ルシファー×留学生
布団乾燥機でほかほかに温まったベッドの中、世界で一番好きな人と一緒に眠る。なんて幸せな時間なのだろう。
「ねえ。その指輪、明日だけは外してくれない?」
何も知らない彼が、私の指に嵌められた光の指輪をなぞる。亡くなったおばあちゃんの形見だなんて嘘をついて、ずっと嵌めている指輪。これがないと三界が滅びてしまうなんて夢にも思わないのだろう。
「そんなに外してほしい?」
「うん。明日だけでいいからさ。お願い。」
子犬のような目でまっすぐに見つめられるとさすがに可哀想になってしまい、私は仕方なく頷くことにした。
明日私は、世界で一番好きな人で、二番目に好きな男の妻になります。
目を覚ますと、まだ薄暗い明け方だった。どうにも眼が冴えてしまい、彼を起こさないようにベッドから出て、ベランダに行く。ひんやりとした空気が心地いい。この時間に外に出ている人はいない。風もないし、なんだか時間が止まっているみたいだ。
町を見渡す。まだ始発が動いていない最寄り駅、小さめのショッピングモール、産直の野菜が美味しいスーパーマーケット、最近改装された綺麗な小学校。ここには特別なものはないけれど、必要なものは揃っている。この町と大好きな人がいれば、私は一生困らない。満ち足りた人生を送っていける。
大丈夫。そう言い聞かせて自分に指に魔法をかけると、見事に指輪が見えなくなった。魔界から人間界に帰ってきた後、指輪の存在が不都合なときのために、とソロモンが簡単な魔法を教えてくれたのだ。今日だっていつもと同じだ。仕事中じゃないけれど、式のために、結婚指輪を嵌めるために指輪を隠す。何も変わらない。それなのに、今日は指輪のない手がやけに味気なく見えた。
本音を言えば、ルシファーと結ばれたかった。人間界になんて戻らず、魔界に残って彼の傍で一生を終えても構わないと思った。しかしルシファー曰く、私の生きるべき世界は人間界らしい。
帰ってきて暫くは、毎日のようにルシファーを召喚して逢瀬を重ねていた。しかし、現在の彼、つまり明日からの夫と仲良くなった時期から、ルシファーは変わった。何度も何度も言ってくれた「傍にいてくれ」も「愛してる」言わなくなり、ついにこう言った。
「人間界で幸せになれよ」
その翌日から今の彼からの猛アプローチが始まり、流されるままに付き合い、結婚に至る。真面目で献身的な彼に好意を抱かないわけがなかった。この結婚は完璧なはずなのだ。
ため息をつく。式当日に過去の恋人を思い出される彼はなんて気の毒なのだろう。私は今日、完璧な結婚生活に踏み出すために、けじめをつけねばならない。きっと、早く目が覚めたのはそのためだ。
空を見上げると、思った通り、薄暗い空に金星が輝いていた。明けの明星、ルシファー。私は今日ここでお別れを告げて、人間としてきちんと生きるのだ。
「ルシファー、私、人間界で幸せになるからね」
その瞬間、浮遊感に襲われた。突然のことに頭がついていかず、ただただ混乱する。
「───、」
頭上から降ってくるのは、私の名前を呼ぶ懐かしい声。目を開いた先にあったのは、額にダイヤが刻まれた、彫刻のように美しい顔だった。状況が呑み込めずに周りを見渡すと、さっきまでいたはずのベランダが遠くに、しかも遥か下の方に見えている。
「どうして」
口から出た私の声は、情けなく震えていた。
「悪魔は欲望に弱いからな」
ルシファーが困ったように笑う。
「おまえの世界は人間界だと分かっているのに、おまえが他の奴のものになるのが耐えられなかった。……お願いだ。おまえが嫌になるまでは、俺の傍にいてくれ」
黒と赤の高貴な瞳が、私をまっすぐに見つめる。今まででいちばん真剣な瞳だった。
もちろん、ずっとそばにいたい。そう返したいのに。会いたかった、寂しかった、なんで突き放したの、馬鹿、人がどれだけ必死に諦めようとしたか知らないくせに、今更なによ、最低、でも正直期待してた、嬉しい、大好き、愛してる。いろんな感情が同時に溢れて、言葉が口から出てこない。言葉の代わりに、ルシファーに強くしがみつく。
「だめか?」
とびきり甘いささやき声が耳をくすぐる。ずるい。いつだってこの悪魔は、私が求めていることを知っていてこういうことをするのだ。
「だめじゃない」
「そうか、嬉しいよ」
ルシファーは満足げにほほ笑むと、知らない建物の屋上に私を降ろした。そのまま、流れるような動作で跪く。
「人間は、こうして永遠の愛を誓うのだろう?」
ルシファーはそっと私の左手をそっと持ち上げ、光の指輪を薬指に嵌めなおした。そのまま、指輪に口づける。薬指から全身に歓喜の震えが広がった。
「愛してる。もう、二度と離さない。一生、俺のものでいてくれ。傍にいてくれ。」
「……はい」
そう答えると、立ち上がったルシファーからそっとキスをされた。
ルシファーに抱きかかえられ、明るくなり始めた空に飛び立つ。新聞配達のバイクの音が遠くに聞こえた。町の目覚めだ。きっと、もう二度とこの世界に戻ってこれない。朝日とも、愛してくれた人とも、慣れ親しんだ町とも、ぜんぶおさらばだ。でも、未練はなかった。
さよなら人間界。私、世界で一番好きな悪魔(ひと)と幸せになります。
「ねえ。その指輪、明日だけは外してくれない?」
何も知らない彼が、私の指に嵌められた光の指輪をなぞる。亡くなったおばあちゃんの形見だなんて嘘をついて、ずっと嵌めている指輪。これがないと三界が滅びてしまうなんて夢にも思わないのだろう。
「そんなに外してほしい?」
「うん。明日だけでいいからさ。お願い。」
子犬のような目でまっすぐに見つめられるとさすがに可哀想になってしまい、私は仕方なく頷くことにした。
明日私は、世界で一番好きな人で、二番目に好きな男の妻になります。
目を覚ますと、まだ薄暗い明け方だった。どうにも眼が冴えてしまい、彼を起こさないようにベッドから出て、ベランダに行く。ひんやりとした空気が心地いい。この時間に外に出ている人はいない。風もないし、なんだか時間が止まっているみたいだ。
町を見渡す。まだ始発が動いていない最寄り駅、小さめのショッピングモール、産直の野菜が美味しいスーパーマーケット、最近改装された綺麗な小学校。ここには特別なものはないけれど、必要なものは揃っている。この町と大好きな人がいれば、私は一生困らない。満ち足りた人生を送っていける。
大丈夫。そう言い聞かせて自分に指に魔法をかけると、見事に指輪が見えなくなった。魔界から人間界に帰ってきた後、指輪の存在が不都合なときのために、とソロモンが簡単な魔法を教えてくれたのだ。今日だっていつもと同じだ。仕事中じゃないけれど、式のために、結婚指輪を嵌めるために指輪を隠す。何も変わらない。それなのに、今日は指輪のない手がやけに味気なく見えた。
本音を言えば、ルシファーと結ばれたかった。人間界になんて戻らず、魔界に残って彼の傍で一生を終えても構わないと思った。しかしルシファー曰く、私の生きるべき世界は人間界らしい。
帰ってきて暫くは、毎日のようにルシファーを召喚して逢瀬を重ねていた。しかし、現在の彼、つまり明日からの夫と仲良くなった時期から、ルシファーは変わった。何度も何度も言ってくれた「傍にいてくれ」も「愛してる」言わなくなり、ついにこう言った。
「人間界で幸せになれよ」
その翌日から今の彼からの猛アプローチが始まり、流されるままに付き合い、結婚に至る。真面目で献身的な彼に好意を抱かないわけがなかった。この結婚は完璧なはずなのだ。
ため息をつく。式当日に過去の恋人を思い出される彼はなんて気の毒なのだろう。私は今日、完璧な結婚生活に踏み出すために、けじめをつけねばならない。きっと、早く目が覚めたのはそのためだ。
空を見上げると、思った通り、薄暗い空に金星が輝いていた。明けの明星、ルシファー。私は今日ここでお別れを告げて、人間としてきちんと生きるのだ。
「ルシファー、私、人間界で幸せになるからね」
その瞬間、浮遊感に襲われた。突然のことに頭がついていかず、ただただ混乱する。
「───、」
頭上から降ってくるのは、私の名前を呼ぶ懐かしい声。目を開いた先にあったのは、額にダイヤが刻まれた、彫刻のように美しい顔だった。状況が呑み込めずに周りを見渡すと、さっきまでいたはずのベランダが遠くに、しかも遥か下の方に見えている。
「どうして」
口から出た私の声は、情けなく震えていた。
「悪魔は欲望に弱いからな」
ルシファーが困ったように笑う。
「おまえの世界は人間界だと分かっているのに、おまえが他の奴のものになるのが耐えられなかった。……お願いだ。おまえが嫌になるまでは、俺の傍にいてくれ」
黒と赤の高貴な瞳が、私をまっすぐに見つめる。今まででいちばん真剣な瞳だった。
もちろん、ずっとそばにいたい。そう返したいのに。会いたかった、寂しかった、なんで突き放したの、馬鹿、人がどれだけ必死に諦めようとしたか知らないくせに、今更なによ、最低、でも正直期待してた、嬉しい、大好き、愛してる。いろんな感情が同時に溢れて、言葉が口から出てこない。言葉の代わりに、ルシファーに強くしがみつく。
「だめか?」
とびきり甘いささやき声が耳をくすぐる。ずるい。いつだってこの悪魔は、私が求めていることを知っていてこういうことをするのだ。
「だめじゃない」
「そうか、嬉しいよ」
ルシファーは満足げにほほ笑むと、知らない建物の屋上に私を降ろした。そのまま、流れるような動作で跪く。
「人間は、こうして永遠の愛を誓うのだろう?」
ルシファーはそっと私の左手をそっと持ち上げ、光の指輪を薬指に嵌めなおした。そのまま、指輪に口づける。薬指から全身に歓喜の震えが広がった。
「愛してる。もう、二度と離さない。一生、俺のものでいてくれ。傍にいてくれ。」
「……はい」
そう答えると、立ち上がったルシファーからそっとキスをされた。
ルシファーに抱きかかえられ、明るくなり始めた空に飛び立つ。新聞配達のバイクの音が遠くに聞こえた。町の目覚めだ。きっと、もう二度とこの世界に戻ってこれない。朝日とも、愛してくれた人とも、慣れ親しんだ町とも、ぜんぶおさらばだ。でも、未練はなかった。
さよなら人間界。私、世界で一番好きな悪魔(ひと)と幸せになります。
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