Way to a man’s heart is through his stomach.
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ボーダー基地内には、食堂が存在する。
調理員をはじめとした食堂関係者や清掃員等の一般職員は、特別トリオン能力が高いわけでもない、その名の通り一般人がほとんどで、私もその1人だった。
機密事項を扱う組織であるから、立ち入り禁止の場所は多いが、特に不便なことはない。清掃員も情報が漏れるおそれのない場所の掃除のみで、研究室等重要な場所の清掃はボーダー隊員が直々に行っているらしい。
若者が占める割合の多いボーダー隊員のために多くの食事を作らなければならないのでピーク時を過ぎるまでは忙しいが、その分時間が過ぎるのも早く、ネイバーの攻撃を受ける可能性がある施設のため給料も高い。それなりに良い職場だ。
「今日の訓練ハードだったから腹減っちまったよまったく……あ、おばちゃん俺唐揚げ定食! 唐揚げオマケしてよ!」
「みんな決まった個数だからだーめ」
「ちぇっ、やっぱりそうだよな……」
「付け合せの野菜は余りそうだからたっぷり乗せてあげるね」
「げえっ……」
「隊員さんはビタミンをとることも大切でしょ? はいどうぞ」
フライヤーでカラッと揚がった唐揚げの横に、キャベツや玉ねぎ、ピーマンなどをドレッシングで和えたものをたっぷり乗せてやる。
「このドレッシング、柚子胡椒をメインにした新作だから。ぜひ食べてみて、美味しいと思うの」
「柚子胡椒……それは美味しそうっすね!」
「よ。どしたんお前、野菜多くね?」
そう後ろに並んできた子に話しかけてられ、唐揚げ定食の子はその子と仲良くテーブル席の方へお盆を抱えていった。
普段はお姉さん、と呼ばれることが多いが、先程のようにたまに……本当にごくたまに! おばちゃんと呼ばれることもある。この基地にいる隊員たちは、十代の子が殆どを占めている。その子達からしたらおばちゃんに見えてしまうのも仕方がない。先程の子も悪口を言おうとして私をおばちゃんと呼んだ訳ではないのだ。
そんな子供たちが来るかもしれない戦争のために日々訓練していることを考えると、少し恐ろしくて、なんとも切なくなってしまう。
先程のように普段食堂で見る彼らは人懐っこく、年齢相応の表情をしているから、つい彼らが兵であることを忘れてしまう分余計に。
時々、年齢と不相応なくらい落ち着いて大人びた隊員もいるけれど。
お昼のピークを過ぎて、一息つけそうな頃。自分も昼食をとろうと調理室側から抜けてホール側に出たとき、不意に話しかけられた。
「ここの食事はメニューごとに担当が決まっているのだろうか」
びくうっ、と大げさに体を跳ねさせてしまう。その人物が子供ではないどころか幹部、この組織の本部長だったからだ。
「し、忍田本部長さん……」
「すまない、驚かせてしまったか。忙しいところを呼び止めてしまったのなら……」
「い、いえ! 今から休憩なので全然大丈夫なんですけど!」
もちろん、忍田本部長さんに限らず、幹部の方が食事に来ることは珍しくない。というかほぼ毎日誰かしらの姿は見ているし、忍田本部長さんにだって、注文された食事をカウンター越しに渡したのも一度や二度ではない。ただ、話しかけらたのは初めてだった。
いくらボーダー基地内の食堂に勤めているとはいえ、私が話をするような立場の人ではない。
そんな人がわざわざ声をかけてくるなんてまさか、とごくりと唾を飲む。
「何かお気に召さないものがありましたか……?」
何かやらかしてしまったのかもしれない。そう思った私は恐る恐るそう尋ねたのだった。
しかし、忍田本部長さんは穏やかな口調のまま私の予想と反する言葉を続ける。
「いや、そうじゃない。なんとなく、メニューによって担当があるのかと思って」
なんだよかった、と胸をなで下ろし、それでも幹部相手に失礼のないように注意しながら質問に答えることにする。返答次第では恐れているお気に召さないことに繋がってしまうかもしれないから。
「大まかに分けられた担当があります。煮物チームや、焼物チームや、小鉢チーム……。味の偏りを無くすため、月単位か週単位か、仕入れた食材やメニューで適宜変わりますが。例えば私は今月焼物チームで……先週は野菜炒めでしたけれど、昨日、今日はだし巻き卵を担当致しました」
「なるほど。きみだったか」
「え?」
「……実は、今日のだし巻き卵を誰が作ったのか知りたくて」
落ち着いた口調に反して、少し気恥ずかしそうにしながらそう答える姿に意外性を感じ、呆けてしまう。
「お好きなんですか」
「ああ。……特に今日のは美味しくて。それだけ伝えたかった」
「わざわざそんな……。ありがとうございます! 嬉しいです」
仕事とはいえ、自分の作った料理を褒められるのは嬉しかった。一人暮らしのため実生活で褒めてくれる人はいない。
決められた分量で作っているから他の人とそうそう差があるとは思ってないけれど、何かの要素で誰かに特別に美味しいと感じて貰えたなら、ありがたい話だ。
ボーナスとか出ないかしら。だし巻き卵戦功。戦った訳ではないけれど。
◇◇◇
それから、忍田本部長さんをより気にかけるようになった。
相手も私を見つけると会釈してくれるし、カウンター越しに話しかけてくれることもある。内容は大体、天気がいいですねとか、当たり障りのない世間話。
だし巻き卵があると必ず「今日のだし巻き卵はきみが作ったのか」と聞かれるのが少し気まずいけれど、私だろうとそうでなかろうと取って行ってくれるのが救いだ。
「……やっぱり、きみの作るだし巻き卵が一番好きだ。もちろん、他の職員が作ったものも美味しいが」
前に声をかけられたときと同じようなシチュエーションで、再び声をかけられた。
「ありがとうございます、忍田本部長さんのお褒めに預かり光栄です」
「今までにもいつもより美味しいと思ったときがあるが、その時もきっときみの担当だったのだろう」
そんな言葉を貰って、普通に照れてしまう。他にもカウンター越しに美味しかったと伝えてくれる人は時々いて、それも十分嬉しいことではある。
が、それは食堂の人全体に宛てたもので、この人が褒めてくれるのは私個人だ。ここの分量や材料、火力が良いのであって、全て私の実力ではないとわかっていても喜んでしまう。
「……差し支えなければ、名前を」
「名無し名無しです。ごめんなさい、名乗り遅れてましたね」
「いや、構わない。名無しさんか。……それでは、ご馳走さま」
そう言って去っていく背中を見ながら、私はつい期待してしまった。
……やっぱりボーナス、出るんじゃないかな。
◇◇◇
期待に反して、悲しいことにボーナスは貰えないまましばらく経ち、また忍田本部長さんがお見えになった。ただし、生憎今日はだし巻き卵はない。
「今日はないのか」
彼も気づいたようでカウンター越しにそう話しかけられた。
「ええ、ごめんなさい。今日はないんです。だし巻き卵」
そう答えると少し思案したあと、口を開く。
「名無しさんの今日の担当は?」
「えっ……ええと、鶏のポン酢煮、ですけど……」
「じゃあそれを」
「……もう駄目だ」
「なに、だし巻き卵の人?」
「本部長さんね」
スマホを弄っていた友達が顔をあげる。
この友達とは、お互い他の人には言いにくい話や愚痴を言い合う仲で、職場の話もこれまでしてきていた。いっつも大盛りのご飯をぺろりと食べる子がいるとか、平気で遅刻する同僚がいるとか、よくある内容。最近は忍田本部長さんのことを報告するのが常だった。
「ボーダーの本部長ねえ……また大層な人を」
「だし巻き卵褒められるだけなら純粋に嬉しいって、そこで止まってたのにさあ。だし巻き卵がなかったら私の作った料理聞いてきてそれ即決するんだよ? そんなんやられちゃうよ」
「そこで? 変なところで落ちたね」
「そうかなあ……」
「だし巻き卵も元々好物なんでしょ? 褒めた言葉は嘘じゃないと思うけど、別に他の人が担当でも食べてるんだし」
「……だよねえ。はー……好きになりたくない……」
「それ言ってる時点でもう好きじゃん」
図星だ。ぐうの音も出ず天を仰ぐ。
私が作ったときだけだし巻き卵頼むとか、毎回私の担当聞いてきてそれだけ注文するとか、それくらいわかりやすければともかく。ただの勘違い女でしかないのはわかっていた。脈はない。今の時点ではせいぜい顔見知りだ。
でも、好きだと感じるだけなら許してほしい。私も好きになりたくてなったわけじゃないのだ。それに。
「あんな顔も良くて地位もあって実力もある人がほっとかれる訳ないよね……。指輪、はしてなかった気がするけど奥さんや子供がいてもおかしくない……」
「えー? そんな情報出てこないけどな」
「え?」
「今調べたの。ネットで。家族の情報はないよ」
「……隠してる可能性はある。家族狙われないようにとか」
「ないんじゃない? 流石に隠し通せないでしょ」
「……だとしても彼女がいないわけないし、いなかったとしたらそれはそれで脈ナシだと思うんだよね。きっと今まで付き合っても仕事が忙しくてうまくいかなくて、今は恋愛はいいやって……思ってそう……」
「どっちにしても本人に訊かなきゃわかんなくない?」
ぺらぺらと好きにならないための理由を並べていると、ピシャリと返される。
「大層な人を、とは言ったけど諦めろって意味じゃないし。いいと思う。ぐだぐだ言ってるより彼女いるか訊けばいいじゃん」
「そ、そんなの告白してるも同義……」
「訊いても訊かなくても脈ナシは脈ナシ、脈アリは脈アリ。むしろそれで意識してくれるかもしれない」
「でもさあ」
「片想いしてるだけで楽しい〜ってスタンスならいいけど。そういうお花畑じゃないでしょ、アンタ」
「…………」
「立場上表に出さないだけでさ、案外甘えられる存在が欲しいかもよ? 彼女いなきゃの話になっちゃうけど」
「うん、……そう、だね。訊けそうなタイミングあったら訊いてみる」
「そうそう、何にせよアッチから話しかけてくれてる時点で可能性はゼロじゃないよ」
「……よし、覚悟決めるか」
「がんばれ〜」
「…………」
熱いのかゆるいのかよくわからない応援に背中を押され、覚悟を決めた。
……つもりだったのだが。
食堂で会うだけの相手にいきなり「彼女いますか?」なんて訊くタイミングはそうそうない。不自然すぎる。そもそも仕事中に気になる男の人にちょっかい出すなんてのは自分ルールでナシだ。そうなると訊けるタイミングなんてない、と気づいたのはしばらくしてからだった。
何度か忍田本部長さんとお会いしたが、食事をお渡ししたり、一言世間話したり、会釈したりするだけの関わりしか持てなかった。
だけ、と言ったがそもそもボーダー上層部の方とそれだけ関われている時点で恵まれている。一個人として認識されているだけで上々だ。……あくまで一般職員としては。
その先の関係になるには見込みがなさすぎる距離だった。
◇◇◇
そんなある日。
ボーダーでは夜もランク戦や研究開発等に勤しむ隊員たちの為に、22時頃まで食堂を開けている。子供など家族がいる人は日中だけ働いていたりもするが、独り身の私はどの時間でも構わず、固定で働いている人たちの穴を適宜埋める形……所謂シフト制で働いていた。その分平日に休みをもらい、ストレス少なくお出かけを満喫できるのでWin-Winの関係だ。
今日の残り物を処理していく。一緒に遅番をしていた皿洗い担当の同僚は自分の仕事が終わったため帰ってしまった。時間内に終わらない仕事量ではないし、1人で黙々と仕事をするのが性分に合っているから問題はない。これが終わればカウンターのシャッターを降ろし、ホールと調理室を繋ぐ扉に鍵をかけて、電気を消す。そう自分の成すべきことを頭で確認していたときだった。
「名無しさん」
「わっ!?」
この人に驚かされることが多い気がするが、それは私が意識してしまっている故過敏に反応してしまうからなのだろう。鼓動を早めた心臓を抑えたくて、エプロン越しに胸に手をあてた。
カウンターの向こう側からこちらを覗き込むように忍田本部長さんが立っていた。
「忍田本部長さん……どうしたんですか、こんな時間に」
「会議で遅くなってな。夕飯駆け込もうかと思ったんだが……間に合わなかったようだ」
「ああ、それはお疲れ様です……大変ですね」
時刻は既に23時近い。駆け込むも何も、食堂が22時までというのを知らないのだろうか。食堂入口に、CLOSEの札、なかったっけ? 少々違和感はあるものの、私にとっては好都合なので気にしないことにする。
「きみこそ、こんな時間まで働いているんだな」
「後片付けがありますからね。と言っても、私たちはこの時間まで働くときは基本次の日お休みですから。皆さんに比べたら大したことじゃないですよ」
「いいや、どんな仕事もお互いどちらが大変か比べるものではないさ。きみたちのような一般職員に、我々隊員は支えられている」
「……ありがとうございます」
思わず褒められて、私が犬ならぶんぶん尻尾を振っているところだ。そんな尻尾を隠すために、慌てて話題を戻す。
「それで、忍田本部長さんはお食事まだ……ということですよね?」
「ああ。ダメ元だったんだ。仕方ないから今日は」
「あの!」
「ん?」
「残り物でよければ、ご用意できますが」
「……いいのか?」
「ええ、今ちょうど残り物を片付けてまして。食べて下さるなら助かります。捨てるのは勿体ないですから」
メニューは選べませんけど。そう付け加えると忍田本部長さんは柔らかく目を細めてくれる。
「ならお言葉に甘えていただこうか。確かに、食べ物を捨てるのは心が痛む」
「そうですよね」
魚の煮付があって良かった。これをメインに、肉じゃがも少しあるからそれは小鉢に入れて。いんげんの胡麻和えもある。あとはスープをつけて……。だし巻き卵はないんだよな、何か卵料理残ってたかしら。
残り物の中から少しでも忍田本部長さんが好みそうなものを選び、盛り付けていく。
「実は私たちも、自己責任で持って帰るときもあるんですよ。もちろん、傷みにくいものにしてますけど……」
「ほう。それは……」
ハッとしたときには遅い。昨今はコンビニやパン屋でも廃棄予定の食べ物の持ち帰りは禁止しているところが多い。この食堂でももちろん持って帰って良いとは言われておらず、グレーゾーンとされていることだった。
「あっ、ごめんなさい……! 駄目なのはわかってるんです! 衛生上! それに立場を利用して予算で買っている食料を勝手に持ち帰るのはよろしくないですよね!? ああ……つい口が滑っちゃった……」
忍田本部長さんと2人きりという状況に浮かれてしまい、口が必要以上に滑らかになってしまった。
「……申し訳ありません!」
食事の準備を中断し、そう頭を下げると笑い声が聞こえた。頭を上げると、彼が口元を押さえている。
「ふふ……そう慌てるな。安心していい、別に咎めたりはしない。一般職員の管轄は私のするところではないからな」
「ご内密にして下さるんですか……?」
「ああ。ただ、きみの言う通り衛生上問題になる可能性もある。気をつけたほうがいい」
「はい……」
返事をしたあと、食事の準備を再開する。うう、恥ずかしい。が、怒られなくて良かった。ああでも、ちょっと頭の悪い子と思われたかも。と思考がぐるぐる回っている。それでもちゃんと彼のための食事をカウンターに一通り並べたのは私が仕事のできる人間だからだと自惚れたい。
「名無しさんは夕飯は?」
「夕飯、ですか?」
唐突な質問に思考が急ブレーキを踏む。
「もう食べたのか?」
「夕方、仕事入る前に軽く。と言ってもお腹空いちゃうので帰ってからも少し食べちゃうんですよね。スープとかおうどんとか……」
「名無しさんが迷惑でなければ、一緒に食べないか。今ここで」
マスクをしていてよかった。思わず口をぽかんと開けてしまったが、間抜けヅラを見せなくて済んだ。
黙っている私をフォローするために、忍田本部長さんは申し訳なさそうに続ける。
「きみの立場が危うくなるとか、仕事があるとか、その……私と食事をするのが気まずいなら、無理せず断ってくれ。名無しさんの評価や給料に響いたりなどしない」
「め、滅相もないです……! すぐ、自分の食事、用意します」
そうは言ったものの、食事が喉を通る気はしなかった。
スープと、お漬物、忍田本部長さんにもよそった肉じゃがを少し。それらをトレーに乗せて、彼の座っているテーブルに向かうと、食事に手を付けず待ってくれていた。
「あ……気を遣わせてしまって、すみません。先にお食べになって下さって良かったのに……」
そう言いながら前に座る。前で、いいよね? 一席ずらして斜めの方が自然だったかな。でももう座っちゃったし。
「私から誘っておいて先に食べるなんてできないよ。……いただきます」
「……いただきます」
広い食堂に、私と忍田本部長さんだけ。私の用意した食事を、目の前で彼が食べている。
男の人らしい、節々が張り、血管の浮き出る手が、箸を介して彼の薄い唇に触れ、食事を口内へ運ぶ。
……彼女がいるかどうか訊くなら今がチャンスではないだろうか。そして同時に、運命の分かれ道でもある。好かれることは必ずしも嬉しい、なんて単純な等式ではない。
身に覚えがあるからわかるのだ。他人からの恋愛感情は、時として嫌悪感を生んでしまう。女性なら特に感じたことがあるかもしれない。
好きになること自体は悪ではない。気持ちを伝えることの大切さや、勇気も認められるものではある。が、独りよがりでしかない告白はするべきではないと思っている。断る側だって精神を摩耗するのだ。
そう、忍田本部長さんだって、親切心から声をかけた相手から「彼女いますか?」なんて聞かれたら、引いてしまうかもしれない。マイナスになった好感度をプラスにするのは、いや、ゼロにするのだって相当難しい。そもそも、プライベートを聞くほど仲が良いかはわからない。「そんなこときみには関係ないだろう」なんて言われたら立ち直れない。
……いや、忍田本部長さんは優しいから、そんな言い方はしないだろう。困ったように笑いながら、「プライベートなことだから……」と濁しそうだ。ああ、そっちの方が辛いかも。
せっかく、こうして話しかけてくれる間柄になったというのに。このぬるま湯を手放すのが惜しかった。
「……ぼーっとしているが、大丈夫か?」
その声で、スープのお椀を抱えたまま止まっていたことに気づく。
「す、すみません。違うんです、お口にあったかなと思ってしまって。量も足りてますか?」
「ああ、十分だ。味も美味しいよ。これがなければカップ麺で済ませるところだったから、ありがたい」
「まあ、それは……いえ、忙しいとそうなってしまいますよね」
自分もスープを啜る。ぬるくなって、ちょうど飲みやすい温度だ。
「でも、できれば、バランス良く食事を取って頂きたいですから。来て下さって良かった」
私の言葉に相手は箸を止める。
「……だが私が食事を終えるまで……いや、この食器を片付けなければ帰れないだろう。……悪いな、早く帰りたいだろうに」
「いいえ、幹部の方とお食事する機会なんて滅多にありませんから。それに、私も家に帰ってから食べるよりここで済ませた方が楽ですもの」
あくまで、恋愛感情ではない親しみだけが伝わるように。さらりさらりと、できるだけ言葉を軽くして言い切る。スープを飲み干した。
「ご馳走様でした」
「ご馳走様でした。……お粗末様です」
私が食器を持とうとするより早く、忍田本部長さんが私の分もまとめて全てお盆に乗せ、立ち上がった。
「運ぶくらいさせてくれ」
「駄目です、そんなことさせられません」
そう言ったものの、だからといってむりやり取り返す訳にも行かず、私は手ぶらのままカウンターの内側へ戻る。
改めてエプロンやマスクをを付け直し、カウンター越しに忍田本部長さんから食器を受け取った。
「すみません、ありがとうございます」
「こちらこそ」
「あとはやりますから。どうぞお先に……」
「いや、待っていよう。家まで送る」
「……えっ!?」
「こんな遅い時間に1人で帰す訳にいかないだろう」
「そんな、大丈夫ですよ。別に狙われたりなんか」
「…………」
「……ええと」
無言の圧力に負けて顔を下げ、食器を洗うことに逃げる。
そりゃあ、そりゃあ嬉しいに決まっている。まだ忍田本部長さんと一緒に居られるのだ。ただ、こんなことをされると勘違いしてしまいそうで怖い。
この人は、真面目で、硬派で、優しくて、責任感のある人だ。きっと私じゃなくても家まで送るはず。落ち着け、自惚れるな。自分に言い聞かせたあと、顔を上げる。
「あと10分くらいで全て終わりますので……お待ちいただけますか?」
「ああ、わかった」
「最後に入口の鍵をかけて終わりです。お待たせしました」
そう声をかけて、鍵を管理室に返した後、2人で食堂を出る。CLOSEの札はしっかり扉にかかっていた。
本部を出ると当然外は真っ暗で、辺りに人気はない。
「家はどの辺りだろうか」
「ボーダーで借りてもらってる社宅なんです。ここから歩いて15分くらいの……」
「ああ、一般職員用の。わかった」
「……あの、本当によろしいのですか? 送って下さるのは有り難いのですが、ご負担になってしまうんじゃ」
「気にしないでくれ。私がそうしたいんだ」
「それは……どうも」
どきん、と心臓が跳ねる。
だめだ、期待してはいけないはずなのに。
頬に熱が集まるのがわかる。夜の闇に紛れて気づかれないことを祈りたい。
「……迷惑だっただろうか?」
「いえ! 全然!」
慌てて首を横に振る。
「ただ……私、大層な話はできませんが」
「そんなことないさ」
「……あ、だし巻き卵のレシピとか、教えましょうか?」
「……別にそういうものが目当てのつもりじゃないんだが……」
「でも、よっぽど気に入って下さってるから。レシピがわかればいつでも食べれますよ」
忍田本部長さんが少し困ったような表情を見せてくれて嬉しいのが半分、好物のレシピを教えてあげたいお節介が半分。
「私はきみが作ってくれるものがいいんだがな。1人じゃなかなか料理もしないし、しごたえもない」
そんな私に返ってきたのは何とも隙だらけな言葉だった。とんでもない人たらしだ。これまでに何人がこの人の言葉に釣られたのだろう。私もその1人だ。
「……お一人暮らしなんですか?」
「ああ」
「彼女とかも、いらっしゃらないんですか」
「いない」
とうとう聞いてしまった。一番自然なタイミングのはず。会話の流れとしては問題なかったと、そう信じたい。
「へえ……意外ですね」
「なぜだ」
「だって……引く手数多でしょうに」
私の言葉に彼がぴくりと眉をひそめる。ああ、やっちゃったかも。沈黙が怖くて、よく考えずに会話をしてしまっている。
この人がどれだけ聡明で、理知的かわかっているつもりだったのに。失礼な物言いをしてしまった。
「……そうでもないよ。そう言うきみはどうなんだ」
どうやら、会話を止めるほど気に障った訳ではないらしい。声も変わらず柔らかいままだ。
「……いないです」
「……そうか」
「…………」
「…………」
「…………」
ホッとしたのもつかの間、結局恐れていた沈黙が訪れてしまった。
地面に視線を向けて、意味もなく自分の足元を見る。
隣の忍田本部長さんの靴が大きくて、そんなことにも心臓の鼓動が早くなる。
そこでようやく、彼が私と歩幅を合わせてくれていることに気がついた。
180cmはありそうな人と歩いているのに、自分のペースで歩けていることの異常さに気づくのが遅すぎる。
お礼を言おうと顔を上げたところで目線がかち合ってしまう。言おうとしたお礼の言葉は吹き飛んでしまった。代わりに忍田本部長さんが口を開く。
「名無しさんは、今月はあと何回この時間の勤務があるんだ」
「たっ……確か、あと2回だったと思います」
「そうか……いつだ?」
「ちょっと待って下さい……」
「ああ、わざわざ確認させてしまったな、すまない。止まろう、危ないから」
スマホを取り出し確認しようとすると、忍田本部長さんは足を止めてまるで保護者のように私を諭す。言葉通り立ち止まってスマホに共有されたシフト表のファイルを開いた。
上から画面を覗き込む影に、震えそうになる。スーツの衣擦れの音や、彼から香る匂いに(シャンプーなのか柔軟剤なのか何かはわからないがともかく良い匂いがした)、目眩がしそうになる。
煩悩をなんとか振り払いながら、画面の中の数字を目で追った。
「来週の金曜と……再来週の土曜です」
「ふむ……わかった。終わる頃に迎えに行こう」
「えっ、私をですか!?」
「きみ以外に誰がいる」
「い……いやいや! ご多忙な本部長さんにわざわざ送って頂くなんてできませんって! 今までだって何にも無かったから大丈夫です、家も近いし……」
「……きみはわかっていないようだから言っておくが」
「…………」
重い口振りに、ごくり、とつばを飲む。
「名無しさん目当てで食堂に行く連中だっているんだぞ」
「はい?」
「やっぱり気づいてないのか」
ふう、と軽くため息をついて忍田本部長さんが歩き出したので、慌てて後を追う。もちろん、すぐに私の歩むペースになるのだが。
「名無しさんの出勤をチェックしている隊員もいるんだ。……別にその隊員が危ないと言っている訳ではない。ただ、暗い夜道を1人で帰るのは危ないことなんだと認識して欲しい」
「……ええと」
「いいな?」
「……はい」
有無を言わさない圧に押されて、つい返事をしてしまう。
いや、そんなこと言われても。だって顔もマスクで隠れてるし、エプロンは油で汚れているし。今までの人生でだって、大してモテた経験もない。
でも、もしそういう人がいるのなら。どうせなら忍田本部長さんが良かった、なんて考えてしまうのは、我ながら性格が悪い。
「さて。……ここか? 名無しさんの家は」
「あっ……そうです! ありがとうございました、わざわざ」
忍田本部長さんが足を止める。いつの間にか家に着いてしまった。
「ではまた」
「はい。お疲れ様です」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
頭を下げてエントランスホールへ入る。エレベーターが閉まる直前、元来た道を引き返す姿が見えた。
「好きじゃん、もうそれ」
「わかってるよ……もう諦めてる。とっくに認めてるじゃん、だから彼女いるか訊きなよって話に……」
「違う。本部長が」
「え?」
「好きでもない女を送る? 思わせぶりなことまで言って」
「……まさか」
「これで本部長がそんなつもりじゃなかった、なんて言ったら殴る」
「や、やめてよ」
「わざわざ残りの遅番の日程確認して約束取り付けて。なかなかしたたかな男だねえ」
「そういうこと考える人かなあ……」
「これで名無しのことフッたら殴る」
「もう!」
『なんか家まで送ってもらった』と例の友達に連絡すると、すぐに電話がかかってきた。こんな時間まで起きていたらしい。
簡単に経緯を説明し、この会話に繋がったのだ。
「まあ、何にせよ進展したね。彼女はいないし、一緒にご飯食べたし、来週も一緒に帰れる」
「うん……そうだといいけど」
正直、あまり期待しないようにしていた。だって、あまりにも出来すぎだ。
「本部長も様子見してんだろうな〜。やっぱりさ、自分から告白すると脅迫に近くなっちゃうから」
「脅迫?」
「うん。本部長からしたらさ、この告白を断ったら立場が危うくなる、最悪クビになるかもって名無しが考えて、嫌嫌受け入れる図もあり得るでしょ?」
「そんなこと……私、告白の返事するときに立場がどうこうとか考えないよ」
「それは本部長にはわからない部分なの。もうアンタからさっさと告るしかないって」
んじゃ、おやすみ。なんて一方的に電話は切れた。
「確かに、一理あるかもだけどお……」
頭の中がごちゃごちゃだ。嬉しくて、怖くて。今日の出来事も夢みたいだ。熱いシャワーを浴びて私もさっさと寝てしまおう。そう思い、私はバスルームへと向かった。
◇◇◇
次の金曜日までは、恐ろしく遠かった。その間に2、3回忍田本部長さんと会ったが、軽く会釈をしたくらいで特に会話はしていない。
……それでも、22時を回って私以外誰もいない食堂を訪れる忍田本部長さんの姿があった。
「来て下さったんですか」
「送ると言っただろう」
「今日はお夕飯とれました?」
「大丈夫だ。毎回世話にはならな……。……もしかして、私が食事目当てだと思っているのか?」
「ち、違います! こんな時間までいらっしゃるからまたお忙しかったんじゃないかと思って……」
「はは、誤解していないならよかった」
忙しかったかどうかに対する返事はない。私に気を遣わせまいとしているのだろうか。
いや、忙しくない訳がない。忍田本部長さんを早く解放してあげなければ。
「あとは鍵をかけて終わりなので。帰り支度してきますね」
「わかった」
できる限り速やかに着替えて、食堂ホールへ戻る。
この間と同様に食堂を閉め、鍵を返し、本部を出て暗い夜道へ2人歩き出した。
「あの、今日も送っていただいてありがとうございます」
「気にしないでくれ。仕事のうちだ」
……仕事のうち。そう言われて傷つく前に、矛盾に気がついてしまう。
他の遅番の人を送っているとは聞いていないし、多忙なこの人ができるはずがない。そもそも、一般職員は忍田本部長さんの管轄外だ。管轄内だとしても家まで送る義務はない。それなら、仕事のうちとは。
どれもぶつけてみたくなったが、せっかく送って下さっているのにケチをつけるような真似はやめておいた。それよりも、伝えたいことがある。
「この間も言いそびれちゃったんですけど」
「うん?」
「歩幅、合わせて下さってありがとうございます」
「ああ……気付かれてたか」
「もちろん」
「お礼を言われる程のことではないのだがな」
「……優しいですね」
「そうだろうか。……ありがとう。……ただ」
「ただ?」
「誰にでも優しい訳じゃないよ」
心臓が飛び跳ねた。その言葉を、都合よく解釈してしまいたくなる。
「……よ、良くない、ですよ。そういうの」
「……良くないとは?」
「忍田本部長さんにそんなこと言われたら、誰でも勘違いしてしまいます。あんまり、そういうことは仰らない方が……」
「私がこういったことを誰にでも言うとでも?」
「え……、それは」
「ここまで言ってもきみは勘違いしてくれないのか」
「……!」
思わず私が立ち止まると、忍田本部長さんも立ち止まる。いつもより近い距離で目が合った。
「……そんなこと言われたら、私」
「……ずるかったか?」
「ずるいです」
「……」
「……」
お互い無言になる。しかし、空気は重苦しくない。むしろ、くすぐったいような。もう、お互いの好意が溶け出しているのがわかる。勘違いしてくれないのかと言われたが、多分、勘違いじゃない。
「私、……あなたのことが好きです」
「……嬉しいよ。私もだ」
そう微笑まれて、どっと力が抜ける。迷惑をかける訳にはいかないのでなんとか踏ん張っているが早くベッドに倒れ込んでしまいたい。
「悪かったな。言わせてしまった」
「……本当。悪い人ですね」
そうさっきと真逆の評価をするが、忍田本部長さんは嬉しそうに笑っている。
「ふふ……。さ、帰ろうか」
「……はい」
並んで歩く。道中は無言だったが、別に気にならなかった。
社宅前で立ち止まると、忍田本部長さんがああ、と呟く。
「そうだ。連絡先を教えてくれ」
「あ、ああ、そうですよね」
「次帰りが遅いのは土曜だったな。来月以降もシフトが出たら教えてくれるか」
「毎回遅番のとき送って下さるおつもりですか?」
「……当たり前だろう。まだ建前が必要だなんて言わないよな?」
連絡先を交換しながらそんなやり取りをする。
「建前……」
「はは。本部長の仕事に食堂職員を送るなんて含まれていない。……わかっていただろう?」
「え、あ……」
「私はきみを口説いていたんだ、ずっと」
「へ……」
「なかなか気づいてくれなかったが……というより、その様子だと今もわかっていないな」
「なっ……」
怒涛の告白に全くついていけない。そんな私と対象的に、落ち着ききっている忍田本部長さんが笑みを深める。
「まあいい。追々わかってもらうとして……これからよろしくな」
そう言って、私に右手を差し出す。握手を求められているのだ。
私は恐る恐る手を伸ばして、その大きな手を握り返した。
……それから床に倒れ込むまで、記憶が朧げだ。
おやすみなさいと挨拶をして、エレベーターに乗り込んで。家の鍵を開けて今ここにいるはずなのに、どこかもやがかかったかのようにふわふわしている。床の冷たさもすぐにわからなくなるくらい、火照っている。
シャワーを浴びなければ。そう思いながらも立ち上がれず、そのままスマホの画面を見つめると、そこにはちゃんと電話番号とメールアドレスが表示されていて。
夢じゃない。現実だ。何度も確認する。
『ありがとうございました。夢のようです。』
メールの確認も兼ねて、私の気持ちを伝えるため、自分なりに一番良いであろう文章を考えた。感謝を伝えつつ、相手の名前や、あからさまな好意を示す言葉は削る。思い上がりかもしれないが、万が一見られても誤魔化しが効くように。だって相手は、あのボーダー本部長だ。
そうだ、今度からは食堂で会っても、今まで以上に顔や態度に出ないようにしなくては。
例の友達への報告はどうしよう。言い触らすような子ではないけれど、忍田本部長さんは嫌がるかもしれない。
そうこう考えていると、スマホからメールの着信を知らせる音が鳴った。
すぐに開いた画面には『夢にされては困る』と返ってきていて、うずくまることしかできなくなってしまった。……これは、我ながら先が思いやられる。
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