台風の目
「おかあさん、このごはんおいしいね!…そうでしょ、あなたのすきなカレーにしたの」
少女が二つのぬいぐるみでままごとをしていた。つぎはぎだらけな上、綿が所々溢れているぼろぼろのぬいぐるみを掴むその腕は棒のように細く、化膿した傷や痣もあちこちにあった。ロクな手当てもされていないのだ。しかし少女は気にすることなく、真っ暗で鍵を閉められた部屋の中で遊んでいた。
「おかあさんもすき?…ええ、とっても」
仲睦まじい家族の一幕。少女お気に入りの演目の演者も、また彼女。一人で動かし喋り、あたたかな家族団欒を演じるのだ。わたしもこんなふうにいられたら、と少女は幾度も願い、その度に肉親によってにその願いは叩き潰されてきた。だからもう、肉親には期待していなかった。物語のお姫様みたいに、いつか王子様が迎えに来てくれると希望を持ちながら、少女は耐え続けていた。
しかし、それももう終わりを告げる。
「……おにいさん、だれ?」
開かれた扉から、一迅の風。真っ赤な、美しい光がこちらに射しているようにも見えた。扉の奥、そこには真っ赤な床に倒れる家族たちと、扉のすぐ前に静かに佇んで少女を見下ろす、幽霊のように髪の長い男がいた。
少女の幸運。強大な台風。
―――――
くぁぁ、と小さく可愛いあくびが少女の喉から漏れた。少女は眠たげな目をこすりベッドの上でまた寝転んだ。同じように寝転んでいた二つのぬいぐるみを掴み、少女はベッドから飛び出した。隣で眠っていたはずの彼はもうおらず、代わりに朝ごはんのいい匂いが少し開いたドアから漏れていた。
廊下を走る。少女はリビングのドアを開けながら、スライディングするような勢いでリビングに入った。
「いずるくん、おはよぉ」
「おはようございます」
少女の鼻腔を、こんがり焼かれたパンの匂いがくすぐる。少女は思わず頬を緩ませた。
「ね、ね、あとどれぐらいでできる?」
「もうすぐ出来ますよ。牛乳を持っていって待っていてください」
「はーい」
かわいらしい返事とともに手を挙げる。ソファにぬいぐるみを投げ、小さな足でコップを取りに行く。その手足は血色がよく少しふっくらとして、数ヶ月前とは見違えるようだ。冷蔵庫から牛乳を取り出す。たったそれだけのことだが、七歳の割には小さい少女には重たい牛乳パックを取り出すのも重労働だ。やっとの思いで取った牛乳をコップに注ぎ、テーブルに持っていく頃には、もうすっかり朝食の準備が整っていた。
「おいしそう」
「三日前と同じメニューですけど」
「おいしいのはいつ食べてもおいしいもん」
星を目に宿しているのかと勘違いする程に目を輝かせている。ふんふんと鼻唄を歌いながら食卓につく少女をカムクライズルは無言で見つめていた。
「もう食べていい?」
「いいですよ」
「いただきます」
丸々とした手を合わせる。次の瞬間には、少女は口いっぱいにこんがりと焼けたホットサンドを頬張っていた。中からとろりと溢れるチーズ、かじった所から落ちそうになるほどぎっしりつめられたしんなりキャベツ、ハム。ほっぺたがおちそうになっちゃった、とは少女の談だ。
「ふぉいひい」
「よかったですね」
「ん!」
天真爛漫な、満面の笑みだった。程なくしてホットサンドを食べ終えてしまうと、少女はけぷ、とかわいらしいげっぷをした。
そうして、皿に盛り付けられているサラダと向き合う。固唾を飲む少女を、カムクライズルは食事をしながら眺めていた。サラダの中には、あの忌々しき森――ブロッコリーが鎮座している。フォークでつついてはみるものの、少女の心の中に闘志は沸き上がってこない。むしろ敗北感を植え付けられるばかりであった。
「これ、食べなきゃだめ……?」
「残しちゃうんですか?」
「……食べる……」
嘘だと言うのは分かっているがカムクラの悲しそうな声音に誘導されてしまった。他のものはにんじんだってなんだって好きだけど、ブロッコリーだけはいけない。大人になっても変わらないだろう。
フォークに、ぶすりとブロッコリーを突き刺す。それだけであの味を鮮明に思い出してしまって、少女は思わず顔をしかめた。ちらりとカムクライズルの方を見て、ただ無言で首を振られた。既に食べ終わっているのに少女が食べ終えるまで待っている時点で、優しいのかもしれない。しかし、少女にはどこからどう見ても悪魔にしか見えなかった。
「いずるくんのいじわる」
ぽつりと呟く。その数秒後、少女は意を決したように険しい顔をし、ブロッコリーを口いっぱいに含んだ。もさもさとした、まさに森のような食感と、苦味。吐き出したくなったものの、傍らのお茶で流し込むようにして無理やり飲み込む。
再び、小さなげっぷ。目の前のサラダはもう、彼女の大好きなレタスやトマトぐらいしか入っていない。あっという間にサラダの皿は空になった。大きな山を丸ごと全部登頂しきったような、そんな気分。
「ごちそうさまでした!」
「お粗末様でした」
「……」
「……えらいですね」
無言の抗議にカムクラは腕だけを伸ばし、シャンプーのいい匂いがする、滑らかな触り心地の少女の頭を撫でた。それだけで少女はほわほわと笑う。平穏そのものだった。
やがて飽きたのか、カムクラの手をそっとどけて大人しく食器を運ぶ。そこまで重たいものが持てるわけでもなく、手先も不器用なので、どう頑張っても自分の分の食器しか運べない。少女と同じでたった二本しか腕はないはずなのに、カムクラは食器もドレッシングも何もかも一気に運んでしまう。少女が、おおきくなったらわたしも、と心の中で堅く決心していることをカムクラは知らなかった。
「ねえ、ねえ、いずるくん、今日、家いる?」
「今日はいないです」
少女は眉を八の字にして、唇を甘噛みした。目に見えて分かるほど気分が落ち込んでいる。物分かりはいい子どもだったとしても、それはそれとしてお留守番は寂しいのだ。
「一人じゃないですから大丈夫ですよ」
「だれ来るの?」
そう聞いた瞬間、カムクラは苦々しい顔をした。もっとも、その変化は少女くらいしか分からないほどのものではあったが。しかし子ども特有の無邪気な無神経さで、カムクラの答えを待っていた。
「……狛枝凪斗です」
「ほんと? やった」
小さくガッツポーズをする少女は、ついさっきまであんなに落ち込んでいたとは思えない。女心と秋の空。こんなに小さく女とも呼べない少女ではあるが、心の移り変わりの早さは大人の女よりもずっと早いのだ。
「いつ来る?」
「あと一時間くらいです。僕は狛枝凪斗が来てから出ます」
「じゃあ、いずるくん、あのね、なぎとくんくるまでね、絵本読んで」
「いいですよ。絵本を取ってきてください」
「うん」
満面の笑みで絵本がたくさん入った箱の方に歩いて行く。そうして座るとうんうんと唸りながら絵本を物色しだした。カムクラが全ての食器を全て洗い終わってもまだ決まっていない。カムクラが少女の隣にしゃがむ。
「決まらないですか」
「うん。すきなのいっぱいあるから」
どれにしよっかな、と箱を覗き込む少女と、微動だにしないカムクラ。やがて少女は二冊の絵本を手に再び唸りだした。しばらく経ってもまだ唸っている。見かねたカムクラが二冊読む時間はありますよと言わなければ、きっと少女は狛枝凪斗が来るまで頭を悩ませ続けただろう。
お気に入りの絵本を手に抱っこされている少女は、口角を上げながら鼻唄を歌っている。抱き抱えられながらソファに座らされ、楽しそうに頭を揺らした。
「……マッチ売りの少女」
カムクラが題名を読んだ途端、少女は動きを止めた。低く落ち着いた声で、物語が紡がれていく。少女は静かに聞き入り、時折カムクラを見上げながらも絵本を食い入るように見つめている。少女は、この絵本が好きではない。天国に召されて幸せになりました、なんて終わり方。生きたまま幸せになって、美味しいご飯を食べたりできる方がいいに決まっている。でも、お気に入りではあるのだ。それも二番目に。
「……おしまい」
バッドエンドの後も、少女はしばらく惚けている。そして落ち着かなさそうに、しかし無言で腕から抜け出して部屋中を歩き回った。歩いていたのが早歩きに。可愛らしい足音が部屋に響く。
ひとしきり歩いて落ち着いたのか、再びカムクラの懐に潜った。カムクラは頭を一度撫で、そうしてまた絵本を読み始めた。シンデレラ。家族に虐げられている心優しく美しい少女が、少しの魔法と大きな幸運によって幸せになる物語。一等のお気に入り。あるシーンでは涙を滲ませ、またあるシーンでは目を輝かせた。コロコロと変わる表情は、実に小さな子どもらしかった。
「そして王子さまとシンデレラは、いつまでも幸せに暮らしました」
ハッピーエンド。文句のつけようがない、完璧な。絵本を読み終わっても、少女はマッチ売りの少女のときのように動かない。しかし表情はこちらの方が明らかに明るい。きれいなドレスが描かれたページやガラスの靴を落としたページを何度も見直し、足をパタパタと動かした。
「……いずるくん、ありがと」
「どういたしまして」
頭を撫でる。寝癖がついたねずみ色のしなやかな髪の毛は、半年前とは見違える様だった。無造作に伸ばされ、時々憂さ晴らしとして親に適当に切られたせいでザンバラだったのが、ある程度の長さで切り揃えられている。カムクラは手を頭に置いたまま無言で見下ろし、また撫でた。少女はカムクラ抱き締めてほわほわと笑う。
しばらくして、カムクラは手を離した。少女は絵本を戻し、のそのそとカムクラの洗面所へと歩いていく。その足取りはどこか重かった。
しゃこしゃこ、しゃこしゃこ。いちご味とは名ばかりの歯みがき粉。鏡の中には不満そうな顔をした少女がいた。でもミントは辛すぎて歯磨きどころじゃなくなってしまうし、虫歯になるのはもっと嫌だ。仕方なく、である。一刻も早く口をゆすぎたくて、ゆすぎたくて仕方ない。大急ぎで磨いて、うがいをした。まだ偽いちご味の後味が残っている気すらした。もう一度うがいをしたら、口の中がさっぱりした。口内の安寧は保たれた。ほっとため息をつく。
「おきがえ、しなきゃ」
再び大急ぎで、寝室に戻った。部屋に備え付けられたウォークインクローゼットには、カムクラの服はほとんどない。代わり映えのしないスーツだけ。少女の服はパジャマ、ワンピース、スカート、ズボンにパーカーもあるのに。少女が、いずるくんぜったい色んな服にあうのに、と口を尖らせたこともあったが、必要ないのでと言われて終わった。非情だ。
お気に入りの真っ白なブラウスと赤いスカートを手に取った。彼女も立派な七歳児。着替えくらい自分一人でできてしまう。まだボタンをつけるのはほんの少し苦手だけれど、いずるくんとおそろいの服がどうしてきたい。厳密に言うとブラウスとワイシャツは違うのだが、そこまでの見分けはつかなかった。レースのついていないシンプルなブラウスとワイシャツは、どうしても七歳児の目には同じように映るのだ。
白いブラウスに赤いスカート。思わずふわりと回る。少女の視界の端で赤いスカートがたなびいた。いずるくんの色。
「……えへへ」
にっこりと笑いながら、胸元で赤い紐リボンを結ぶ。あとは髪を結ってしまえばいつもの彼女の完成である。
リビングでは、カムクラが昼ごはんを作っていた。手際よくできていく料理を少女は無言で見つめた。こうするのが好きだった。ただの食材が、カムクラの手によっておいしそうな料理になっていく。魔法のようだった。
全て作り終え、カムクラは少女の方をちらりと見た。そして料理をそのままにし、ヘアゴムと櫛を取って少女をソファに座らせた。
櫛で丹念に少女のねずみ色の髪をとく。寝癖でハネていたり広がっていたりした髪が、段々とさらさらのストレートになっていった。少女はただ黙って、暴れたりもせず大人しく少し眠たそうにしていた。すっかりさらさらになった髪をカムクラは二つの束に分け、器用に結い始めた。手慣れたその手つきは、いつも少女を感動させる。いつの間にか結い終わっているのだ。そう、こんな風に。
「わ……」
少女の小さな手で持てるほど華奢で、可憐な手鏡。その小さな世界の中には、ねずみ色の髪を二つのお団子結びにされて頬を紅潮させる青い目の少女がいた。頭頂部でアホ毛が一つはねている。その少女は黒い髪の男の方を見たり、ウインクに挑戦してみたり。いつもこうだった。
「かわいい、ね、これ」
「昨日もそれでしたよ」
「だけどかわいいよ? ねえ、またむすびかた教えてね」
「もちろんです」
その返答を聞いて、少女は花が綻ぶように笑う。カムクラがさっきのように頭を撫でてやろうとしたところで、チャイムの音がした。
途端に嫌悪感に満ちた顔をしたカムクラに、少女は誰が来たのかを察した。玄関の方に目線を切り替えて駆けていく。一応ちらりとカムクラの方を見て、少し嫌そうに頷かれてから少女は重たい玄関ドアを開けた。
扉の前には、狛枝凪斗が口に微笑を浮かべながら立っていた。炎のように揺らめいている白い髪は触り心地がよくて、少女は好きだ。時々訳の分からないことを言うけど、彼本人も優しいから好きだ。でも、カムクラは好きではないらしい。
「……おはようございます」
「なぎとくん、おはよう」
「おはよう!」
真顔で暗い雰囲気を出すカムクラと対照的に、狛枝はぺかぺかと気持ちがいいほど笑っている。少女も同じように笑っていた。狛枝がしゃがんだ。少女と目が合う。
「今朝、何か良い事あったの?」
「朝ごはんおいしかった」
「よかったね」
そこだけ見れば、少しファッションセンスが独特なだけの近所の気の良い青年と、天真爛漫な少女に見えただろう。しかし、実際には大きく違うのだ。
「君もいつかは希望の障壁となる強大な絶望に……いや、君自身が希望になるかもしれないよね! 素晴らしいよ! ボクなんかは到底」
そうして続く希望演説と卑下。超高級の幸運、狛枝凪斗。彼は超高校級と前につくほど希望厨なのだ。
少女は初対面こそ怖がっていたものの、今ではすっかり慣れてしまって「今日もげんきだなぁ」と思うくらいだ。気が多少狂っているとは分かるものの、自分の事を害したりしなければその人は優しい、という単純な判断基準を持つ少女にとって狛枝は善人だった。遊んでもくれるし。
カムクラがツマラナイと呟き狛枝の頭をはたいた。狛枝は閉口した。
「じゃあ、行って来ます」
「いってらっしゃい」
二つの声が重なる。少女と狛枝は手を振ってカムクラを見送った。それを一瞥し、彼は扉の奥へと抜けていった。
静かに閉じる扉をしばらく見つめていた少女は、ゆっくりとリビングの方に歩いていく。その後ろをこれまたゆっくりとついていく狛枝は、子どもを見守る親のような、親ガモの後をついていく子ガモのような。
リビングに戻るなり、少女はノートや文房具が入った箱を引っ張り出す。ノートを何冊かと筆箱を無造作に取り出し、リビングのテーブルにちょこんと置いた。その前に座布団も置けば、準備は完了だ。
「勉強するの?」
「うん」
早速ノートを開いて勉強しだした少女を横目に、狛枝は洗濯物を運ぶ。その顔はカムクラがいたら「気持ち悪い」と評価されるほどの、満面の笑顔だった。狛枝からすれば希望を育てようとする行為だと少女を大絶賛すべきだとしか思えない。
そう、狛枝は今や親バカと成り果てていた。彼女の才能のせいもあるが、それ以上に絆されたのだろう。彼は自覚しながらも悪い気はしない。考え事をしながらも手際よく洗濯していく様は、まさしく主夫の名にふさわしかった。妻どころか恋人もいないというのは、この際置いておこう。今まさに勉強している少女が娘のようなものだ。
少女のノートには、ボールペンで書かれた綺麗な字と鉛筆で書かれた少し不恰好な字がたくさん書き込まれている。小学校に行けない――というか学校自体ない――代わりに、カムクラが教材を手作りしたのだった。初めて見たとき少しも教育を受けていなかった少女は目を丸くしたものの、それからサボることもなく勉強している。ある程度真面目なのだ。
「どう? 分からない所とかない?」
「ないよ」
「飲み物いる?」
洗濯物をすっかり干し終えて訊ねてきた狛枝に少女が無言で頷く。彼はにっこりと笑ってキッチンへ歩いていく。冷蔵庫を開けた所で、お茶がいいと言い添えられた。勉強に精が出るように特製ドリンクを作ろうと思ったのに、と少し残念がった。よく冷えた麦茶をコップに注ぐ。
「いっぱい飲める?」
「うん、ありがと」
手を止めてお茶をちびちびと飲む少女は愛らしく、狛枝は思わず笑みがこぼれた。母性、というものなのかもしれないし、ふっくらとした両手でコップを持っていたのが可愛かったのかもしれない。一つ言えることは、ここにいるのが狛枝ではなくカムクラでも好ましく思っただろう。
「なぎとくんさ」
「うん」
「なんでいずるくんにきらわれてるの?」
「うーん、と。ボクが嫌われてるのは当然だと思うけど……強いて言うなら気持ち悪いんじゃないかな」
これでも優しくなったんだよ、と言う彼に少女は小首をかしげた。少女にはあんなに優しくて甘いのに。少女から見た狛枝はただの優しいお兄さんというイメージが強い。本性は知っているものの、少女からしてみればしっかりと会話できる時点でまともだ。時々錯乱しているけど。
「なんでやさしくなったの?」
「君に絶対酷いことをしないから。預けるにはちょうどいいんだよ」
「……子はかすがい、ってこと?」
「あはは、そうかもね」
くしゃりと笑ったその顔は楽しそうで、少女も笑った。少女は立ち上がり、カムクラにいつもしてもらうように、彼を優しく抱き締める。狛枝は膝立ちとはいえ身長差が大きすぎて、少女の視界は暗い赤と緑の縞模様の服で埋まっている。また一つ、もっとおおきくなってやる、という密かな目標が増えた。これで十六個目だ。
「……なぎとくん、身長ってどうやってのばせばいいかな」
「ご飯をちゃんと食べて、ゆっくり寝てたらその内大きくなるよ。育ち盛りだしね」
「ほんと? じゃあわたし、がんばる!」
狛枝からぱっと手を離し、自分の胸を握りこぶしで叩く。その光景は、特撮ヒーローに憧れた子供のようなほほえましさがあった。
しばらくおしゃべりをしていたが、少女がはっと思い出した。今日はここまでやると決めた所まで勉強が進んでいない。慌てて勉強に取りかかる少女を、狛枝はただ眺めていた。やることがない。カムクラから洗濯はやれと頼まれたが、この家は掃除は行き届いているし、料理だけは絶対にするなと止められたし、カムクラから他にやれと言われたことがあるわけでもない。少女の面倒を見ることだけだ。
しばらくして、少女が鉛筆を置く。大きく伸びをして、後ろのソファにもたれかかった。
「終わった? お疲れ様」
んぅ、と聞いているのかいないのか分からないような返事をして、床に寝転がった。ひんやりとした、硬いフローリング。寝心地がたまらなく好きで、少女はよくこうしていた。
「そろそろ十二時半だし、ご飯食べようか」
「うん」
少女は勢いよく起き上がり、台所の方へ歩いていった。目的は冷蔵庫。冷蔵庫の扉を開けたが、二段目からは身長の問題で見えない。しかし、狛枝がいる今さしたる問題ではないのだ。狛枝が少女を持ち上げる。やっと見えた冷蔵庫の二段目には、ラップをかけられたオムライスとサラダがあった。丁寧に二人分作られているそれは、無論カムクラの手作りだ。狛枝に少女を預けるときは、必ず何かしら作り置きをしている。昨日は麻婆豆腐、一昨日はグラタン。どれもおいしかった。
一回下ろすね、と言われて少女は床に足を付けた。しばらくは大人しくしてしていたが、狛枝がオムライスを電子レンジで温めようとしたところで狛枝の服を引っ張った。
「だめ」
「今日も駄目?」
「うん。なぎとくんがやったらバクハツしちゃう」
少女は大きく頷き、めいっぱい背伸びをして電子レンジを操作した。無事に温められ始めたところで、少女は安心したようにため息をつく。使命は果たされた。
「ボク、いつになったら電子レンジ使っていいの?」
「ん、とねー、んー……ずっとだめかも……」
「そっかぁ……」
「電子レンジ使えなくなったらたいへんだから……」
少し申し訳なさそうに眉を下げている。この瞬間、狛枝は今後二度と電子レンジを使わないでおこうと決意した。親バカであった。
しばらく経って、電子レンジがピーッと鳴いた。そして中からおいしそうなオムライスが取り出された。足元で跳び跳ねている少女を見て狛枝はくすりと笑った。
「オムライスは逃げたりしないから大丈夫だよ」
少女の小さな頭を撫でる。少女はまたも笑った。
「じぶんで持ってっていい?」
「もちろん。一気に運ぶと危ないから気をつけて」
言うが早いが、少女は狛枝のオムライスを温め始めてから少し大きめのお皿を手に持つ。慎重に慎重に、落とさないように、そろそろと歩く。オムライスは純白の皿の上で時折揺れ、少女は背筋がひやりとした。
「な、なぎとくん、オムライス、しんじゃう」
涙目になりながらぎこちない動きで振り返る少女に、狛枝は無言で微笑んだ。少しだけ湧いたいたずら心。またゆっくりと歩きだす少女を眺めながら、彼は自分のオムライスが温まるのを待った。
再び鳴り出す電子レンジを開けた頃、少女はようやく自分のサラダを運び終わった。なぎとくんは、と見れば彼は両手でオムライスとサラダを両方運んでいた。少し頬を膨らませる。カトラリーをセットし終わった狛枝は、少女を見て首をかしげた。
「何か嫌なことした? もしかしてついにボクのことが嫌いに」
「ちがう」
「そっか……」
心なしか悲しそうな狛枝に少女は首をかしげた。かむくらくんがいたら、したうちするんだろうなぁ、とぼんやり考える。幸いにと言うべきか、少女はマゾヒストという単語を知らなかった。
「なぎとくん、なぎとくん、えっと……あ、オムライス、冷めちゃうよ。おなかすいたでしょ?」
「そうだね、冷めない内に食べようか」
そう言って二人は食卓についた。固めに焼かれた黄色い卵の端からチキンライスが覗く、おいしそうなオムライス。カムクラお手製のドレッシングがかかったサラダ。口内に唾液があふれた。
「ケチャップ、何か描こうか?」
「ほんと?じゃあ、ねこかいて」
期待の眼差しでオムライスを見つめる少女。ケチャップがゆっくりと弧を描き、三角形を描き、丸を描く。最後にヒゲを付け足せば、立派な猫が完成する、はずだった。少々不恰好、というよりは、ぎりぎり猫に見えなくもないような赤い線を少女は見つめた。
「……かわいいね」
「本当? よかった」
微笑んでいる狛枝に本心を伝えることはできそうになかった。あじは同じ、と自分を自分で納得させる少女の心の内には気づかず、狛枝は手を合わせた。そのとき少女は自分の空腹を思い出した。またじゅわりと唾液があふれる。
待ちきれず、急いでいただきますを言ってオムライスを口に含んだ少女は、途端に顔をとろけさせた。鶏や玉ねぎ、グリンピースなどが入ったチキンライスと、ケチャップの酸味と見事にマッチしている薄焼き卵。その二つが、最高のハーモニーを奏でていた。
「おいしい」
満面の笑みでオムライスを大口で頬張る少女と、これまた満面の笑みで少女を眺める狛枝。いつものことだった。
「本当においしいね。流石は超高校級の料理人の才能も持つカムクラくんだよ」
そう言いながら狛枝もオムライスをハイペースで口に運んでいく。笑っているまま食べているせいで、少し不気味だった。しかし少女は狛枝など気にせず、横目でちらりと見たあとまたオムライスに向かっていた。
あっという間にオムライスを乗せていた白い皿は空っぽになっていて、残すはサラダのみ。しかも少女が大嫌いなブロッコリーは少しも入っていない。しゃきしゃきのレタスとミニトマトだけ。この皿もすぐに空になった。
「ごちそうさまでした」
狛枝はもうとっくに食べ終わっていて、自分の皿を洗っていた。お皿を重ね慎重に運ぶ。さっきはオムライスがあったから必要以上に怖かったのだ。次は同じようなことにはならない。少女は満足げに微笑んだ。
「なぎとくん、おねがいします」
「了解しました」
絵本か何かで見たのか、警察官のような敬礼をした少女に狛枝もまた敬礼で返す。たったそれだけで軽やかな声で笑う少女。狛枝は犬にするように頭を撫でた。
「いい子だね」
「……いい子だったら、いずるくんうれしい?」
「いい子じゃなくても健康にしてたら嬉しいと思うよ」
即答する狛枝。はっきり言ってカムクラの本心は全く分からないが、それを幼い少女に包み隠さず伝えるのは流石の狛枝でも気が引けた。数少ない良心が疼くのだ。
皿を割ることなく無事に食器を洗い終えた狛枝は、ソファに目をやった。そこには絵本を読みながら足と表情筋を忙しなく動かしている少女がちょこんと座っていた。終わったよと声をかければ、少女はソファから飛び下りて再び狛枝の足元で跳び跳ねた。
「ね、ね、遊ぼ」
「もちろんいいよ。何して遊びたい?」
「トランプ! いずるくんか、なぎとくんとしかできないもん」
少し不満そうにしながら、おもちゃ箱をがさがさと漁る。その中は色とりどりのおもちゃが詰め込まれていた。もなかちゃんもじゅんこちゃんもむくろちゃんも、みんなにかっちゃうんだもん、とつまらなそうに言う。人よりも幸運な少女がトランプゲームで互角に勝負できるのは狛枝やカムクラくらいなのだ。
「あった」
ようやくお目当てを見つけた。海を渡って、長い長い航海の末に見つけたような気分だ。なんだか誇らしく、輝いて見えて、トランプのケースを掲げた。白い光が反射している。
満足そうにトランプを机の上に広げて、ぐしゃぐしゃと混ぜる。カムクラがやるような、手品師のように鮮やかなカードシャッフルに密かに憧れている少女は、こういう風に混ぜていると何となく敗北した気になる。かと言って、以前カードで指を切っていた狛枝に役割を押し付けるほど非情でもない。仕方なく混ぜ続けた。
「ポーカーね」
適当にシャッフルしたカードをまとめて、五枚ずつ。柔らかく微笑む少女と、産毛一本そよがせずポーカーフェイスを保つ狛枝。少女が二枚場に捨てて引く。密かな戦いの火蓋が切って落とされた。
―――
部屋の中にも夕日が射す時間になった頃、玄関のドアが開く音がした。その瞬間に少女はトランプを全てまとめて玄関の方に駆けていった。その足取りは羽のように軽い。床を滑るように移動し、勢い余って家に上がったカムクラにそのまま追突した。それを気にすることもなく顔を上げ、少女はにっこり笑った。
「いずるくん、おかえり!」
ネズミ色の髪がかき混ぜられる。いつもより少し乱暴で雑な撫で方だったせいで少女の髪型がくしゃりと崩れる。少女が不思議そうにカムクラを見た。
「どうしたの? やなことあった?」
「いえ、何も」
返答はどこか力ない。少女が問い詰めようとしたところでカムクラがしゃがんだ。目線が合う。相も変わらず楽しそうな青い目と、少し変わっていつも以上に生気のない赤い目。それから少し視点をずらせば、カムクラの頬に血が付いていることに気が付いた。
「い、いずるくん、それ」
「ああ、これは絶望の残党に」
「ひどいことされたの?」
その声は涙声になりかけていた。カムクラが急いで否定する。が、それに効果はなかった。少女の青い目に涙の膜が張る。手遅れだ。
「い。いず、いずるく、やだぁぁぁ!」
涙がぼろぼろとあふれ出す。真横でジェット機が飛んでいるのかと錯覚するほどに泣き声は大きい。カムクラが抱いて背中を優しく叩いてもそれは収まりそうにもなかった。
「いずるく、いずるくん、しんじゃうぅ~~!」
「死にません」
カムクラが頬の血を拭う。あっという間にとれたそれは再び傷口からあふれる――ということもなく、ただ数滴の血が指を汚しただけだった。
「ただの返り血です」
「……ほんと?」
少女がカムクラの頬を遠慮なく触る。ぺたぺた。異常はない。腕を見てみる。異常はない。その後もしばらく怪しんでいるようにカムクラの体を見ていたが、どこにも傷はなかった。少し気恥ずかしそうにはにかみ、しかし安心したようにため息をついた。
少女は自身の経験からか、カムクラや狛枝など親しい人間が傷つくことを過度に嫌がる。狛枝が電子レンジを爆発させたと聞いて真っ先に服の袖をめくり、トランプのシャッフルで指を切ったときには真っ先に台所に引っ張って行き、念入りに傷口を洗い流して絆創膏を貼っていた。そういう気質なのだろう。嫌いな人にはそれと正反対の反応だが。
「なんもなくてよかった」
「これからは返り血一つ付けません」
カムクラが少女を抱き締めた。少女はわずかに目を見開く。しかしそれも一瞬のことで、すぐにカムクラに小さな体で抱きつき返した。やわらかく、おたたかい。彼女を例えるなら、昼下がりの日光のような。彼を例えるなら、静かな眠りを守る月光のような。少女がカムクラの背を撫でた。カムクラは何の反応も示さずにただ少女を抱き締める。適当に流された長い髪が肩や顔にかかって、少しくすぐったかった。
やがて二人は離れていく。少女以外が見たのならばカムクラの無愛想な表情は一つも変わらず、帰ってきたときと同じように見えるだろう。しかし少女にはまったく違って見えるような気がした。どう表現すればいいのかは分からないし、きっと表現して誰かに伝える必要もない。分かる人は分かるし、分からない人には永遠に分からないかもしれない。それでいい。
「……何か食べたいものはありますか」
「ブロッコリーいがい」
単純明快に答えた少女にカムクラは頭を撫でることで返した。一度は離されようとした手を少女は掴み、頭の上で不器用に動かした。その動きはたどたどしい。しばらくして満足したのか、リビングの方に戻っていく。後には右手が空中で止まったままのカムクラが取り残されたが、彼も後を追うようにリビングに入った。
少女はついさっきまで遊んでいたらしいトランプやすごろくなんかを片付け、狛枝はコップを洗っていた。おかえり、という言葉はカムクラはもちろん無視して狛枝の隣に立った。無言で白い頭を見つめている。
「僕がやりますよ」
「本当?まあカムクラくんがやった方が速いしね」
狛枝の予想通り、一瞬で水切りかごに白い皿が並べられていた。少女はと言うと、どこで知ったのか狛枝とアルプス一万尺をしていた。少女の最近のマイブームとなり始めているらしく、よく狛枝やカムクラと遊んでいる。
「……狛枝。そろそろ帰りますよね」
疑問のような形ではあっても有無を言わさぬ口調に狛枝は苦笑した。
「もちろんもう帰るよ。ボクなんかが長居したら迷惑だもん」
早々と帰り支度を始める狛枝を少女は覗き込む。
「もう帰る?」
「うん」
「そっかぁ……」
少女は口を尖らせて、狛枝の上着をふくふくとした小さな手が掴む。狛枝も何かを思わないわけではないが、カムクラは依然として狛枝を見続けているので、少女も諦めて手を離した。
あっという間に支度を終えて――持ってきたものがほとんどなかったせいだが――玄関に立った狛枝に少女は小さく手を振った。
「ばいばい。元気でね」
「うん、君もね」
同じように小さく手を振る狛枝。扉がゆっくりと閉じていく。家に狛枝がいた余韻が残った後も名残惜しそうにしていた少女だったが、かわいらしいきゅるきゅるというお腹の音がその考えを一瞬で霧散させた。
「いずるくん、今日の夜ごはんなに?」
―――
夕食も食べ終え、すっかり満腹な少女はソファに倒れ込んだ。濡れた長い髪が煩わしく、少女は天井を仰いだ。いつもはシャワーから出た後すぐにカムクラが乾かしてくれるのだが、今日は少し待ってくれと言われてしまった。少女の小さな体にはドライヤーは手に余る。お気に入りのぬいぐるみを抱き締めて、ソファの上を転がる。うさぎのぬいぐるみ。白くてふわふわなそれは、カムクラと一緒に過ごしてすぐの頃に与えられたもので、それからは苦楽を共にしている。ふふ、と笑う。心地良い手触りに少女が目を閉じると、カムクラの足音がした。
その音に少女は飛び起きる。勢い余ってそのままソファから転げ落ちそうになった少女の肩を掴んだ。
「ありがと」
少し顔を赤く染めながらも口角を柔らかく上げている。カムクラは特に反応することもなくドライヤーのスイッチを入れた。激しい音と共に放たれる熱風。少女が目を強く瞑る。いつも強く瞑り過ぎて顔がしわしわになっているが、そのことは少女自身も知らない。知っているのはカムクラのみで、きっとこのことは知らされることはない。知らせる必要もなかった。
眠気が勝っているせいなのか、大人しく風を受けている。湿っていた髪がさらさらとした触り心地のいいものに変わっていく。カムクラの手にかかれば髪を乾かすことなんて一瞬だ。
「いずるくん、なんでそんなにやさしいの?」
正面を向いている少女の表情はカムクラからは見えない。予測は容易な上に、カムクラの予想は正確だ。しかし気にする必要もなく、ただ思ったことをそのまま吐いた。
「さあ、何故でしょうね」
「いずるくんも分かんないの?」
カムクラは答えない。何故だろうか。江ノ島盾子に唆されたわけではない。では気まぐれだろうか。先生方に合理的であれと教えられた自分自身が?……有り得ない。
ドライヤーは少しも動かない。しばらくしてそれに違和感を覚えた少女が振り向くと、真顔のカムクラがほとんど九十度に首を曲げていた。
「ふくろうみたい。だいじょーぶ?」
「……考え事をしていただけですから」
そのまま何も言わずにドライヤーを続けるカムクラに少女は閉口した。不思議に思わないわけでもないが、どちらかと言うと面白さの方が勝つ。その内絹糸のように滑らかなった髪を少女はくるくるといじった。
「いずるくん、今日いっしょにねてくれる?」
「先に歯を磨いてください」
「はーい」
心なしか嫌そうな顔で洗面所に向かう少女を見送る。そうした後、カムクラはソファに座った。七海千秋が死んだ時、泣いた。あの時からか、分からないことが時々ある。少女を拾い、あまつさえ可愛がる理由。狛枝への態度を軟化させた理由。
ツマラナくはないですが、不可解。あの家族に暴行されていた少女を何故あの家族のように殺さなかったのでしょう。何故面倒を見ているのでしょう。時折世話を頼むとは言え何故あの終わっている男に比較的優しくするのでしょう。どれもこれも合理的ではありません。
カムクラの脳が思考し続ける。とんでもないスピードで行われたそれは、しかしカムクラに何の成果ももたらさなかった。カムクラの体に不調はない、はずだ。超高校級の保健委員の才能くらい持っている。それ以外の何か。
ドアの開閉音が聞こえる。一気に現実のリビングに引き戻されたカムクラは何度か瞬きをした。
「ねよ」
ソファに放っておかれていたうさぎのぬいぐるみを抱き締めて、少女はカムクラの顔を覗き込む。その表情はいつもと変わらぬ真顔だったが、少し違って見えた。カムクラの腕を弱く引っ張る。カムクラは幽霊のようにぬるりと立ち上がり、少女の手をとった。
カムクラの手はいつもは冷たいのに今はやけにあたたかい。熱はなさそうだが、子ども体温というのだろうか。少女は不自然に思いつつも何も言わなかった。
「今日ね、今日ね、なぎとくんとトランプしたんだよ」
なぎとくん強かった!と無邪気に告げ、お昼ごはんおいしかった、だとかのくだらない雑談を矢継ぎ早にする。カムクラは相づちをいつもと同じように返していた。
寝室の重たいドアを開け、少女は思いっきりベッドに飛び込んだ。弾力のあるスプリングが少女を柔く押し返し、真っ白なシーツが受け止める。猫のようにごろごろと転がる少女を尻目にカムクラはベッドに横たわった。
「いずるくんもうねる?」
「寝ます」
「じゃあわたしもねる」
先ほどとは打って変わって静かにベッドに寝転ぶ。照明も消えて真っ暗になった部屋に少女の嬉しそうな声が聞こえた。そわそわしている少女の下でシーツがかさかさと音を立てる。カムクラの頭を撫でようとしているらしい。が、体が小さいせいで額を撫でるような形になってしまった。少女の指に、何かの痕が触れる。
「これ、なに?」
不思議そうな声だった。痕を小さな手でなぞって、感触でサイズを確かめていた。
「前に手術をしたときの痕です」
「けがしちゃったの?」
少女がぱっと手を離す。まだ傷が痛むのだろうかと考えたらしく、少し申し訳なさそうな声色だ。行き場を失った小さい手がシーツの上に放り出される。
「もう痛みません」
「……わたし、しらないことばっかり。いずるくんのこと」
「そうですね」
カムクラが淡々と相づちをうつ。それからもかわいらしい小さな声が続いたが、口調がさらに柔らかくなっていく。ぽつりと呟いた。
「いずるくん、おやすみ」
答える代わりに頭を撫でられた。少女はカムクラの大きな身体を抱きしめる。ふふ、とかわいらしく笑って、少女は目蓋を落とした。
優しくてあたたかい夢の中へ、少女の意識がとろとろと溶けていく。きっとあしたもこうだ、と漠然と信じている。程なくして穏やかな寝息が聞こえるようになってから、カムクラは少女を抱きしめた。
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