きっとあなたはまた押し入れにしまうのだろう
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綾里真宵と名無し名無しは、並んでソファーに座り洋服や雑貨を広げていた。
真宵が里から遊びに来たので、2人で買い物を楽しんだ後、休憩がてら成歩堂法律事務所を訪れたのだ。
「やっぱりこのワンピース可愛いなあ。名無しちゃん、買ってくれてありがと!」
「いいのいいの、大した額じゃないし。たまのお出かけだろうからこういう楽しみくらいなくちゃね」
「えへへ、着るのが楽しみ! はみちゃんに買ったお土産のお洋服も喜んでくれるかな?」
買った商品を広げながらはしゃいでいる2人を横目に、所長机に座っているのは成歩堂龍一だ。
話題に入り込む訳にもいかず、頬杖をついている。
「ずいぶん嬉しそうだね、真宵ちゃん」
「お? なるほどくんヤキモチ? いいじゃない、なるほどくんは名無しちゃんにセーター貰ってるでしょ?」
ニヤニヤしながらそう返した真宵に、名無しが首をかしげる。
「セーター?」
「うん。冬にサーカス観に行ったとき、なるほどくんが着てたんだよ」
「ちょ、ちょっと真宵ちゃん、その話は」
成歩堂が慌てて立ち上がるが、真宵は話を止めなかった。
「ピンクのセーターにさあ、おっきなハート! RYU……だったかな? あんなデザイン、売ってる訳ないし……名無しちゃんの手編みでしょ?」
このこの~、と真宵が名無しをこづくが、こづかれた方は口を結んでしまって動かなかった。
様子がおかしいことに気づいた真宵が成歩堂を見ると、彼は気まずそうに目をそらす。
さっきまでお喋りで溢れていた事務所は、一瞬で静かになってしまった。
「……セーターなんて、あげたことない」
数秒後、静まり返った事務所に、名無しの声が響く。
「え、え、じゃあ、たまたま売ってた……とか? あんなデザインが?」
真宵が戸惑いながら聞くが、きっとそうではない。
彼女の言う通り、あんなデザインが売られているはずがないのだ。
万が一売られていたとしても、成歩堂がわざわざそれを選ぶこともない。
「私は、セーターなんて、あげたことない……!」
名無しが振り返って成歩堂を見る。
その目は涙で潤んでいるように見えた。
「あ……え、えっと、その、あたし! 散歩してくるね!」
名無しちゃん、ごめん! なるほどくん後で叱っておくから! お姉ちゃんが!
そう言いながら、真宵はバタバタと事務所を出て行った。
再び静まり返った事務所には、立ち上がったまま動けない成歩堂と、そんな彼をじっと見ている名無しが残された。
決して睨んでいる訳ではないが、成歩堂を苦しめるには十分だ。
「……誰から貰ったの、手編みのセーターなんて」
「え、ええと、それは」
「……着るってことは、その子のこと好きなんだ」
「いや、そういうつもりじゃ」
「じゃあ、なに」
そんなセーターくれるなんて、随分あなたのこと好きなんじゃない。
そう言い放たれた成歩堂はふい、と横を向いた。
「違う、違うよ。……彼女はぼくのこと、好きじゃなかった」
「……やっぱり、あの子から貰ったんだ」
「…………」
無言は肯定となりえる。
名無しが、う、と小さく唸ったあとうつむいた。
誰から貰ったの、と言いながらも、なんとなく検討はついていたのだ。
やっぱり、あの子から。
どちらの頭にも同じ女性が浮かんでいた。
艶やかな茶髪をなびかせる、麗しい女性が。
(こんな話、名無しちゃんにわざわざするつもりなかったんだけどなあ……)
成歩堂が、はあ、とため息をつく。
うつむいたままの名無しはびくりと肩をすくめた。
「……ぼくは、あの子とは」
「やだ。聞きたくない」
「……ごめん」
「何に謝ってるの」
「…………」
「私といても、あの子のことが、忘れられなくて……ごめんって……」
最後の声は消え入りそうだった。
「そんなこと言ってないだろ……」
「…………」
「…………名無しちゃん、その」
「……いいの、別に」
ぐす、と鼻をすする音がする。
「…………」
「前の彼女の方が……好きだって、仕方ないもん。……でも、それを、私にわからないようにしてほしかった」
「だから、そんなこと言ってないだろ」
「言われるより辛いよ、……元カノの手編みのセーター着られるなんて」
「…………」
成歩堂は、疎すぎた。
彼にとって手編みとか元カノの贈り物とかはもう関係なくて、ただ手近にあったから着ただけだった。
一緒に出かける相手も真宵だったから、尚更服装に気を遣う気にならなかったのもある。
捨てるきっかけすらなかっただけだ。
ただ、それで名無しを傷つける可能性があることにまで、至らなかった。
ティッシュで鼻をかんだ名無しは、荷物をまとめて立ち上がった。
「……ごめん、帰る」
「待ってよ、そんな状態で帰すワケには」
「今は冷静に話できない」
「…………」
「真宵ちゃんにも、謝っておいて」
「…………」
自分の横を通りすぎていく名無しの腕を掴んで、引き止める方法もあった。
しかし、もしそうしたとしてもその後紡ぐ言葉が何一つ見つからない。
成歩堂は1人、事務所に取り残された。
「……最悪」
家についた後、気分を変えようと名無しがテレビをつけると、男女のドラマが流れていた。
『前の男の人のことが忘れられないの』
『僕が忘れさせます! ももかさん……いや、ももか!』
『あの人と同じ呼び方しないで!』
「……ふふ、……笑えないなあ」
まさに、あと数秒遅れていれば聞く必要のなかった、いやに他人事とは思えないやりとりを、ピンポイントで聞かされる羽目になった。
名無しはつくづく、成歩堂龍一のことを好きなんだと思い知らされる。
こんなテレビ番組を見ても、相手のことを思い出してしまうなんて。
正確に言えば、常に考えているから、思い出して、というより忘れられない、の方が近いかもしれない。
そして、成歩堂も前の彼女を忘れられないのだ。
忘れさせる自信も、名無しにはなかった。
「……リュウちゃん」
名無しが成歩堂をそう呼ぶことはない。
そもそも、呼ぼうという意思もなかったが、きっと冗談でも許されないだろうとわかっていた。
ドラマと同じように拒絶されることが想像できる。
今口に出しても、違和感しか残らなかった。
成歩堂がかつての恋人に向けた、顔も声も心も、名無し名無しに向くことはない。
テレビを消して、膝を抱えてうずくまる。
いちいち目くじらなんて立てない女になりたかった。
セーターくらい笑って許せる女になりたかった。
それでも今の彼女は私だって、自信を持てる女ならよかった。
頭の中で理想を並べる。
こんな行動をとってしまう時点で理想から程遠いことは名無しにはわかっていたが、気持ちの整理をつけようとあがいた結果である。
成歩堂と名無しは、小学校、中学校と同じだった。
名無しの片想いのまま、高校で別れてしまったのだが、時々連絡をとったり会ったりする間柄ではあった。
最も、二人きりではなく同じく幼なじみの矢張も一緒だったが。
大学生になって、矢張に誘われた名無しは成歩堂の通う大学の学園祭へ遊びに行ったことがあった。
驚かせようという矢張の提案で、本人には黙って行ったのだが、その時、見てしまっていたのだ。
白い日傘とワンピースを纏ったキレイな女の人が、リュウちゃん、と呼び掛けた後、彼に近づいていったところを。
ほとんど背中しか見えなかったけれど、一瞬見えた成歩堂の横顔は、名無しが今まで見たことのないものだった。それは、今も、含めて。
その日は頭の中がぐらぐら揺れている状態のなか、なんとか逃げ帰ったことを覚えている。
今思い出しても胸が押し潰されそうになる光景だった。
あの時見たピンクの服が、きっと真宵の言っていたセーターなのだろう。
「……シャワー、浴びよう」
自分にまとわりつく嫌な感情を、少しでも、流してしまいたかった。
ピンポーン、とチャイムが鳴る。
シャワーを浴びたあと、何をする気力も湧かず、ベッドでゴロゴロしていた名無しはインターホンのボタンを押して応答した。
はい、と返事をしたが相手の声は聞こえない。
顔が見えないタイプなので、相手が名乗らないことには誰かわからない。
「どちら様ですか?」
「……ぼく、なんだけど」
「!」
思わず通話を切ってしまった。
この声は、名乗られなくても名無しが聞き間違えることはない。
成歩堂だ。
正直予想していなかった。
そういう行動をとる人間だと、思っていなかった。
普段から好意が大きいのは自分だけで、今回も自分から会いに行って謝らないと、と思っていたくらいだ。
来てくれた、という喜びの後、どういう顔で出て行くべきなのか、むしろ怒りに来たんじゃないのかというような不安がすぐに彼女の脳内を占める。
どうしよう、そう思っているともう一度チャイムが鳴った。
再度ボタンを押す。
「あの……開けてくれると、嬉しいんだけど」
不安げな声に堪らなくなって、意を決して玄関に向かった。
一応覗き窓からドアの向こうの人物を確認すると、青いスーツに尖った髪型の男性が見える。
そろそろとドアを開けると、成歩堂はほっとしたように息を吐いた。
「……名無しちゃん」
「……どうしたの」
「どうしたの、って……ほっとけないだろ」
「…………」
ほっといてよ、そもそも誰のせいだと思ってるの、と強がりたい気持ちもあったが、ここで意地を張ると望まない関係になってしまうかもしれない。
名無しは色々な言葉を飲み込んだ。
「真宵ちゃんは?」
「え、ああ……また明日出直すって。今日は千尋さんの住んでたアパートに泊まるって言ってた」
「……そう、明日謝らなきゃ」
沈黙が訪れる。
何秒かのことだろうが、こういうときの時間の流れは恐ろしく遅い。
沈黙を破ったのは、成歩堂だった。
「……ぼくはきみと、話が、したくて」
「…………」
「メールとか電話じゃ、うまく伝わらないだろうし」
「…………」
「何より、会いたかった」
「…………そういうところ」
「えっ?」
名無しは成歩堂のそういうところが嫌いだ。
恋愛は惚れた方が敗けなのだと改めて感じていた。
「……入って」
「え、うん、……ありがとう」
成歩堂を部屋に招き入れ、適当なクッションを床において座るよう促した。
机を挟んで反対に名無しが座るなり、成歩堂が口を開いた。
「ぼくが好きなのは、きみだけだよ」
「…………」
「そりゃあ、付き合ってたときは好きだったけどさ。今は、一切未練なんてない。……もう終わったんだ」
「…………」
「信じてもらえるかわかんないけど、あのセーターにももう何にも思わなくて。だからこそ着ちゃっただけで」
「……うん」
「むしろ、今でも好きだったら、……着れない」
「……そっか」
「…………」
「…………」
「名無しちゃん、ごめ」
「ごめんね、わざわざ来てもらって」
成歩堂の言葉を遮った。
謝られたい訳ではなかった。
だからといって、どうして欲しいか明確にすることもできなかったが。
「いや、ただ心配だっただけで、あ、不安にさせたのはぼくなんだけど」
「……私が、そんなこと気にしない女なら良かったの。でも、成歩堂くんが前の彼女と別れた後付き合ったから。あんなことがあって弱ってた成歩堂くんの隙をついたから、……だから、今でも私ばかり好きなんじゃないかって。成歩堂くんが、優しいから私を受け入れてくれたんだって、心の片隅にあったの」
そう言った名無しの膝に置いてあった手を、横から男の手が掴んだ。
名無しが話している間に、成歩堂は彼女の横に移動していたのだ。
「そんなこと、言わないでよ」
「……ごめん、失礼だよね。セーターの話聞いて、つい取り乱しちゃっただけなの。ごめんね」
ごめん、ごめん、と繰り返し謝る名無しを、成歩堂が抱きしめる。
「……きみを傷つけるつもりはなかったんだ」
「ごめんね、……わかってる」
「もう謝らないで」
「……うん。……仲直り、してくれる?」
「当たり前だろ」
成歩堂の返事を聞いた名無しは、目を閉じて彼の胸に顔を埋めた。
(あの子も、こうやって抱きしめられたことがあったのかな)
名無しはぎゅっと拳を握る。
せっかく仲直りをしたというのに、すぐ余計なことを考えてしまう自分に嫌気がさしていた。
(この調子じゃきっとまた、ぐちゃぐちゃ考えて、不安になっちゃうんだろうなあ)
自分が成歩堂を想って苦しくなるように、成歩堂も自分に惑わされてしまえばいいのに。
そんな願望を抱きながら、名無しは更に強く拳を握る。
成歩堂のかつての恋人が、彼らの人生に更なる影響を与えることになることは、まだ誰も知らない、また別の話である。
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