不死鳥の騎士団
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⚡️─────
ハリーにとって、アンブリッジの部屋はホグワーツのどこよりも息が詰まる場所だった。けばけばしいピンク色のカーテン、壁一面で不気味に目を光らせる子猫の皿、そして乾燥した花の甘ったるい匂い。
ハリーは、自分の右手の甲に刻まれる文字──僕は嘘をついてはいけない──の疼きに耐えながら、隣に座らされたナマエを盗み見た。
「……っ、げほっ、……っ」
ナマエが、乾いた音を立ててむせ返った。彼の前にあるインク瓶は、底が抜けたように空っぽだ。手の甲に傷もない。それなのに、ナマエの羊皮紙には黒いインクが吸い付いていた。
ハリーはかつてないほどの激しい憎悪をアンブリッジに抱いた。
ようやく「帰ってよろしい」という言葉が降りても、ナマエは立ち上がろうとしなかった。ハリーは反射的にその肩を支えた。
廊下へ出た瞬間、ナマエが壁に激しくぶつかり、肺の中のすべてを吐き出すようにむせ返った。
「……っはあ、……っ、げほっ……!……っ死ぬかと、思った」
ナマエの体は明らかに冷え切っていて、ぜいぜい喉を鳴らしていた。
ハリーはナマエの腕を自分の肩に回した。ナマエは反射的にその手を跳ね除けようとしたが、指先に力が全く入らない様子で、結局、ハリーの肩にずっしりと体重を預ける形になった。
「ナマエ、しっかりして。レイブンクローの談話室はどこだい?」
「……いや、いい。それより、親父に呼ばれてるから行かないと」
「──今から?」
ハリーはガラガラ掠れた声のナマエをまじまじと見た。青白くなったナマエを見ると、彼がリドルの日記に拐われた時のことを思い出して、胸がざわついた。
「医務室だね?じゃあ、そこまで連れて行く」
「いや……医務室じゃなくて、八階で──……そんな顔されても、俺だってなんで八階にこいって言われたのかわからない」
ナマエは先回りして答えると、また咳き込んだ。
「オーケー。行くよ、一人じゃ無理だ」
ハリーはナマエの肩を担ぎ直して、昇り階段に足を向けた。
「悪いな……あー、くそ。泳げないからだ。余計に溺れた……あんた、よくこんな罰則受けて平気な顔してたな。一週間はペンを持ちたくない」
ナマエは苦し紛れに軽口を叩いた。
「……僕、君が『磔の呪い』をかけられてるのかと思った」
「本当にそうだったら、あの教師を辞めさせられる理由になったのにな」
ナマエは追い詰められるといつも口数が多くなる。彼が呼吸をするたびに、ゴロゴロと不自然な音が鳴った。ハリーの中でアンブリッジへの憎悪は膨らみ続けていた。
「アンブリッジは、君が僕の味方をしてるのを知ってるよ。じゃないと、あそこまでしない」
「だろうな。ただの『ファンシー・ジャンプ』でこんな目に遭ってたら、双子なんかアズカバン行きだ」
バンジージャンプね、とハリーは小さく訂正した。
「げほっ……あー気持ち悪い。それに、たぶんだけど──俺の親父があの女の恨みを買ってるんだろう。ダンブルドアに近い人間が魔法省を通さずにホグワーツに来たんだ。アンブリッジにとって面白い話じゃない」
ハリーは、絶対にそれだけではないと思った。これは、アンブリッジからのハリーへの圧力だ。ハリー一人が痛みに耐えればいいというのは甘かった。ハーマイオニーの言う通り、アンブリッジは危険だ。大々的にハリーの言葉を支持する者は、だれであろうと容赦しないというアンブリッジからのメッセージだと思った。
ナマエは口元を制服で拭ってから、ハリーの血まみれの手を見た。
「あんたは俺と違ってずいぶん我慢強いな。その血を止めよう──俺には治しきれないかもだけど」
ナマエは手を出せと言いたげに片手をひらひらさせた。ハリーは一瞬迷ってから、ズキズキ痛む手を差し出した。
ナマエは杖先をハリーの手の甲に向けた。瞬間、ハリーは激痛を感じた。手の甲にではなく、額の傷痕に、だ。同時に、体の真ん中あたりになんとも奇妙な感覚が走った。
思わずナマエの手を振り払うと、支えを失ったナマエは床に尻餅をついた。
「うわっ」
「ア──ごめん!」
「いや、悪い。あんたにもたれかかってたから──痛かった?」
心臓がドクドクと激しく動悸していた。手のことを言っているのだろうことはわかっていたが、ナマエをまじまじと見つめ返してしまった。
「違う── 違うんだ、ナマエ……頭が……傷が」
「痛んだのか」
ナマエは眉を顰めた。
「──ハリー。やっぱり俺の用事はいいから、校長室に行こう」
ナマエは立ち上がったが、ハリーは首を横に振った。
ダンブルドアのところへ行けと忠告されたのは、最初にアンブリッジの罰則に気づいたロンと合わせて、この二日で二度目だ。そして、ロンへのと全く同じ答えをナマエに返した。
「このことでダンブルドアの邪魔はしない。この夏中、しょっちゅう痛んでたし……ただ、今夜はちょっとひどかった、それだけさ」
「たぶん、ダンブルドアも知らせて欲しいはずだぜ」
「うん」
ハリーはそう言ったあと、言いたいことが口を衝いて出てしまった。
「ダンブルドアは僕のその部分だけしか気にしてないんだろ?僕の傷痕しか」
ナマエは返答に迷ったような顔をしてから、思いついたように顔を上げた。
「そんなことない……じゃ、シリウスは?──俺の親父に言って、親父からシリウスに伝えてもらうのは?」
「君のパパにだって?」
ハリーは眉を上げた。
ハリーにとって、チチオヤの存在は正直言って信用に足るものではなかった。ムーディの話の通りの人間なら、味方と言えるか疑問だ。
ナマエはハリーの表情を読み取って、急いで付け加えた。
「親父はいっときシリウスを匿ってたし、連絡できるかも」
「君の父親は、ルシウス・マルフォイと繋がってる。それに、組み分け儀式の日、真っ先に君の父親のもとに飛んで行ったのはスネイプだった」
「……スネイプは騎士団だ」
「でも、元死喰い人だ」
ナマエはぎゅっと眉を寄せてから、言葉とインクを飲み込んだ。
「……わかった、あんたが言いたくないなら俺も言わないし、得体の知れない俺の親父を信用しろとも言わない」
ハリーは、自分の不信感を除けば、ただ単に友人の父親を悪く言ってしまったことに気がついた。
「ナマエ、僕──」
「いや、いい。俺があんたでもチチオヤを信用はしないと思う。ただ、俺が──俺はあの人の息子だから、信じたいと思い過ぎてるだけなんだ」
それから二人は黙って階段を登り切ると、ハリーは足を止めた。ハリーの頭にはひとつの疑念が渦巻いていた。「ナマエを連れて、どこへ向かっているのか」ということだ。
「本当にここでいいの?」
ハリーが尋ねると、ナマエの代わりに声がした。
「ナマエ、いるのか」
廊下の奥から灯りも灯さず現れたのは、淡い色の白衣のようなローブを羽織ったチチオヤ・ミョウジだった。ハリーを見るなり、その顔がほんの一瞬だけ硬くなった。
「……二人とも、来なさい」
チチオヤは廊下を足早に進んだ。「バカのバーナバス」のタペストリーの前につくと、そこをうろうろ往復し始めた。ナマエとハリーはきょとんとその姿を見つめた。
「もしかして……迷ったのか?」
ナマエが言った。こんな何もない壁に何があるというのか。他の先生や生徒ならいざ知らず、ホグワーツにきて数日のチチオヤが道に迷うのも無理はないと思った。
しかし、三度目に壁の前を通り過ぎたとき、ハリーは思わず息を呑んだ。
何もないはずの石壁に、銀色の光が走ったかと思うと、古めかしくて重厚な木の扉がぬっと現れたのだ。チチオヤは少しも驚かず、誰もいないことを確認してから、迷いなくその扉を開いた。
「さあ、入りなさい」
チチオヤに促され、ハリーはナマエを支えたまま、未知の空間へと足を踏み入れた。
そこは、ホグワーツのどの場所とも似ていなかった。グリフィンドールの談話室のような、くつろげるソファや暖炉がある。しかし、薬草の匂いがした。医務室にも似ていたが、ベッドのそばに煮え立つ薬鍋や真鍮の計器が並んでいるせいで、ハリーにはかえって落ち着かなかった。
「……ここは?」
「ここは『必要の部屋』。入る者が心から必要としているものを用意してくれる、ホグワーツの秘密の部屋だよ」
チチオヤは暖炉のそばのソファに手招きした。
ハリーの疑念は膨らむばかりだった。こんな部屋は「忍びの地図」にも載っていない。
「どうして、あなたがそんなことを知ってるんですか?ホグワーツの生徒でもないのに、どうして僕たちも知らないような隠し部屋を……」
「教えてもらったんだ。さあ、座りなさい」
チチオヤは短く答えて再びハリーとナマエに向き直ると、はぐらかすように優しく微笑んだ。ハリーたちは戸惑いながらソファに座った。チチオヤは、ハリーが袖に隠していた手の甲を、まるで見えていたかのように指差した。
「罰則は長かったようだな──その手は?」
「いえ……なんでもありません」
ハリーは手を庇うように身を引いたが、チチオヤはハリーの前に膝をついて、やんちゃな子供に手を焼く父親のような声を出して見せた。
「まったく……意地汚い女だ。出しなさい」
チチオヤは杖を取り出した。ハリーは、アンブリッジに悪態をつく大人にほんの少しだけ気が晴れて、おずおずと手を差し出した。チチオヤは細い杖先でハリーの手の甲をなぞった。流れる血と痛みがみるみる杖先に消えて行った。『僕は嘘をついてはいけない』というみみず腫れだけが痛々しく残っていた。
「血と痛みは止めたが、あえて傷はしばらく残す。あとで痛みが出るようなら、マートラップ液に浸すといい。しばらく反省した顔をしていればあの女も満足だろう──ほら、お前も手を出しなさい」
「俺は──」
ナマエが返事をしようと口を開いた瞬間、彼の喉が「ゴロリ」という音を立てた。
「──なんともない」
ナマエは無傷の両手をひらひらさせた。チチオヤは一瞬眉を上げ、ナマエの首筋に杖を当てた。ナマエは居心地悪そうに眉を顰めたが、されるがままになった。
「いいって」
チチオヤの手がナマエのシャツに伸びたが、ナマエはその手を掴んだ。実際、アンブリッジが言った通り、そこには「心配させるような痕跡」などは一つもなかった。
しかし、何度も何かを飲み込むようなナマエの仕草に、チチオヤの顔から血の気が引いていくのが分かった。
ハリーはチチオヤの顔を見て、このときようやく、この二人が親子なのだということを真に理解した。
「……ナマエ、彼女は何を飲ませた」
「何にも……飲んでない」
チチオヤはナマエの顎を掬い上げ、その口内を覗き込んだ。
「……なるほど」
チチオヤの指先が手袋越しに微かに震えた。 彼はそれ以上何も問わなかった。
チチオヤは白衣のポケットから透明な薬瓶を取り出し、杖をひと振りして温かい蒸気を発生させた。
「これを吸いなさい。呼吸が楽になる」
ナマエは言われるまま、チチオヤが差し出した蒸気を吸い込んだ。
何度かナマエは激しくせき込んだ後、ようやく乾いた呼吸を取り戻した。ナマエは背もたれに体を預けるようにして、疲れたように静かに目を閉じた。
チチオヤはナマエの診察を終えると、立ち上がって、今度はハリーに視線を移した。
「ハリー・ポッター」
チチオヤはその名を呼ぶと、他の多くの魔法使いがそうするように、一瞬だけハリーの額にある稲妻の傷跡を盗み見た。
「息子がいつもすまないね」
「いえ……」
チチオヤはいつのまにか湯気の立つマグカップを手にしていて、それをハリーの前に置いた。
差し出されたのはホットミルクだった。チチオヤはハリーの向かいに腰を下ろし、自分には手慣れた動作で紅茶を注いだ。
掴みどころのない男だとハリーは思った。何者も寄せ付けないような冷たい顔をしているかと思えば、ナマエのように親しげに微笑んだり、双子の悪戯に加担したり、アンブリッジに悪態をついたりする。
「紅茶の方が良かったかな?」
「いえ、ありがとうございます」
ハリーはマグカップを見下ろした。湯気は甘そうに立っていたが、口をつける気にはなれなかった。ふと、飲み物を用意されていないナマエを見ると、規則正しい呼吸が聞こえた。眠っているようだ。
「いくつか──君に聞きたいことがある。なに、世間話だ。ナマエが起きるまで」
チチオヤは気軽な口調だったが、ハリーは身構えた。ナマエは疲れて寝てしまったのだろうか。それとも──チチオヤが故意にナマエを眠らせたのだろうか。
「……何でしょうか」
「君は、ナマエと一番仲がいいのか?」
ハリーは意表をつかれて目を瞬いた。
「えっと──さあ、そうですね。一番かはわかりません。その、ナマエは大体誰とでも──仲良くやれると思いますから」
それがたとえ、ハリーの宿敵とも言えるマルフォイであろうとも。ハリーは心の中で苦い思いとともにそう付け加えた。
チチオヤはナマエよりも薄い色の瞳を細めた。
「そうか……だが、ただでさえ疲れ切っているのに──こんなところまで介抱してナマエを連れてきてくれた。二年のときは、危険を顧みずにバジリスクと対峙してまでナマエを救い出した」
チチオヤの言葉はなぜかハリーへの感謝でも賛辞でもないように聞こえた。
「──それはなぜだ?」
ハリーはチチオヤの言い草にカチンときた。ナマエにそうするだけの価値がないか、もしくは──まるで、自分がナマエを助けることに特別な理由や不自然な動機でもあるかのように聞こえたからだ。
「……友達だからです。それの何が疑問なんです?」
「そうだな、友情だ」
チチオヤは呟くように言った。
友情──その言葉に、ハリーは先ほどの罰則でのアンブリッジの意地汚いせせら笑いを思い出し、腹の底から熱がせり上がってくるのを感じた。
「ナマエだって僕と同じ立場ならそうするはずだ。けど、あなたは違うということですか?」
ハリーが挑戦的に言うと、チチオヤはふっと笑った。
「ジェームズ・ポッターの息子だな」
それだけ言ってチチオヤはティーカップを傾けた。ハリーは、決して父の話には食いつくまいと、奥歯を噛み締めて黙り込んだ。しばらくしてからチチオヤは視線を逸らし、ナマエの方へ目をやった。
「ナマエは、普段は耳飾りをつけていないのか」
ハリーは目の前の男を怪訝な顔で見つめたまま答えた。
「……いつもは付けていると思います──ただ、さっき──アンブリッジ先生に没収されてました」
「なるほどな……」
チチオヤの表情が、一瞬険しくなったのをハリーは見逃さなかった。
「あの、すみません。何を聞きたいんですか?」
「息子の様子を尋ねるのがそんなにおかしいことかね?」
チチオヤは再び柔らかな微笑を浮かべたが、ハリーの違和感は消えなかった。 この部屋はなんだ。どうしてこの男が、城の誰も知らない部屋を使いこなし、まるで自分の部屋のように変えてしまっているのか。なぜダンブルドアは彼をここまで自由にさせているのか。
「……じゃあ、僕からも聞きたいことがあります」
「かまわない」
「あなたは、ダンブルドアの味方ですか?」
「もちろんだ」
チチオヤの即答は、あまりにも淀みがなかった。ハリーは続けた。
「なら、どうして騎士団には入らなかったんです?──死喰い人のルシウス・マルフォイと内通しているからですか?」
チチオヤはゆっくりと音もなくティーカップをソーサーに戻した。表情一つ変えなかった。驚きも、動揺も、やましさすらも見せなかった。
「それに対する答えが何であろうと、私がダンブルドアを支持している事実に変わりはないよ、ハリー」
静かな声だった。まるで全てを包み込むようにも、取るに足らないことだと軽んじているようにも聞こえた。
「じゃあ、あなたがホグワーツにやってきたのは、ダンブルドアのためということですか?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える──私はダンブルドアの頼みを聞き、役割を果たした。その対価として、私の頼みも聞いてもらった」
「頼みってなんです?」
ハリーはまわりくどい言い方にじれったく尋ねた。チチオヤはハリーを見定めるように見つめ、開きかけた口を閉じた。
「──多くを答えられずすまないが、私がそれを君に教えることを、ダンブルドアは望まないだろう」
「じゃあ、あなたの頼みというのは?」
「もちろん、ホグワーツに身を置くこと」
チチオヤは足を組んだ。
「私はトムの怒りを買っている。奴の復活を邪魔したからな」
ハリーは一瞬誰の話かわからなかった。ヴォルデモートのことをその名前で呼ぶ人間には初めて会った。
「なぜ、ヴォルデモートをそう呼ぶんですか」
チチオヤはぴくりと眉を上げてから、感心したように口角を上げた。
「ははっ──その名を恐れないか。よいことだ──。むしろ、逆に聞きたいね。なぜ君たちが『ヴォルデモート』と呼ぶのか」
歯を見せて不遜に笑う姿はナマエに似ていた。チチオヤは身を乗り出した。
「私がトムと呼ぶのは、やつが嫌がるからだ。魔法界にもマグルにも珍しくない、人の名前らしい呼び名だろう?トムと呼ぶことで思い出させてやるのさ、お前は闇の帝王でもなんでもなく、ただの人間だとね」
チチオヤは低い声で言った。まるで、ハリーだけに秘密を教えるような口ぶりだった。ハリーは黙っていた。
その言い方は、たしかに少し気分がよかった。ヴォルデモートを恐れず、わざと小馬鹿にする大人がいるというのは、胸のすくようなことだった。けれど同時に、ハリーは疑念を抱いた。チチオヤは、ハリーがそう感じることまで見越しているのではないか。
この人は、誰の前でも本当にそう呼ぶのだろうか。それとも、ハリー・ポッターの前だから、わざと「トム」と呼んでみせているのだろうか。どちらにしても、チチオヤが自分の言葉の効き目を知らずに話しているとは思えなかった。
「まあ、私はその『例のトム』から逃げ隠れしているわけだが」
チチオヤは自嘲気味に笑った。
その笑いも、どこまでが本音なのかハリーにはわからなかった。それが顔に出ていたのか、見透かされたのかはわからないが、チチオヤはハリーを見て真剣な顔を作った。
「おそらく私は──君を信じさせてやることはできないが、君を孤立させるつもりもないことを、わかってほしい」
チチオヤは白衣のポケットから、銀色の包みを取り出した。
「何ですか?」
「これはかつて、ジェームズ・ポッターのものだった。私は今、シリウスに借りているものだ。これに向かって呼びかければ、ふくろうを飛ばさずともシリウスと話をすることができる──」
「どうしてあなたが持っているんですか」
ハリーの心臓が激しく跳ねた。ハリーは包みを見つめた。怒っていたはずなのに、その小さな銀色の包みから目を離せなくなった。
「言ったろう。シリウスに借りていた。だが、シリウスも──本当は私ではなく、君に渡したがっていた」
ハリーの手が震えた。シリウスと話せる。その事実だけで、先ほどまでの怒りが霧散しそうになった。チチオヤは包みをハリーに手渡した。だが、すぐには手を離さなかった。ハリーは包みを掴んだまま、チチオヤを見返した。
「その代わり、一つの約束と、一つの頼みを聞いてほしい」
ハリーは手にした銀色の包みの重さを感じながら、じっとチチオヤを見据えた。
「一つ目は──他言無用。この鏡のことも、使うところも誰にも見られないようにすること。おそらくモリーはこれを君に渡すのを快く思わないだろう……もちろんわかっているとは思うが、特にドローレス・アンブリッジにはくれぐれも見つかるな」
「……はい。わかっています」
ハリーは短く答えた。それは当然の忠告だ。自分のせいでシリウスが捕まるなんてことは、ハリーが最も避けたいと思っていることだ。だが、チチオヤの次の言葉は、ハリーの予想を遥か斜め上から打ち砕いた。
「二つ目は──今後は、ナマエに必要以上に関わらないでくれ」
「──なんだって?」
一瞬、ハリーは自分の耳を疑った。チチオヤは包みから手を離した。部屋の空気が急激に冷え込み、暖炉の火が爆ぜる音さえ遠のいたような気がした。チチオヤは先ほどと何ら変わらぬ表情でハリーに言った。
「聞いてくれるかね?」
「理由も言わずに?──ナマエがあなたを嫌うわけだ」
ハリーの皮肉に、チチオヤの眉が微かに動いた。だが、彼は否定も肯定もしなかった。
「ハリー、君には理解できないかもしれないが……」
ハリーは立ち上がった。胸の中で、アンブリッジの部屋にいた時と同じ怒りが燃え上がっていた。
「ナマエは僕の友達です。あなたが何を隠してるのか知りませんけど、僕に命令する権利はない」
ハリーの叫びが部屋に響き渡ったが、チチオヤはそれ以上、何も語ろうとはしなかった。
「……シノビー」
チチオヤの低い呼び声とともに、どこからともなく屋敷しもべ妖精が姿を現した。
「はい、旦那さま」
「ナマエを寮まで連れて行け」
「かしこまりました」
眠ったままのナマエが、しもべ妖精のパチン、という乾いた音と共にふっと消えた。
チチオヤはゆっくりと立ち上がった。その動作に合わせるように、パチパチと音を立てていた暖炉の火が、まるで命を吸い取られたかのように一気に消え去った。
「寮まで送ろう、ハリー・ポッター。今の時間、生徒が一人で廊下を歩くのは賢明ではない」
「一人で帰れます」
ハリーは突き放すように言うと、包みをローブの奥深くに押し込み、チチオヤを振り返ることなく部屋を飛び出した。
──ハリーの足音が完全に聞こえなくなった後。
パキリ、と。
チチオヤが手に持っていた空の薬瓶が、粉々に砕け散った。
「……あの女……」
飛び散った硝子の破片が彼の手袋を引き裂いていた。
談話室に戻ると、ワーッという音がハリーを迎えた。顔中にこにこさせ、つかんだゴブレットからバタービールを胸に撥ねこぼしながらロンが走り寄ってきた。
「ハリー、僕、やった。僕、受かった。キーパーだ!」
「え?わあ──すごい!」
ハリーは自然に笑おうと努力した。しかし心臓はドクドクと動揺したままだった。
「バタービール、飲めよ」
ロンが瓶をハリーに押しつけた。
「僕、信じられなくて──ハーマイオニーはどこ?」
「そこだ」
フレッドが、バタービールをぐい飲みしながら、暖炉脇の肘掛椅子を指差してい
た。ハーマイオニーは椅子でうとうとし、手にした飲み物が危なっかしく傾いでいた。
「うーん、僕が知らせたとき、ハーマイオニーはうれしいって言ったんだけど」
ロンは少しがっかりした顔をした。
「眠らせておけよ」
ジョージが慌てて言った。そのすぐあと、ハリーは、周りに集まっている一年生の何人かに、最近鼻血を出した跡がはっきりついているのに気づいた。
「ここに来てよ、ロン。オリバーのお下がりのユニホームが合うかどうか見てみるから」
ケイティ・ベルが呼んだ。ロンが行ってしまうと、アンジェリーナが大股で近づいてきた。
「あのさ、彼が君の親友だってことはわかってるけど、あいつは凄いとは言えないね……だけど、少し訓練すれば大丈夫だろう。あの家族からはいいクィディッチ選手が出ている。とにかく、明日の二時から練習だ。こんどは必ず来いよ。それに、お願いだから、できるだけロンを助けてやってくれないかな。いいかい?」
ハリーは頷いた。アンジェリーナはアリシア・スピネットのところへ悠然と戻って行った。ハリーはハーマイオニーのそばまで行った。カバンを置くと、ハーマイオニーがびくっとして目を覚ました。
「ああ、ハリー、あなたなの……ロンのこと、よかったわね」
ハーマイオニーはとろんとした目で言ってあくびをした。手元には最近熱心に作っていた屋敷しもべサイズの帽子ではなく、人間が被れる大きさの毛糸の帽子があった。
「ああ、よかった」
ハリーは気もそぞろに答えた。誰かにすぐに言わないと、いまにも破裂しそうな気分だ。
「ねえ、ハーマイオニー。ナマエと罰則を受けた後、ナマエのパパと話したんだ。それで……」
ハーマイオニーは注意深く聴いて、ハリーが話し終わると、考えながらゆっくり言った。
「ナマエに触った時に、傷が痛んだことはいままでにもあった?」
「うーん」
ハリーは声を落として思い出した。
「去年──第三の課題の前に、ナマエと目が合った時に傷が痛んで──チチオヤの顔が見えた」
「それは、チチオヤ先生が『例のあの人』の復活を止めようとしていたのよね?それで、『あの人』が怒った──」
ハーマイオニーは段違いに編まれている帽子の毛糸を引っ張って解いた。
「今日、ナマエは、お父さまと話すのが怖いって言ってたわ。でも……チチオヤ先生に会ったときは──その、いい人そうだった」
「みんなそう言う」
ハリーは、フレッド、ジョージ、リー・ジョーダンがバタービールの空き瓶でジャグリングをしているのを眺めて言った。するとハーマイオニーが言った。
「でも、校医として、適切な処置をしてくれたんでしょう?ナマエのお父さまは、ただちょっと──過保護なだけかもしれないわ」
「それって、じゃあ……たんに──僕が狂ったホラ吹きだから、息子に関わるなって言われてるのかな?シェーマスのママみたいに?」
ハリーはイライラしながら立ち上がった。
「僕、寝る。ロンにそう言っといてくれる?」
ハーマイオニーをあとに残し、ハリーは男子寮の階段に向かった。
誰もいない寝室で、チチオヤに渡された包みをベッドにひっくり返すと、小さな四角い鏡が滑り落ちた。古そうな鏡だ。かなり汚れている。ハリーは震える両手で鏡を顔の前にかざし、小さな声で、しかしはっきりと呼んだ。
「シリウス」
息で鏡が曇った。ハリーは鏡をより近づけた。興奮が体中を駆け巡った。
「──ハリーか?」
目にかかる黒髪を揺らして、シリウスが現れた。シリウスの顔には、驚きと隠しきれない喜びが溢れていた。しかし、ハリーの暗い表情を見て、すぐにその顔が引き締まった。
「シリウス!ナマエのパパがこの鏡をくれたんだ──僕はアンブリッジの罰則を受けた。ナマエと一緒に、それで──」
ハリーは一気にまくし立てた。罰則の異常さ、ナマエに触れた時に傷が傷んだこと、そしてチチオヤの話。チチオヤの名が出た瞬間、シリウスの瞳に複雑な色が宿った。
「……あいつは昔からそうだ。何を考えているか分からないし、ルシウス・マルフォイのような連中とも平然と渡り合う。だが、ダンブルドアがあいつをホグワーツに入れたのには、それなりの理由がある」
「あの人、僕にナマエにはもう関わるなって言ったんだ。ナマエじゃなくて、僕に言ったんだ──」
ハリーの声が熱を帯びる。シリウスは鏡の向こうで、深く、長い溜息をついた。
「ハリー。あいつの言うことをすべて鵜呑みにする必要はない。……チチオヤは敵じゃない。だが、味方にするには、あまりに隠しごとが多すぎるというのは、よくわかる」
シリウスの言葉は、ハリーの疑問を解消するどころか、さらに深い霧の中へ突き落とすようだった。 鏡の中のシリウスは、どこか遠くを見つめるような目をしていた。
「ハリー、無理はするな。……だが、その鏡がある限り、君は一人じゃない。それを忘れるな」
誰かが寝室へと階段を登ってくる音が聞こえた。鏡の表面が曇り、再び元の古い手鏡に戻った。
ハリーにとって、アンブリッジの部屋はホグワーツのどこよりも息が詰まる場所だった。けばけばしいピンク色のカーテン、壁一面で不気味に目を光らせる子猫の皿、そして乾燥した花の甘ったるい匂い。
ハリーは、自分の右手の甲に刻まれる文字──僕は嘘をついてはいけない──の疼きに耐えながら、隣に座らされたナマエを盗み見た。
「……っ、げほっ、……っ」
ナマエが、乾いた音を立ててむせ返った。彼の前にあるインク瓶は、底が抜けたように空っぽだ。手の甲に傷もない。それなのに、ナマエの羊皮紙には黒いインクが吸い付いていた。
ハリーはかつてないほどの激しい憎悪をアンブリッジに抱いた。
ようやく「帰ってよろしい」という言葉が降りても、ナマエは立ち上がろうとしなかった。ハリーは反射的にその肩を支えた。
廊下へ出た瞬間、ナマエが壁に激しくぶつかり、肺の中のすべてを吐き出すようにむせ返った。
「……っはあ、……っ、げほっ……!……っ死ぬかと、思った」
ナマエの体は明らかに冷え切っていて、ぜいぜい喉を鳴らしていた。
ハリーはナマエの腕を自分の肩に回した。ナマエは反射的にその手を跳ね除けようとしたが、指先に力が全く入らない様子で、結局、ハリーの肩にずっしりと体重を預ける形になった。
「ナマエ、しっかりして。レイブンクローの談話室はどこだい?」
「……いや、いい。それより、親父に呼ばれてるから行かないと」
「──今から?」
ハリーはガラガラ掠れた声のナマエをまじまじと見た。青白くなったナマエを見ると、彼がリドルの日記に拐われた時のことを思い出して、胸がざわついた。
「医務室だね?じゃあ、そこまで連れて行く」
「いや……医務室じゃなくて、八階で──……そんな顔されても、俺だってなんで八階にこいって言われたのかわからない」
ナマエは先回りして答えると、また咳き込んだ。
「オーケー。行くよ、一人じゃ無理だ」
ハリーはナマエの肩を担ぎ直して、昇り階段に足を向けた。
「悪いな……あー、くそ。泳げないからだ。余計に溺れた……あんた、よくこんな罰則受けて平気な顔してたな。一週間はペンを持ちたくない」
ナマエは苦し紛れに軽口を叩いた。
「……僕、君が『磔の呪い』をかけられてるのかと思った」
「本当にそうだったら、あの教師を辞めさせられる理由になったのにな」
ナマエは追い詰められるといつも口数が多くなる。彼が呼吸をするたびに、ゴロゴロと不自然な音が鳴った。ハリーの中でアンブリッジへの憎悪は膨らみ続けていた。
「アンブリッジは、君が僕の味方をしてるのを知ってるよ。じゃないと、あそこまでしない」
「だろうな。ただの『ファンシー・ジャンプ』でこんな目に遭ってたら、双子なんかアズカバン行きだ」
バンジージャンプね、とハリーは小さく訂正した。
「げほっ……あー気持ち悪い。それに、たぶんだけど──俺の親父があの女の恨みを買ってるんだろう。ダンブルドアに近い人間が魔法省を通さずにホグワーツに来たんだ。アンブリッジにとって面白い話じゃない」
ハリーは、絶対にそれだけではないと思った。これは、アンブリッジからのハリーへの圧力だ。ハリー一人が痛みに耐えればいいというのは甘かった。ハーマイオニーの言う通り、アンブリッジは危険だ。大々的にハリーの言葉を支持する者は、だれであろうと容赦しないというアンブリッジからのメッセージだと思った。
ナマエは口元を制服で拭ってから、ハリーの血まみれの手を見た。
「あんたは俺と違ってずいぶん我慢強いな。その血を止めよう──俺には治しきれないかもだけど」
ナマエは手を出せと言いたげに片手をひらひらさせた。ハリーは一瞬迷ってから、ズキズキ痛む手を差し出した。
ナマエは杖先をハリーの手の甲に向けた。瞬間、ハリーは激痛を感じた。手の甲にではなく、額の傷痕に、だ。同時に、体の真ん中あたりになんとも奇妙な感覚が走った。
思わずナマエの手を振り払うと、支えを失ったナマエは床に尻餅をついた。
「うわっ」
「ア──ごめん!」
「いや、悪い。あんたにもたれかかってたから──痛かった?」
心臓がドクドクと激しく動悸していた。手のことを言っているのだろうことはわかっていたが、ナマエをまじまじと見つめ返してしまった。
「違う── 違うんだ、ナマエ……頭が……傷が」
「痛んだのか」
ナマエは眉を顰めた。
「──ハリー。やっぱり俺の用事はいいから、校長室に行こう」
ナマエは立ち上がったが、ハリーは首を横に振った。
ダンブルドアのところへ行けと忠告されたのは、最初にアンブリッジの罰則に気づいたロンと合わせて、この二日で二度目だ。そして、ロンへのと全く同じ答えをナマエに返した。
「このことでダンブルドアの邪魔はしない。この夏中、しょっちゅう痛んでたし……ただ、今夜はちょっとひどかった、それだけさ」
「たぶん、ダンブルドアも知らせて欲しいはずだぜ」
「うん」
ハリーはそう言ったあと、言いたいことが口を衝いて出てしまった。
「ダンブルドアは僕のその部分だけしか気にしてないんだろ?僕の傷痕しか」
ナマエは返答に迷ったような顔をしてから、思いついたように顔を上げた。
「そんなことない……じゃ、シリウスは?──俺の親父に言って、親父からシリウスに伝えてもらうのは?」
「君のパパにだって?」
ハリーは眉を上げた。
ハリーにとって、チチオヤの存在は正直言って信用に足るものではなかった。ムーディの話の通りの人間なら、味方と言えるか疑問だ。
ナマエはハリーの表情を読み取って、急いで付け加えた。
「親父はいっときシリウスを匿ってたし、連絡できるかも」
「君の父親は、ルシウス・マルフォイと繋がってる。それに、組み分け儀式の日、真っ先に君の父親のもとに飛んで行ったのはスネイプだった」
「……スネイプは騎士団だ」
「でも、元死喰い人だ」
ナマエはぎゅっと眉を寄せてから、言葉とインクを飲み込んだ。
「……わかった、あんたが言いたくないなら俺も言わないし、得体の知れない俺の親父を信用しろとも言わない」
ハリーは、自分の不信感を除けば、ただ単に友人の父親を悪く言ってしまったことに気がついた。
「ナマエ、僕──」
「いや、いい。俺があんたでもチチオヤを信用はしないと思う。ただ、俺が──俺はあの人の息子だから、信じたいと思い過ぎてるだけなんだ」
それから二人は黙って階段を登り切ると、ハリーは足を止めた。ハリーの頭にはひとつの疑念が渦巻いていた。「ナマエを連れて、どこへ向かっているのか」ということだ。
「本当にここでいいの?」
ハリーが尋ねると、ナマエの代わりに声がした。
「ナマエ、いるのか」
廊下の奥から灯りも灯さず現れたのは、淡い色の白衣のようなローブを羽織ったチチオヤ・ミョウジだった。ハリーを見るなり、その顔がほんの一瞬だけ硬くなった。
「……二人とも、来なさい」
チチオヤは廊下を足早に進んだ。「バカのバーナバス」のタペストリーの前につくと、そこをうろうろ往復し始めた。ナマエとハリーはきょとんとその姿を見つめた。
「もしかして……迷ったのか?」
ナマエが言った。こんな何もない壁に何があるというのか。他の先生や生徒ならいざ知らず、ホグワーツにきて数日のチチオヤが道に迷うのも無理はないと思った。
しかし、三度目に壁の前を通り過ぎたとき、ハリーは思わず息を呑んだ。
何もないはずの石壁に、銀色の光が走ったかと思うと、古めかしくて重厚な木の扉がぬっと現れたのだ。チチオヤは少しも驚かず、誰もいないことを確認してから、迷いなくその扉を開いた。
「さあ、入りなさい」
チチオヤに促され、ハリーはナマエを支えたまま、未知の空間へと足を踏み入れた。
そこは、ホグワーツのどの場所とも似ていなかった。グリフィンドールの談話室のような、くつろげるソファや暖炉がある。しかし、薬草の匂いがした。医務室にも似ていたが、ベッドのそばに煮え立つ薬鍋や真鍮の計器が並んでいるせいで、ハリーにはかえって落ち着かなかった。
「……ここは?」
「ここは『必要の部屋』。入る者が心から必要としているものを用意してくれる、ホグワーツの秘密の部屋だよ」
チチオヤは暖炉のそばのソファに手招きした。
ハリーの疑念は膨らむばかりだった。こんな部屋は「忍びの地図」にも載っていない。
「どうして、あなたがそんなことを知ってるんですか?ホグワーツの生徒でもないのに、どうして僕たちも知らないような隠し部屋を……」
「教えてもらったんだ。さあ、座りなさい」
チチオヤは短く答えて再びハリーとナマエに向き直ると、はぐらかすように優しく微笑んだ。ハリーたちは戸惑いながらソファに座った。チチオヤは、ハリーが袖に隠していた手の甲を、まるで見えていたかのように指差した。
「罰則は長かったようだな──その手は?」
「いえ……なんでもありません」
ハリーは手を庇うように身を引いたが、チチオヤはハリーの前に膝をついて、やんちゃな子供に手を焼く父親のような声を出して見せた。
「まったく……意地汚い女だ。出しなさい」
チチオヤは杖を取り出した。ハリーは、アンブリッジに悪態をつく大人にほんの少しだけ気が晴れて、おずおずと手を差し出した。チチオヤは細い杖先でハリーの手の甲をなぞった。流れる血と痛みがみるみる杖先に消えて行った。『僕は嘘をついてはいけない』というみみず腫れだけが痛々しく残っていた。
「血と痛みは止めたが、あえて傷はしばらく残す。あとで痛みが出るようなら、マートラップ液に浸すといい。しばらく反省した顔をしていればあの女も満足だろう──ほら、お前も手を出しなさい」
「俺は──」
ナマエが返事をしようと口を開いた瞬間、彼の喉が「ゴロリ」という音を立てた。
「──なんともない」
ナマエは無傷の両手をひらひらさせた。チチオヤは一瞬眉を上げ、ナマエの首筋に杖を当てた。ナマエは居心地悪そうに眉を顰めたが、されるがままになった。
「いいって」
チチオヤの手がナマエのシャツに伸びたが、ナマエはその手を掴んだ。実際、アンブリッジが言った通り、そこには「心配させるような痕跡」などは一つもなかった。
しかし、何度も何かを飲み込むようなナマエの仕草に、チチオヤの顔から血の気が引いていくのが分かった。
ハリーはチチオヤの顔を見て、このときようやく、この二人が親子なのだということを真に理解した。
「……ナマエ、彼女は何を飲ませた」
「何にも……飲んでない」
チチオヤはナマエの顎を掬い上げ、その口内を覗き込んだ。
「……なるほど」
チチオヤの指先が手袋越しに微かに震えた。 彼はそれ以上何も問わなかった。
チチオヤは白衣のポケットから透明な薬瓶を取り出し、杖をひと振りして温かい蒸気を発生させた。
「これを吸いなさい。呼吸が楽になる」
ナマエは言われるまま、チチオヤが差し出した蒸気を吸い込んだ。
何度かナマエは激しくせき込んだ後、ようやく乾いた呼吸を取り戻した。ナマエは背もたれに体を預けるようにして、疲れたように静かに目を閉じた。
チチオヤはナマエの診察を終えると、立ち上がって、今度はハリーに視線を移した。
「ハリー・ポッター」
チチオヤはその名を呼ぶと、他の多くの魔法使いがそうするように、一瞬だけハリーの額にある稲妻の傷跡を盗み見た。
「息子がいつもすまないね」
「いえ……」
チチオヤはいつのまにか湯気の立つマグカップを手にしていて、それをハリーの前に置いた。
差し出されたのはホットミルクだった。チチオヤはハリーの向かいに腰を下ろし、自分には手慣れた動作で紅茶を注いだ。
掴みどころのない男だとハリーは思った。何者も寄せ付けないような冷たい顔をしているかと思えば、ナマエのように親しげに微笑んだり、双子の悪戯に加担したり、アンブリッジに悪態をついたりする。
「紅茶の方が良かったかな?」
「いえ、ありがとうございます」
ハリーはマグカップを見下ろした。湯気は甘そうに立っていたが、口をつける気にはなれなかった。ふと、飲み物を用意されていないナマエを見ると、規則正しい呼吸が聞こえた。眠っているようだ。
「いくつか──君に聞きたいことがある。なに、世間話だ。ナマエが起きるまで」
チチオヤは気軽な口調だったが、ハリーは身構えた。ナマエは疲れて寝てしまったのだろうか。それとも──チチオヤが故意にナマエを眠らせたのだろうか。
「……何でしょうか」
「君は、ナマエと一番仲がいいのか?」
ハリーは意表をつかれて目を瞬いた。
「えっと──さあ、そうですね。一番かはわかりません。その、ナマエは大体誰とでも──仲良くやれると思いますから」
それがたとえ、ハリーの宿敵とも言えるマルフォイであろうとも。ハリーは心の中で苦い思いとともにそう付け加えた。
チチオヤはナマエよりも薄い色の瞳を細めた。
「そうか……だが、ただでさえ疲れ切っているのに──こんなところまで介抱してナマエを連れてきてくれた。二年のときは、危険を顧みずにバジリスクと対峙してまでナマエを救い出した」
チチオヤの言葉はなぜかハリーへの感謝でも賛辞でもないように聞こえた。
「──それはなぜだ?」
ハリーはチチオヤの言い草にカチンときた。ナマエにそうするだけの価値がないか、もしくは──まるで、自分がナマエを助けることに特別な理由や不自然な動機でもあるかのように聞こえたからだ。
「……友達だからです。それの何が疑問なんです?」
「そうだな、友情だ」
チチオヤは呟くように言った。
友情──その言葉に、ハリーは先ほどの罰則でのアンブリッジの意地汚いせせら笑いを思い出し、腹の底から熱がせり上がってくるのを感じた。
「ナマエだって僕と同じ立場ならそうするはずだ。けど、あなたは違うということですか?」
ハリーが挑戦的に言うと、チチオヤはふっと笑った。
「ジェームズ・ポッターの息子だな」
それだけ言ってチチオヤはティーカップを傾けた。ハリーは、決して父の話には食いつくまいと、奥歯を噛み締めて黙り込んだ。しばらくしてからチチオヤは視線を逸らし、ナマエの方へ目をやった。
「ナマエは、普段は耳飾りをつけていないのか」
ハリーは目の前の男を怪訝な顔で見つめたまま答えた。
「……いつもは付けていると思います──ただ、さっき──アンブリッジ先生に没収されてました」
「なるほどな……」
チチオヤの表情が、一瞬険しくなったのをハリーは見逃さなかった。
「あの、すみません。何を聞きたいんですか?」
「息子の様子を尋ねるのがそんなにおかしいことかね?」
チチオヤは再び柔らかな微笑を浮かべたが、ハリーの違和感は消えなかった。 この部屋はなんだ。どうしてこの男が、城の誰も知らない部屋を使いこなし、まるで自分の部屋のように変えてしまっているのか。なぜダンブルドアは彼をここまで自由にさせているのか。
「……じゃあ、僕からも聞きたいことがあります」
「かまわない」
「あなたは、ダンブルドアの味方ですか?」
「もちろんだ」
チチオヤの即答は、あまりにも淀みがなかった。ハリーは続けた。
「なら、どうして騎士団には入らなかったんです?──死喰い人のルシウス・マルフォイと内通しているからですか?」
チチオヤはゆっくりと音もなくティーカップをソーサーに戻した。表情一つ変えなかった。驚きも、動揺も、やましさすらも見せなかった。
「それに対する答えが何であろうと、私がダンブルドアを支持している事実に変わりはないよ、ハリー」
静かな声だった。まるで全てを包み込むようにも、取るに足らないことだと軽んじているようにも聞こえた。
「じゃあ、あなたがホグワーツにやってきたのは、ダンブルドアのためということですか?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える──私はダンブルドアの頼みを聞き、役割を果たした。その対価として、私の頼みも聞いてもらった」
「頼みってなんです?」
ハリーはまわりくどい言い方にじれったく尋ねた。チチオヤはハリーを見定めるように見つめ、開きかけた口を閉じた。
「──多くを答えられずすまないが、私がそれを君に教えることを、ダンブルドアは望まないだろう」
「じゃあ、あなたの頼みというのは?」
「もちろん、ホグワーツに身を置くこと」
チチオヤは足を組んだ。
「私はトムの怒りを買っている。奴の復活を邪魔したからな」
ハリーは一瞬誰の話かわからなかった。ヴォルデモートのことをその名前で呼ぶ人間には初めて会った。
「なぜ、ヴォルデモートをそう呼ぶんですか」
チチオヤはぴくりと眉を上げてから、感心したように口角を上げた。
「ははっ──その名を恐れないか。よいことだ──。むしろ、逆に聞きたいね。なぜ君たちが『ヴォルデモート』と呼ぶのか」
歯を見せて不遜に笑う姿はナマエに似ていた。チチオヤは身を乗り出した。
「私がトムと呼ぶのは、やつが嫌がるからだ。魔法界にもマグルにも珍しくない、人の名前らしい呼び名だろう?トムと呼ぶことで思い出させてやるのさ、お前は闇の帝王でもなんでもなく、ただの人間だとね」
チチオヤは低い声で言った。まるで、ハリーだけに秘密を教えるような口ぶりだった。ハリーは黙っていた。
その言い方は、たしかに少し気分がよかった。ヴォルデモートを恐れず、わざと小馬鹿にする大人がいるというのは、胸のすくようなことだった。けれど同時に、ハリーは疑念を抱いた。チチオヤは、ハリーがそう感じることまで見越しているのではないか。
この人は、誰の前でも本当にそう呼ぶのだろうか。それとも、ハリー・ポッターの前だから、わざと「トム」と呼んでみせているのだろうか。どちらにしても、チチオヤが自分の言葉の効き目を知らずに話しているとは思えなかった。
「まあ、私はその『例のトム』から逃げ隠れしているわけだが」
チチオヤは自嘲気味に笑った。
その笑いも、どこまでが本音なのかハリーにはわからなかった。それが顔に出ていたのか、見透かされたのかはわからないが、チチオヤはハリーを見て真剣な顔を作った。
「おそらく私は──君を信じさせてやることはできないが、君を孤立させるつもりもないことを、わかってほしい」
チチオヤは白衣のポケットから、銀色の包みを取り出した。
「何ですか?」
「これはかつて、ジェームズ・ポッターのものだった。私は今、シリウスに借りているものだ。これに向かって呼びかければ、ふくろうを飛ばさずともシリウスと話をすることができる──」
「どうしてあなたが持っているんですか」
ハリーの心臓が激しく跳ねた。ハリーは包みを見つめた。怒っていたはずなのに、その小さな銀色の包みから目を離せなくなった。
「言ったろう。シリウスに借りていた。だが、シリウスも──本当は私ではなく、君に渡したがっていた」
ハリーの手が震えた。シリウスと話せる。その事実だけで、先ほどまでの怒りが霧散しそうになった。チチオヤは包みをハリーに手渡した。だが、すぐには手を離さなかった。ハリーは包みを掴んだまま、チチオヤを見返した。
「その代わり、一つの約束と、一つの頼みを聞いてほしい」
ハリーは手にした銀色の包みの重さを感じながら、じっとチチオヤを見据えた。
「一つ目は──他言無用。この鏡のことも、使うところも誰にも見られないようにすること。おそらくモリーはこれを君に渡すのを快く思わないだろう……もちろんわかっているとは思うが、特にドローレス・アンブリッジにはくれぐれも見つかるな」
「……はい。わかっています」
ハリーは短く答えた。それは当然の忠告だ。自分のせいでシリウスが捕まるなんてことは、ハリーが最も避けたいと思っていることだ。だが、チチオヤの次の言葉は、ハリーの予想を遥か斜め上から打ち砕いた。
「二つ目は──今後は、ナマエに必要以上に関わらないでくれ」
「──なんだって?」
一瞬、ハリーは自分の耳を疑った。チチオヤは包みから手を離した。部屋の空気が急激に冷え込み、暖炉の火が爆ぜる音さえ遠のいたような気がした。チチオヤは先ほどと何ら変わらぬ表情でハリーに言った。
「聞いてくれるかね?」
「理由も言わずに?──ナマエがあなたを嫌うわけだ」
ハリーの皮肉に、チチオヤの眉が微かに動いた。だが、彼は否定も肯定もしなかった。
「ハリー、君には理解できないかもしれないが……」
ハリーは立ち上がった。胸の中で、アンブリッジの部屋にいた時と同じ怒りが燃え上がっていた。
「ナマエは僕の友達です。あなたが何を隠してるのか知りませんけど、僕に命令する権利はない」
ハリーの叫びが部屋に響き渡ったが、チチオヤはそれ以上、何も語ろうとはしなかった。
「……シノビー」
チチオヤの低い呼び声とともに、どこからともなく屋敷しもべ妖精が姿を現した。
「はい、旦那さま」
「ナマエを寮まで連れて行け」
「かしこまりました」
眠ったままのナマエが、しもべ妖精のパチン、という乾いた音と共にふっと消えた。
チチオヤはゆっくりと立ち上がった。その動作に合わせるように、パチパチと音を立てていた暖炉の火が、まるで命を吸い取られたかのように一気に消え去った。
「寮まで送ろう、ハリー・ポッター。今の時間、生徒が一人で廊下を歩くのは賢明ではない」
「一人で帰れます」
ハリーは突き放すように言うと、包みをローブの奥深くに押し込み、チチオヤを振り返ることなく部屋を飛び出した。
──ハリーの足音が完全に聞こえなくなった後。
パキリ、と。
チチオヤが手に持っていた空の薬瓶が、粉々に砕け散った。
「……あの女……」
飛び散った硝子の破片が彼の手袋を引き裂いていた。
談話室に戻ると、ワーッという音がハリーを迎えた。顔中にこにこさせ、つかんだゴブレットからバタービールを胸に撥ねこぼしながらロンが走り寄ってきた。
「ハリー、僕、やった。僕、受かった。キーパーだ!」
「え?わあ──すごい!」
ハリーは自然に笑おうと努力した。しかし心臓はドクドクと動揺したままだった。
「バタービール、飲めよ」
ロンが瓶をハリーに押しつけた。
「僕、信じられなくて──ハーマイオニーはどこ?」
「そこだ」
フレッドが、バタービールをぐい飲みしながら、暖炉脇の肘掛椅子を指差してい
た。ハーマイオニーは椅子でうとうとし、手にした飲み物が危なっかしく傾いでいた。
「うーん、僕が知らせたとき、ハーマイオニーはうれしいって言ったんだけど」
ロンは少しがっかりした顔をした。
「眠らせておけよ」
ジョージが慌てて言った。そのすぐあと、ハリーは、周りに集まっている一年生の何人かに、最近鼻血を出した跡がはっきりついているのに気づいた。
「ここに来てよ、ロン。オリバーのお下がりのユニホームが合うかどうか見てみるから」
ケイティ・ベルが呼んだ。ロンが行ってしまうと、アンジェリーナが大股で近づいてきた。
「あのさ、彼が君の親友だってことはわかってるけど、あいつは凄いとは言えないね……だけど、少し訓練すれば大丈夫だろう。あの家族からはいいクィディッチ選手が出ている。とにかく、明日の二時から練習だ。こんどは必ず来いよ。それに、お願いだから、できるだけロンを助けてやってくれないかな。いいかい?」
ハリーは頷いた。アンジェリーナはアリシア・スピネットのところへ悠然と戻って行った。ハリーはハーマイオニーのそばまで行った。カバンを置くと、ハーマイオニーがびくっとして目を覚ました。
「ああ、ハリー、あなたなの……ロンのこと、よかったわね」
ハーマイオニーはとろんとした目で言ってあくびをした。手元には最近熱心に作っていた屋敷しもべサイズの帽子ではなく、人間が被れる大きさの毛糸の帽子があった。
「ああ、よかった」
ハリーは気もそぞろに答えた。誰かにすぐに言わないと、いまにも破裂しそうな気分だ。
「ねえ、ハーマイオニー。ナマエと罰則を受けた後、ナマエのパパと話したんだ。それで……」
ハーマイオニーは注意深く聴いて、ハリーが話し終わると、考えながらゆっくり言った。
「ナマエに触った時に、傷が痛んだことはいままでにもあった?」
「うーん」
ハリーは声を落として思い出した。
「去年──第三の課題の前に、ナマエと目が合った時に傷が痛んで──チチオヤの顔が見えた」
「それは、チチオヤ先生が『例のあの人』の復活を止めようとしていたのよね?それで、『あの人』が怒った──」
ハーマイオニーは段違いに編まれている帽子の毛糸を引っ張って解いた。
「今日、ナマエは、お父さまと話すのが怖いって言ってたわ。でも……チチオヤ先生に会ったときは──その、いい人そうだった」
「みんなそう言う」
ハリーは、フレッド、ジョージ、リー・ジョーダンがバタービールの空き瓶でジャグリングをしているのを眺めて言った。するとハーマイオニーが言った。
「でも、校医として、適切な処置をしてくれたんでしょう?ナマエのお父さまは、ただちょっと──過保護なだけかもしれないわ」
「それって、じゃあ……たんに──僕が狂ったホラ吹きだから、息子に関わるなって言われてるのかな?シェーマスのママみたいに?」
ハリーはイライラしながら立ち上がった。
「僕、寝る。ロンにそう言っといてくれる?」
ハーマイオニーをあとに残し、ハリーは男子寮の階段に向かった。
誰もいない寝室で、チチオヤに渡された包みをベッドにひっくり返すと、小さな四角い鏡が滑り落ちた。古そうな鏡だ。かなり汚れている。ハリーは震える両手で鏡を顔の前にかざし、小さな声で、しかしはっきりと呼んだ。
「シリウス」
息で鏡が曇った。ハリーは鏡をより近づけた。興奮が体中を駆け巡った。
「──ハリーか?」
目にかかる黒髪を揺らして、シリウスが現れた。シリウスの顔には、驚きと隠しきれない喜びが溢れていた。しかし、ハリーの暗い表情を見て、すぐにその顔が引き締まった。
「シリウス!ナマエのパパがこの鏡をくれたんだ──僕はアンブリッジの罰則を受けた。ナマエと一緒に、それで──」
ハリーは一気にまくし立てた。罰則の異常さ、ナマエに触れた時に傷が傷んだこと、そしてチチオヤの話。チチオヤの名が出た瞬間、シリウスの瞳に複雑な色が宿った。
「……あいつは昔からそうだ。何を考えているか分からないし、ルシウス・マルフォイのような連中とも平然と渡り合う。だが、ダンブルドアがあいつをホグワーツに入れたのには、それなりの理由がある」
「あの人、僕にナマエにはもう関わるなって言ったんだ。ナマエじゃなくて、僕に言ったんだ──」
ハリーの声が熱を帯びる。シリウスは鏡の向こうで、深く、長い溜息をついた。
「ハリー。あいつの言うことをすべて鵜呑みにする必要はない。……チチオヤは敵じゃない。だが、味方にするには、あまりに隠しごとが多すぎるというのは、よくわかる」
シリウスの言葉は、ハリーの疑問を解消するどころか、さらに深い霧の中へ突き落とすようだった。 鏡の中のシリウスは、どこか遠くを見つめるような目をしていた。
「ハリー、無理はするな。……だが、その鏡がある限り、君は一人じゃない。それを忘れるな」
誰かが寝室へと階段を登ってくる音が聞こえた。鏡の表面が曇り、再び元の古い手鏡に戻った。
