第1章 縁
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古い隠れ家の煤けた窓から斜めに差し込む月光は、どこまでも青白く、そして静謐だった。
ナマエは伏黒甚爾の厚く頑丈な胸板に額をそっと預けたまま、溢れ出しそうになる涙を隠そうともせずに、その逞しい腕に自らの腕を必死に回した。
幼い頃、禪院の広大な屋敷の薄暗い片隅で、一族の誰からも顧みられずにぽつんと立っていた孤独な背中。それを見つけるたびに小さな足でドタバタと駆け寄って、その大きな掌に自分の小さな手を無理やり重ねたあの日々の記憶が、今、鮮烈な色彩と熱を持って脳裏に蘇る。
胸のざわつきを抑えきれず、ナマエがかすれた声で呟く。
ナマエ「とと兄、会いたかった。ずっと寂しかった。こんなにすぐ近くにいたのに、私、全然気が付かなかったなんて。本当に大バカね」
震える声で紡がれるその言葉を聞いた瞬間、甚爾は喉の奥を鳴らして低く愉しそうに笑った。その心地よい肉体の振動が、胸に押し当てられたナマエの頬に直接伝わり、痺れるような熱を残していく。
甚爾「俺は、お前が医務室から慌てて出てきて、俺にぶつかったあの瞬間、すぐにお前だと分かったけどな」
ナマエ「…嘘、あの最初の時に!? あぁ…、だから私の名前をあの時知ってたんだ。…てっきり、硝子が裏で何か私のこと話したのかとばかり思ってたわ」
ナマエが驚いて勢いよく顔を上げると、至近距離にある甚爾の瞳が、実に面白そうに細められた。
甚爾「硝子には、お前が卒業後に一体どこで何をして遊んでたのか、それを軽く聞いたくらいだ。名前なんてわざわざ他人に聞く必要もねぇよ。お前のその、間抜け面したぶつかり方は昔から何一つ変わっちゃいねぇからな」
ナマエ「もう! 間抜け面なんて相変わらず失礼ね! 人が感動の再会をしてる最中だって言うのに!」
甚爾「ははっ、そうやってすぐにムキになって怒る顔も当時のままだな。ちっとも成長してねえよ」
ナマエ「とと兄の意地悪! 少しは優しく労わってくれたっていいじゃない!」
甚爾「俺にそんな上等なもん求めるなよ。ほら、涙拭け」
そう言って甚爾が不器用に鼻を鳴らすと、二人はどちらからともなく顔を見合わせて、ふふっと小さく笑い合った。
高専でのあの刺々しい空気や、五条や夏油という最強の術師たちの異常な独占欲に晒されていた心身の緊張が、まるで嘘のように綺麗に解けていく。
ナマエは自分の指先をじっと見つめ、まだ身体の奥底に残っている術式の感覚を、確かめるように小さく動かした。
ナマエ「ねえ、バイタルリンクが繋がったままなのがずっと不思議だったんだけど。そっか、相手がとと兄だったなら、理屈は分からなくてもなんだかすごく納得しちゃうかも。私の術式、とと兄のこと、ちゃんと覚えてたんだね」
甚爾は何も言わずに、ナマエの頭を大きな分厚い手でわしゃわしゃと乱暴に撫で回した。その無骨な指先が髪を梳く感覚は、一見雑なようでいて、その奥にはどこまでも深い慈しみが満ちている。髪を乱されながらも、ナマエは少しだけ不安げに、潤んだ瞳で上目遣いに問いかけた。
ナマエ「でも、私、最後に会ったの八歳だよ? よく分かったね。私、そんなに昔と変わってないのかな?」
八歳の幼い少女から、大人の女性へ。体つきも、声のトーンも、取り巻く環境もすべてが変わってしまったはずなのに、この男は迷いもなく自分を認識した。その事実に胸が淡く震える。
甚爾は撫ていた手をぴたりと止めると、親指でナマエの顎をくいと強引に持ち上げ、射抜くような鋭い視線でその顔をじっと見つめた。
甚爾「変わったに決まってんだろ。ちゃんと女の顔になった。昔はあんなにちんちくりんのチビだった癖に、今は俺の胸の高さまである。声だって、少し低くなって、俺の耳を惑わすような響きになりやがって」
甚爾の熱い指先が、顎から離れてナマエの耳たぶをかすめ、そこから白い首筋へと、なぞるようにゆっくりと滑り落ちていく。その愛撫のような動きに、肌が粟立つ。
甚爾「でもな、ナマエ。お前が困った時にそうやって情けなく眉を寄せる癖も、真っ直ぐに俺を見てくる瞳の強い光も、俺だけに向けられるその無防備極まりない信頼も。それだけは、あのクソみたいな禪院の屋敷にいた頃から一つも変わっちゃいねぇよ」
ナマエ「…とと兄」
甚爾「お前が俺を大好きだって真っ直ぐに言ったあの瞬間から、俺の中でお前の時間は完全に止まってたんだよ。何年経とうが、この先何万人の女と出会おうが、お前を間違えるわけねぇだろ。俺の目を舐めるなよ」
甚爾の紡ぐ言葉は、熱を帯びた心地よい呪いのように、ナマエの心臓を強く締め付けた。彼がずっと一人で抱えてきた孤独。禪院という泥沼から抜け出し、一人で血生臭い世界を這いずり回ってきた道のり。その果てしない暗闇の中で、彼が唯一、消えない美しい記憶として抱きしめ続けてきたのが自分だったという圧倒的な事実に、ナマエの視界が再び熱く潤んでいく。
バイタルリンクが2人の感情を混ぜていく…
自らの意志でその広い胸にさらに一歩寄り添いながら、ナマエは声を絞り出した。
ナマエ「ねぇ、とと兄。私、これからはずっと、あなたの側にいてもいい?」
甚爾「当たり前だろ。今更お前が逃げようとしたって、地の果てまで追いかけて捕まえてやるよ。あのお坊ちゃん共の手が絶対に届かない、深い場所までな」
甚爾はナマエの細い腰を大きな腕で強く引き寄せ、逃げ場をすべて塞ぐように情熱的に抱きしめた。ナマエが愛おしそうに甚爾の瞳を見つめて微笑むと、甚爾は獰猛な、けれど至上の喜びを孕んだ笑みを浮かべて、彼女の柔らかい唇に自らの熱いそれを深く重ねた。
月光が照らす暗い部屋の中、再会を果たした二人の影は、一つの深い闇となって濃密に溶かされていくのだった。
甚爾の唇からダイレクトに伝わってくる、大人の男特有の強烈な熱。それは、あの頃の小さな少女がどれだけ爪先立ちをして背伸びをしても、決して届かなかったあまりに遠い世界の代物だった。
あの幼い頃、十歳も歳が離れていたとと兄は、この世界のすべてを敵に回してでも自分だけを絶対に守ってくれる、傷だらけで無敵の騎士に見えていたのだ。
前触れもなく突然姿を消し、禪院の汚い大人たちから死んだと冷酷に聞かされたあの日から、ナマエは心の中の小さな箱に、その切ない初恋の記憶を誰にも見つからないよう少しずつ封印していった。
けれど、二十年という気の遠くなるような長い歳月を経て、その頑丈な封印は今、目の前にいる凶暴な男によって暴力的なまでに乱暴に引き剥がされた。
驚きと快感に大きく潤んだ瞳で、間近にある甚爾の顔を見つめる。もう、あの頃の不器用な青年と、ただ泣きじゃくる子供ではない。
……この重なり合った唇の後に続いていく熱い行方の意味を、大人の二人は脳が痛くなるほどに理解していた。
胸のざわつきが甘い痺れに変わる中、彼女は熱い吐息を漏らす。
ナマエ「…とと兄」
抗うどころか、ナマエは自分からねだるように再び唇を重ねると、甚爾は満足げに口の端をニィと歪に吊り上げ、二度と逃がさないという強い意志を込めて、深く、どこまでも深く舌を絡めてきた。
かつて呪術界の御三家の誰もが喉から手が出るほど欲しがり、羨望と嫉妬の眼差しを一身に浴びていた編生一族の最高の宝物。それが今、高専の最強どもを差し置いて自分の腕の中で甘く情けない吐息を漏らしているという圧倒的な事実に、甚爾の歪んだ独占欲が極上の愉悦に震える。
甚爾「ナマエ、お前さ、本当にあの頃の純粋な目のまま、俺のことを見てやがるな。少しは警戒ってものを覚えたらどうなんだよ」
なじるように囁きながら、彼は慈しむようにナマエの柔らかな耳たぶを優しく食み、そこから白く滑らかな首筋へと熱い舌を這わせて辿っていく。肌に刻まれる濡れた感触に、ゾクゾクとした快感が走る。
ナマエ「っ、ん、あ、甚爾さん」
甚爾「あ? 甚爾さんなんて他人行儀な呼び方すんじゃねえよ。俺を呼ぶ時は、昔みたいに優しく『とと兄』って呼べばいいんだよ。お前だけの特権だろ」
耳元でダイレクトに響く鼓膜を揺らす低音に、体中のすべての力が一気に抜けていくのが分かった。あの小さくて愛らしかった少女が、こんなにも艶やかな大人の女に育ち、今まさに俺の手の中で感じて声を漏らしている。
甚爾は流れた長い時間を愛おしむように、けれど飢えた獰猛な獣の目をぎらつかせてナマエを見つめ、そのまま軽い荷物でも扱うかのように軽々と抱き上げた。
埃っぽいベッドに横たえられた瞬間、背中に伝わる冷たいシーツの感触と、視界を完全に遮るように覆いかぶさってくる彼の圧倒的な肉体の質量に息が詰まる。
着慣れた薄いシャツの上からでも、ナマエの身体が描く柔らかな曲線は、彼の理性を限界まで煽るのに十分すぎるほど魅惑的だった。
甚爾「おい、お前、こんな薄着の格好で平気な顔して高専の廊下を歩いてたのか? あのお坊ちゃん共によ、自分の身体を見せびらかしてたわけじゃねぇだろうな。あいつら目の色変えてたぞ」
ナマエ「そんなわけないじゃない! 変な邪推しないでよ。ただ最近、高専の中がちょっと暑かっただけだよ」
甚爾「ふん、言い訳だな。なら、俺が今からもっと涼しくしてやるよ。文句言うなよ」
甚爾の大きくて硬い手がシャツの裾から容赦なく差し入れられ、一気に上へとまくり上げられる。露出した無防備で柔らかな肌に、彼の節くれ立った大きな掌が直接触れた。その劇烈な温度差に、背筋を電流が走ったような激しい震えが襲う。彼が手際よく邪魔な下着のホックを外し、上半身のすべてを露わにすると、窓から差し込む青白い月光を浴びたナマエの肌が、闇の中に白く美しく浮き上がった。
甚爾「あぁ、いい眺めだ。本当に最高だな。これがあの時、俺の後ろを必死になってついて回ってたクソガキの成れの果てかよ。大したもんだぜ」
ナマエ「成れの果てだなんて、そんな言い方しないでよ。恥ずかしいんだから、あんまりじっと見ないで」
甚爾「隠すんじゃねえよ。お前のすべてを俺に今すぐ見せろ。二十年分の寂しかった時間を、今夜ここでたっぷり可愛がって埋め合わせてやるよ」
甚爾の瞳は、目の前の獲物を確実に仕留める狩人のそれでありながら、その奥底には、奇跡的な再会を果たせた喜びを噛み締めるような、深くて重い情愛が激しく揺れ動いていた。ナマエはこれから始まる初恋の続きのすべてを、全身で生々しく受け入れる覚悟を静かに決めた。
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