!」
ハリーとナマエは互いにほとんど同時に言った。どちらかが答える前に、ハーマイオニーが割って入った。頭から爪先まで震えていた。
「ナマエ、本当に捕まってたの?!学校中の誰もあなたを見てなくて──」
「聞いて!」
ネビルが囁いた。いま封印したばかりの扉の向こうから、足音や怒鳴り声が響いてきた。
「ノットは放っておけ。放っておけと言っているのだ!いいか、忘れるな。予言を手に入れるまではポッターに手荒なまねはするな。ミョウジは生け捕りにしろ。ほかのやつらは、必要なら殺せ!」
ほかのやつら、という言葉が、ナマエの耳の中で一拍遅れて形を取った。ロン、ハーマイオニー、ジニー、ネビル、ルーナ。今ここにいる、ハリーとナマエ以外の全員。
その瞬間、ナマエの頭にドラコの顔が浮かんだ。ドラコは、この声を聞いて育ったのだ。そう思ってしまった。しかし、彼を哀れんでやるには、ハリーたちが近くにいすぎた。
ナマエは空の手を握りしめた。
「扉から離れよう」
ハリーが言うと、みんなできるだけ音を立てないように走った。小さな卵が孵化を繰り返している輝くガラスの釣鐘を通り過ぎ、部屋の一番向こうにある、円形のホールに出る扉を目指して走った。あと少しというときに、ハーマイオニーが呪文で封じた扉に、何か大きな重いものが衝突する音を聞いた。
ハリー、ハーマイオニー、ネビルは机の下に飛び込んだ。杖のないナマエはカササギに変化し、天井の飛梁に隠れた。二人の死喰い人が忙しく三人に近づいてくるのが見えた。部屋を見渡しても、ロン、ルーナ、ジニーがいない。はぐれてしまったのだろうか、それとも──。
「インペディメンタ!」
死喰い人の声で、ハリー、ハーマイオニー、ネビルが三人とも仰向けに吹っ飛んだ。ネビルは机を飛び越し、姿が見えなくなった。ハーマイオニーは本棚に激突し、その上から分厚い本が滝のようにどっと降り注いだ。
「ペトリフィカス・トタルス!石になれ!」
二人目の死喰い人が杖を構えたとき、ハリーが叫んだ。死喰い人は、ハリーの足下の敷物の上に前のめりに倒れ、棒のように動かなくなった。ハーマイオニーが本の山から上半身を起こした。
「うまいわ、ハ──」
紫の炎のようなものが閃き、ハーマイオニーの胸の表面をまっすぐに横切った。ハーマイオニーは驚いたように「アッ」と小さく声を上げ、床にくずおれて動かなくなった。ナマエは心臓がきゅっと縮んだような気がした。
「ハーマイオニー!」
ハリーはハーマイオニーのそばに膝をつき、ネビルは折れた杖を前に構えながら急いで机の下から這い出してきた。ナマエは天井を飛んだ。
ハーマイオニーに呪文を放った死喰い人が、今度は机の下から出てくるネビルを狙っていた。ナマエは死喰い人の真上で変化を解いて、そのまま頭を蹴り飛ばした。死喰い人は先に倒れていた仲間に折り重なって前のめりに倒れた。ナマエはその死喰い人の杖を奪おうと真っ黒なローブを弄ったが、今の衝撃で真っ二つに折れていた。ナマエは舌打ちした。
「ハーマイオニー」
ハリーの声がした。ハーマイオニーを揺り動かしながら呼びかけている。
「ハーマイオニー、目を覚まして……」
「ハリー、見せろ」
ナマエはほとんど転がるように駆け寄って膝をついた。膝で硝子の破片を踏んだが、そんなことには構っていられなかった。ハーマイオニーは青白い顔をしている。
ナマエはハーマイオニーの手首を掴んだ。とくとくと脈動を感じた。
「大丈夫、生きてる。大丈夫──」
ナマエは自分にも言い聞かせるように言うと、そばに転がっていたハーマイオニーの杖を取った。
「リナベイト、蘇生せよ」
借り物の杖は少し扱いにくかった。ハーマイオニーは一瞬小さな呻き声を漏らし、大きく息を吐いたが、目を閉じたままだった。その顔を見ていると自分まで血の気が引いていくような気がした。
「ばあぢゃんに殺ざれぢゃう」
ネビルはふがふが言った。手には折れて半分の長さになった杖を持っていた。しゃべっている間にも鼻血がボタボタ落ちた。
「ぼぐのババの杖だっだのに」
ナマエはネビルの鼻を治してやると、そのままハーマイオニーの杖をネビルの手に押しつけた。
「ネビル、この杖を使え。俺はハーマイオニーを背負う」
「ナマエ、僕がやろうか」
ナマエがハーマイオニーの腕を肩に回すと、ハリーが心配そうに見た。
「大丈夫だ。それに──やつら、俺は殺すなって言ってただろ。いざってとき、盾になれる」
ナマエたちはそっと小部屋を抜け出し、黒いホールに続く扉へと戻って行った。ホールはいま、まったく人影がない。
ハリーは頭を打ったのか、少しふらふらしながら言った。
「さあ、どっちの方向だと──?」
しかし、どっちに行くかを決めないうちに、右側の扉がパッと開き、人が三人倒れ込んできた。
「ロン!ジニー、みんな大丈──?」
「ハリー」
ロンは力なくエヘヘと笑い、よろめきながら近づいて、ハリーのローブの前をつかみ、焦点の定まらない目でじっと見た。
「ここにいたのか……ハハハ……ハリー、めちゃくちゃだなあ……」
次の瞬間、ロンはがっくりと膝をついた。しかし、ハリーのローブをしっかりつかんだままだ。ハリーは引っ張られてお辞儀する形になった。
「ロン、ロン!──ナマエ、治せる?」
ハリーが恐る恐る聞いた。ナマエはロンを見つめた。ロンの顔は蒼白で、口の端から何かどす黒いものがタラタラ流れていた。
「わからない、やってみる。杖を貸してくれ──何があったんだ?」
しかし、ジニーは頭を振り、壁にもたれたままずるずると座り込み、ハァハァ喘ぎながら踵をつかんだ。
「踵が折れたんだと思うよ。ポキッと言う音が聞こえたもン」
ジニーの上に屈み込みながら、ルーナが小声で言った。ルーナだけが無傷らしい。
「やつらが四人で追いかけてきて、あたしたち、惑星がいっぱいの暗い部屋に追い込まれたんだ。とっても変なとこだったよ。あたしたち、しばらく暗闇にぽっかり浮かんでたんだ」
ナマエはロンの杖で持ち主に反対呪文をかけた。ロンの口の端に血の泡が膨れ、弾けた。相変わらずロンはエヘヘと笑っていた。
ジニーは目を閉じたまま、浅い息をしていた。 ナマエはハーマイオニーを背負ったまま、膝をついてジニーの踵に杖を向けた。
「歯を食いしばれ」
「たかが踵よ」
ジニーはイライラしたように言った。ナマエが「エピスキー」と唱えると、ポキっという軽い音がした。ジニーは気丈に表情を変えなかった。
「ここを出なくちゃならない」
ハリーがロンの腕を自分の肩に回しながらきっぱりと言った。そしてナマエも周りを見回した。一回で正しい出口に出る確率は十二分の一だ。
ハリーは扉の一つに向かった。あと一、二メートルというところで、ホールの反対側の別の扉が勢いよく開き、三人の死喰い人が飛び込んできた。先頭はベラトリックス・レストレンジだ。
「いたぞ!」
ベラトリックスが甲高く叫んだ。失神光線が室内を飛んだ。ハリーは目の前の扉から突入し、ロンをそこに無造作に放り投げ、ネビルとハーマイオニーを助けに素早く引き返した。全員が扉を通り、あわやというところで扉をピシャリと閉めた。
「コロポータ──ぁぁぁぁぁぁぁぁぁう……」
振り返ったとたん、ルーナが宙を飛ぶのが見えた。呪文が間に合わなかった扉を破り、死喰い人がなだれ込んできた。
「アレスト・モメンタム!」
ナマエはロンの杖をルーナに向けて振った。
ルーナは速度を落としながら机にぶつかり、その上を滑って向こう側の床にゆっくり落下した。
そのすぐそばで、ロンが何かの触手のようなものに絡みつかれてもがいて床をのたうち回っていた。
「ポッターを捕まえろ!」
ベラトリックスが叫び、飛びかかってきた。ハリーはそれをかわし、部屋の反対側に疾走した。
今度は、ネビルが避けた赤い閃光が、ジニーの顔を直撃した。ジニーは横ざまに倒れ、その場で気を失った。
ナマエは辺りを見渡した。考えろ、考えろ。このままじゃ絶望的だ。ハリーの予言が奪われたら、ナマエが捕まったら、今度飛び交うのは失神呪文じゃ済まない──。
「ステューピファイ!」
ネビルが後ろを向き、襲ってくる死喰い人に向かってハーマイオニーの杖を振った。
いまや五人の死喰い人と戦っているのは、ハリーとネビルとナマエだけだった。ハーマイオニーを背負いながら、五人の相手をしながら、倒れている二人のもとに向かうような余裕はナマエにはなかった。ナマエは盾呪文で三人を守りながら、はっと叫んだ。
「ハリー、ハリー!──鏡はあるか!シリウスを──騎士団を呼ぶんだ!」
ハリーの顔が、凍りついたようになった。
「持ってきてない!アンブリッジに捕まってたから──」
弾いた呪文が壁に穴をあける激しい爆発音で、ハリーの答えは遮られた。ナマエが次の手を考えようとする前に、突然、ハリーは予言の球を頭の上に高く掲げ、部屋の反対側へと全速力で駆け戻った。
「ハリーっ!?」
ハリーは、死喰い人たちをみんなから引き離そうとしていた。そして、それはうまくいったようだ。死喰い人はハリーを追って疾走した。椅子をなぎ倒し、テーブルを撥ね飛ばしながら、それでも予言を傷つけることを恐れて、ハリーに向かって呪文をかけようとはしなかった。
ネビルがすぐにその後を追って行った。加勢するつもりなのだ。
「俺はジニーとルーナを起こす!」
ナマエが叫び終わらないうちに、部屋からいなくなってしまった。
ロンは緑色のリボンのようなものが伸びる奇妙な脳みそのようなものと戦っていた。まだ大丈夫そうだ。
ナマエはジニーとルーナに蘇生呪文をかけると、三人でロンを救出した。ロンは暴れたおかげでほんの少し正気を取り戻してきたようだった。
「アハハ、まいったね──ハリーは?ハリーはどこ?」
ロンが言った。
「囮になってる、ネビルが追っかけて──」
「私たちも行かなくちゃ──ナマエ!あなたは、帰り道を探して!」
ジニーが捲し立て、ロンはナマエから杖をひったくり、ルーナと三人で走り出した。待て、と言いかけたが、別の扉からの足音が耳に飛び込んできた。ナマエは振り返った。
黒い扉の一つが、音もなく少し開いていた。隙間の向こうで、杖明かりが揺れている。足音は一人分だった。
ナマエはハーマイオニーを背中の高い位置まで抱え直した。反射的に構えようとした杖腕が、何も掴めず宙で止まった。
まずい。ナマエは一番近い扉ににじりよりながら、足音のする方を睨んだ。
扉が押し開けられ、細長い人影が杖を構えて滑り込んできた。白い杖明かりがナマエの顔を照らし、その杖先がぴたりと止まった。
「ナマエ?」
聞き慣れた声が、ここではあり得ないもののように響いた。
「父上!」
チチオヤの顔から、さっと血の気が引いた。
「なぜここにいる。シノビーは、お前はホグワーツにいると──」
「さっき来た!お願いだ、ハーマイオニーを助けて!」
ナマエへ伸びかけていたチチオヤの手が、途中で向きを変えた。背中でぐったりしているハーマイオニーを見ると、すぐに杖を下ろした。
「下ろせ。ゆっくりだ」
チチオヤはローブを脱いで床に広げた。ナマエがハーマイオニーをその上に横たえると、チチオヤは片膝をつき、手袋越しに彼女の首筋へ指を当てた。
「何を受けた?」
「紫色の呪いが胸を掠ったんだ。何の呪文かは分からない」
チチオヤは返事をせず、ハーマイオニーの胸の上で杖を滑らせた。杖先から細い銀色の光が伸び、胸元を網のように覆った。その一部が紫黒く濁り、脈を打つように明滅した。
チチオヤの眉間に深い皺が寄った。
短く息を吸うと、聞いたことのない長い呪文を唱えた。銀色の網が縮まり、紫色の濁りを締めつけた。ハーマイオニーの体が一度びくりと震え、苦しそうな息が唇から漏れた。
ナマエは両手を握りしめた。爪が掌に食い込んでも、目を逸らせなかった。
やがて紫色の光は薄れ、銀色の網とともに消えた。
チチオヤはもう一度脈を確かめ、ようやく息を吐いた。
「命に別状はない。呪いは心臓を外れている。ただし、呪いの衝撃が深い。今ここで無理に起こすな。しばらく安静が必要だ」
ナマエの全身から急に力が抜けそうになって、思わずハーマイオニーの手を握った。
「杖は?」
チチオヤの視線が、ナマエの両手へ移った。それから破れたローブ、血の滲んだ膝、煤と埃に汚れた顔を順に見た。
「ない。俺も、ハーマイオニーも」
チチオヤの口元が硬くなった。
そのとき、ハリーたちが走り去った廊下の奥から、激しい爆発音が響いた。暗がりが赤く染まり、続けざまに何本もの呪文が飛び交った。遠くで怒鳴り声が上がった。
チチオヤが素早く顔を上げた。
「騎士団が来た。私も加勢する」
「俺も──」
チチオヤは立ち上がるなり、ナマエの両肩を掴んだ。
「杖もない子供がいていい場所じゃない!すぐ学校に戻れ!」
いつものチチオヤからは想像もつかない剣幕に、ナマエは一瞬言葉を失った。
「でも、ハリーたちが」
「ダンブルドアも向かっている。ここからは大人の仕事だ──生徒は何人いる?」
「……俺とハーマイオニーを抜いて、五人」
「よし」
チチオヤはナマエの頭に手を載せた。革手袋の掌が、乱れた髪をざり、と撫でた。父に頭を撫でられた記憶はなかった。だから、その手が離れるまで、ナマエはどうしていいのか分からなかった。
手が離れると、チチオヤは出現呪文で古びた木の鍋蓋を取り出した。
「ダンブルドアから預かったポートキーだ。城に着いたらすぐにマダム・ポンフリーのところへ」
「父上は?」
「一時間後に会おう」
チチオヤは短く答え、鍋蓋をナマエに押しつけた。
「急ぎなさい」
チチオヤはそう言い残して、ハリーたちの方へ走り去った。
ナマエはその背中が見えなくなるまで、動けなかった。遠くでまた、何かが砕ける音がした。
ナマエはようやく視線を落とした。握っていたハーマイオニーの指が、かすかに動いた。
「ハーマイオニー!」
まぶたが微かに震えた。苦しそうに小さく息を吸ったが、目は開かなかった。
ナマエはハーマイオニーの体を支え直し、その手を木の鍋蓋へ導いた。それから自分も縁に指を掛けた。
次の瞬間、臍の裏側を鉤で引っ張られるような感覚が、二人を闇の中から攫っていった。
膝をついて咳き込み、顔を上げると、そこは魔法省ではなかった。花柄の壁紙、傾いた家族写真、暖炉の上で悲鳴を上げる肖像画。──誰かの家だ。
「すみません……すみません!」
ナマエは答えにならないことを言い、暖炉脇の壺から再び
「魔法省!」
次も違った。埃っぽい店の裏部屋に転がり出て、積まれた木箱を崩した。ナマエは息を整える暇もなく、また粉を掴んだ。
三度目か、四度目か。
ナマエは足元を取られ、膝から大理石の床に落ちかけた。片手をついて体を支えると、掌の下は冷たく、磨き上げられた床に、暖炉の緑の火だけがいやに明るく映っては消えた。
魔法省のアトリウムは、夜の底に沈んでいた。
壁沿いに作りつけられたいくつものマントルピースはどれも口を閉ざし、噴水だけが、使われなくなった劇場の飾り物のように黙って立っている。魔法使いと魔女の杖、ケンタウルスの矢尻、小鬼の帽子の先、しもべ妖精の両耳から、間断なく水が噴き上げ、周りの水盆に落ちていた。
昼間なら魔法使いや魔女の靴音で満ちているはずの広間に、夜勤の役人も、警備の魔法使いも、書類を抱えて急ぐ職員もいない。受付の机に置かれた羽根ペンだけが、誰かに途中で見捨てられたように斜めを向いていた。魔法省が無人であることなど、あり得るのだろうか。ナマエの荒い息が、広すぎる床に跳ね返った。
走り出すより先に反射的にローブの内側を探った指は、何も握れなかった。ドラコの顔が、炎の残像のように頭の奥でちらついた。ナマエは奥歯を噛みしめた。
ナマエはエレベーターへ向かった。靴音が広い床に響いた。呼び出しの格子が開くまでの数秒が、ひどく長かった。ようやくリフトに飛び込むと、ナマエは息を切らしながら押しボタンの列を見上げた。
神秘部。
指で押しただけなのに、その文字が、こちらを押し返してくるように思えた。
格子扉が閉まり、リフトが沈み始めた。古い鎖が軋み、床が頼りなく揺れた。ナマエは壁に肩を押しつけて止まるのを待った。
格子が開くと、そこには黒々とした廊下が続いていた。魔法省の下層の空気は、上よりも重い。
ただ、遠くから、誰かが叫ぶ声がした。
ナマエは走った。
ズボンのポケットの奥で、ロケットが冷たく腿に当たっていた。走るたび、金属の重みが小さく跳ねる。まるで、そこに心臓がもう一つあるようだった。
丸い扉の部屋に入った瞬間、壁に扉がいくつも並んでいるのが見えた。どれも同じに見えるが、どれも違う場所へ続いている。ナマエは息を詰めた。迷っている暇はない……。
その時、右手の扉の向こうで、はっきりと叫び声がした。
「ハリー!」
自分の声は、扉に吸い込まれる前から裏返っていた。ナマエは取っ手を掴み、肩で押し開けた。物音を頼りに部屋を走りきると、開け放たれたままの扉をいくつかくぐり抜けた。たどり着いたそこは、棚で埋め尽くされていた。高い棚が列をなし、その一つ一つに、曇ったガラス球がぎっしりと並んでいる。ほの暗い光の中で、それらは虫の卵のように鈍く光っていた。どこかでまた、誰かの声がした。
奥に、人影があった。
ハリーは棚の間に立っていた。手には小さなガラス球を抱えている。ハリーだけではない。ロン、ハーマイオニー、ネビル、ジニー、ルーナが互いに身を寄せ合って、杖を構えている。ナマエはその顔ぶれに驚きつつ、足を早めた。
ハリーが振り返った。
その顔に、ほんの一瞬だけ、安堵が浮かんだ。
「ナマエ……?」
それが、ナマエにはたまらなかった。
「俺は無事だ、ハリー!罠なんだ!」
棚の向こうで、誰かが低く笑った。
「ようやくお気づきか」
列をなす予言球のあいだから、白金色の髪が、ぼんやりした光を受けて浮かび上がっていた。ルシウス・マルフォイだった。黒いローブの袖口から、長い指が杖を支えている。顔には仮面がなかった。隠す必要などもうない、とでもいうように、薄い口元だけがわずかに笑っていた。ナマエは身を固くした。
「ミョウジ家のご子息までおいでとは。今夜はずいぶん賑やかになる」
ナマエは返事をしなかった。ルシウスの目が、ナマエの顔から、空いた両手へゆっくり落ちた。
「……ほう」
その一音だけで、ナマエは何を見抜かれたのか分かった。
「勇気と無謀を取り違えるのは、ポッター氏の悪癖だと思っていたが、どうやら伝染するらしい」
「黙れ」
ハリーが言った。声は震えていなかったが、杖を握る手には力が入りすぎていた。
その時、別の笑い声がした。
高く、弾むような、けれどどこか壊れた笑い声だった。
棚の影から、ベラトリックス・レストレンジが現れた。黒い髪は乱れ、目は熱に浮かされたように光っている。彼女はナマエを見て、唇を吊り上げた。
「ああ、かわいそうな坊やたち。助けに来たつもり?それとも、助けられに来たの?」
ベラトリックスは杖先を小さく揺らした。まるで子供をあやすような仕草だった。
ルシウスの笑みが深くなった。
「使われる価値があるというのは、名誉なことよ」
ナマエは息を吸った。杖はない。ハリーたちは囲まれている。
「ナマエ」
ハリーの声がした。
闇に目を凝らすと、黒い影がいくつも蠢いた。死喰い人は、二人だけではなかった。
「いまだ!」
ナマエが絶望した瞬間、ハリーが叫んだ。 五つの声がハリーの背後で叫んだ。
「レダクト!」
五つの呪文が五つの方向に放たれ、狙われた棚が爆発した。聳え立つような棚がぐらりと揺れ、何百というガラス球が割れ、真珠色の姿が空中に立ち昇り、宙に浮かんだ。砕けたガラスと木っ端が雨霰と降ってくる中、久遠の昔からの予言の声が鳴り響いた。
「逃げろ!」
ハリーが叫びながら走ってきて、ナマエのローブをぐいと引っ張った。壊れた棚の塊やガラスの破片が、大音響とともに頭上に崩れ落ちてきた。死喰い人が一人、もうもうたる埃の中を突っ込んできた。ナマエはその覆面の顔に強烈な肘打ちを食らわせた。
ナマエたちは来た道を引き返し、弾丸のように扉を通った。
「コロポータス!」
ハーマイオニーが息も絶え絶えに唱えると、扉は奇妙なグチャッという音とともに密閉された。ナマエは肘をさすりながらハリーを見た。
「何があったんだ?!」
ハリーとナマエは互いにほとんど同時に言った。どちらかが答える前に、ハーマイオニーが割って入った。頭から爪先まで震えていた。
「ナマエ、本当に捕まってたの?!学校中の誰もあなたを見てなくて──」
「聞いて!」
ネビルが囁いた。いま封印したばかりの扉の向こうから、足音や怒鳴り声が響いてきた。
「ノットは放っておけ。放っておけと言っているのだ!いいか、忘れるな。予言を手に入れるまではポッターに手荒なまねはするな。ミョウジは生け捕りにしろ。ほかのやつらは、必要なら殺せ!」
ほかのやつら、という言葉が、ナマエの耳の中で一拍遅れて形を取った。ロン、ハーマイオニー、ジニー、ネビル、ルーナ。今ここにいる、ハリーとナマエ以外の全員。
その瞬間、ナマエの頭にドラコの顔が浮かんだ。ドラコは、この声を聞いて育ったのだ。そう思ってしまった。しかし、彼を哀れんでやるには、ハリーたちが近くにいすぎた。
ナマエは空の手を握りしめた。
「扉から離れよう」
ハリーが言うと、みんなできるだけ音を立てないように走った。小さな卵が孵化を繰り返している輝くガラスの釣鐘を通り過ぎ、部屋の一番向こうにある、円形のホールに出る扉を目指して走った。あと少しというときに、ハーマイオニーが呪文で封じた扉に、何か大きな重いものが衝突する音を聞いた。
ハリー、ハーマイオニー、ネビルは机の下に飛び込んだ。杖のないナマエはカササギに変化し、天井の飛梁に隠れた。二人の死喰い人が忙しく三人に近づいてくるのが見えた。部屋を見渡しても、ロン、ルーナ、ジニーがいない。はぐれてしまったのだろうか、それとも──。
「インペディメンタ!」
死喰い人の声で、ハリー、ハーマイオニー、ネビルが三人とも仰向けに吹っ飛んだ。ネビルは机を飛び越し、姿が見えなくなった。ハーマイオニーは本棚に激突し、その上から分厚い本が滝のようにどっと降り注いだ。
「ペトリフィカス・トタルス!石になれ!」
二人目の死喰い人が杖を構えたとき、ハリーが叫んだ。死喰い人は、ハリーの足下の敷物の上に前のめりに倒れ、棒のように動かなくなった。ハーマイオニーが本の山から上半身を起こした。
「うまいわ、ハ──」
紫の炎のようなものが閃き、ハーマイオニーの胸の表面をまっすぐに横切った。ハーマイオニーは驚いたように「アッ」と小さく声を上げ、床にくずおれて動かなくなった。ナマエは心臓がきゅっと縮んだような気がした。
「ハーマイオニー!」
ハリーはハーマイオニーのそばに膝をつき、ネビルは折れた杖を前に構えながら急いで机の下から這い出してきた。ナマエは天井を飛んだ。
ハーマイオニーに呪文を放った死喰い人が、今度は机の下から出てくるネビルを狙っていた。ナマエは死喰い人の真上で変化を解いて、そのまま頭を蹴り飛ばした。死喰い人は先に倒れていた仲間に折り重なって前のめりに倒れた。ナマエはその死喰い人の杖を奪おうと真っ黒なローブを弄ったが、今の衝撃で真っ二つに折れていた。ナマエは舌打ちした。
「ハーマイオニー」
ハリーの声がした。ハーマイオニーを揺り動かしながら呼びかけている。
「ハーマイオニー、目を覚まして……」
「ハリー、見せろ」
ナマエはほとんど転がるように駆け寄って膝をついた。膝で硝子の破片を踏んだが、そんなことには構っていられなかった。ハーマイオニーは青白い顔をしている。
ナマエはハーマイオニーの手首を掴んだ。とくとくと脈動を感じた。
「大丈夫、生きてる。大丈夫──」
ナマエは自分にも言い聞かせるように言うと、そばに転がっていたハーマイオニーの杖を取った。
「リナベイト、蘇生せよ」
借り物の杖は少し扱いにくかった。ハーマイオニーは一瞬小さな呻き声を漏らし、大きく息を吐いたが、目を閉じたままだった。その顔を見ていると自分まで血の気が引いていくような気がした。
「ばあぢゃんに殺ざれぢゃう」
ネビルはふがふが言った。手には折れて半分の長さになった杖を持っていた。しゃべっている間にも鼻血がボタボタ落ちた。
「ぼぐのババの杖だっだのに」
ナマエはネビルの鼻を治してやると、そのままハーマイオニーの杖をネビルの手に押しつけた。
「ネビル、この杖を使え。俺はハーマイオニーを背負う」
「ナマエ、僕がやろうか」
ナマエがハーマイオニーの腕を肩に回すと、ハリーが心配そうに見た。
「大丈夫だ。それに──やつら、俺は殺すなって言ってただろ。いざってとき、盾になれる」
ナマエたちはそっと小部屋を抜け出し、黒いホールに続く扉へと戻って行った。ホールはいま、まったく人影がない。
ハリーは頭を打ったのか、少しふらふらしながら言った。
「さあ、どっちの方向だと──?」
しかし、どっちに行くかを決めないうちに、右側の扉がパッと開き、人が三人倒れ込んできた。
「ロン!ジニー、みんな大丈──?」
「ハリー」
ロンは力なくエヘヘと笑い、よろめきながら近づいて、ハリーのローブの前をつかみ、焦点の定まらない目でじっと見た。
「ここにいたのか……ハハハ……ハリー、めちゃくちゃだなあ……」
次の瞬間、ロンはがっくりと膝をついた。しかし、ハリーのローブをしっかりつかんだままだ。ハリーは引っ張られてお辞儀する形になった。
「ロン、ロン!──ナマエ、治せる?」
ハリーが恐る恐る聞いた。ナマエはロンを見つめた。ロンの顔は蒼白で、口の端から何かどす黒いものがタラタラ流れていた。
「わからない、やってみる。杖を貸してくれ──何があったんだ?」
しかし、ジニーは頭を振り、壁にもたれたままずるずると座り込み、ハァハァ喘ぎながら踵をつかんだ。
「踵が折れたんだと思うよ。ポキッと言う音が聞こえたもン」
ジニーの上に屈み込みながら、ルーナが小声で言った。ルーナだけが無傷らしい。
「やつらが四人で追いかけてきて、あたしたち、惑星がいっぱいの暗い部屋に追い込まれたんだ。とっても変なとこだったよ。あたしたち、しばらく暗闇にぽっかり浮かんでたんだ」
ナマエはロンの杖で持ち主に反対呪文をかけた。ロンの口の端に血の泡が膨れ、弾けた。相変わらずロンはエヘヘと笑っていた。
ジニーは目を閉じたまま、浅い息をしていた。 ナマエはハーマイオニーを背負ったまま、膝をついてジニーの踵に杖を向けた。
「歯を食いしばれ」
「たかが踵よ」
ジニーはイライラしたように言った。ナマエが「エピスキー」と唱えると、ポキっという軽い音がした。ジニーは気丈に表情を変えなかった。
「ここを出なくちゃならない」
ハリーがロンの腕を自分の肩に回しながらきっぱりと言った。そしてナマエも周りを見回した。一回で正しい出口に出る確率は十二分の一だ。
ハリーは扉の一つに向かった。あと一、二メートルというところで、ホールの反対側の別の扉が勢いよく開き、三人の死喰い人が飛び込んできた。先頭はベラトリックス・レストレンジだ。
「いたぞ!」
ベラトリックスが甲高く叫んだ。失神光線が室内を飛んだ。ハリーは目の前の扉から突入し、ロンをそこに無造作に放り投げ、ネビルとハーマイオニーを助けに素早く引き返した。全員が扉を通り、あわやというところで扉をピシャリと閉めた。
「コロポータ──ぁぁぁぁぁぁぁぁぁう……」
振り返ったとたん、ルーナが宙を飛ぶのが見えた。呪文が間に合わなかった扉を破り、死喰い人がなだれ込んできた。
「アレスト・モメンタム!」
ナマエはロンの杖をルーナに向けて振った。
ルーナは速度を落としながら机にぶつかり、その上を滑って向こう側の床にゆっくり落下した。
そのすぐそばで、ロンが何かの触手のようなものに絡みつかれてもがいて床をのたうち回っていた。
「ポッターを捕まえろ!」
ベラトリックスが叫び、飛びかかってきた。ハリーはそれをかわし、部屋の反対側に疾走した。
今度は、ネビルが避けた赤い閃光が、ジニーの顔を直撃した。ジニーは横ざまに倒れ、その場で気を失った。
ナマエは辺りを見渡した。考えろ、考えろ。このままじゃ絶望的だ。ハリーの予言が奪われたら、ナマエが捕まったら、今度飛び交うのは失神呪文じゃ済まない──。
「ステューピファイ!」
ネビルが後ろを向き、襲ってくる死喰い人に向かってハーマイオニーの杖を振った。
いまや五人の死喰い人と戦っているのは、ハリーとネビルとナマエだけだった。ハーマイオニーを背負いながら、五人の相手をしながら、倒れている二人のもとに向かうような余裕はナマエにはなかった。ナマエは盾呪文で三人を守りながら、はっと叫んだ。
「ハリー、ハリー!──鏡はあるか!シリウスを──騎士団を呼ぶんだ!」
ハリーの顔が、凍りついたようになった。
「持ってきてない!アンブリッジに捕まってたから──」
弾いた呪文が壁に穴をあける激しい爆発音で、ハリーの答えは遮られた。ナマエが次の手を考えようとする前に、突然、ハリーは予言の球を頭の上に高く掲げ、部屋の反対側へと全速力で駆け戻った。
「ハリーっ!?」
ハリーは、死喰い人たちをみんなから引き離そうとしていた。そして、それはうまくいったようだ。死喰い人はハリーを追って疾走した。椅子をなぎ倒し、テーブルを撥ね飛ばしながら、それでも予言を傷つけることを恐れて、ハリーに向かって呪文をかけようとはしなかった。
ネビルがすぐにその後を追って行った。加勢するつもりなのだ。
「俺はジニーとルーナを起こす!」
ナマエが叫び終わらないうちに、部屋からいなくなってしまった。
ロンは緑色のリボンのようなものが伸びる奇妙な脳みそのようなものと戦っていた。まだ大丈夫そうだ。
ナマエはジニーとルーナに蘇生呪文をかけると、三人でロンを救出した。ロンは暴れたおかげでほんの少し正気を取り戻してきたようだった。
「アハハ、まいったね──ハリーは?ハリーはどこ?」
ロンが言った。
「囮になってる、ネビルが追っかけて──」
「私たちも行かなくちゃ──ナマエ!あなたは、帰り道を探して!」
ジニーが捲し立て、ロンはナマエから杖をひったくり、ルーナと三人で走り出した。待て、と言いかけたが、別の扉からの足音が耳に飛び込んできた。ナマエは振り返った。
黒い扉の一つが、音もなく少し開いていた。隙間の向こうで、杖明かりが揺れている。足音は一人分だった。
ナマエはハーマイオニーを背中の高い位置まで抱え直した。反射的に構えようとした杖腕が、何も掴めず宙で止まった。
まずい。ナマエは一番近い扉ににじりよりながら、足音のする方を睨んだ。
扉が押し開けられ、細長い人影が杖を構えて滑り込んできた。白い杖明かりがナマエの顔を照らし、その杖先がぴたりと止まった。
「ナマエ?」
聞き慣れた声が、ここではあり得ないもののように響いた。
「父上!」
チチオヤの顔から、さっと血の気が引いた。
「なぜここにいる。シノビーは、お前はホグワーツにいると──」
「さっき来た!お願いだ、ハーマイオニーを助けて!」
ナマエへ伸びかけていたチチオヤの手が、途中で向きを変えた。背中でぐったりしているハーマイオニーを見ると、すぐに杖を下ろした。
「下ろせ。ゆっくりだ」
チチオヤはローブを脱いで床に広げた。ナマエがハーマイオニーをその上に横たえると、チチオヤは片膝をつき、手袋越しに彼女の首筋へ指を当てた。
「何を受けた?」
「紫色の呪いが胸を掠ったんだ。何の呪文かは分からない」
チチオヤは返事をせず、ハーマイオニーの胸の上で杖を滑らせた。杖先から細い銀色の光が伸び、胸元を網のように覆った。その一部が紫黒く濁り、脈を打つように明滅した。
チチオヤの眉間に深い皺が寄った。
短く息を吸うと、聞いたことのない長い呪文を唱えた。銀色の網が縮まり、紫色の濁りを締めつけた。ハーマイオニーの体が一度びくりと震え、苦しそうな息が唇から漏れた。
ナマエは両手を握りしめた。爪が掌に食い込んでも、目を逸らせなかった。
やがて紫色の光は薄れ、銀色の網とともに消えた。
チチオヤはもう一度脈を確かめ、ようやく息を吐いた。
「命に別状はない。呪いは心臓を外れている。ただし、呪いの衝撃が深い。今ここで無理に起こすな。しばらく安静が必要だ」
ナマエの全身から急に力が抜けそうになって、思わずハーマイオニーの手を握った。
「杖は?」
チチオヤの視線が、ナマエの両手へ移った。それから破れたローブ、血の滲んだ膝、煤と埃に汚れた顔を順に見た。
「ない。俺も、ハーマイオニーも」
チチオヤの口元が硬くなった。
そのとき、ハリーたちが走り去った廊下の奥から、激しい爆発音が響いた。暗がりが赤く染まり、続けざまに何本もの呪文が飛び交った。遠くで怒鳴り声が上がった。
チチオヤが素早く顔を上げた。
「騎士団が来た。私も加勢する」
「俺も──」
チチオヤは立ち上がるなり、ナマエの両肩を掴んだ。
「杖もない子供がいていい場所じゃない!すぐ学校に戻れ!」
いつものチチオヤからは想像もつかない剣幕に、ナマエは一瞬言葉を失った。
「でも、ハリーたちが」
「ダンブルドアも向かっている。ここからは大人の仕事だ──生徒は何人いる?」
「……俺とハーマイオニーを抜いて、五人」
「よし」
チチオヤはナマエの頭に手を載せた。革手袋の掌が、乱れた髪をざり、と撫でた。父に頭を撫でられた記憶はなかった。だから、その手が離れるまで、ナマエはどうしていいのか分からなかった。
手が離れると、チチオヤは出現呪文で古びた木の鍋蓋を取り出した。
「ダンブルドアから預かったポートキーだ。城に着いたらすぐにマダム・ポンフリーのところへ」
「父上は?」
「一時間後に会おう」
チチオヤは短く答え、鍋蓋をナマエに押しつけた。
「急ぎなさい」
チチオヤはそう言い残して、ハリーたちの方へ走り去った。
ナマエはその背中が見えなくなるまで、動けなかった。遠くでまた、何かが砕ける音がした。
ナマエはようやく視線を落とした。握っていたハーマイオニーの指が、かすかに動いた。
「ハーマイオニー!」
まぶたが微かに震えた。苦しそうに小さく息を吸ったが、目は開かなかった。
ナマエはハーマイオニーの体を支え直し、その手を木の鍋蓋へ導いた。それから自分も縁に指を掛けた。
次の瞬間、臍の裏側を鉤で引っ張られるような感覚が、二人を闇の中から攫っていった。
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