0.芽吹き

 夜空をいだく青年は清閑に述べた。落ち着いた声色に冷たさは無く、確かな慈愛が温もりを帯びる。
 拙い少女だったラピスはただ首肯した。
 彼はいつだって正しかった。言動はいつだって有意義だった。一見無意味に思えた何事さえも、巡り廻っていつしかその身に還っていた。
 それならば。その彼が言うのだから、きっとこの別れにも意味があるのだろう。
 ラピスは手中にある書物を見やる。餞別だと託された重厚なそれ。
 銀の装飾で縁取られた、濃藍の空を映した表紙を捲り、肌触りの良い白紙に指を滑らせる。
「それに描くと良い。感情を、その在り方を。君自身のことも、これから出会う人のことも。それが心の集大成と成る頃、君はきっと――」
 はたと青年は口を噤む。徐にラピスの頭を優しく撫でると、その白く小さな手を取った。
 彼の手はささくれ立って骨張った、少女の手よりもずっと大きな、命の重さを知る手だった。
「君自身が見たこと、感じたこと、全てを大事になさい。例えそれがどんなことでも。それは君の心の証明。君の存在を形作る、とても大切なものだ」
 ラピスは言葉を反芻し、掠れた声で問うた。わからない、心とは何か。
 青年は答える代わりにラピスと額を合わせ、目を伏せる。
「いつしか君が私に追いついたら。その時はまた、沢山の話をしよう」
 離れる額。解ける手と手。
 それは決別を体現しているようで、感情に疎い少女は漠然と不安に思う。
 我知らず青年の指を掴んでいたラピスに、驚いたように瞬く満月の眼。ラピスの瑠璃の瞳を覗き込むと微笑を湛え、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「私もね、名残惜しいよ。君との旅は楽しかったから。今とても寂しい」
 寂しい。これが。ラピスは言葉を口の中で転がす。
「だからこそ、いつかの再会を待ち遠しく思うよ。待ってるから。ずっと」
 今度こそ手は振り解かれた。
 人形めいた少女はそっと、温もりの残滓を握り締める。
 青年によって撒かれた心の種が、小さく芽吹こうとしていた。
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