不死鳥の騎士団
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魔法史の試験が終わった時、ナマエは机に突っ伏したいのをどうにかこらえた。
羊皮紙を回収する試験官の足音が、広間の床にかつかつと響いている。周りの生徒たちは、巨人戦争だの、十八世紀の妖精反乱だのについて、口々に悲鳴を上げていた。誰もが疲れ切っていて、誰もが少し浮ついていた。
ナマエは羽根ペンをしまいながら、時間割を見た。残すところ、午後の占い学が最後だった。つまり、ナマエの試験は終わったのだ。
達成感と解放感に浸ろうとする気持ちを、名前を呼ぶ声で遮られた。
「ナマエ」
「うん?」
ナマエは一瞬戸惑った。
名前を呼んだのは、ドラコだった。
ファーストネームで呼ばれるのは、いつぶりだろうか。ホグワーツに入学するよりももっと前に、父に連れられて行ったマルフォイ邸が最後だろうか。
ナマエが短く返すと、ドラコは周りを気にするように視線を走らせた。いつものように胸を張ってはいない。むしろ、誰かに聞かれることを恐れているようだった。
「話がある──来い。ここじゃ話せない」
「今じゃないと駄目なのか」
ナマエは正直、試験で神経をすり減らしてへとへとだった。
「君が一人でいる時間は少ないだろう」
ドラコは苛立ったように言ったが、その苛立ちにはいつもの余裕がなかった。ナマエはそれが気にかかり、しぶしぶ鞄を肩にかけた。それを見たドラコは何も言わず、早足で広間を出た。
廊下に出ると、試験後のざわめきが背後へ遠ざかっていった。代わりにナマエの腹が空腹で呻いた。やっぱり、昼食の後にしようと言えばよかった。
ドラコは足早に階段を駆け上がり、最後のほうはほとんど走っていた。ナマエは息を切らしながらついていった。
「はあ、ちょっと待て──ドラコ──どこまで行くんだ」
「のろまめ」
「うるさいな……あっ」
ナマエは足を止めた。
廊下の先に、バーナバスがトロールにバレエを教えようとしている、あの妙なタペストリーが見えた。ドラコも立ち止まった。
「必要の部屋を知ってたんだな」
ナマエが言うと、ドラコは振り返らずに答えた。
「……お前達が、勝手に我が物顔で使っていただけだ」
ドラコは壁の前を行き来し始めたのを、ナマエは黙って見ていた。
やがて、何もなかった壁に扉が現れた。ドラコはその取っ手に手をかけ、ほとんどナマエを押し込むように中へ入った。
部屋は広くなかった。低い天井。古びた椅子が二つ。暖炉には火が入り、机の上には埃をかぶった燭台が置かれているだけだ。二人で話をしたいというのは、本当らしかった。
扉が閉まると、外の音がすっと消えた。
ナマエはドラコを見た。
「でっ──話って?」
ドラコは答えなかった。
「ドラコ?」
ドラコはしばらく黙っていた。ナマエの、階段で上がった呼吸が響いた。
ナマエが息を整えると、ついにドラコは口を開いた。
「……お前──僕に、呪いをかけているのか?」
ナマエは一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「なんの──」
「とぼけるな」
ドラコの目が鋭くなった。
「お前の『魅了の呪い』のことは知っている」
ナマエの喉が詰まった。
「あ……」
声が、それ以上出なかった。次の瞬間、ドラコの杖が上がった。
「インカーセラス!」
縄が空中から飛び出し、ナマエの腕と胴を椅子の背へ縛りつけた。椅子が床をきしませ、ナマエは息を詰めた。
「っ何するんだ!」
「近づくな」
ドラコの声は鋭かった。しかし、その杖先はほんのわずかに震え、ナマエを見る目は見開かれていた。
ナマエの杖が床に転がった。ナマエが身を乗り出そうとすると、縄がぎしりと食い込んだ。ドラコはナマエの杖を拾い上げた。
「返せよ!なんのつもりだ」
「お前が用心に値するだけだ」
「あはは、ずいぶんな褒め言葉だな」
腕を動かそうとしたが、縄はびくともしなかった。ナマエはドラコを睨んだ。というより、まじまじと見つめた。ドラコは一歩下がった。顔は青ざめているのに、目だけがぎらぎらしている。
ナマエはこのときになってようやく、この呪いに晒される人間の恐怖や疑念を正しく理解した。
「僕の質問に答えろ」
父のこと。耳飾りのこと。自分の中にある、よく分からない呪いのこと。隠していたものが、いきなり燭台の明かりの下に引きずり出された気がした。ナマエは息を吸った。
「呪ってない。マーリンに誓う」
「証拠はあるのか」
「証拠……」
ナマエは言葉に詰まった。そんなものは、何ひとつ持っていなかった。自分でさえ、この力の仕組みを全部知っているわけではなかった。
「……俺がその力のことを知ったのは最近なんだ」
ナマエはゆっくり言った。
「何が呪いのきっかけになるのかわからなかった。だから、いろいろ実験してみた。それで──」
ドラコの目が細くなる。
ナマエは少し笑った。笑える場面ではないのに、笑うしかなかった。
「俺がキスをしたら、相手は呪われる」
暖炉の火が、小さく爆ぜた。ドラコは何も言わなかった。ナマエは肩をすくめようとしたが、縄がそれを許さなかった。
「笑えるよな」
ドラコは答えなかったので、ナマエは視線を落とした。
「でも、俺があんたにキスをしたことはないと思うけど?」
ドラコの頬が、かすかに強張った。
「度がすぎるぞ、ナマエ・ミョウジ」
ナマエは学期の始めに、馬車の中でドラコと話したことを思い出した。妙に真剣で、それでいてびくびく何かに怯えていた。
あのとき、ドラコはすでにナマエの魅了の呪いのことを知っていたのかもしれない。
「だから、呪ってない。それに──今は、キスしたって誰も呪えないんだ。このピアスが呪いを抑えてるから」
ナマエは頭を振って、耳を見せて言った。少しは安心してくれるだろうか。
しかし、ナマエの思惑とは裏腹に、ドラコの目が揺れた。
「──まだ僕のことを信用しているのか?」
声が低くなった。
「まだ、ただの友達だと思ってる?」
ナマエは一瞬虚をつかれた。今話したことは、そんなに隠すべきことだっただろうか。
ドラコにはいつものような高慢さも、皮肉もない。そこにあるのは、ほとんど怒りに近い苛立ちだった。だが、その奥にもっと厄介なものがあることを、ナマエは見てしまった。灰色の瞳が、曇り空のように揺れている。
どういう意味だ、どんな気持ちでそんなことを聞くんだと問いただす言葉を飲み込み、ナマエはゆっくり息を吐いた。
「思ってるよ」
ドラコの顔が歪んだ。
「お前は本当に──」
「思ってる。あんたがそう思わなくても」
ナマエは遮った。
ドラコの顔が、いっそう歪んだ。 怒ったのか、傷ついたのか、それとも別の何かなのか、ナマエにはわからなかった。ドラコは何か言いかけ、結局何も言わず、背を向けた。
「待て、どこに行くんだ」
ドラコは答えず、扉に手をかけた。
「ドラコ」
呼び止めても、振り返らなかった。扉が閉まると、部屋はしんと静まり返った。
ナマエはしばらく扉を睨んでいた。どこへ行ってしまったんだろう。なぜ自分は縛られているんだろう。考えても思い浮かぶのは、ドラコの強張った顔だけだった。
ナマエはそれから、手首を捻り、体を傾け、縄をどうにか緩めようとして、椅子の脚がぎしぎしと石床をこすった。もう少し体を倒せば、片方の腕だけでも抜けるかもしれない。そう思って腰に力を入れた瞬間、椅子の片脚がずるりと滑った。
次の瞬間、椅子が横へ倒れきり、逃げ場のない頭が石床へ落ちた。
ごつん、と鈍い音がした。
目の前が白く弾け、耳の奥で鐘を叩いたような音が鳴り響いた。
それからどれくらい経ったのか、ナマエには分からなかった。
目を開けると、頬の下に冷たい石床があった。椅子は横倒しになったままで、ナマエの腕と胴は、まだ縄で椅子の背に縛りつけられている。こめかみがずきずき痛んだ。少し動くと、視界の端がぐらりと揺れた。
「……最悪」
動物もどきになれば抜けられるかもしれない、と思った。 しかし、カササギの姿で部屋を飛び出したところで、杖はドラコが持っている。どこへ行ったかさえわからない。廊下に誰がいるかもわからない。必要の部屋を出てきたところが見つかれば、ただの鳥ではすまないかもしれなかった。
またしばらくすると、部屋の隅に細い扉が一つ現れた。簡易的な鍵がついている──どうみても便所だった。
ナマエはそれを見て、顔をしかめた。打ちつけた頭が少し痛んだ。……十を数えてドラコが帰ってこなかったら、動物もどきになって抜け出そう。そう決めたとき、廊下に続くドアが開いた。
ドラコは紙袋を抱えながら入ってきて、床に転がるナマエを見た。それから、部屋の隅に現れた細い扉を見た。
眉間に、深い皺が寄った。ナマエも苦い顔をした。
「……催したんだ、縄を解いてくれ」
ドラコは嫌そうに、しかし案外素直に杖を振った。縄がばらばらとほどけ、床に落ちた。腕が自由になった途端に血が戻ってきて、手首がじんじん痛んだ。ナマエはしびれた腕を押さえながら立ち上がった。
「妙な真似をするなよ」
「妙な真似をしてるのはあんただろ」
ナマエが用を足して戻ると、ドラコは椅子に座って、机に紙袋の中身を広げていた。
かぼちゃジュースとキドニーパイと、林檎が二つ。食事を持ってきたのだと気づいて、ナマエはますます混乱した。
「え、何……?」
ナマエには、さっぱりわからなかった。
縛って、杖を取り上げて、閉じ込めた相手に食事を持ってくるというのは、どういう了見なのだろう。
自分が呪われたかもしれないとなった途端、怯えて当たり散らしていただけなのか?そもそも、ドラコは普段から、気に入らない相手に呪いを撃って笑っているようなやつのくせに……。
「見てわからないのか?」
「飯より、杖を返して欲しいんだけど」
ナマエの言葉を遮ったのは、他でもないナマエの腹だった。ドラコは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
ナマエは少しだけ睨んでから、結局キドニーパイを取った。ドラコの持ってきたものを食べるのは不本意だったが、空腹の体は抗えなかった。
まさか、ドラコはこれで何かを埋め合わせたつもりなのだろうか。
しばらく、二人は黙って食べた。
ナマエはキドニーパイの端を崩しながら、ちらりとドラコを見た。
「これ、仲直りのつもり?」
「好きに受け取ればいい」
ドラコはほんの数口かじった林檎を手の中で持て余していた。
──どうして君がマルフォイに絡むのか、僕には理解できないな……
以前、アンソニーがそう言ったことを思い出した。もっともな言葉だ。けれど、今なら少しは答えられるかもしれないと思った。
「なあ、あんたは覚えてないかもしれないけど」
ドラコが顔を上げた。
「父上が初めて俺を外に連れていったのが、あんたの六歳の誕生日会だった」
「覚えてないな」
ドラコはすぐに言った。早すぎる返事だった。ナマエは少しだけ笑った。
「だろうな」
ドラコは眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
「別にいいさ……でも俺、あんなにたくさん人がいるのを初めて見たんだぜ」
ナマエは目を食べかけのパイに落とした。
大きな屋敷。知らない大人たち。子どもたち。飾り立てられたテーブル。足音もなく行き来する屋敷しもべ妖精。どこを見ても人がいて、ナマエはどこに立っていればいいのかさえわからなかった。
「びびってたんだ。だから、あんたが話しかけてくれて嬉しかった」
あの家の中心にいる子どもが、当然のようにナマエを見て、当然のように話しかけた。
軽い気持ちだったかもしれないし、今思えば哀れみの方だったのかもしれない。同い年の男の子と話すのは、それが初めてだった。
「……馬鹿げてる」
ドラコが低く言った。
「誕生日会で、招待客に声をかけただけだ」
「俺には、そうじゃなかったんだよ」
ナマエが言うと、ドラコは不愉快そうに口を閉じた。 それが怒りなのか、照れ隠しなのか、ナマエにはわからなかった。
「あんたの家は、俺の家とはまるきり違った。みんなあんたを見てるし……愛してた。あんたがいるだけで、家の真ん中はそこだった」
ドラコの手元を見ながら、ナマエは続けた。
「でも、俺の家はがらんどうで、父上は俺と目を合わせなかった。だから、俺には理由が必要だったんだ。あの時の俺には──父親に愛されない理由が」
どうしてこんな話をしているのだろう。ナマエは自分の言葉をまるで他人ごとのように聞いていた。
そういえば、前にもこんなことがあった。ワールドカップの日も、森の中で、ナマエはドラコ相手に言うつもりのないことまで喋った。
ドラコは慰めもしなかったし、正しもしなかったが、いつもの憎たらしい顔でそこにいた。 そのせいで、ナマエはかえって黙れなくなるのかもしれなかった。
「わけもなく親が子供を嫌うはずがないって思わずにはいられなかった。だから、父上や──あんたたちの、純血主義者の逆をやってやったんだ」
ちらりと顔を見ると、ドラコの目がわずかに細くなった。
「何だ、それは」
「──家を抜け出してマグルの街に降りたら、しこたま怒られた。だって、そのほうが筋が通るよな?父上が俺を邪険に扱うのは、俺が、父上が嫌いなマグルに肩入れしてるからだ。俺たち親子が分かり合えないのは、考え方が合わないからだ──って、そう思いたかった」
ナマエは自分でも馬鹿な話だと思った。けれど、あの頃の自分にはそれが必要だった。
「馬鹿なのか、なぜ今更そんな話をするんだ」
「だから──違うんだよ、俺は」
ナマエは震える声で低く言った。少し前から思っていたことだった。
ブラック家のシリウス。ウィーズリー家のアーサーさんたち。彼らと過ごすとき、なぜか後ろ暗い気持ちになるのはどうしてか。
「俺は──ハリーやロンとは根っこが全然違うんだ。あいつらみたいに、最初から正しいものを信じてたわけじゃない。もし俺が最初から、愛されてると実感できてたら」
ナマエはドラコの顔を見た。
「あんたと同じような考えになっていたかもしれない」
ドラコは眉を上げた。怒ったのかもしれない。侮辱だと思ったのかもしれない。身勝手な懺悔を聞かされて、呆れたという可能性もある。
ドラコから視線を逸らさず、ナマエは声を絞り出した。
「でも、そうならなかった」
暖炉の火が、二人の影を壁に長く伸ばしている。ナマエはドラコを見た。
「あんたにもそうなってほしくない」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
ドラコはナマエを見ていた。何か言い返そうとしているようで、けれど言葉が見つからないようだった。やがて、彼は低く言った。
「僕のことを何も知らないくせに」
「知らないよ」
ナマエはすぐに答えた。
「だから聞きたい。友達でいるために」
ドラコの肩が、ほんのわずかに落ちた。
その時だった。
パチンっ、と鋭い音がして、暖炉の前に小さな影が現れた。
ナマエは反射的に立ち上がった。ドラコも同時に杖を構えたが、現れたものを見た瞬間、ナマエは息を呑んだ。
ミョウジ家の屋敷しもべ妖精、シノビーだった。
大きな耳を伏せ、ぼろ布のようなナイトキャップをまとった小さな体が、床に額をこすりつけるほど深くお辞儀をした。
「シノビー、どうして」
屋敷しもべ妖精は、ぎょろりとした目に涙をためながら言った。
「ナマエさまがご無事でいらっしゃるか、どこにおいでか、怪我をなさっていないか、ただちに確認せよとのご命令でございます」
ナマエの背筋が冷えた。
「父上が?」
「はい、ナマエさま」
ナマエは一歩近づいた。
「待て、何が起きてる。父上は何で俺を探してる」
「ナマエさまは、ご無事でございます!お怪我も、見えるところにはございません!」
「待て、待って──シノビー!」
ナマエが手を伸ばすより早く、屋敷しもべ妖精はまた深々と頭を下げた。次の瞬間、ぱんっ、と音を立てて、屋敷しもべ妖精は消えた。暖炉の火だけが、何事もなかったように燃えている。
ナマエはしばらく、妖精の消えた場所を見ていた。それから、ゆっくりとドラコを振り返った。ドラコは顔色を失っていた。
「……ドラコ、何が起きてる」
ナマエの声は低かった。
「父上が、俺の無事を確認させた。お前は俺をここに連れてきた。偶然なら、そう言ってくれ」
ドラコは唇を結んだ。
「『魅了の呪い』の話は何だったんだ。俺をここに連れてくるための口実か?」
ドラコの目がわずかに揺れた。それだけで十分だった。ナマエは短く息を吐いた。
「──そうか」
「全部が嘘だったわけじゃない!」
ドラコの声が荒くなった。
「呪いのことを知ったのは本当だ。君に聞きたかったのも本当だ。僕が──」
そこで、彼は言葉を止めた。ナマエは見逃さなかった。
「『僕が』、何?言えよ」
「黙れ、何を言うかどうかは僕が決める!」
ドラコは怒鳴った。その声は、必要の部屋の低い天井にぶつかって、すぐに消えた。ナマエは鼻を鳴らした。
「誰に命令されたんだ。ルシウス・マルフォイか」
返事はない。ナマエは一歩近づいた。
「それとも、もっと上か」
ドラコの指が震えた。ナマエの胸が嫌な音を立てた。
「……まさか」
「その名前を出すな」
ドラコが低く言った。ナマエは息を呑んだ。
「俺をここに隠せって?」
ドラコは答えなかった。
「何のために──」
「知らない」
「ドラコ」
「本当に、全部は知らない!」
ドラコはナマエを睨んだ。だが、その目は怯えていた。
「僕が聞いたのは、お前をしばらく見つからない場所に置けということだけだ。ポッターからも、教師からも、誰からも見えない場所に」
「ハリー?」
ナマエは反射的に言った。ドラコは口を閉ざした。
「ハリーに何かあったのか」
「知らないと言っているだろ!」
ハリーは占い学の試験を受けていたはずだ。しかし、ナマエがここに来てからどれくらい経ったのだろう。
ナマエは扉へ目を向けた。
「戻る」
ドラコが即座に扉の前に立ちはだかった。
「駄目だ」
「俺の杖を返せ、ドラコ」
ナマエの声が冷えた。
「『まだ信用してるのか』って、そういうことか。俺の身の上話が長引いて、あんたは内心大助かりだったわけか」
ドラコの顔が歪んだ。
「あんたは俺を使ってハリーを遠ざけようとしてる」
ナマエは確かめるように言いながら、一歩、ドラコに近づいた。ドラコは後ずさり、扉に背中がぶつかった。
「あんたは俺を隠せと言われた。ハリーから見えない場所に。父上は俺の無事を確かめに屋敷しもべを寄越した」
言葉にしながら、ナマエ自身の中で嫌な輪郭が形を取り始めていた。まだ分からない。けれど、よくないことだけは分かる。
「──ハリーは、俺に何かあったと思ってるのか」
ドラコは目を逸らした。ナマエの胃が沈んだ。
「俺を餌にしたのか、そうだろう。俺をつかって、あいつは──ヴォルデモートは、ハリーをどこに誘き寄せた!」
「──神秘部」
声は、かすれるほど小さかった。
「魔法省の?」
ドラコは黙っていた。ナマエは目を閉じたくなった。
──ハリーは行く。友達が襲われていると思えば、ハリーは必ず行く。それは、ナマエ自身が誰よりもよく知っている。
ナマエは自分が秘密の部屋に攫われた時のことを思い出した。あんな、目を合わせただけで死んでしまう化け物相手でも、ハリーは迷わずやってきた。ハーマイオニーなら彼を止めるだろう。それでも、止めきれないかもしれない。
「どけ」
「駄目だ」
「どけ!杖を返せ、ドラコ」
「僕に指図するな!」
ドラコは首を振った。
「違う。お前はわかってない」
「じゃあ、わかるように言えよ」
「あの方に捕まったら──どんな惨めな姿を晒すことになるのか、本当にわからないのか?」
部屋がしんと静まり返った。ドラコは荒く息をしていた。
ナマエは少しだけ表情を緩めた。
「ドラコ、あんたも来いよ」
ドラコは信じられないものを見るような顔をした。
「……馬鹿を言うな」
ナマエは扉から目線を外し、暖炉へ向かった。
暖炉脇の小卓には、いつの間にか銀の壺が置かれていた。蓋を開けると、緑がかった粉が鈍く光っている。必要の部屋が、必要なものを出したのだ。
「やめろ、どこへ行く気だ」
「神秘部」
ナマエは平然と言った。ドラコの顔が歪んだ。
ナマエはドラコに手を突き出した。
「杖を返せ」
「駄目だ」
「ドラコ!」
「返せば、お前は本当に行く」
「……そう思うか?」
ナマエは杖を求めた手で、そのまま煙突飛行粉 を一掴みした。
「返さなくても行く。俺が無事だってハリーが知れば、少なくとも話は変わる」
「そんな保証はない」
「ここにいる理由も、俺にはない。止めたいなら、ついて来ればいい」
ナマエは暖炉の前に立った。火が小さく揺れている。
ドラコは動かなかった。ナマエは一度だけ振り返った。
「いいことを教えてやる。俺はあんたを呪ってない。つまり、あんたが本心で俺にかまってるんだ」
ナマエはドラコを見て、薄く笑った。
「臆病者」
ドラコが息を呑んだ。ナマエはもうドラコを見なかった。
煙突飛行粉を炎へ投げ込むと、緑の火が暖炉いっぱいに燃え上がった。
「魔法省!」
次の瞬間、炎がナマエを呑み込んだ。
羊皮紙を回収する試験官の足音が、広間の床にかつかつと響いている。周りの生徒たちは、巨人戦争だの、十八世紀の妖精反乱だのについて、口々に悲鳴を上げていた。誰もが疲れ切っていて、誰もが少し浮ついていた。
ナマエは羽根ペンをしまいながら、時間割を見た。残すところ、午後の占い学が最後だった。つまり、ナマエの試験は終わったのだ。
達成感と解放感に浸ろうとする気持ちを、名前を呼ぶ声で遮られた。
「ナマエ」
「うん?」
ナマエは一瞬戸惑った。
名前を呼んだのは、ドラコだった。
ファーストネームで呼ばれるのは、いつぶりだろうか。ホグワーツに入学するよりももっと前に、父に連れられて行ったマルフォイ邸が最後だろうか。
ナマエが短く返すと、ドラコは周りを気にするように視線を走らせた。いつものように胸を張ってはいない。むしろ、誰かに聞かれることを恐れているようだった。
「話がある──来い。ここじゃ話せない」
「今じゃないと駄目なのか」
ナマエは正直、試験で神経をすり減らしてへとへとだった。
「君が一人でいる時間は少ないだろう」
ドラコは苛立ったように言ったが、その苛立ちにはいつもの余裕がなかった。ナマエはそれが気にかかり、しぶしぶ鞄を肩にかけた。それを見たドラコは何も言わず、早足で広間を出た。
廊下に出ると、試験後のざわめきが背後へ遠ざかっていった。代わりにナマエの腹が空腹で呻いた。やっぱり、昼食の後にしようと言えばよかった。
ドラコは足早に階段を駆け上がり、最後のほうはほとんど走っていた。ナマエは息を切らしながらついていった。
「はあ、ちょっと待て──ドラコ──どこまで行くんだ」
「のろまめ」
「うるさいな……あっ」
ナマエは足を止めた。
廊下の先に、バーナバスがトロールにバレエを教えようとしている、あの妙なタペストリーが見えた。ドラコも立ち止まった。
「必要の部屋を知ってたんだな」
ナマエが言うと、ドラコは振り返らずに答えた。
「……お前達が、勝手に我が物顔で使っていただけだ」
ドラコは壁の前を行き来し始めたのを、ナマエは黙って見ていた。
やがて、何もなかった壁に扉が現れた。ドラコはその取っ手に手をかけ、ほとんどナマエを押し込むように中へ入った。
部屋は広くなかった。低い天井。古びた椅子が二つ。暖炉には火が入り、机の上には埃をかぶった燭台が置かれているだけだ。二人で話をしたいというのは、本当らしかった。
扉が閉まると、外の音がすっと消えた。
ナマエはドラコを見た。
「でっ──話って?」
ドラコは答えなかった。
「ドラコ?」
ドラコはしばらく黙っていた。ナマエの、階段で上がった呼吸が響いた。
ナマエが息を整えると、ついにドラコは口を開いた。
「……お前──僕に、呪いをかけているのか?」
ナマエは一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「なんの──」
「とぼけるな」
ドラコの目が鋭くなった。
「お前の『魅了の呪い』のことは知っている」
ナマエの喉が詰まった。
「あ……」
声が、それ以上出なかった。次の瞬間、ドラコの杖が上がった。
「インカーセラス!」
縄が空中から飛び出し、ナマエの腕と胴を椅子の背へ縛りつけた。椅子が床をきしませ、ナマエは息を詰めた。
「っ何するんだ!」
「近づくな」
ドラコの声は鋭かった。しかし、その杖先はほんのわずかに震え、ナマエを見る目は見開かれていた。
ナマエの杖が床に転がった。ナマエが身を乗り出そうとすると、縄がぎしりと食い込んだ。ドラコはナマエの杖を拾い上げた。
「返せよ!なんのつもりだ」
「お前が用心に値するだけだ」
「あはは、ずいぶんな褒め言葉だな」
腕を動かそうとしたが、縄はびくともしなかった。ナマエはドラコを睨んだ。というより、まじまじと見つめた。ドラコは一歩下がった。顔は青ざめているのに、目だけがぎらぎらしている。
ナマエはこのときになってようやく、この呪いに晒される人間の恐怖や疑念を正しく理解した。
「僕の質問に答えろ」
父のこと。耳飾りのこと。自分の中にある、よく分からない呪いのこと。隠していたものが、いきなり燭台の明かりの下に引きずり出された気がした。ナマエは息を吸った。
「呪ってない。マーリンに誓う」
「証拠はあるのか」
「証拠……」
ナマエは言葉に詰まった。そんなものは、何ひとつ持っていなかった。自分でさえ、この力の仕組みを全部知っているわけではなかった。
「……俺がその力のことを知ったのは最近なんだ」
ナマエはゆっくり言った。
「何が呪いのきっかけになるのかわからなかった。だから、いろいろ実験してみた。それで──」
ドラコの目が細くなる。
ナマエは少し笑った。笑える場面ではないのに、笑うしかなかった。
「俺がキスをしたら、相手は呪われる」
暖炉の火が、小さく爆ぜた。ドラコは何も言わなかった。ナマエは肩をすくめようとしたが、縄がそれを許さなかった。
「笑えるよな」
ドラコは答えなかったので、ナマエは視線を落とした。
「でも、俺があんたにキスをしたことはないと思うけど?」
ドラコの頬が、かすかに強張った。
「度がすぎるぞ、ナマエ・ミョウジ」
ナマエは学期の始めに、馬車の中でドラコと話したことを思い出した。妙に真剣で、それでいてびくびく何かに怯えていた。
あのとき、ドラコはすでにナマエの魅了の呪いのことを知っていたのかもしれない。
「だから、呪ってない。それに──今は、キスしたって誰も呪えないんだ。このピアスが呪いを抑えてるから」
ナマエは頭を振って、耳を見せて言った。少しは安心してくれるだろうか。
しかし、ナマエの思惑とは裏腹に、ドラコの目が揺れた。
「──まだ僕のことを信用しているのか?」
声が低くなった。
「まだ、ただの友達だと思ってる?」
ナマエは一瞬虚をつかれた。今話したことは、そんなに隠すべきことだっただろうか。
ドラコにはいつものような高慢さも、皮肉もない。そこにあるのは、ほとんど怒りに近い苛立ちだった。だが、その奥にもっと厄介なものがあることを、ナマエは見てしまった。灰色の瞳が、曇り空のように揺れている。
どういう意味だ、どんな気持ちでそんなことを聞くんだと問いただす言葉を飲み込み、ナマエはゆっくり息を吐いた。
「思ってるよ」
ドラコの顔が歪んだ。
「お前は本当に──」
「思ってる。あんたがそう思わなくても」
ナマエは遮った。
ドラコの顔が、いっそう歪んだ。 怒ったのか、傷ついたのか、それとも別の何かなのか、ナマエにはわからなかった。ドラコは何か言いかけ、結局何も言わず、背を向けた。
「待て、どこに行くんだ」
ドラコは答えず、扉に手をかけた。
「ドラコ」
呼び止めても、振り返らなかった。扉が閉まると、部屋はしんと静まり返った。
ナマエはしばらく扉を睨んでいた。どこへ行ってしまったんだろう。なぜ自分は縛られているんだろう。考えても思い浮かぶのは、ドラコの強張った顔だけだった。
ナマエはそれから、手首を捻り、体を傾け、縄をどうにか緩めようとして、椅子の脚がぎしぎしと石床をこすった。もう少し体を倒せば、片方の腕だけでも抜けるかもしれない。そう思って腰に力を入れた瞬間、椅子の片脚がずるりと滑った。
次の瞬間、椅子が横へ倒れきり、逃げ場のない頭が石床へ落ちた。
ごつん、と鈍い音がした。
目の前が白く弾け、耳の奥で鐘を叩いたような音が鳴り響いた。
それからどれくらい経ったのか、ナマエには分からなかった。
目を開けると、頬の下に冷たい石床があった。椅子は横倒しになったままで、ナマエの腕と胴は、まだ縄で椅子の背に縛りつけられている。こめかみがずきずき痛んだ。少し動くと、視界の端がぐらりと揺れた。
「……最悪」
動物もどきになれば抜けられるかもしれない、と思った。 しかし、カササギの姿で部屋を飛び出したところで、杖はドラコが持っている。どこへ行ったかさえわからない。廊下に誰がいるかもわからない。必要の部屋を出てきたところが見つかれば、ただの鳥ではすまないかもしれなかった。
またしばらくすると、部屋の隅に細い扉が一つ現れた。簡易的な鍵がついている──どうみても便所だった。
ナマエはそれを見て、顔をしかめた。打ちつけた頭が少し痛んだ。……十を数えてドラコが帰ってこなかったら、動物もどきになって抜け出そう。そう決めたとき、廊下に続くドアが開いた。
ドラコは紙袋を抱えながら入ってきて、床に転がるナマエを見た。それから、部屋の隅に現れた細い扉を見た。
眉間に、深い皺が寄った。ナマエも苦い顔をした。
「……催したんだ、縄を解いてくれ」
ドラコは嫌そうに、しかし案外素直に杖を振った。縄がばらばらとほどけ、床に落ちた。腕が自由になった途端に血が戻ってきて、手首がじんじん痛んだ。ナマエはしびれた腕を押さえながら立ち上がった。
「妙な真似をするなよ」
「妙な真似をしてるのはあんただろ」
ナマエが用を足して戻ると、ドラコは椅子に座って、机に紙袋の中身を広げていた。
かぼちゃジュースとキドニーパイと、林檎が二つ。食事を持ってきたのだと気づいて、ナマエはますます混乱した。
「え、何……?」
ナマエには、さっぱりわからなかった。
縛って、杖を取り上げて、閉じ込めた相手に食事を持ってくるというのは、どういう了見なのだろう。
自分が呪われたかもしれないとなった途端、怯えて当たり散らしていただけなのか?そもそも、ドラコは普段から、気に入らない相手に呪いを撃って笑っているようなやつのくせに……。
「見てわからないのか?」
「飯より、杖を返して欲しいんだけど」
ナマエの言葉を遮ったのは、他でもないナマエの腹だった。ドラコは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
ナマエは少しだけ睨んでから、結局キドニーパイを取った。ドラコの持ってきたものを食べるのは不本意だったが、空腹の体は抗えなかった。
まさか、ドラコはこれで何かを埋め合わせたつもりなのだろうか。
しばらく、二人は黙って食べた。
ナマエはキドニーパイの端を崩しながら、ちらりとドラコを見た。
「これ、仲直りのつもり?」
「好きに受け取ればいい」
ドラコはほんの数口かじった林檎を手の中で持て余していた。
──どうして君がマルフォイに絡むのか、僕には理解できないな……
以前、アンソニーがそう言ったことを思い出した。もっともな言葉だ。けれど、今なら少しは答えられるかもしれないと思った。
「なあ、あんたは覚えてないかもしれないけど」
ドラコが顔を上げた。
「父上が初めて俺を外に連れていったのが、あんたの六歳の誕生日会だった」
「覚えてないな」
ドラコはすぐに言った。早すぎる返事だった。ナマエは少しだけ笑った。
「だろうな」
ドラコは眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
「別にいいさ……でも俺、あんなにたくさん人がいるのを初めて見たんだぜ」
ナマエは目を食べかけのパイに落とした。
大きな屋敷。知らない大人たち。子どもたち。飾り立てられたテーブル。足音もなく行き来する屋敷しもべ妖精。どこを見ても人がいて、ナマエはどこに立っていればいいのかさえわからなかった。
「びびってたんだ。だから、あんたが話しかけてくれて嬉しかった」
あの家の中心にいる子どもが、当然のようにナマエを見て、当然のように話しかけた。
軽い気持ちだったかもしれないし、今思えば哀れみの方だったのかもしれない。同い年の男の子と話すのは、それが初めてだった。
「……馬鹿げてる」
ドラコが低く言った。
「誕生日会で、招待客に声をかけただけだ」
「俺には、そうじゃなかったんだよ」
ナマエが言うと、ドラコは不愉快そうに口を閉じた。 それが怒りなのか、照れ隠しなのか、ナマエにはわからなかった。
「あんたの家は、俺の家とはまるきり違った。みんなあんたを見てるし……愛してた。あんたがいるだけで、家の真ん中はそこだった」
ドラコの手元を見ながら、ナマエは続けた。
「でも、俺の家はがらんどうで、父上は俺と目を合わせなかった。だから、俺には理由が必要だったんだ。あの時の俺には──父親に愛されない理由が」
どうしてこんな話をしているのだろう。ナマエは自分の言葉をまるで他人ごとのように聞いていた。
そういえば、前にもこんなことがあった。ワールドカップの日も、森の中で、ナマエはドラコ相手に言うつもりのないことまで喋った。
ドラコは慰めもしなかったし、正しもしなかったが、いつもの憎たらしい顔でそこにいた。 そのせいで、ナマエはかえって黙れなくなるのかもしれなかった。
「わけもなく親が子供を嫌うはずがないって思わずにはいられなかった。だから、父上や──あんたたちの、純血主義者の逆をやってやったんだ」
ちらりと顔を見ると、ドラコの目がわずかに細くなった。
「何だ、それは」
「──家を抜け出してマグルの街に降りたら、しこたま怒られた。だって、そのほうが筋が通るよな?父上が俺を邪険に扱うのは、俺が、父上が嫌いなマグルに肩入れしてるからだ。俺たち親子が分かり合えないのは、考え方が合わないからだ──って、そう思いたかった」
ナマエは自分でも馬鹿な話だと思った。けれど、あの頃の自分にはそれが必要だった。
「馬鹿なのか、なぜ今更そんな話をするんだ」
「だから──違うんだよ、俺は」
ナマエは震える声で低く言った。少し前から思っていたことだった。
ブラック家のシリウス。ウィーズリー家のアーサーさんたち。彼らと過ごすとき、なぜか後ろ暗い気持ちになるのはどうしてか。
「俺は──ハリーやロンとは根っこが全然違うんだ。あいつらみたいに、最初から正しいものを信じてたわけじゃない。もし俺が最初から、愛されてると実感できてたら」
ナマエはドラコの顔を見た。
「あんたと同じような考えになっていたかもしれない」
ドラコは眉を上げた。怒ったのかもしれない。侮辱だと思ったのかもしれない。身勝手な懺悔を聞かされて、呆れたという可能性もある。
ドラコから視線を逸らさず、ナマエは声を絞り出した。
「でも、そうならなかった」
暖炉の火が、二人の影を壁に長く伸ばしている。ナマエはドラコを見た。
「あんたにもそうなってほしくない」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
ドラコはナマエを見ていた。何か言い返そうとしているようで、けれど言葉が見つからないようだった。やがて、彼は低く言った。
「僕のことを何も知らないくせに」
「知らないよ」
ナマエはすぐに答えた。
「だから聞きたい。友達でいるために」
ドラコの肩が、ほんのわずかに落ちた。
その時だった。
パチンっ、と鋭い音がして、暖炉の前に小さな影が現れた。
ナマエは反射的に立ち上がった。ドラコも同時に杖を構えたが、現れたものを見た瞬間、ナマエは息を呑んだ。
ミョウジ家の屋敷しもべ妖精、シノビーだった。
大きな耳を伏せ、ぼろ布のようなナイトキャップをまとった小さな体が、床に額をこすりつけるほど深くお辞儀をした。
「シノビー、どうして」
屋敷しもべ妖精は、ぎょろりとした目に涙をためながら言った。
「ナマエさまがご無事でいらっしゃるか、どこにおいでか、怪我をなさっていないか、ただちに確認せよとのご命令でございます」
ナマエの背筋が冷えた。
「父上が?」
「はい、ナマエさま」
ナマエは一歩近づいた。
「待て、何が起きてる。父上は何で俺を探してる」
「ナマエさまは、ご無事でございます!お怪我も、見えるところにはございません!」
「待て、待って──シノビー!」
ナマエが手を伸ばすより早く、屋敷しもべ妖精はまた深々と頭を下げた。次の瞬間、ぱんっ、と音を立てて、屋敷しもべ妖精は消えた。暖炉の火だけが、何事もなかったように燃えている。
ナマエはしばらく、妖精の消えた場所を見ていた。それから、ゆっくりとドラコを振り返った。ドラコは顔色を失っていた。
「……ドラコ、何が起きてる」
ナマエの声は低かった。
「父上が、俺の無事を確認させた。お前は俺をここに連れてきた。偶然なら、そう言ってくれ」
ドラコは唇を結んだ。
「『魅了の呪い』の話は何だったんだ。俺をここに連れてくるための口実か?」
ドラコの目がわずかに揺れた。それだけで十分だった。ナマエは短く息を吐いた。
「──そうか」
「全部が嘘だったわけじゃない!」
ドラコの声が荒くなった。
「呪いのことを知ったのは本当だ。君に聞きたかったのも本当だ。僕が──」
そこで、彼は言葉を止めた。ナマエは見逃さなかった。
「『僕が』、何?言えよ」
「黙れ、何を言うかどうかは僕が決める!」
ドラコは怒鳴った。その声は、必要の部屋の低い天井にぶつかって、すぐに消えた。ナマエは鼻を鳴らした。
「誰に命令されたんだ。ルシウス・マルフォイか」
返事はない。ナマエは一歩近づいた。
「それとも、もっと上か」
ドラコの指が震えた。ナマエの胸が嫌な音を立てた。
「……まさか」
「その名前を出すな」
ドラコが低く言った。ナマエは息を呑んだ。
「俺をここに隠せって?」
ドラコは答えなかった。
「何のために──」
「知らない」
「ドラコ」
「本当に、全部は知らない!」
ドラコはナマエを睨んだ。だが、その目は怯えていた。
「僕が聞いたのは、お前をしばらく見つからない場所に置けということだけだ。ポッターからも、教師からも、誰からも見えない場所に」
「ハリー?」
ナマエは反射的に言った。ドラコは口を閉ざした。
「ハリーに何かあったのか」
「知らないと言っているだろ!」
ハリーは占い学の試験を受けていたはずだ。しかし、ナマエがここに来てからどれくらい経ったのだろう。
ナマエは扉へ目を向けた。
「戻る」
ドラコが即座に扉の前に立ちはだかった。
「駄目だ」
「俺の杖を返せ、ドラコ」
ナマエの声が冷えた。
「『まだ信用してるのか』って、そういうことか。俺の身の上話が長引いて、あんたは内心大助かりだったわけか」
ドラコの顔が歪んだ。
「あんたは俺を使ってハリーを遠ざけようとしてる」
ナマエは確かめるように言いながら、一歩、ドラコに近づいた。ドラコは後ずさり、扉に背中がぶつかった。
「あんたは俺を隠せと言われた。ハリーから見えない場所に。父上は俺の無事を確かめに屋敷しもべを寄越した」
言葉にしながら、ナマエ自身の中で嫌な輪郭が形を取り始めていた。まだ分からない。けれど、よくないことだけは分かる。
「──ハリーは、俺に何かあったと思ってるのか」
ドラコは目を逸らした。ナマエの胃が沈んだ。
「俺を餌にしたのか、そうだろう。俺をつかって、あいつは──ヴォルデモートは、ハリーをどこに誘き寄せた!」
「──神秘部」
声は、かすれるほど小さかった。
「魔法省の?」
ドラコは黙っていた。ナマエは目を閉じたくなった。
──ハリーは行く。友達が襲われていると思えば、ハリーは必ず行く。それは、ナマエ自身が誰よりもよく知っている。
ナマエは自分が秘密の部屋に攫われた時のことを思い出した。あんな、目を合わせただけで死んでしまう化け物相手でも、ハリーは迷わずやってきた。ハーマイオニーなら彼を止めるだろう。それでも、止めきれないかもしれない。
「どけ」
「駄目だ」
「どけ!杖を返せ、ドラコ」
「僕に指図するな!」
ドラコは首を振った。
「違う。お前はわかってない」
「じゃあ、わかるように言えよ」
「あの方に捕まったら──どんな惨めな姿を晒すことになるのか、本当にわからないのか?」
部屋がしんと静まり返った。ドラコは荒く息をしていた。
ナマエは少しだけ表情を緩めた。
「ドラコ、あんたも来いよ」
ドラコは信じられないものを見るような顔をした。
「……馬鹿を言うな」
ナマエは扉から目線を外し、暖炉へ向かった。
暖炉脇の小卓には、いつの間にか銀の壺が置かれていた。蓋を開けると、緑がかった粉が鈍く光っている。必要の部屋が、必要なものを出したのだ。
「やめろ、どこへ行く気だ」
「神秘部」
ナマエは平然と言った。ドラコの顔が歪んだ。
ナマエはドラコに手を突き出した。
「杖を返せ」
「駄目だ」
「ドラコ!」
「返せば、お前は本当に行く」
「……そう思うか?」
ナマエは杖を求めた手で、そのまま
「返さなくても行く。俺が無事だってハリーが知れば、少なくとも話は変わる」
「そんな保証はない」
「ここにいる理由も、俺にはない。止めたいなら、ついて来ればいい」
ナマエは暖炉の前に立った。火が小さく揺れている。
ドラコは動かなかった。ナマエは一度だけ振り返った。
「いいことを教えてやる。俺はあんたを呪ってない。つまり、あんたが本心で俺にかまってるんだ」
ナマエはドラコを見て、薄く笑った。
「臆病者」
ドラコが息を呑んだ。ナマエはもうドラコを見なかった。
煙突飛行粉を炎へ投げ込むと、緑の火が暖炉いっぱいに燃え上がった。
「魔法省!」
次の瞬間、炎がナマエを呑み込んだ。
