第1章 縁
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
===甚爾Side===
あいつから『これから向かいます』という短い連絡がスマートフォンに届いた後、俺は自分でも驚くほど柄にもなくソワソワとしていた。
ジッと部屋で待つという行為そのものにどうしようもなく痺れを切らし、気が付いた時には、あいつが立ち寄るだろうと指定した駅近くのスーパーへと足が勝手に向かっていた。
適当な駅前の寂れたスーパーの出入り口。人混みの中で、買い物カゴを二つもパンパンにした挙句、細い指先をビニール袋の重みに痛そうに食い込ませているあいつの後ろ姿がすぐに目に飛び込んできた。
普段の俺なら、そんな間抜けな姿を見ても勝手に苦労してろと鼻で笑ってそのまま通り過ぎるはずだった。なのに、気付けば俺の身体は勝手に動いていて、あいつの両手からその重荷をひょいと何の躊躇もなく取り上げていた。
驚いて顔を跳ね上げた、だらしない顔のあいつに俺はぶっきらぼうに声をかける。
甚爾「おい、それ全部貸せ。見てるこっちの指が千切れそうだぞ」
驚いて勢いよく見上げてくるあいつの顔が、陽光に透けて妙に綺麗に見えた。何だか急に照れ臭くなって、散歩だなんて適当極まりない嘘を吐きながら、俺はあいつの小さな歩幅に合わせて隣をゆっくりと歩く。
袋の中からは青ネギの頭が勢いよく飛び出し、肉のトレイが歩くたびにカサカサと安っぽい音を立てる。
現代呪術界の頂点に立つ最強の術師をいつでも確実に殺すために極限まで研ぎ澄ませてきたこの両腕が、今、ただの一週間分の食材を提げて静かな住宅街を歩いている。そのあまりのギャップに、自分でも可笑しくて仕方がなかった。
二度目となる、俺の薄暗い私邸アパート。
実はあいつが部屋に来る前に、流石に足の踏み場くらいは作っておこうと、これまた柄にもなく事前に部屋の片付けを少しだけ済ませていた。
玄関を開けて一歩中に入った瞬間、あいつが部屋を見回して、あ、少し片付いてるなんて言ってクスッと小さく吹き出した。その声を聞いた瞬間、俺の心臓の奥がくすぐったいような、何とも言えない妙な熱を持った。
嬉そうに微笑むあいつが俺の顔を覗き込む。
ナマエ「甚爾さん、わざわざスーパーまで迎えに来てくれて本当にありがとうございました! 荷物がめちゃくちゃ多かったから、助かりました!」
俺はあいつから視線を逸らし、ぶっきらぼうな声をわざと出す。
甚爾「おうよ。わかったならさっさと始めろ。俺は腹が減ってんだよ」
照れ隠しに声を荒らげ、俺はリビングのソファにどっしりと腰下ろした。
いつものように競馬新聞を広げてカモフラージュするが、目の前の文字なんて一行も頭に入ってこない。視線の先では、あいつが自前のエプロンをきゅっと締め、狭いキッチンで忙しなく、けれど楽しそうに動き始めている。
包丁が木製のまな板をトントンと叩く小気味よいリズムが部屋に響く。プロ野球選手を相手にする管理栄養士だなんて聞いていたが、その一切の無駄がない鮮やかな動きは、見ていてどうしようもなく飽きなかった。
……ふと、突拍子もない考えが脳裏をよぎる。
もし、コイツがこのまま俺の部屋に居座る生活がずっと続くなら、どうなるだろう。
毎日、この狭い部屋のキッチンにコイツが立っていて、美味そうな飯の匂いがして、家に帰れば当たり前のようにくだらない会話を交わす。
いや、待て。今のこのボロアパートじゃ流石に二人で暮らすには狭すぎるな。もし本当にコイツと一緒に住むってんなら、もっとマシな日当たりの良い所に引っ越すか。
そこまで思考が勝手に飛躍した自分に気付き、俺は思わず呆れて大きな溜息が出た。
俺としたことが、何を柄にもない家庭ごっこみたいな安っぽい白昼夢を抱いてんだ。
だが、キッチンから漂ってくる肉をジューと炒める香ばしい匂いが、俺の理性をじわじわと、かつ確実に侵食していく。
醤油と生姜が混ざり合った、どこか懐かしい中華の香り。…恵が生まれたばかりの頃、ほんの一時だけ味わった、あの家庭という名の温かい安らぎの記憶が、その匂いによって俺の脳髄から無理やり引き摺り出されてくる。
俺はたまらずソファから立ち上がり、吸い寄せられるようにあいつの背後へと静かに歩み寄った。
あいつの右肩越しに顔を寄せ、その白くて細い首筋にじわじわと鼻を近づける。
ふわりと、キッチンを包む料理の匂いとは全く別の、あいつ自身の柔らかくて甘い香りが俺の鼻腔を奥深くからくすぐった。
鍋を見つめるあいつは、俺の接近に驚きながらも首を少し傾けて、屈託のない笑顔を俺に向ける。
ナマエ「ふふ、美味しいの作ってますからね。今はあなたが好きそうな中華の味付けで作ってますよ。和洋中、全部用意しますから、食べてみて好きなのがあったら教えてくださいね」
毒気の一切ない、真っ直ぐで綺麗な瞳。
俺のような、呪いと血の匂いが骨の髄まで染み付いた薄汚い獣に、こんな無防備な顔で笑いかける女が、今のこの世界に他にいるだろうか。
俺は言葉にならない低い声を漏らす。
甚爾「ん」
もう我慢が限界だった。俺はあいつのふわふわとした髪に深く自分の鼻を埋め、その心地よい香りを思い切り吸い込んだ。
本能の猛獣が、コイツを今すぐこの腕の中に閉じ込めろと激しく喚き散らしている。抱きしめたい。そのまま、五条や夏油の目の届かない、誰にも見つからない遠い場所へ今すぐ連れ去って、完全に俺だけのものにしてしまいたい。
換気扇のブーンという無機質な回転音。その騒音に紛れ込ませるように、俺は口の中で小さく本音を零した。
甚爾「…俺だけの専属にならねえかな」
その呟きは狙い通り換気扇の音にかき消され、あいつの耳には届かなかった。
少しだけ満たされた俺は、またのっそりと定位置のソファへと戻り、競馬新聞を強く握りしめる。
あの五条や夏油が裏で何を言おうが、高専の上層部がどう決めようが、そんなことは俺の知ったことか。この温もりも、この愛おしい匂いも、この最高の自分専用のバッテリーを、他の誰かに明け渡すつもりなんて毛頭ない。
皿を持ったあいつが、楽しそうな笑顔で振り返る。
ナマエ「甚爾さん、味見してみます?」
俺はソファに寝そべったまま、わざと意地悪く口角を上げた。
甚爾「あぁ。そこまで言うなら、お前が俺の口まで持ってきて、あーんしろよ、あーん」
俺のからかいに、あいつは笑う。
ナマエ「もう、子供じゃないんだから! 」
甚爾「ほら、早くしろよ、腹へってんだから」
そんなくだらない軽口や冗談のやりとりする自分自身に、少しだけ気味悪さを感じながらも、俺は静かに目を閉じ、あいつが目の前に差し出してきた味見用の小皿の肉を口にした。
口いっぱいに広がる確かな幸福感と美味さに、俺は自分がもう、ナマエなしでは生きていけない底なしの領域まで踏み込んでいることを静かに悟るのだった。
next