不死鳥の騎士団
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ホグワーツへの出発の日が近づいてくるにつれ、シリウスはますます不機嫌になっていった。モリーさんが「むっつり発作」と呼んでいるものが始まると、シリウスは無口で気難しくなり、しばしばバックビークの部屋に何時間も引きこもった。シリウスの憂鬱は、毒ガスのようにドアの下から滲み出し、館中に感染していくようだった。
ナマエもその気分には逆らえなかった。しかし、むしろ少しだけ居心地がよかった。誰も大きな声で笑わず、無理に話しかけてこない場所のほうが、今はましだった。
クリーチャーが時々、物陰からナマエを睨みつけているのには気づいていた。ロケットのことだろう。きっと、ナマエがマンダンガスから取り返すなど、でまかせだと思っているのだ。その証拠に、今まで通り、シリウスとクリーチャーが何か話をした形跡はなかった。これから話す気配もなかった。
だが、今のナマエには、クリーチャーの疑いに構っている余裕はなかった。
ナマエは少し前のハリーと同じように、みんなを避けるようになっていた。ハーマイオニーが心配そうに見てくるのも、ロンが何か言いたげに口を開きかけてやめるのも、ジニーが遠慮なく眉をひそめるのも、全部が怖かった。
もし、誰かの好意が本物ではなかったら。もし、自分が気づかないうちに、誰かの感情をねじ曲げていたら。
そんなことを考え始めると、誰の顔もまともに見られなかった。
そうして必然的に、ナマエはシリウスのいる部屋に居座ることが多くなった。ほかのみんなはあまり来ないし、シリウスはチチオヤからある程度の話を聞かされていたからだ。
それに、シリウスはナマエと話すときだけは、例の「むっつり発作」をどうにか押さえ込もうとしているようだった。ナマエが部屋に入っていくと、不機嫌を少しだけ横へどけた。
「入るなら戸を閉めろ。寒い」
言い方はぶっきらぼうだったが、追い出す声ではなかった。
その日、シリウスは暖炉のそばで足を組んでいたナマエを見て、ふと眉を上げた。
「見ない服だな」
ナマエは自分の膝に目を落とした。濃い藍色の、まだ少し硬い布地だった。
「……親父がくれた」
「へえ。いいじゃないか」
シリウスはにやりとした。
「ブラック家のご立派な先祖たちが見たら卒倒するだろうが、そういう服は似合う方が正しい」
「変じゃない?」
「変じゃない。君の父親は、サイズを間違えなかったらしいな」
ナマエは少しだけ笑った。 笑ってから、胸の奥がきゅっと変な音を立てた。普通の父親みたいだ、と思ってしまった。 普通のクリスマスプレゼントを寄こして、サイズを間違えないようにして、たぶんアーサーさんやシリウスに聞くなり何なりしたのだろう。
「……あの人って、母上にもそうだったのかな」
ナマエは膝の布地を指でつまんだ。
シリウスの笑みが、少しだけ薄れた。
「そう、とは?」
「普通に何かを選んだり、普通に喜ばせようとしたり」
ナマエは顔を上げなかった。暖炉の中で、薪が小さく爆ぜた。 シリウスはすぐには答えなかった。バックビークが部屋の隅で翼を畳んで眠っていた。
「チチオヤはハハオヤを愛していたよ」
やがて、シリウスが言った。
ナマエは顔を上げた。
「……本当に?」
「ああ。ぞっこんだった」
シリウスは、少し苦い顔をした。
「チチオヤの屋敷に匿われていたとき、嫌でもわかった。あいつの書斎には、ハハオヤの肖像画が掛かっていた。机からよく見える場所にだ。話しかけるでもなく、ただ見ていることがあった」
ナマエは息を止めた。
「書斎……」
そこへは、入ったことがなかった。 チチオヤの屋敷にいたころ、書斎に立ち入ることは許されていなかった。鍵がかけられ、扉の前にはいつも冷たい魔法の気配があった。
「俺、入ったことない」
「だろうな」
シリウスは静かに言った。
「チチオヤは、あの肖像画が本物のハハオヤではないとわかっていた。過去の記憶と癖をなぞるだけの、ただの絵だとな。それでも、君を見せるのが怖かったんだろう。もっとも、その屋敷も、肖像画も、今はもう燃えてしまったが」
ナマエは膝の上で手を握った。母親の肖像画を見たかったのかどうかも、よくわからなかった。
ナマエには、ハハオヤの声も、匂いも、手の温度も、ほとんど何も残っていない。母親という言葉だけが、いつも先にあった。シリウスは低く続けた。
「だが、愛していたことと、傷つけなかったことは別だ」
シリウスの声は厳しい色を帯びた。
「ハハオヤが君を身ごもってから、彼女は、あらゆる人間から求愛されるようになったそうだ。それは、君が生まれ落ちるまで続いた」
ナマエはソファの肘掛けに腰を掛けたまま、指先で耳に何もない感触をなぞっていた。
「彼女の良き友だった蛇が、彼女に教えたんだ。それはチチオヤの呪いだ、とな。ハハオヤは激しく怒り、チチオヤを拒絶した」
シリウスはそこで少しだけ口を閉じた。
「その後のことは、君も知っての通りだ。チチオヤはハハオヤに忘却術をかけ、魔法界から離れて暮らしていけるようにした。だが、君は攫われ、ハハオヤは殺された」
暖炉の中で、薪が小さく爆ぜた。ナマエは膝の上で手を握った。喉の奥が乾いていた。
「……シリウスも」
声が震えないようにするのに、思ったより力が要った。
「今は、俺がその呪いを持っているって、そう思う?」
シリウスはすぐには答えなかった。その沈黙だけで、ナマエの胃のあたりが冷たくなった。
「……わからない」
ナマエは笑おうとして、失敗した。
「だが。少なくとも、私にはチチオヤの昔のようには見えない」
ナマエは顔を上げた。
「君を慕っている友だちは、みんな君をちゃあんと見てる。君を気に食わないと思っているやつも、もちろんいるだろう。私だって、君が小言をぐちぐち言うときは、鬱陶しいと思うことがある」
「あ、そ……」
シリウスは少しだけ笑った。
「誰も彼もが君を褒めそやして、言いなりになるわけじゃない。少なくとも、今のところはな」
ナマエはその言葉を、信じたいと思った。けれど、信じたいと思うことと、信じられることは違った。
ハーマイオニーは、何度かナマエに話しかけようとした。
「ナマエ、あなた、どうしちゃったの?お父様になにか言われたの?」
厨房の戸口で呼び止められたとき、ナマエは反射的に足を止めた。ハーマイオニーは本を抱えていなかった。ただ心配している顔だった。それが、いちばん困った。
「いや、大丈夫」
ナマエは短く答えた。ハーマイオニーが一歩近づきかけたので、ナマエは反射的に半歩退いた。 その顔が傷ついたように見えて、ナマエはますます怖くなった。
「ここ数日、ずっとそう言ってるわ」
ハーマイオニーはまっすぐナマエを見た。
「私、あなたが心配なの」
ナマエは思わず目を逸らした。しばらく黙ってから、絞り出すように言った。
「……俺の嫌いなところ、ある?」
ハーマイオニーは目を瞬いた。
「……急に何?」
「あるなら、言って」
ハーマイオニーはしばらくナマエを見ていた。答えを探しているというより、言うべきかどうか迷っている顔だった。
「あるわ」
ナマエは、ほっとしてから、自分で聞いたことに少しだけ傷ついた。
「大事な本を床に積むのはやめてほしいわ。興味がないことにいい加減なところもあるし……何か考えていると、人の話を聞いていないのも。あと、なんでもかんでもポケットに入れてるけど、少しは整理整頓するべきよ」
「……結構あるな」
「あなたが聞いたんでしょう。……それから、」
ハーマイオニーは少しだけ眉を上げた。
「私が心配すると、まるで責められているみたいな顔をするところ」
「そんなこと──……」
ナマエは何も言えなかった。
「動物もどきのことだって、そう」
ハーマイオニーの声が、少し硬くなった。
「あなたは、必要になるまで黙っていた。いいえ、今もちゃんとは話してないわ。危ないことなのに。どうせ、申請もしてないんでしょう。私が怒ると思ったのかもしれないけれど、怒るわよ。怒るに決まってるわ。でも、知らないままでいさせられる方が、もっと嫌だった」
ナマエは顔を上げた。
「そんなつもりじゃ──」
「わかってるわ。あなたが意地悪でしているんじゃないことくらい」
ハーマイオニーはすぐに言った。
「でも、だからって平気なわけじゃないの。私は、あなたが危ないなら、一緒に考えたい。怖いなら、怖いって言ってほしい。なのにあなたは、私を遠ざけることを気遣いだと勘違いしているわ」
ナマエは唇を噛んだ。
チチオヤと同じだ。そう思った。 自分があれほど腹を立てていたことを、今度は自分がハーマイオニーにしている。何も知らせず、勝手に遠ざけて、相手のためだという顔をしている。
しかし、打ち明ける勇気はなかった。
「……嫌いなところ、多いな」
ナマエは、結局それだけ言った。
「ええ」
ハーマイオニーはまっすぐに言った。
「でも、嫌いなところがあるのと、あなたを嫌いになるのは違うわ。……気は済んだ?」
ナマエはそれ以上何も言わず、こっくり頷いてみんなの部屋に戻った。
その晩、ハリーはダンブルドアから、スネイプに閉心術を習うよう言われたらしい。
「スネイプに?」
ロンが心底嫌そうな声を出した。
「よりによってスネイプに、頭の中を覗かせるのか?」
ハリーは暗い顔をしていた。 ナマエはその話を聞いていたが、半分も頭に入ってこなかった。ハリーはハリーで、自分の頭の中にヴォルデモートが入り込むことを恐れている。ナマエはナマエで、自分の体の中にチチオヤの呪いがあるかもしれないことを恐れている。そう思うと、妙に息が詰まった。
ホグワーツへ戻る日の朝、モリーさんはいつものようにナマエのマフラーを直してくれた。
「寒いでしょう。学校に戻っても、身体に気をつけてね」
今までなら、ただ温かいと思えたはずだった。しかし、ナマエは一瞬、考えてしまった。 チチオヤの言っていたのは、こういうことなのだ。 誰かの優しさを受け取るたびに、それが本物かどうか疑わずにはいられないこと。そんな目で、これから先ずっと人を見続けること。
ナマエはどうにか礼だけ言って、モリーさんの手がもう一度伸びる前に、荷物を持ち直した。
ホグワーツへ戻る騎士バスの中でも、ナマエはほとんど口をきかなかった。一緒に過ごしてきた時間が長すぎて、今さら距離をとったところで意味がないことはわかっていても、怖かった。車体が乱暴に跳ね、ベッドが右へ左へ滑っても、眠気は少しも来なかった。
学校へ戻ったら、確かめなければならない。
本当に、自分にそんな力があるのか。あるなら、どうすれば、誰も傷つけずに済むのか。
休暇明けのホグワーツは、いつもより冷たく見えた。城の廊下を歩きながら、ナマエは誰とも目を合わせなかった。談話室にも、大広間にも長くはいなかった。
そこから数日、ナマエは図書館に籠った。
普段のナマエからしても違和感はなかっただろう。いつもと違う点は、ナマエは魅了の呪いに近しい魔法の本を探して片っ端から読み漁っていたことだ。──愛の妙薬──グレゴリーの魔法薬──ヴィーラの生態──どれも大した収穫はなかった。
となると、残すは、闇の魔術だ──……
「ナマエ」
禁書の棚の前で立ち尽くしていると、背後から嫌な声がした。振り返ると、ザカリアス・スミスだった。
「禁書の棚なんか眺めて。DAの副先生様は、闇の魔術まで教えるつもりか?」
ナマエは肩の力を抜いた。いつも通りの嫌味だった。少なくとも、ザカリアスは変わっていない。
「……うるさいな。道に迷っただけだ」
「図書館で?」
ザカリアスは鼻で笑った。
「ずいぶん便利な頭をしてるんだな、レイブンクローにしては」
その言い方に、ナマエは少しだけ安心した。 嫌味で、皮肉で、こちらをちっとも敬っていない。
「顔色が悪いぞ」
不意に、ザカリアスが言った。ナマエは息を止めた。
「……何?」
「聞こえなかったのか?顔色が悪いって言ったんだ。体調が悪いなら、医務室に行ったほうがいい」
ザカリアスは相変わらず嫌な言い方だった。しかし、気遣わしげな目を向けていた。
「問題ない」
ナマエはぶっきらぼうにそう言って、ザカリアスの横をすり抜けた。背中にザカリアスの怪訝そうな視線を感じて、少しほっとした。
その夜、ナマエは必要の部屋の前に立った。
誰にも迷惑をかけずに、知られずに、考えられる場所が欲しかった。ナマエは目を閉じ、三度、壁の前を歩いた。必要なのは、実験室だ。三度目に目を開けると、壁には扉が現れていた。
ナマエはしばらく、その扉を見つめていたが、意を決して取っ手に手をかけ、扉を押し開けた。
中は、使われなくなった教室のようだった。ただ、普通の教室にしては物が多すぎた。古い机が一つ。壁際には壊れた甲冑、練習用の木の人形、革紐で縛られた分厚い本、枝の乱れた古い箒が並んでいる。部屋の奥には、ナマエよりも背の高い白と黒の魔法チェスの駒が、何体か沈黙して立っていた。
ナマエは机に向かい、ローブの内側から羊皮紙の束を取り出した。
ここ数日で書き溜めたものだ。図書館で調べたこと。チチオヤから聞いたこと。思い出したくない出来事。途中で線を引いたものも、丸めかけてやめたものも混じっている。どれも、決定的ではない。 本に書かれているどの症例にも、魅了の呪いとまったく同じものはなかった。
人で試せば、いちばん早い。
そう思ってしまった瞬間、ナマエは自分の手から羽根ペンを取り落としかけた。
そんなことはできない。
ハーマイオニーでも、ザカリアスでも、通りすがりの誰かでも、できるはずがない。けれど、人間で試さない限り、本当のことはわからないのではないか。必要の部屋が準備したものを眺めて、ナマエは目を細めた。こんなものたちが、本当に今の自分に必要なのだろうか。
魔法のかかった本やチェスの駒を相手にして、いったい何がわかるというのだろう。
ナマエは立ち上がった。
それでも、何もしないよりはましだった。何もわからないまま、誰かに触れるよりは。
ナマエは、いちばん大きなチェスの駒を選んだ。
黒い騎士の駒だった。馬の頭は荒々しく彫られ、片方の蹄が床を蹴るように持ち上がっている。ナマエが近づくと、駒はぎしりと音を立てて動いた。
「さあ、俺を愛してるか?」
ナマエはばかばかしいと思いつつもそう問いかけた。騎士の駒は、答える代わりに床を蹴った。次の瞬間、ナマエに向かって突進してきた。
ナマエは横へ飛び退いたが、ローブの裾を自分で踏んで、ほとんど転がるように床へ倒れ込んだ。騎士の駒は机の脚にぶつかり、木片を散らした。ナマエは肘をしたたか打ちつけ、息を詰まらせた。
駒はもう一度向きを変え、低く身構えた。こちらが立ち上がるのを待ってくれるような親切さはなかった。
「待て、決闘じゃない」
もちろん、駒は聞かなかった。
ナマエは杖を構えかけて、やめた。吹き飛ばしてしまえば楽だが、それでは意味がない。まずは、手だ。
チチオヤは、両の手のすべての指で触れることで力を行使していた。
ナマエは駒の首元に片手で触れようとした。 触れる前に、駒が首を振った。黒い木の馬面がナマエの肩にぶつかり、ナマエはよろめいた。
もう一度、ナマエは駒の横へ回り込もうとした。足がもつれ、危うく床に自分のローブを踏みそうになる。それでもなんとか片手を伸ばし、黒い木の首に触れた。
──何も起こらない。
次に、両手で掴んだ。十本の指が、黒い木の表面に触れた。
何も起こらない。
それどころか、駒は相変わらず暴れ、ナマエを壁へ押しつけようとした。ナマエは踏ん張ろうとして、あっさり足を滑らせた。肩から壁にぶつかり、慌てて手を離して床を転がった。
ナマエは息を切らしながら机に戻り、羊皮紙を開いて何行かにバッテンをつけた。
チチオヤのやり方で駄目なら、あと何を考えればいいのだろう。ナマエは羊皮紙の端をぱらぱらめくった。──ヴィーラは外見と踊りで男を催眠状態にさせる──魅惑万能薬は──血の呪いは──。
ナマエはふと手を止めた。味覚異常について書いた紙だった。
そういえば、なぜ味覚がおかしくなるんだろう。
オートミール
骨生え薬
ブラック・プディング
それは、ナマエがまずいと思ったことがある食べ物だった。
ナマエはそれまで食べ物の好き嫌いがなかった。ハリーたちが遠慮するハグリッドのビーフシチューも、百味ビーンズのどの味も、さして苦もなく平らげることができていた。それが、去年あたりから少しずつ変わっていった。
確かなのは、チチオヤの黒い耳飾りを着けていると、味が変わると言うことだ。 耳飾りを失ってから、また何もかもが妙に美味しくなった。
手が原因なら、舌は関係ないはずだ。両手で触れることが原因なら、口に入るものが変わるのはおかしい。
ナマエは、羽根ペンの先を羊皮紙に押しつけた。
口。
そう書いた瞬間、頭の奥が妙に冴えた。
思い出したくないものが、ひとつずつ頭の中に並んでいくのを遮るように、ナマエは立ち上がった。
騎士の駒が、三度目の突進をしてきた。 ナマエは逃げなかった。両手で馬の首元を押さえ、床に靴底をこすりつけながら踏ん張った。硬い木の角が手のひらに食い込む。駒は荒々しく首を振り、ナマエを振り払おうとした。
その額が、目の前にあった。
ナマエは、幼いころからそういうことをよくしていた。
どうしても開かない箱や、癇癪を起こしたように火花を散らす魔法道具に。言うことを聞かない箒に。噛みつこうとする本に。──泣き止まないしもべ妖精に。
頼むからうまくいってくれ、頼むから大人しくしてくれ、そう願うとき、ナマエはよく、そっと口づけた。ただの癖だと思っていた。
ナマエは息を止めた。
黒い木の額に、口づけた。
──駒の動きが止まった。
あまりに急だった。 ついさっきまで床を蹴っていた蹄が、ぴたりと宙で止まっている。黒い騎士の駒は、ナマエに従うように首を下げたまま、もう動かなかった。
ナマエはゆっくり手を離した。駒は動かない。 まるで、命令を待っているようだった。
「……違う」
震える声が出た。
「俺はお前に呪いをかけてなんかない」
ナマエは机に戻り、羊皮紙を見下ろした。 さっき書いた「口」の文字が、ひどく目についた。
まずい食べ物を美味しいと思っていたのは、このジンクスのせいなのか?口に入るものが、ナマエに都合よく変わっていたとでもいうのか。食事も、薬も、ただナマエの舌に媚びていただけだとでも。
なら、あの日の箒は、暴れ柳は、シノビーは……ハーマイオニーは──?
いいや、ハーマイオニーに触れたときは、黒い石の耳飾りをつけていた──そう思おうとした。しかし、あの耳飾りがどこまで何を封じていたのか、ナマエは本当には知らなかった。
──充分だ。もうたくさんだ。
ナマエは乱暴に羊皮紙を丸めて、足早に扉に向かった。 黒い騎士の駒は、部屋の奥で静かに頭を垂れたままだった。
ナマエもその気分には逆らえなかった。しかし、むしろ少しだけ居心地がよかった。誰も大きな声で笑わず、無理に話しかけてこない場所のほうが、今はましだった。
クリーチャーが時々、物陰からナマエを睨みつけているのには気づいていた。ロケットのことだろう。きっと、ナマエがマンダンガスから取り返すなど、でまかせだと思っているのだ。その証拠に、今まで通り、シリウスとクリーチャーが何か話をした形跡はなかった。これから話す気配もなかった。
だが、今のナマエには、クリーチャーの疑いに構っている余裕はなかった。
ナマエは少し前のハリーと同じように、みんなを避けるようになっていた。ハーマイオニーが心配そうに見てくるのも、ロンが何か言いたげに口を開きかけてやめるのも、ジニーが遠慮なく眉をひそめるのも、全部が怖かった。
もし、誰かの好意が本物ではなかったら。もし、自分が気づかないうちに、誰かの感情をねじ曲げていたら。
そんなことを考え始めると、誰の顔もまともに見られなかった。
そうして必然的に、ナマエはシリウスのいる部屋に居座ることが多くなった。ほかのみんなはあまり来ないし、シリウスはチチオヤからある程度の話を聞かされていたからだ。
それに、シリウスはナマエと話すときだけは、例の「むっつり発作」をどうにか押さえ込もうとしているようだった。ナマエが部屋に入っていくと、不機嫌を少しだけ横へどけた。
「入るなら戸を閉めろ。寒い」
言い方はぶっきらぼうだったが、追い出す声ではなかった。
その日、シリウスは暖炉のそばで足を組んでいたナマエを見て、ふと眉を上げた。
「見ない服だな」
ナマエは自分の膝に目を落とした。濃い藍色の、まだ少し硬い布地だった。
「……親父がくれた」
「へえ。いいじゃないか」
シリウスはにやりとした。
「ブラック家のご立派な先祖たちが見たら卒倒するだろうが、そういう服は似合う方が正しい」
「変じゃない?」
「変じゃない。君の父親は、サイズを間違えなかったらしいな」
ナマエは少しだけ笑った。 笑ってから、胸の奥がきゅっと変な音を立てた。普通の父親みたいだ、と思ってしまった。 普通のクリスマスプレゼントを寄こして、サイズを間違えないようにして、たぶんアーサーさんやシリウスに聞くなり何なりしたのだろう。
「……あの人って、母上にもそうだったのかな」
ナマエは膝の布地を指でつまんだ。
シリウスの笑みが、少しだけ薄れた。
「そう、とは?」
「普通に何かを選んだり、普通に喜ばせようとしたり」
ナマエは顔を上げなかった。暖炉の中で、薪が小さく爆ぜた。 シリウスはすぐには答えなかった。バックビークが部屋の隅で翼を畳んで眠っていた。
「チチオヤはハハオヤを愛していたよ」
やがて、シリウスが言った。
ナマエは顔を上げた。
「……本当に?」
「ああ。ぞっこんだった」
シリウスは、少し苦い顔をした。
「チチオヤの屋敷に匿われていたとき、嫌でもわかった。あいつの書斎には、ハハオヤの肖像画が掛かっていた。机からよく見える場所にだ。話しかけるでもなく、ただ見ていることがあった」
ナマエは息を止めた。
「書斎……」
そこへは、入ったことがなかった。 チチオヤの屋敷にいたころ、書斎に立ち入ることは許されていなかった。鍵がかけられ、扉の前にはいつも冷たい魔法の気配があった。
「俺、入ったことない」
「だろうな」
シリウスは静かに言った。
「チチオヤは、あの肖像画が本物のハハオヤではないとわかっていた。過去の記憶と癖をなぞるだけの、ただの絵だとな。それでも、君を見せるのが怖かったんだろう。もっとも、その屋敷も、肖像画も、今はもう燃えてしまったが」
ナマエは膝の上で手を握った。母親の肖像画を見たかったのかどうかも、よくわからなかった。
ナマエには、ハハオヤの声も、匂いも、手の温度も、ほとんど何も残っていない。母親という言葉だけが、いつも先にあった。シリウスは低く続けた。
「だが、愛していたことと、傷つけなかったことは別だ」
シリウスの声は厳しい色を帯びた。
「ハハオヤが君を身ごもってから、彼女は、あらゆる人間から求愛されるようになったそうだ。それは、君が生まれ落ちるまで続いた」
ナマエはソファの肘掛けに腰を掛けたまま、指先で耳に何もない感触をなぞっていた。
「彼女の良き友だった蛇が、彼女に教えたんだ。それはチチオヤの呪いだ、とな。ハハオヤは激しく怒り、チチオヤを拒絶した」
シリウスはそこで少しだけ口を閉じた。
「その後のことは、君も知っての通りだ。チチオヤはハハオヤに忘却術をかけ、魔法界から離れて暮らしていけるようにした。だが、君は攫われ、ハハオヤは殺された」
暖炉の中で、薪が小さく爆ぜた。ナマエは膝の上で手を握った。喉の奥が乾いていた。
「……シリウスも」
声が震えないようにするのに、思ったより力が要った。
「今は、俺がその呪いを持っているって、そう思う?」
シリウスはすぐには答えなかった。その沈黙だけで、ナマエの胃のあたりが冷たくなった。
「……わからない」
ナマエは笑おうとして、失敗した。
「だが。少なくとも、私にはチチオヤの昔のようには見えない」
ナマエは顔を上げた。
「君を慕っている友だちは、みんな君をちゃあんと見てる。君を気に食わないと思っているやつも、もちろんいるだろう。私だって、君が小言をぐちぐち言うときは、鬱陶しいと思うことがある」
「あ、そ……」
シリウスは少しだけ笑った。
「誰も彼もが君を褒めそやして、言いなりになるわけじゃない。少なくとも、今のところはな」
ナマエはその言葉を、信じたいと思った。けれど、信じたいと思うことと、信じられることは違った。
ハーマイオニーは、何度かナマエに話しかけようとした。
「ナマエ、あなた、どうしちゃったの?お父様になにか言われたの?」
厨房の戸口で呼び止められたとき、ナマエは反射的に足を止めた。ハーマイオニーは本を抱えていなかった。ただ心配している顔だった。それが、いちばん困った。
「いや、大丈夫」
ナマエは短く答えた。ハーマイオニーが一歩近づきかけたので、ナマエは反射的に半歩退いた。 その顔が傷ついたように見えて、ナマエはますます怖くなった。
「ここ数日、ずっとそう言ってるわ」
ハーマイオニーはまっすぐナマエを見た。
「私、あなたが心配なの」
ナマエは思わず目を逸らした。しばらく黙ってから、絞り出すように言った。
「……俺の嫌いなところ、ある?」
ハーマイオニーは目を瞬いた。
「……急に何?」
「あるなら、言って」
ハーマイオニーはしばらくナマエを見ていた。答えを探しているというより、言うべきかどうか迷っている顔だった。
「あるわ」
ナマエは、ほっとしてから、自分で聞いたことに少しだけ傷ついた。
「大事な本を床に積むのはやめてほしいわ。興味がないことにいい加減なところもあるし……何か考えていると、人の話を聞いていないのも。あと、なんでもかんでもポケットに入れてるけど、少しは整理整頓するべきよ」
「……結構あるな」
「あなたが聞いたんでしょう。……それから、」
ハーマイオニーは少しだけ眉を上げた。
「私が心配すると、まるで責められているみたいな顔をするところ」
「そんなこと──……」
ナマエは何も言えなかった。
「動物もどきのことだって、そう」
ハーマイオニーの声が、少し硬くなった。
「あなたは、必要になるまで黙っていた。いいえ、今もちゃんとは話してないわ。危ないことなのに。どうせ、申請もしてないんでしょう。私が怒ると思ったのかもしれないけれど、怒るわよ。怒るに決まってるわ。でも、知らないままでいさせられる方が、もっと嫌だった」
ナマエは顔を上げた。
「そんなつもりじゃ──」
「わかってるわ。あなたが意地悪でしているんじゃないことくらい」
ハーマイオニーはすぐに言った。
「でも、だからって平気なわけじゃないの。私は、あなたが危ないなら、一緒に考えたい。怖いなら、怖いって言ってほしい。なのにあなたは、私を遠ざけることを気遣いだと勘違いしているわ」
ナマエは唇を噛んだ。
チチオヤと同じだ。そう思った。 自分があれほど腹を立てていたことを、今度は自分がハーマイオニーにしている。何も知らせず、勝手に遠ざけて、相手のためだという顔をしている。
しかし、打ち明ける勇気はなかった。
「……嫌いなところ、多いな」
ナマエは、結局それだけ言った。
「ええ」
ハーマイオニーはまっすぐに言った。
「でも、嫌いなところがあるのと、あなたを嫌いになるのは違うわ。……気は済んだ?」
ナマエはそれ以上何も言わず、こっくり頷いてみんなの部屋に戻った。
その晩、ハリーはダンブルドアから、スネイプに閉心術を習うよう言われたらしい。
「スネイプに?」
ロンが心底嫌そうな声を出した。
「よりによってスネイプに、頭の中を覗かせるのか?」
ハリーは暗い顔をしていた。 ナマエはその話を聞いていたが、半分も頭に入ってこなかった。ハリーはハリーで、自分の頭の中にヴォルデモートが入り込むことを恐れている。ナマエはナマエで、自分の体の中にチチオヤの呪いがあるかもしれないことを恐れている。そう思うと、妙に息が詰まった。
ホグワーツへ戻る日の朝、モリーさんはいつものようにナマエのマフラーを直してくれた。
「寒いでしょう。学校に戻っても、身体に気をつけてね」
今までなら、ただ温かいと思えたはずだった。しかし、ナマエは一瞬、考えてしまった。 チチオヤの言っていたのは、こういうことなのだ。 誰かの優しさを受け取るたびに、それが本物かどうか疑わずにはいられないこと。そんな目で、これから先ずっと人を見続けること。
ナマエはどうにか礼だけ言って、モリーさんの手がもう一度伸びる前に、荷物を持ち直した。
ホグワーツへ戻る騎士バスの中でも、ナマエはほとんど口をきかなかった。一緒に過ごしてきた時間が長すぎて、今さら距離をとったところで意味がないことはわかっていても、怖かった。車体が乱暴に跳ね、ベッドが右へ左へ滑っても、眠気は少しも来なかった。
学校へ戻ったら、確かめなければならない。
本当に、自分にそんな力があるのか。あるなら、どうすれば、誰も傷つけずに済むのか。
休暇明けのホグワーツは、いつもより冷たく見えた。城の廊下を歩きながら、ナマエは誰とも目を合わせなかった。談話室にも、大広間にも長くはいなかった。
そこから数日、ナマエは図書館に籠った。
普段のナマエからしても違和感はなかっただろう。いつもと違う点は、ナマエは魅了の呪いに近しい魔法の本を探して片っ端から読み漁っていたことだ。──愛の妙薬──グレゴリーの魔法薬──ヴィーラの生態──どれも大した収穫はなかった。
となると、残すは、闇の魔術だ──……
「ナマエ」
禁書の棚の前で立ち尽くしていると、背後から嫌な声がした。振り返ると、ザカリアス・スミスだった。
「禁書の棚なんか眺めて。DAの副先生様は、闇の魔術まで教えるつもりか?」
ナマエは肩の力を抜いた。いつも通りの嫌味だった。少なくとも、ザカリアスは変わっていない。
「……うるさいな。道に迷っただけだ」
「図書館で?」
ザカリアスは鼻で笑った。
「ずいぶん便利な頭をしてるんだな、レイブンクローにしては」
その言い方に、ナマエは少しだけ安心した。 嫌味で、皮肉で、こちらをちっとも敬っていない。
「顔色が悪いぞ」
不意に、ザカリアスが言った。ナマエは息を止めた。
「……何?」
「聞こえなかったのか?顔色が悪いって言ったんだ。体調が悪いなら、医務室に行ったほうがいい」
ザカリアスは相変わらず嫌な言い方だった。しかし、気遣わしげな目を向けていた。
「問題ない」
ナマエはぶっきらぼうにそう言って、ザカリアスの横をすり抜けた。背中にザカリアスの怪訝そうな視線を感じて、少しほっとした。
その夜、ナマエは必要の部屋の前に立った。
誰にも迷惑をかけずに、知られずに、考えられる場所が欲しかった。ナマエは目を閉じ、三度、壁の前を歩いた。必要なのは、実験室だ。三度目に目を開けると、壁には扉が現れていた。
ナマエはしばらく、その扉を見つめていたが、意を決して取っ手に手をかけ、扉を押し開けた。
中は、使われなくなった教室のようだった。ただ、普通の教室にしては物が多すぎた。古い机が一つ。壁際には壊れた甲冑、練習用の木の人形、革紐で縛られた分厚い本、枝の乱れた古い箒が並んでいる。部屋の奥には、ナマエよりも背の高い白と黒の魔法チェスの駒が、何体か沈黙して立っていた。
ナマエは机に向かい、ローブの内側から羊皮紙の束を取り出した。
ここ数日で書き溜めたものだ。図書館で調べたこと。チチオヤから聞いたこと。思い出したくない出来事。途中で線を引いたものも、丸めかけてやめたものも混じっている。どれも、決定的ではない。 本に書かれているどの症例にも、魅了の呪いとまったく同じものはなかった。
人で試せば、いちばん早い。
そう思ってしまった瞬間、ナマエは自分の手から羽根ペンを取り落としかけた。
そんなことはできない。
ハーマイオニーでも、ザカリアスでも、通りすがりの誰かでも、できるはずがない。けれど、人間で試さない限り、本当のことはわからないのではないか。必要の部屋が準備したものを眺めて、ナマエは目を細めた。こんなものたちが、本当に今の自分に必要なのだろうか。
魔法のかかった本やチェスの駒を相手にして、いったい何がわかるというのだろう。
ナマエは立ち上がった。
それでも、何もしないよりはましだった。何もわからないまま、誰かに触れるよりは。
ナマエは、いちばん大きなチェスの駒を選んだ。
黒い騎士の駒だった。馬の頭は荒々しく彫られ、片方の蹄が床を蹴るように持ち上がっている。ナマエが近づくと、駒はぎしりと音を立てて動いた。
「さあ、俺を愛してるか?」
ナマエはばかばかしいと思いつつもそう問いかけた。騎士の駒は、答える代わりに床を蹴った。次の瞬間、ナマエに向かって突進してきた。
ナマエは横へ飛び退いたが、ローブの裾を自分で踏んで、ほとんど転がるように床へ倒れ込んだ。騎士の駒は机の脚にぶつかり、木片を散らした。ナマエは肘をしたたか打ちつけ、息を詰まらせた。
駒はもう一度向きを変え、低く身構えた。こちらが立ち上がるのを待ってくれるような親切さはなかった。
「待て、決闘じゃない」
もちろん、駒は聞かなかった。
ナマエは杖を構えかけて、やめた。吹き飛ばしてしまえば楽だが、それでは意味がない。まずは、手だ。
チチオヤは、両の手のすべての指で触れることで力を行使していた。
ナマエは駒の首元に片手で触れようとした。 触れる前に、駒が首を振った。黒い木の馬面がナマエの肩にぶつかり、ナマエはよろめいた。
もう一度、ナマエは駒の横へ回り込もうとした。足がもつれ、危うく床に自分のローブを踏みそうになる。それでもなんとか片手を伸ばし、黒い木の首に触れた。
──何も起こらない。
次に、両手で掴んだ。十本の指が、黒い木の表面に触れた。
何も起こらない。
それどころか、駒は相変わらず暴れ、ナマエを壁へ押しつけようとした。ナマエは踏ん張ろうとして、あっさり足を滑らせた。肩から壁にぶつかり、慌てて手を離して床を転がった。
ナマエは息を切らしながら机に戻り、羊皮紙を開いて何行かにバッテンをつけた。
チチオヤのやり方で駄目なら、あと何を考えればいいのだろう。ナマエは羊皮紙の端をぱらぱらめくった。──ヴィーラは外見と踊りで男を催眠状態にさせる──魅惑万能薬は──血の呪いは──。
ナマエはふと手を止めた。味覚異常について書いた紙だった。
そういえば、なぜ味覚がおかしくなるんだろう。
オートミール
骨生え薬
ブラック・プディング
それは、ナマエがまずいと思ったことがある食べ物だった。
ナマエはそれまで食べ物の好き嫌いがなかった。ハリーたちが遠慮するハグリッドのビーフシチューも、百味ビーンズのどの味も、さして苦もなく平らげることができていた。それが、去年あたりから少しずつ変わっていった。
確かなのは、チチオヤの黒い耳飾りを着けていると、味が変わると言うことだ。 耳飾りを失ってから、また何もかもが妙に美味しくなった。
手が原因なら、舌は関係ないはずだ。両手で触れることが原因なら、口に入るものが変わるのはおかしい。
ナマエは、羽根ペンの先を羊皮紙に押しつけた。
口。
そう書いた瞬間、頭の奥が妙に冴えた。
思い出したくないものが、ひとつずつ頭の中に並んでいくのを遮るように、ナマエは立ち上がった。
騎士の駒が、三度目の突進をしてきた。 ナマエは逃げなかった。両手で馬の首元を押さえ、床に靴底をこすりつけながら踏ん張った。硬い木の角が手のひらに食い込む。駒は荒々しく首を振り、ナマエを振り払おうとした。
その額が、目の前にあった。
ナマエは、幼いころからそういうことをよくしていた。
どうしても開かない箱や、癇癪を起こしたように火花を散らす魔法道具に。言うことを聞かない箒に。噛みつこうとする本に。──泣き止まないしもべ妖精に。
頼むからうまくいってくれ、頼むから大人しくしてくれ、そう願うとき、ナマエはよく、そっと口づけた。ただの癖だと思っていた。
ナマエは息を止めた。
黒い木の額に、口づけた。
──駒の動きが止まった。
あまりに急だった。 ついさっきまで床を蹴っていた蹄が、ぴたりと宙で止まっている。黒い騎士の駒は、ナマエに従うように首を下げたまま、もう動かなかった。
ナマエはゆっくり手を離した。駒は動かない。 まるで、命令を待っているようだった。
「……違う」
震える声が出た。
「俺はお前に呪いをかけてなんかない」
ナマエは机に戻り、羊皮紙を見下ろした。 さっき書いた「口」の文字が、ひどく目についた。
まずい食べ物を美味しいと思っていたのは、このジンクスのせいなのか?口に入るものが、ナマエに都合よく変わっていたとでもいうのか。食事も、薬も、ただナマエの舌に媚びていただけだとでも。
なら、あの日の箒は、暴れ柳は、シノビーは……ハーマイオニーは──?
いいや、ハーマイオニーに触れたときは、黒い石の耳飾りをつけていた──そう思おうとした。しかし、あの耳飾りがどこまで何を封じていたのか、ナマエは本当には知らなかった。
──充分だ。もうたくさんだ。
ナマエは乱暴に羊皮紙を丸めて、足早に扉に向かった。 黒い騎士の駒は、部屋の奥で静かに頭を垂れたままだった。
