図に乗っていい日
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その日は友達の家で飲んだ帰りだった。
夜風に当たりながらのんびりと歩いていた女の後ろから、突然、声がかかる。
「あの、ちょっと」
振り返ると、男がヘラヘラとした表情で立っていた。なんとなく軽そうな見た目の相手は、女が初めて見る顔だった。
「……私?」
「他に人いないでしょ。こんな夜道で一人? よかったら今から飲みに行かない? 奢るよ」
「いえ、もう帰るので」
「じゃあまた別の日にご飯とかは? 好きな食べ物とかある? 俺、普段はもうちょっと都会の方に住んでるから、この辺りにはない美味しくてお洒落なお店に連れてってあげられるけど」
「…………」
まさかこんな地元でナンパされるなどと思っていなかった女は、断り方も慣れていなかった。
こんなにしつこく食い下がられては、どうしてよいかわからない。逆ギレされるのも怖い。走って逃げても勝てるわけはないし、無視してこのまま家までついてこられたら困るし、だからと言って警察を呼ぶのは大げさかも、などと考えて黙ってしまった。
「田舎に帰ってきた俺が、たまたま君とここで会えたのも何かの縁だし」
そうしているうちに、男は勝手に歩幅を詰めながら、「連絡先だけでも」とか、「一目見て可愛いと思ってさ」などと、間を詰めてくる。
どうしよう、女がそう思ったそのときだった。
「おい、何してんだ」
またしても女の背後から声がかかる。
だが、この声は女にとって聞き馴染みのあるものだった。
「う、烏養さん……」
烏養が女を下がらせて男との間に立つ。
煙草を燻らせながら、ポケットに手を突っ込んで鋭い目つきで男を睨んだ。
「人の女になんか用か」
「な……何、彼氏持ち? は? 萎えた」
途端、一方的にそんな捨て台詞を残した男が去っていくが、女にとってもうそれはどうだっていいことだった。
「烏養さん、あの」
「お前、こんな遅い時間にフラフラしてっからあんなんに声かけられんだよ」
「…………わ……」
「聞いてんのか?」
「私、烏養さんの女だったんですか!? 烏養さんの女にしてくれてたんですか!?」
女が目を輝かせて詰め寄れば、烏養は一瞬ビクリとするも、気だるげな口調で答える。
「……なあに言ってんだ、お前」
「だって、今、そうやって」
「こんなに元気なら、さっきの男にもでけえ声出してはっきり断れ」
「……できないよ……怖いもん」
「……あー、……悪い。今のは失言だった。……そうだよな」
「いえ、烏養さんが謝ることじゃ……」
思わずいつもの調子で言ってしまった烏養だったが、周りに誰もいない状況で知らない男性に声をかけられることの恐怖は、同じ男性である自分では、真に理解することはできないだろう。
普段、自分の前では明るく振る舞っている昔馴染みが声も出せなかった姿は、烏養にとっても見慣れないものだった。
とうにこの場を去った男に、改めて胃のあたりがムカムカとしてくる。
そんな烏養の腹の内を知らない女は、またいつもの調子に戻って烏養の顔を見上げた。
「それより、答えてください。いつから私を自分の女にしてくれてたんですか……!?」
「うるせえうるせえ。人の女、って言っただけで俺の女とは言ってない」
「ええっ、なんですか、それ……」
女が肩を落として静かになると、煙草の煙を吐き出した烏養は「家まで送るから」と歩き出した。
「何でこんな時間に一人で歩いてんだよ」
「友達の家で飲んでたんです。歩いて20分くらいだし……まさかこんなところでナンパされるなんて」
「……友達」
「あ、もちろん女友達ですよ」
「聞いてねえ」
「気にしてる顔してたのに」
「してねえ」
なんだ、つまんないの。そう女がつぶやいたのを最後に二人は押し黙る。
多くはない街頭に照らされながらしばらく歩いて、目的地にたどり着いたとき、女が口を開いた。
「ありがとう烏養さん。迷惑かけて、ごめんね」
「別に。早く寝ろよ」
「うん、おやすみなさい」
「……おい」
女がそう言って家の鍵を差し込んだところで、烏養が呼び止める。
「うん?」
「次からは呼べ」
「え? 烏養さんを? 女友達との宅飲みに? それは……」
「ちげえわ。帰りだよ帰り。帰るときに呼べ」
「迎えに来てくれるんですか!」
「仕方ねえだろ。お前のことで余計な心配ごと増やしたくねえの」
「余計な心配ごと?」
「いいから」
「……わかりました。次からは電話します」
「おう」
烏養は相変わらず仏頂面のままだったが、それでも女にとっては心が浮足立つような申し出だった。
◆◆◆
それから数日経っても、あの日のことは女の頭から離れなかった。
烏養の言葉、視線、見知らぬ男との間に立ってくれた背中、紫煙の香り。
あの時はふわふわした気持ちでいっぱいだったけれど、思い返してみれば気恥ずかしいような、そもそも一方的な勘違いをしているだけのような。
今更ながら自分だけが意識してしまっているようで、烏養に対してどんな態度で接すればいいのか、わからなくなってしまった。
それなのに。
「じゃあ、これ、烏養くんちにお裾分けしておいてね」
女が自分の母親から預かったのは、野菜や自家製の柚子ジャム。
女は、実家からそう離れていない祖父母の別宅に、長年空き家管理の名目で一人暮らしさせてもらっている。
そんな女の様子を見に来た母親に、ついでにと烏養家へのお使いを頼まれてしまったのだ。
「あなたが一人暮らしだからって、昔からよくしてくれているでしょう? 渡すときに改めてお礼を言っておきなさいよ」
そう言われてしまっては、お母さんが持っていけばいいのに、とは言えない。
別に喧嘩をしたわけではないのに、母親が帰ってからもすぐに出かける気にはならなかった。
とは言え、野菜もジャムも早く渡さないと悪くなってしまう。自分一人で消費しきれる量でもない。後から母親づてに話がいって、渡さなかったことがバレてしまうのも面倒だ。
会いたくないわけではない。むしろ逆だ。
それでも、迷惑をかけてしまった後にいつものように能天気な好意を振り撒いて、呆れられるのが怖かった。
お店でぱっと渡してすぐ帰ろう。
そう決心して履いた靴は、何故かいつもより重い気がした。
「お、どうした。何か用か?」
日曜日の夕方だから、烏養はもしかしたら部活でお店にいないかもしれない。その時は店番をしているであろう烏養の母親に渡すか、店自体空いていなければ玄関先に置いて、後からメールでも入れればいい。
そうして考えながら歩いた末、坂ノ下商店の前でちょうど部活終わりの烏養とばったり会ってしまったのだ。
「まだ部活だと思ってた……」
「日曜日は午前中から練習してっからな。流石に夜遅くまではやらせてねえ。俺もいろいろやることあるし」
「……そうなんだ。あの、これ、お裾分け。お母さんが持ってきてくれて」
「おー、まじか。わざわざありがとな。お前の母ちゃんも元気か……ってどうした、立ち止まって。上がれよ」
女から荷物を受け取った烏養が店内に入るも、女はその後を追わない。
それを不思議に思った烏養はまたすぐ店先まで引き返した。
「これ、母ちゃんに渡すから。お前からも……」
「ううん、大丈夫。もう帰る……ます。よろしくお伝えください……」
「他人行儀すぎるだろ」
だって他人でしょ、と女は心の中で返事した。
自分が調子づいてしまうようなことを、言わないで欲しかった。
黙っている女を怪訝そうに見ながら、烏養が続ける。
「お前、今日なんか変じゃねえの。どした」
「……この間のこと、烏養さん、怒ってない?」
「この間?」
「夜。男の人に絡まれて、そこで迷惑かけたから」
「あー、アレか。俺が毎回都合良く現れる訳じゃねえってのは理解しとけよな」
「……ごめんなさい、今度からは迷惑かけないようにします」
「そうだな」
その烏養の一言に、女は一瞬息を詰まらせるものの、「そうだよね」と自分を納得させるように呟いた。
烏養のたった一言が、やけにはっきり耳に残った。
これまで自分の気持ちの押し付けばかりで、勝手に舞い上がっておいて、勝手に落ち込むなんて我ながら自分勝手で嫌気が差す。
「じゃあ……帰るね」
「え? いや、ちょっとくらい上がっていけって……」
女はほとんど烏養の顔を見ることなく、その場を去る。
残された烏養が何か言いたげだったことなど、知る由もなかった。
◆◆◆
「最近元気なさそうに見えるけど、大丈夫?」
気の知れた同僚から缶のカフェオレを差し出された女は、ぎこちなく笑いながら受け取った。
「ありがとう。確かに少し、疲れてるかも」
「俺、何か手伝おうか? どのタスク?」
「あ、ううん。仕事は大丈夫」
「……そっか。まあでも、何かあったら手伝うから。無理しないで」
「うん」
そんな調子で1週間が終わろうとした日の定時前。
「今日、時間ある? よかったら少し飲みに行かない?」
いつものように女を気にかける様子を見せた同僚が、そう誘いをかけた。
「疲れてるときは、誰かと他愛ない話をするのもいいかなって。無理にお酒飲まなくてもいいし、深く聞き出してやろうって気持ちもないけど……気晴らしにどうかな」
「そう、だなあ……」
「俺、もっと仲良くなりたいし」
男女の感情があるのかないのか、測りかねていた女だったが、同僚の最後の一言でなんとなく察してしまった。
それでも正直、行ってもいいのかもしれない、と女は思った。同僚の気遣いを受け取るべきなのかも、と。
しかし、頭の隅では烏養の姿がチラつく。当然付き合っている訳ではなく、自分の一方的な恋慕だ。だから何も後ろめたいことはないはずであるし、むしろここで誰か他の相手を見つけた方が烏養にとっても良いのかもしれない。
そう自分に言い聞かせようとした、そのときだった。
携帯が震える。
画面に表示されたのは、今まさに思い浮かべていた、見慣れた名前。
『金曜だろ。飯食おう。20時、いつものとこ。』
たった一文、そっけなくも見える連絡。
しかし、その短い文面が女の胸の奥をどくんと打った。
──迷っている暇はなかった。
「……バレー部、どう? みんな元気?」
「元気元気。頑張ってるよ」
「偉いねえ、高校生」
「ん。煙草、吸っていいか」
「うん、どうぞ」
烏養が銜えた煙草に火をつけて、息を吸う。
肺に入れた煙を天井に向かって吐き出した後、女をじっと見た。
「……な、何?」
「お前は?」
「何が?」
「お前は元気なの」
「え……、うん、まあ」
曖昧に答える女から、烏養は目を離さない。
居心地が悪くなった女は、手元のグラスに口をつけた。
間を持たせるためにゆっくり、少しずつ飲むも状況は変わらず、結局、根負けしたのは女の方だった。
「今日、ご飯誘われたんですよね。同僚に」
「あ? そっちに行きたかったからヘコんでんのか!?」
「いえ! そういう訳じゃなくて! 烏養さんがご飯誘ってくれて、嬉しいです」
「……別に、飯くらい誘うし。これまでもそうだったろ」
「……うん」
烏養はトントンと親指で煙草の灰を落として、再び吸った煙をゆっくり吐き出してから、女に尋ねた。
「…………で、男?」
「え?」
「だから、誘ってきた同僚。男かって」
「うん、そうですけど……」
「…………」
「えっと、烏養さん?」
「いつものお前なら、『烏養さんヤキモチですか!? 気になったんですか!?』って言う」
「あー、はは、大丈夫ですよ。違うってわかってるので」
女が笑うのに対して、烏養は顔をしかめた。つまらない、面白くない。そう思ったが声にはできなかった。
明らかに女の態度が変化している。その同僚の影響なのか、はたまた別の原因なのかはわからない。
――なんだこれ。調子狂う。
「あ、私飲み物頼むんですけど、烏養さんも追加で何か頼みます?」
女が話題を変えてしまったので、烏養は「ヤキモチだよ」と伝える代わりに「ビール」と言うしかなくなってしまった。
「わかりました。烏養さんあんまりお酒強くないんだから、次で最後にしましょうか」
なんて笑う女に苛立ちすら感じる。
酒に強くない自分が、追加でビールを頼む心境くらいわかんねえのか。
女の家の前に着いたときも、烏養の心は落ち着いていなかった。
「じゃあ、ありがとうございました」
あっさり家の中へ入ろうとする女の態度で、抑えていた気持ちが溢れ出したのを自覚する。
そして、自覚するより一瞬早く、体が動いていた。
後ろから扉を押さえられた女が驚いて見上げた烏養の顔は、怒っているような、悲しんでいるような、照れているような、そんな初めて見る表情をしていた。
「俺のこと、好きだったんじゃねーのか」
その言葉に、女の瞳は驚きと戸惑いがないまぜになった色へ変わる。
烏養は怒っているわけでも、責めているわけでもない。
ただ、確かめたいだけの言葉だった。
「……好き、ですよ。だけど……」
好きだなんて、これまでも女が烏養へ伝えてきた言葉だったのに、声が震えていた。
「だけど……なんだよ」
「烏養さんが、私のことどう思ってるのか、わからない、から」
烏養は一瞬だけ目を伏せて、煙草も咥えていないのに深く息をついた。
「……正直、俺だってわかんねぇ。どう言えばいいのか、とか……伝えるの、得意じゃねーし」
「でも、今日のお前見てたら怖くなった。……離れてっちまうんじゃねーかって」
「その同僚とかいうヤツ、お前のことそういう意味で飯に誘ったんだろ? 気持ちに応えようとしたのか?」
「……駄目だ、もう我慢できねえ」
「お前が他の男に取られるかもって思って、初めて焦った。
もし今日俺が連絡しなかったらそいつと……とか、俺の誘いを断られてたら……とか。そうなったら嫌だって、帰り道、ずっと考えてた」
そこまで一気に伝えたところで、烏養が我に返ったように口をつぐむ。
あたりの静けさが二人を包んだ。
女がずっと望んでいた反応だった。烏養の想いにこそ応えたい、そう思っているのに口がまるで痺れたように動かず、ぐっと唇を噛む。
途端視界が潤んで、自分でも驚くと同時に、烏養が狼狽えた声をあげて手を宙に彷徨わせる。
「な、おい、泣い……!? 別に怒ってねえぞ、泣くことな……」
「ちが、ごめんなさい……、だって、前、お前のことで心配ごと増やしたくねえって言ってたから……迷惑だったんだって思ってたのに」
女が俯いて顔を隠す。
「烏養さんのこと、好きでいていいの……」
女の言葉に、一拍置いてから烏養が答えた。
「いいに決まってる。俺だって、お前のこと好きだよ」
宙を彷徨っていた烏養の手が女の腕を優しく掴むと、女は烏養の胸に頭を預けた。
その反応に、またもや烏養の手が行き場をなくしかけたが、遠慮がちに女の背中に手を添えるのだった。
一分ほどの、短くて長い沈黙。
「烏養さん……このまま、うちに泊まりますか」
女が口を開くと、烏養が慌てて体を離す。
「はあ!? 馬鹿かお前!」
「…………」
「あっ、待て、嫌とかじゃねえから泣くな!」
想いが通じ合ったはずなのに振られたとしょぼくれる女に、額に手を当てた烏養はため息交じりに説明を始める。
「そういうのは、お互いの親にちゃんと報告してからがいい。大事にしたいから、今日は帰る。……わかってくれるか」
「……親への挨拶ってことですか?」
「別に堅っ苦しいやつじゃねえよ。普通に一言報告は必要だろ」
ピンときていない様子の女に、烏養が眉間にシワを寄せる。
「おい、散々好きって言ってきたクセに将来のことは考えてねえとか言う気か? 誰と結婚する気でいんだよ」
「え、えっ」
「心配ごとってのも、あれだ。母ちゃんらに“お前と結婚しろ”ってずっと言われててさ。でもよ、まだ三十にもなってねえし、付き合ってもねえのに、そんなんいきなり出来るわけねえだろ。それに……お前がもし、親から刷り込まれて俺のこと好きだと思ってるだけなら……そんなの、俺が受け入れちゃいけねえと思ってたんだよ。まあ、そんな悠長にしてるヒマもなくなっちまったけどな」
「し、知らない……」
烏養からの怒涛の告白に、これまで散々うるさいと言われてきた女は完全に押されていた。
そんな女に烏養は畳み掛ける。
「知らない? お前は親から俺と結婚しろとか言われてなかったのか」
「言われてない! それに、烏養さんのそんな気持ちも、どっちも知らない……!」
焦った様子の女を見て、烏養がはは、と笑みをこぼす。
「刷り込みじゃねえってことでいいよな? それなら、次店に来たとき、一緒に報告してくれよ」
女はようやく頷くのが精一杯だった。
こんなに不器用な人を好きになったうえ、その想いが報われたのは、人生の手違いか奇跡か、たぶん両方だ。
それでも、好きでいていいって言われたから、図に乗っていい日ってことにする。
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