第1章 縁
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高専の頑丈な正門を潜り抜ける瞬間、背中にチリチリと刺さるような異様な視線を感じた気がした。あの最強二人組がどこかから見ているのかもしれない。そう思ったけれど、私はあえて足を止めず、振り返りもしなかった。
ポケットからスマートフォンを取り出し、甚爾さんに『これから向かいます』とだけ短いメッセージを送る。そのまま指定された駅の近くにあるスーパーへと足を運んだ。
広い店内でカゴの中に次々と放り込むのは、高タンパクな赤身の肉に、彩り豊かな野菜、そして日持ちのする便利な根菜類だ。一週間分の作り置きを網羅するとなると、カゴはあっという間に恐ろしい重さを増していく。
最終的にはパンパンに膨らんだビニール袋が三つ分という、凄まじい分量になってしまった。
両手いっぱいに袋を抱えた私は、思わず小さく声を漏らす。
ナマエ「ふぅ、さすがにちょっと欲張りすぎちゃったかしら。重たいな」
ビニール袋の持ち手が容赦なく指の皮に食い込む。その痛みに思わず顔を顰めた、まさにその時だった。
背後から全く音もなく現れた大きな影が、私の視界を不意に遮った。
甚爾「おい、それ全部貸せ。見てるこっちの指が千切れそうだぞ」
低い声と共に、私の両手からずっしりと重かった袋がひょいと手品のように奪い取られた。驚いて隣を見上げると、そこには任務用のあの黒いTシャツではなく、少し端が着古された灰色のパーカーを気怠げに羽織った、完全な私服姿の甚爾さんが立っていた。
予想外の登場に、私は目を丸くして彼を見つめる。
ナマエ「甚爾さん!? なんでここにいるの。家で大人しく待っててくれれば良かったのに」
伏黒甚爾は重い袋をまるで羽毛でも持つかのように軽々と下げ、前を見据えたままガシガシと歩き出す。
甚爾「あ? 勘違いするな、ただの散歩だよ。お前がそんなところでノロノロ歩いた挙句、荷物の重さでひっくり返って事故にでも遭ったら、俺の美味い飯がなくなるだろ。それが困るから回収しに来ただけだ」
高専の最強たちから隠れるようにして過ごす、夕暮れ時の束の間の平穏。スーパーの袋を誇らしげに提げて歩く彼の広い背中は、噂に聞く恐ろしい暗殺者というよりは、どこか不器用な生活感を漂わせていた。
それを見つめていると、私の胸の奥が不意にトクトクと温かい熱を帯びていく。
二度目となる彼の私邸アパートに到着し、古い玄関をくぐった瞬間、私は室内の様子を見て思わず小さく吹き出した。
驚きと可笑しさが混ざった声を出す。
ナマエ「あ、少し片付いてる! 甚爾さん、もしかして私が来るからって事前に掃除してくれたんですか?」
甚爾はバツが悪そうに、荷物をキッチンの床へドサリと置きながら露骨に顔を背けた。
甚爾「うるせえ。床に足の踏み場がねえと、お前みたいなドジはすぐに転んで怪我するだろ。そしたらまたあの高専のガキ共が俺のところにうるさく怒鳴り込んできて面倒なんだよ」
照れ隠しのようにわざと刺々しい言葉を選ぶ彼を見て、私は確信した。この人は言葉こそ悪ぶっているけれど、その端々に隠しきれない気遣いが滲む、驚くほど人間くさい人なのだ。
私は嬉しくなって、彼の背中に向かって声を弾ませる。
ナマエ「ふふ、何と言われようと、わざわざスーパーまで来てくれてありがとうございました! 荷物が本当に多かったから、助かりました!」
伏黒甚爾はパーカーのポケットに両手を突っ込んで、ふんと鼻を鳴らす。
甚爾「おうよ。わかったならさっさと始めろ」
私はキッチンに立ち、持ってきていたエプロンを手際よく腰の後ろできゅっと締めた。
これから作る料理の計画を説明しながら、私は腕をまくる。
ナマエ「さっそく、一週間分の冷凍弁当を作りますね。あなたは特に身体が資本の激しいお仕事なんですから、一日に一食はこれを解凍して食べてみてください。あとの二食は外食でも何でも自由でいいですが、連続カップ麺だけは本当におすすめできません! ご飯も一食分ずつ小分けにして冷凍しておきますけど、炊き立てが良ければご自分で炊いてくださいね?」
甚爾はリビングのソファに深く腰掛け、競馬新聞を広げながら退屈そうに口の端を曲げた。
甚爾「へいへい、管理栄養士様。相変わらず注文が多いな」
ナマエ「健康管理も補助監督の仕事のうちですから。では、キッチン借りますよ!」
まな板の上で包丁がトントンと規則正しいリズムを刻み始める。甚爾はリビングのソファで競馬新聞を広げていたが、その視線は紙面ではなく、忙しなく動くナマエの後ろ姿をじっと盗み見ていた。
プロ野球選手たちの心身を完璧に支えてきたナマエの手際は、彼にとって非常に新鮮なものだったに違いない。
それ以上に、長年たった一人で、澱んだ空気の中で腐りかけていた彼の部屋が、今、炒めた肉の香ばしい匂いや、出汁の優しい香りでみるみる満たされていく。伏黒甚爾はふらりと立ち上がると、その幸福の香気に吸い寄せられるようにして、足音もなくキッチンへ近づいてきた。
気がつくと、私の右肩越しに彼の高い鼻があった。熱い吐息が耳にかかるほどの至近距離まで顔を寄せて、鍋の中をじっくり覗き込んでくる。
あまりの近さに心臓が跳ねたが、私は小さく首を傾けて彼に笑いかけた。
ナマエ「ふふ、驚かせないでください。今、美味しいのを作ってますからね」
甚爾さんは私の首筋に顔を寄せたまま、低く呟く。
甚爾「何作ってんだよ」
ナマエ「今は、あなたが好きそうな濃いめの中華の味付けで作ってますよ。和風も洋風も全部用意しますから、食べてみて好きなのがあったら教えてくださいね」
甚爾「ん」
伏黒甚爾は、久々に誰かに甘えるという行為を思い出したかのように、目を細めて私の髪の香りを深く吸い込んだ。その動作は、まるで大きな、孤独な犬が信頼できる飼い主に鼻を寄せるようで、私の胸の奥をぎゅっと締め付ける。
満足したのか、彼はまたのっそりと大きな身体を揺らしながら、定位置のソファへと戻っていった。
キッチンで再び火力を調整しながら、私は思わずクスッと笑う。
ナマエ(……なんだか、普段はあんなに強くて怖いのに、本当に大きなわんちゃんみたい)
御三家の醜い権力争いも、最強たちの異常な執着も、この静かな部屋には届かない。包丁の音と、コトコトと煮物の立てる音。そして、背後で見守る彼の静かな呼吸。
それは、彼がかつて手放し、二度と手に入らないと諦めていた、平凡で、けれど何物にも代えがたい幸福の時間そのものだった。
私はお鍋から少しだけ具材をお皿に取り分け、笑顔で振り返った。
ナマエ「甚爾さん、上手にできたから味見してみます?」
ソファに寝そべっていた伏黒甚爾が、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見る。
甚爾「あぁ。そこまで言うなら、お前が俺の口まで持ってきて、あーんしろよ、あーん」
ナマエ「もう、子供じゃないんだから!」
甚爾「関係ねえだろ。ほら、早くしろよ」
そんなくだらない軽口や冗談をお互いに言い合いながら、私たちは重なり合う穏やかで静かな時間を、心ゆくまで味わっていた。
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