第1章 縁
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甚爾「おい、こっち来い」
甚爾は面倒そうに鼻を鳴らすと、私の腕を大きな手で強引に引っ張り、そのまま奥にあるベッドへと容赦なく倒れ込んだ。突然の重力に逆らえず、私の身体がふわりと宙を浮いて固いマットレスに投げ出される。
甚爾「ソファじゃ狭えだろ。マッサージの続きしろよ、ほら、乗っかれ」
ナマエ「ちょっと、急に引っ張らないでください! 心臓に悪いじゃないですか」
甚爾「四の五の言わずにさっさとやれ。俺がここでやれっつってんだよ」
ナマエ「…あーもう。わかりました。」
抗う間もなく、私は彼に促されるまま、うつ伏せになったその馬鹿げたほど広い背中に跨った。
Tシャツ越しでもはっきりと分かる、まるで精巧に鍛造された鉄塊のような筋肉の圧倒的な質量。
プロのスポーツ選手たちをそれなりに相手にしてきた経験のある私ですら、これほどまでに獰猛な野生そのものを感じさせる規格外の肉体に触れるのは生まれて初めてだった。指先をきゅっと立て、頸椎から肩甲骨にかけて、淀んだ血流を力強く押し流すように親指でグッと圧をかけていく。
ナマエ「……これ、右の広背筋がかなり異常に張ってますね。さっきの呪霊との戦い方、完全に左に軸を置きすぎなんじゃないですか? バランスが悪すぎますよ」
甚爾「あぁ、そこだ。もっと強くやれよ。お前、見た目の割に結構いい指圧してんじゃねえか。全然効かねえかと思ったわ」
ナマエ「あまり強くしすぎると、明日になって酷い揉み返しが来ますよ。……でも、甚爾さんの場合は筋肉の密度が常人とかけ離れすぎているから、普通の人と同じ生ぬるいやり方じゃそもそも深層まで届きもしないか。これくらいでどうですか?」
甚爾「あぁ、ちょうどいい。お前、本当にただの補助監督か? どっかの怪しいマッサージ店で裏のバイトでもしてたんだろ」
ナマエ「失礼なことを言わないでください。私はこれでも国家資格を持ったプロなんですからね。スポーツ栄養の現場で、選手のコンディショニングの一環として指圧の技術も磨き上げて来たんです」
甚爾「へえ、大層なこった。じゃあそのプロの技術、もっと俺に注ぎ込めよ。右の腰のあたりもよろしく」
解説を交えながら、丁寧に、けれど確実に彼の頑固な深層筋肉を捉えていく。
甚爾は「あぁ……」「うっ」と、低く掠れた大人の声を時折漏らしながら、心地よさそうに全身の力をゆっくりと抜いていった。
時間をかけて揉みほぐすうちに、互いの体温がじわじわと混ざり合い、狭い部屋の空気までもが妖しく熱を帯びてくる。
ついさっき、術式で魂の波長を極限まで合わせた直後だったからだろうか。バイタルリンクが残っているかのように指先から伝わってくる彼の暴力的なまでに重い鼓動が、まるで自分の身体の内側で鳴り響いているもののように感じられ、私の意識は次第に混濁し始めた。
これまでに味わったことのない心地よい疲労感と、彼から放たれる圧倒的な生命の香りに包まれて、頭の芯がふわふわと上の方へ浮き上がっていくような感覚に陥る。意識の輪郭が、ゆっくりと溶けていく。
甚爾「……おい、手が止まってるぞ。」
甚爾が不意に寝返りを打ち、私の手首を大きな手で引き込んだ。抗う力なんて一ミリも残っていなくて、私は彼の逞しい胸の中にすっぽりと収まってしまう格好になった。
ナマエ「あ……っ、ちょっと、伏黒、…さん」
甚爾「甚爾だっつったろ。物覚えの悪いお嬢ちゃんだな。……少し黙ってろ」
強引に抱きしめられた彼の胸板は驚くほど温かく、その胸の奥で一定のリズムで刻まれる力強い鼓動が、今の私にとっては最高に贅沢な子守唄になってしまった。私はこれ以上抵抗するのをすっかり諦め、そのまま深い意識の深淵へと滑り落ちていった。
完全に眠りに落ちたナマエを見つめ、甚爾がその額に、いつもの凶悪さからは想像もつかないほど慈しむような柔らかなキスを落としたことにも、私は全く気づかずに。
――数時間後。
ナマエ「ん……ふぅ、ん……」
鼻先に触れる、柔らかくて妙に温かい皮膚の質感。無意識のうちにそれをむにむにと自分の頬に押し当て、まるで実家の大きなぬいぐるみに甘えるように顔を何度も擦り寄せた、まさにその瞬間だった。私の脳内に冷水をバケツごとぶっかけられたような凄まじい衝撃が走る。
ナマエ「……っ!?!?!?!」
ここがどこで、自分が今誰の腕の中にいるのかを理解した瞬間、心臓が跳ね上がった。
恐る恐る顔を上げると、そこには端正な顔立ちをこれでもかと意地悪く歪ませて、ニヤリと楽しそうに笑う甚爾の顔が至近距離にあった。
甚爾「おはよさん。よく眠れたか? 俺の胸、そんなに居心地良かったかよ」
ナマエ「ご、ごめんなさい! 私、いつの間に……っ、というか何で抱きついたまま寝て…」
甚爾「お前が勝手に俺の胸に顔を擦り付けて離れなかったんだろ。役得だからそのままにしといてやったよ」
私は弾かれたようにベッドから飛び起き、震える手で脱ぎ散らかしていたジャケットのポケットからスマートフォンをひったくった。画面を点灯させた瞬間、私は本当に声が出なくなるほどの絶叫をあげそうになった。
画面を埋め尽くす、真っ赤な不在着信の山。
任務が完了した直後、高専のグループチャットに私が送った「伏黒さんを家まで送ってから帰ります」という呑気な一文から、時間は無情にもきっちり三時間が経過していた。
ナマエ「あ…っ。嘘、でしょ……三時間……っ。丸々三時間も爆睡してたの……?」
おそるおそるチャットのアプリを開けば、そこは想像を絶する絵に描いたような地獄絵図が広がっていた。
五条「ナマエ? まだ帰らないの? ちょっと時間かかりすぎじゃない?」
五条「位置情報だと何だか変なボロマンションの前にずっと車停まってるんだけど。何これ? 誰の家?」
五条「おい、見てるんだろ。返事しろよ。何で既読すらつかないわけ?」
五条「ねえ、今からそこ行くよ? 行っていいよね? 傑が止めるけど僕もう行くから」
五条からは、秒単位で狂気と不穏さを増していく恐ろしいメッセージが連投されている。さらにその下には夏油からのメッセージも届いていた。
夏油「ナマエ、何かトラブルにでも巻き込まれたのかな? 悟が本格的に暴走し始めて高専の建物を壊しそうだから、もし生きてるなら早めに連絡をくれると本当に助かるよ。私たちのためにもね」
夏油の文面は丁寧ながらも、文末から底知れない暗黒の圧と「早く帰ってこい」という無言の脅迫がありありと並んでいるのが分かった。
ナマエ「……終わった。私の高専での補助監督としての人生、完全に社会的に終わったわ。あの二人にどんな顔して言い訳すればいいのよ」
とりあえず、震える指先で『本当にすみません、極度の疲労で車内で寝落ちしていました! 今すぐ全力で戻ります!』と大嘘のメッセージだけを必死に打ち込み、私はベッドの端から床へと転げ落ちた。
乱れた髪を両手でガシガシと掻き上げ、床に脱ぎ捨てていた補助監督の上着をひったくるようにして腕を通し、ベッドの上で相変わらず面白そうに見物している甚爾にバッと向き直る。
ナマエ「あの! 甚爾さん! よかったら……その、今後のためにも食事改善とか真面目にしてみませんか!? 高専の食堂だって、一般の定食屋に比べたらコスパも栄養バランスも最高に良いですし、私がマンツーマンで徹底的に栄養指導とか……。あと、もし週一で良ければ、私がこの家に作り置きとかしに来ますから! だから、ちょっとでも気になったら、これ、私の……っ!」
必死の形相で差し出した私のスマートフォンの画面に、甚爾は相変わらずの不敵で胡散臭い笑みを浮かべたまま、手元にあった自分の端末をかざして、何の手間もなく一瞬でQRコードを読み取った。
画面に「友達が追加されました」とポップアップが出た瞬間、私は脱兎のごとく、それこそ床を蹴り破るような勢いで狭い部屋を飛び出した。
ナマエ「連絡、絶対に、絶対にくださいね! じゃあ!!」
甚爾「……あぁ。またな、お嬢ちゃん」
背後でパタンと扉が閉まる直前、どこかひどく満足げに響いた彼の低い声を振り切り、私は階段を駆け下りて駐車場へ向かった。高専への帰路を、私は車のアクセルを床が抜けるほど全力で踏み込んで飛ばした。
山道を爆走する車内で、私の頭の中はパニックのままだ。
高専で私を待っているのは、あの最強二人の恐ろしい尋問か、それとも逃げ場のないお仕置きか――。
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