第1章 縁
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人里離れた隠れ家。窓の外では湿った夜風がざわざわと木々を揺らし、時折、遠くの山肌から獣の鋭い鳴き声が鼓膜を震わせる。
室内には剥き出しの木材が放つ微かな渋い香りが漂い、どこか冷ややかな静寂が床から這い上がってくる。
高専からナマエを強引に奪い去り、爆音を響かせるバイクで夜の闇をめちゃくちゃに駆け抜けたあの狂った興奮は、この密室の静けさの中で、ゆっくりと熱を帯びた沈黙へと姿を変えていく。
甚爾は冷たい壁にどっしりと背を預け、板張りの床に力なく座り込んだままのナマエを、感情の読めない瞳でじっと見下ろしていた。
その双眸には、高専の正門前で見せていたような狂暴で刺すような独占欲とはまるで違う、どこか遠い過去の記憶を懐かしむような、奇妙に穏やかな色が混じっている。
甚爾は息を吐くと低く呟く。
甚爾「おい、お前。俺の事なんかこれっぽっちも覚えてねぇかもしれねぇがな。俺はお前と、ずっと前に何度も会ったことがあんだよ」
唐突に突きつけられた告白に、ナマエは驚いて弾かれたように顔を上げた。
ナマエ「え、何それ。…伏黒っていう名前は、今回の高専の仕事で初めてお会いしたはずですけど。それより前に、私とどこかで会ってたって言うんですか?」
甚爾「当たり前だろ、忘れてんじゃねえよ。俺の旧姓はな、"禪院"だ」
その一言が、ナマエの記憶の底に沈んでいた、ひどく重々しい鉄の扉を乱暴に叩き割った。
禪院。その呪われた、息の詰まるような家柄の名前。そして、かつてあの広大で冷酷な屋敷の片隅で、誰からも無視され、孤独に、けれど誰よりも気高く一人で立っていた青年の鮮烈な影。
視界が激しく揺れる中、ナマエの声が震えを帯びる。
ナマエ「…禪院?……禪院甚爾。嘘、…まさか、とと
目の前に立つ、筋骨隆々とした、死線を幾度も潜り抜けてきたであろう凶悪な大男。その傷だらけの険しい貌の中に、幼い自分が必死になって小さな足で追いかけていた、あの優しかった彼の面影がぴたりと重なった。
甚爾はフッと自嘲気味に、けれど記憶にある通りの懐かしい声音で小さく笑う。
甚爾「あぁ、そうだ。ようやくその鈍い頭で思い出したか、このボケが」
ナマエ「…本当に、本物のとと
甚爾「お前と、あのクソ生意気だった直哉のガキが、揃って俺の足元をチョロチョロと邪魔くさく這い回ってたのは、今でも胸糞悪いくらい鮮明に覚えてるぜ。あの呪われた屋敷の中でさ、俺みたいな日陰者に正面から抱きつこうなんていう酔狂な真似をするのは、世界中探してもお前くらいなもんだったからな」
幼い頃、編生一族の少女だったナマエは、新年の挨拶で禪院の屋敷を訪れるたび、二歳下の直哉の手を強引に引っぱって、真っ先に一族の嫌われ者だったとと兄を探し回っていた。
呪力を一切持たず、実の家族から人間ではないと蔑まれていた甚爾にとって、無条件に自分を肯定し、小さな両手で惜しみない愛を注いでくれたナマエは、暗闇の中で唯一触れることのできる、温かい光のような存在だった。
編生一族の者が甚爾を好くというのは、当時の禪院の傲慢な権力者たちにとって、この上なく忌々しく不愉快な光景に他ならない。
彼を無視しろ、あんな出来損ないに近づくなという、耳が痛くなるほどの罵倒と冷酷な視線が容赦なくナマエに突き刺さったが、彼女はそんな周囲の声をすべて笑顔で一蹴していたのだ。
それどころか、その場にいる禪院の者や、編生一族の者たちを全員宣言するように見据え
『 私はとと兄が世界で一番大好きなの! 誰も文句言わないで!』
そう大きな声で叫んで、まるで甚爾を小さな身体で守護するかのように、大人たちを堂々と見据えていたのだ。
当時を思い出し、甚爾は少しだけ目を細める。
甚爾「あの時の大人どもの、鳩が豆鉄砲食ったような間抜けなツラは傑作だったな。お前が俺から絶対に離れねえもんだからさ、それを口実にして、普段は傲慢なくせにビビりだった直哉のガキまでもが、その時ばかりは俺の背中にべったりとくっついてやがった」
当時を思い出し、ナマエの胸に切ない熱が込み上げる。
ナマエ「だって、私はとと兄のことが本当に大好きだったんだもん! 九歳の時、いつものようにお正月にお屋敷に行っても、とと兄はもうどこにもいなかった。直哉くんに聞いても、あいつ、ただ悔しそうに首を振るばかりで何も教えてくれなくて。…最後の年、十歳の時もいなかった。
ナマエは膝をぎゅっと抱え込み、目元に浮かんできた涙を隠すように、甚爾を強く睨みつけた。
ナマエ「勝手に一人でお屋敷から出て行っちゃって。死んじゃったんじゃないかって、私の家族だってみんな心配してたのよ。何で何も言わずに消えたの?」
甚爾「あんな吐き気のするゴミ溜め、一日だって長く居られるかよ。俺は俺のやり方で、外の世界の泥水を這いずり回ってただけだ。それよりお前さ、そんな風に俺のことを今でも大好きだって、昔何度も言ってただろ?」
甚爾の低く掠れた声が、不意にすぐ耳元で響いた。いつの間にか彼は壁から離れて歩み寄り、床に座るナマエの目の前にどっしりと膝をついていた。
その大きな無骨な手が、ナマエの柔らかい頬にそっと触れる。その掌は驚くほど熱く、けれど強大な肉体に反して、どこか繊細に震えているようにも感じられた。
ナマエ「大好きだったわよ! 今だって、こうしてまた生きて再会できて、本当は泣きそうなくらい嬉しい。でも、今のとと兄はあまりにも強引すぎるわ。高専から私を誘拐してこんなところまで連れ去るなんて、昔の優しかったとと兄じゃないみたい」
甚爾「優しさなんてな、あのクソみたいな屋敷を出た時に全部捨ててきたんだよ。今の俺にあるのは、底の知れねえ飢えと、お前を他の男に絶対に渡したくねえっていう、最高に最低な執着だけだ」
甚爾の太い指先が、ナマエの頬をどこまでも愛おしそうに優しく撫でる。
甚爾「五条だの夏油だの、あんな何不自由なく甘やかされて育ったお坊ちゃん共に、お前をくれてやるわけねぇだろ。昔、お前が俺にこれでもかってくらい注いできたあの愛の言葉、今更無しにはさせねえ。きっちり責任取ってもらうぜ」
ナマエ「責任って言われても。もう、本当にとと兄は、中身が全然変わってないわ。昔からわがままで、自分勝手で、人の話を聞かないんだから。でも、あぁ、もう。……私、ずっと、ずっとあなたに会いたかった」
ナマエは我慢できずに、甚爾の広くて頑丈な胸板に思い切り顔を埋めた。幼い頃の記憶にある、少し冷ややかだった彼の体温は、今では何倍も男らしく熱を帯びた、重厚な鼓動へと変わって彼女の肌に響いてくる。
甚爾は安堵したように息を吐くと、壊れ物を扱うような力強さで、ナマエの身体をその逞しい両腕で強く抱きしめ返した。
甚爾「二度と、俺の前から勝手に消えるな。これからはずっと俺の側で美味い飯作って、俺だけを見てろ。いいな、ナマエ」
ナマエ「もう、ほんとに強引なんだから。でも、…大好きよ、とと兄」
夜の深い静寂の中、かつての迷子の子猫と飢えた野良犬は、長い年月を経て再びその魂を重ね合わせた。高専の喧騒も、御三家のくだらない呪縛も、この崖の上の隠れ家には一切届かない。
ただ、お互いの肌から伝わる確かな体温だけが、冷え切った過去の孤独を静かに溶かしていく。甚爾の不器用で、暴力的なまでに一途な愛し方に、ナマエは抗う術を完全に失い、ただ深く、深く、その温かい腕の檻の中に沈んでいくのだった。
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