第1章 縁
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薄暗い廊下の向こうから、不機嫌をこれでもかと絵に描いたような顔で悟がドカドカと歩いてくるのが見えた。その無駄に長い脚が床を乱暴に叩く音さえ、どこか尋常じゃない苛立ちを孕んでいるように聞こえて、空気がピリピリと震える。
タイミングを合わせるように、私の制服のポケットの中でスマートフォンが短い振動を何度も繰り返した。画面を引っ張り出してスクロールすると、表示されたのは上層部から私宛てに届いた、急を要する緊急任務の指令書。
ナマエ「山奥の廃宗教施設。呪霊の群れの排除…ねぇ。ええっと、担当の外部術師は……伏黒甚爾? 誰かしら。そんな人、私が高専にいた頃にいたっけ。聞いたことない名前ね」
私が画面を見つめたままポツリと独りごちた、まさにその瞬間だった。近づいてきた五条の顔から一切の余裕が消え失せ、一気にあたりが凍りつくような氷点下まで冷え切った。
黒い目隠しの奥にあるはずの「六眼」が、まるで猛毒でも盛られたかのような、激しい嫌悪感と不快感を剥き出しにする。
五条「は? 誰って。よりによって何でその男の名前が先輩の口から出てくるわけ? 行かなくていいよ、そんなクソ任務。断りな。伊地知にでも行かせればいいじゃん。あいつ、そういう押し付けられた雑用とかパシリが得意でしょ」
ナマエ「ちょっと、何怒ってるのよ悟。これ、上層部からの正式な指名よ? 復職したての私に断る権限なんてないし、伊地知くんだって今、別の大きな現場に駆り出されてて手一杯だって聞いてるわよ」
五条「そんなの僕には関係ないね。僕がダメって言ったらダメなの。大体、その男はさ…先輩が関わっていいような真っ当な人間じゃないし!とにかく絶対に近寄らせたくないわけ」
五条が苛立ちを隠さずそれ以上言えない何かをゴクリと喉の奥に飲み込むのと同時に、背後の医務室の重い扉が、音もなく静かに開いた。
そこからヌッと姿を現したのは、さっきここでぶつかったばかりの、あの規格外の体躯を持つ黒いTシャツの男だった。
動くたびに、Tシャツの薄い生地の向こうで不気味なほどに波打ち、隆起する筋肉の生々しい躍動。
男は私の隣で今にもキれそうな五条のことを、まるでそこらの路傍に転がっているただの石ころでも見るかのような、ひどく退屈で冷ややかな一瞥だけで切り捨てた。
男「おい、ナマエ。任務だ。行くぞ」
自己紹介も、丁寧な状況説明も何もあったもんじゃない。
ただ、最初から知っていて当然だというように私の名前をごく自然に呼ぶと、男は私の肩をその大きくて分厚い手で強引にガシッと抱き寄せた。
男は五条を睨みつけるというよりは、むしろこれ以上ないほど挑発的にその存在自体を完全に無視するようにして、大きな体で私を出口の方へと促す。
ナマエ「ちょ、ちょっと待って! 急に肩を抱かないで! 待って、まだ心の準備も資料の確認もできてないんだけど!」
男「いいからガタガタ言わずに来い。時間の無駄だ。さっさと車を出せ」
五条「おい。てめえ、その汚い手を今すぐ離せよ。誰の許可を得て僕のナマエに触ってんだよ、アンタ」
五条の低く地を這うような声が、明確な怒りと殺気でピリピリと震える。
けれど男――伏黒甚爾はそれをまともに受けるどころか、フンと鼻で冷たく笑い飛ばし、そのまま私を強引な力で引きずるようにして連れ出した。
駐車場に停めてあった黒い社用車のドアを乱暴に開け、抵抗する私を運転席へと押し込むと、自分は長い脚を組んで悠然と後部座席の特等席に陣取る。
仕方なくエンジンをかけてハンドルを握りながら、私はサイドミラー越しに後ろのシートで不遜に寝そべる男の様子を恐る恐る窺った。
ナマエ「あの……すみません。もしかして、あなたが資料にあった伏黒甚爾さん、ですか?」
甚爾は窓の外を眺めたまま、死んだ魚のような、それでいて獲物の一挙手一投足を冷酷に見定める猛禽のような不気味な瞳をこちらに動かそうともしない。
甚爾「あぁ」
短く、地を這うような低い返事。
そもそも、なぜ彼が初対面のはずの私の名前を当然のように知っていたのか。硝子が先程医務室で教えたのか、それとも上層部からの資料に私の顔写真付きで載っていたのか。喉のところまで出かかったたくさんの疑問は、車内に容赦なく満ちていく彼の圧倒的な「個」の重圧と威圧感に押し潰されて、言葉にならなかった。
車が舗装された道路を外れ、鬱蒼とした山道へと入り、タイヤがジャリジャリと砂利を踏む音だけが静かに響き始める。
車内の痛いほどの沈黙に耐えかねて、私はバックミラー越しにようやく言葉を紡ぎ出した。
ナマエ「あの、伏黒さん。改めて、今日から補助監督として同行する
甚爾「…………」
ナマエ「私の術式は『カタシロ』といいます。私が『味方』だと認識した対象のステータスを、強制的に二倍に引き上げる付与型の術式です。単純な体力や筋力だけじゃなくて、反射神経や神経伝達速度まで書き換えます。伏黒さんのような、その…、呪力を全く持たない方であっても、効果は変わりなく発動します」
甚爾「…………」
ナマエ「ただし、その強力な代償として、私本人には致命的なラグが発生します。術式が発動している間は、私の身体の動きがマイナス二倍、つまり極端に鈍くなって、指一本動かすのも難しくなります。だから、私は現場では『空っぽの鳥籠』っていう気配を完全に消す呪具を頭から被って、物陰に潜伏します。私の気配は完全に世界から消えますが、私自身は石みたいになって動けなくなります」
そこまで一気に捲し立てるように説明して、私は恐る恐る後部座席の様子をバックミラーで窺った。
甚爾は相変わらず、頬杖をついて外を流れる緑の景色を眺めている。話を聞いているのか、それとも寝ているのかさえ、その表情からは全く判別がつかない。
ナマエ「あの、ちょっと、聞いてますか? 非常に重要なことなんです。特に『バイタルリンク』について。術式発動中、私と伏黒さんは不可視のパスで感覚を共有して繋がります。私の心拍数がリアルタイムであなたに伝わるし、あなたの生命の危機も私に即座に共有されます。つまり、現場で私が死にそうになれば、あなたもその苦痛や焦燥を肌で感じ取ることになるんです」
甚爾「あぁ、そうかい」
しばらくして、ようやく返ってきたのは、大きなあくび混じりの生返事だった。
甚爾「随分と、お節介で面倒な術式だな。そんなもん繋げたら、俺の心臓の音がうるさすぎて、お前の方が先に頭おかしくなって参るんじゃねえのか」
ナマエ「それは……私が耐えれば済む話です。慣れてますから。でも、ちゃんとお互いに連携が取れないと困るんです。私は見ての通り完全に非戦闘員ですから、あなたが現場で私をちゃんと守ってくれないと、術式自体が途切れて二人ともピンチになるんですよ」
甚爾「守る?」
甚爾が、そこで初めて私とバックミラー越しに、視線を真っ向から合わせてきた。
その濁った瞳の奥に、一瞬だけ、ゾッとするような獰猛な肉食獣の火が灯ったように見えた。
甚爾「勘違いするなよ、お嬢ちゃん。俺は、お前を『守る』ためにこの仕事を受けてるんじゃねえんだよ。俺が確実に勝って金を稼ぐために、お前のその便利な能力を限界まで使い倒す、それだけだ。バッテリーが壊れそうになって術式が切れそうになったら、その時だけ守るか捨てるか考えてやるよ」
ナマエ「な……っ、言い方! せめてもう少し、命を預け合う協力者として尊重してくれたって良いじゃないですか。こっちは真面目にやってるんです!」
甚爾「尊重? そんな安いもん、俺はギャンブルの勝ち馬にしか払わねえよ。お前、自分が俺に賭けさせるだけの当たり馬だって、それなりの自信があるのか?」
ナマエ「あっ、ありますよ! 私のバフがかかれば、あなたは文字通り『最強』と呼ばれるあの二人さえ超えられる。それを今回の任務で、あなたに証明してみせますから!」
思わず悔しくて声を荒らげると、甚爾はフンと、どこか楽しそうに鼻を鳴らした。
甚爾「威勢だけはいいな、お前。……いいぜ。その二倍だか何だか知らねえが、そこまで言うなら試してやる。俺の動く速度に、お前のその貧弱な心臓がどこまで壊れずに付いてこれるか、見ものだな」
不遜で邪悪な笑みを浮かべる彼の横顔を見ながら、私はハンドルを握る指先にぎゅっと力を込めた。
会話は一応成立しているようで、その実、決定的な何かが最初から噛み合っていないような、そんな不気味な感覚。
けれど、バイタルリンクの予行演習みたいに、すぐ後ろから微かに肌に伝わってくる彼の規則正しい、それでいて暴力的なまでに重くて不気味な鼓動。
(……この人、本当に私の術式を今日初めて知ったのかな?)
何だろう、この感覚。どこかで、ずっと昔に見覚えがあるような、けれど記憶の濃い霧に隠れてしまってどうしても見えない、不思議で不吉な既視感が胸を支配する。
山道はさらに深く暗くなり、目的地である廃宗教施設の、おどろおどろしいシルエットが霧の向こうからゆっくりと姿を現し始めていた。
ナマエ(ひぇ〜…おばけやしき…)
ナマエ「着きました。……伏黒さん、準備はいいですか?」
甚爾「あぁ。さっさと終わらせて、帰りに美味いもんでも食わせろよ。元栄養士なんだろ、お前。俺の胃袋を満足させてみせろ」
ナマエ「任務が無事に終わってから言ってもらえます? まだ、ここから一歩も動いてないんだから」
そんな中学生みたいな皮肉混じりの応酬を交わしながら、私は車を停めた。
ドアを開けた瞬間に車内に流れ込んできたのは、ひんやりとした湿った土の匂いと、肌が粟立つような濃厚な呪いの気配。
そして、私のすぐ隣に立つこの男からドクドクと放たれる、その呪いをも遥かに凌駕するような、「生存」に対する圧倒的で狂暴な熱気だった。
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