恋心
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名無し名無しはボーダー本部内の食堂に勤める一般職員である。
夕暮れ時、仕事を終えた名無しは1人歩いていた。本部から5分程歩いたところで、道を外れて行き止まりの路地へ向かう。
そこには、黒いバイクが止まっており、傍らには同じく黒いライダースーツの男が立っていた。
名無しが駆け寄るのと同時に、ヘルメットのシールドを開け、覗かせた目を細めるのは忍田だ。
「おかえり」
「お待たせしました。ごめんなさい、お休みなのに迎えに来てもらって」
「休みだからこそ、きみに会いたかったんだ」
「……う……嬉しい、です」
名無しが頬を染めるのを見て、満足そうにしながら忍田がヘルメットを手渡す。
「腹が空いただろう、このままラーメンでも食べに行かないか」
「! それって、前に話してたお気に入りだっていうお店ですか? 隣の市にある……」
被ろうとしたヘルメットを頭の上に掲げたまま名無しが声を弾ませる。
以前、名無しは忍田に「だし巻き卵以外に好きな料理あるんですか」と聞いたときがある。その時に醤油ラーメンという答えと、よく行く店を教えてもらっていた。
好きな人の好きなものを共有してもらえる、それはとても贅沢なことだ。思わず食べる前から体の内側が満たされてしまう。
「ああ。バイクならそう時間はかからないよ」
「行きたいです!」
「じゃあ後ろに乗ってくれ。危ないからしっかり掴まるように」
名無しの答えを聞きながら、忍田はバイクに跨りエンジンをかける。その動作があまりに様になっていて、あまりに単純だとわかっていながらも見惚れてしまった。
「どうした、乗れるか?」と促されて名無しは我に返り、ヘルメットを装着した後にバイクに手をかけた。
「はっ、はい、大丈夫です。乗りますね……っと、……ええと、一応バイクの後ろ乗ったことはあるんですけれど、どこに掴まったら運転しやすいですか?」
バイクに跨ったあと、名無しがそう尋ねる。自分が車体と運転者どちらに掴まった方がバランスを取りやすいのか、確かめておく必要があると思ったからだ。
「私に掴まってくれたらいい。腰に腕を回すと安定するはずだ」
「……わかりました」
緊張や動揺が悟られないように、そっと忍田の腰に手を回す。触れても問題のない間柄であるなら、くっついていた方がバランスを取りやすいだろう。至極当然のことであり、相手は事故を起こさないために真面目に言っているだけだ。
それなのに邪な気持ちを抱いてはいけない。あくまで自然に、身を任せよう。そう名無しが決意したと同時にバイクが走り出した。
そう思っていたのに。結局、道中感じた体温も、風をきる感覚も、忍田のライダースーツの質感も、この世から切り離して大切にしまい込んでしまいたい程意識してしまったのだ。
□□□
「んー……! 美味しい……! 普段は塩派なんですけど、醤油ラーメンも最高ですね」
「それはよかった」
「あ、でも塩も食べたいからまた連れてきて下さい」
二人席で向かい合ってそんな会話を交わしながら、ラーメンを啜る。
客はそう多くなく落ち着いているが、会話をするのに気後れしない。居心地の良い町中華だった。
「……ところで、1つ聞きたいんだが」
「ん……聞きたいこと? 何ですか?」
半分程食べた頃、忍田が箸を置いてそう切り出す。
名無しが分厚いチャーシューを飲み込んだ後に聞き返すと、忍田は壁を向いて口を開いた。
「以前バイクに乗ったというのは……誰の後ろに乗ったのだろうか」
「?」
「いや、別に深い意味はないんだ。ああ……そうだな、質問を変えよう。いつ頃の話だろうか」
「子供の頃、父のバイクに乗せてもらったときのことですけど……」
「……そうか、ご家族か」
「…………」
何で気になったんですか、とは敢えて口にせず、箸を持ったまま名無しは忍田を見つめる。壁を見つめ続けていた忍田だったが、名無しの聞きたいことがわからない程鈍くはない。観念したのか目を閉じて小声で弁明し始めた。
「……てっきり、最近誰か乗せてもらうような相手がいたのかと……。邪推してしまった、すまん」
「謝ることじゃないですよ。……ふふ、安心して下さい。私の周りでバイクに乗るのは貴方と父親だけです」
そう答えて再びラーメンに口をつける。忍田も彼女にならって食事を再開した。
□□□
「ああ、美味しかった……。久々にラーメン屋さんでラーメン食べました。やっぱり違いますね」
「気に入ったか?」
「ええ、とっても。でも次は割り勘ですよ」
「私が誘ったんだし、これくらいは……」
「いいえ。嫌です。だからまた食べにきましょう」
「……わかった」
基本的には柔らかな物腰の名無しだが、頑固なところがある。施しを受けっぱなしでよしとしないこともわかってきていた。だから忍田もこれ以上言い返さず、受け入れる。そしてそのまま話題を変えた。
「名無しさん、明日のメニューでオススメはあるか?」
「うーん、そうですねえ……明日ならおろしハンバーグですかね。ハンバーグは人気があって、毎回売り切れちゃうんですよ」
「ほう……美味そうだな。1人分とっておいてくれないか」
「あ、ズルは駄目です。そもそも私にそんな権限ないですし……。ふふ、ちゃんとお昼食べに来て下さい」
「駄目か……。仕方ない、昼に緊急の仕事が入らないことを祈ろう」
「ええ、待ってます」
「……さ、そろそろ帰ろうか」
「……そうですね」
「社宅の前で降ろすが、もう声をかけてやれないしその場に留まれないから、私を見送ったりせず早く中に入るんだぞ」
「ええ、わかりました」
一般職員用にボーダーが用意した社宅に名無しは住んでいる。フルフェイスのヘルメットをしていればそれがボーダー本部長だとはそうそうわからないだろうが、声を発したりヘルメットを取ったりして、誰かに見られてしまえば、あっという間に二人の関係が広まってしまう可能性もある。
恋愛は禁止されておらず、不倫等の倫理に反する関係でもない。付き合っていることを咎められる理由も、後ろめたさがある訳でもないが、わざわざひけらかして話題にすることをどちらも好まなかった。
忍田はもちろん、噂話の大好きな妙齢の女性の多い職場で働く名無しも、自身の色恋沙汰に話題性があると自覚している。だから、名無しは今夜一度も「忍田さん」と相手の名称を口にしなかった。
バイクがゆっくりと動き出し、発進する。徐々にスピードを上げていく車体の振動を感じながら、名無しは腰に回した腕に力を込めた。
□□□
名無しを送り届け、自宅に帰った忍田は、バイク置き場でヘルメットを脱ぐと同時にため息をついた。
背中には未だ名無しの体温と感触が残っている気がする。
(流石に下心が出過ぎていただろうか)
ハンドルに額を預けながら、そう心中で呟く。
バイクに乗せる際に、運転者に身を寄せてもらった方がバランスを取りやすいのは事実であり、何も下心だけではないのだが、それでも忍田にとっては反省すべき点だったらしい。
確かに、もし後ろに乗せるのが男であれば、腰に手を回せなど言わなかったであろう。女だとしても同じだ。そもそも、よっぽどのことがない限り名無し以外を乗せるつもりもないが。
そして、こんなことを悶々と考えていることも忍田にとっては反省点である。
当然、今まで女性経験がない訳ではない。しかし、まるで学生のような歩み方をしているのは初めてだった。お互いとっくに大人だというのに。
それだけ、名無しを大事にしたいという気持ちと共に、自分が彼女を傷つけてしまわないかと恐れを持ってしまっている。
「……はぁ」
忍田は再びため息をつく。
自分は、彼女の前ではどうも上手くいかない。
年上として余裕のある振る舞いをしたいのに、感情が理性を追い越してしまいそうになる瞬間があることを自覚していた。
今日だって、もし名無しがバイクに乗せてもらったという相手が父親ではなく別の男だったなら、それを知った自分が嫉妬の感情を隠し切れる自信はない。それでも、余裕のない部分は名無しに悟られないようにしたい。
そんなことを考えながらも、今夜ベッドに入った時に名無しの体温と感触を思い出さない自信もまた、忍田にはなかったのだった。
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