第1章 縁
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任務報告書を静まり返った事務室で書き終える頃になってもまだ、トクトクと脈打つ指先には微かな痺れのような熱が残っていた。
高専時代、今までに何度も術式は使った事もあるし、その都度バイタルリンクは確かにきれいに切れていたはずだった。
なぜあの男と組んだ時に限って、こんな風に術式が勝手に繋がったままのようになってしまうのか、今の私には理由が全くわからなかった。
…けれど、ナマエは術式を使う事自体が随分と久しぶりだから、きっと出力のコントロールが上手くできていないだけなのだろうと、自分にそう言い聞かせて無理やり納得することにした。
事務室の古い木製の棚から、分厚い伏黒甚爾の個人ファイルを引き抜いて開く。
あの男は最初から自分でペンを握って書類仕事をする気など毛頭ないらしく、私が担当になる以前の記録を見ても、誰か別の補助監督にすべてを丸投げしていた形跡が過去のファイルに生々しく残っていた。文字の筆跡がどれもバラバラで、あの男がいかに不誠実で周囲を振り回してきたかが一目でわかる。
それでも、術式を通じて私自身が脳内で直接見た戦場の景色は、あまりにも鮮烈だった。甚爾さんの無駄の一切ない、それでいて圧倒的な暴力性を孕んだ凄まじい踏み込み。醜悪な呪霊がただの塵に変わる瞬間の、あの魂が内側から激しく震えるような全能の感覚。
それらの情報を頭の中で反芻しながら、報告書にはほどほどに詳しく、かつ事務的に綺麗な言葉でまとめて提出を速やかに済ませた。
五条悟や夏油傑があの後でまた粗探しをしてきそうな気がしたから、余計な主観は徹底的に省いて書き上げた。
ーーようやく訪れた、誰にも邪魔されない一人の時間。
時計の針はすでに夜の遅い時間を指している。私は誰もいない食堂の静かな調理場を少しだけ借り、手早く青椒肉絲を作って遅めの夕食にありついた。
タケノコのシャキシャキとした小気味良い食感と、ジューシーな肉の旨味が疲れた胃袋にしみじみと染み渡っていく。
コンビニであらかじめ買っておいた缶チューハイを小気味良い音を立てて開け、生ハムの間にチーズが挟まったお気に入りをツマミに、静かな晩酌を始めると一日中張り詰めていた肩の力がようやく心地よく抜けていった。
そこへ、調理場の明るい電灯に誘われるようにして、一人の少女がひょっこりと姿を現した。
ナマエ「あら、野薔薇ちゃん。だったよね? もしかしてお腹空いちゃったの?」
調理場に入ってきた釘崎野薔薇が、何か面白いものを見つけたと言わんばかりのニヤニヤとした笑みをその顔に浮かべて、私のすぐ隣の椅子にどっしりと座った。
釘崎野薔薇が私の手元にある缶をじっと見つめる。
釘崎「ううん、お腹は空いてないんだけどさ。寮の部屋に戻ろうとしたら電気がついてたから気になって覗いてみたのよ。へぇ、ナマエさん、こんな夜遅くにお酒飲むんだ! しかもチューハイ二本も用意しちゃって、結構いける口?」
ちょっと恥ずかしくなった私が、缶のラベルを隠すようにしながら苦笑いする。
ナマエ「うん、まぁね。さすがに今日はもうこの時間だし、新しい任務も入らないだろうなって思ってね。これくらいのささやかな晩酌なら、大人だし許されるでしょ?」
私の言葉を聞いた釘崎野薔薇が、急にその綺麗な顔をぐっと近づけてきて、声を弾ませた。
釘崎「それよりさ、ねぇ、ナマエさん! 噂で聞いたんだけど、あの伏黒甚爾って男との専属契約の話ってほんとなの!?」
あまりにも直球すぎる少女からの問いかけに、私は口に含んだばかりのチューハイを危うく盛大に吹き出しそうになった。ゲホゲホと小さく咳き込みながら慌てて首を振る。
必死に否定しようと言葉を紡ぐ。
ナマエ「ええっ!? うーん、どうなんだろう。別に彼だけの任務に同行するわけじゃないと思うよ? 私は上層部から直接そんな専属だなんて大層なことは言われてないし、ただの業務命令だからね」
そう口では言いながらも、今日の任務中に魂のパスを通じて私の脳髄に直接響き渡った『俺以外の男にこの魂の音を聞かせるな』という甚爾の低く掠れた声を思い出し、一瞬だけ頬の筋肉が引きつってしまった。
そのほんの微かな表情の変化を、呪術高専の過酷な環境で生きるこの鋭い少女が見逃すはずもなかった。
釘崎野薔薇が私の顔をじろじろと覗き込み、意地の悪い笑みを深める。
釘崎「怪しいわね。その反応、もしかして今日の任務の最中にでも、あの人から何か特別なこと言われちゃいましたぁ?」
完全に動揺が隠せていない私は、顔がみるみる熱くなるのを感じながら慌てて缶チューハイを喉に流し込み、泳ぐ視線をどうにか誤魔化そうと調理場の壁に目を向けた。
ナマエ「いや! なにも、本当に何にもないよ! ただの仕事の話をしただけだから!」
私の慌てようを見て、釘崎野薔薇はふん、と鼻を鳴らして面白そうに顎を引いた。
釘崎「へぇー、そお? 意外とあのパパ、顔だけは無駄に良いし、女の扱いにも慣れてそうだからさ。裏では結構ロマンチックなセリフとか吐きそうですもんね」
パパ、という聞き慣れない単語に、私は思わず首を傾げて彼女の顔を見返した。
ナマエ「パパ? 野薔薇ちゃん、いまパパって言った?」
私の純粋な疑問に対して、釘崎野薔薇は逆に不思議そうな顔をして目を丸くした。
釘崎「あれ、もしかしてナマエさん、あの男がここにいる一年の伏黒恵の実の父親だってこと、今まで全く知りませんでした?」
あまりにも衝撃的すぎる突然の事実に、私は指先が完全にフリーズし、持っていたおつまみを床に落としそうになって本気で慌てた。
大声を上げて驚きを隠せない。
ナマエ「えぇー!! 嘘でしょ、そうなの!? あの甚爾さんが恵くんのお父さんだったの!? 言われてみれば、確かにツンとした雰囲気とか顔の造形がちょっと似てたかも! 恵くんも同じ伏黒っていう苗字だったもんね、完全に盲点だったわ」
驚愕する私を前にして、釘崎野薔薇はさらに楽しそうな肉食獣のような瞳をらんらんと輝かせ、逃げ場を塞ぐようにして机に両肘をついた。
釘崎「そんなことよりさ、本題はそこじゃないのよ。実際のところどうなんです? 甚爾さんのアパートで寝落ちしたって、それってつまり…大人の関係というかぁ…そういう風に抱かれたってことですか?」
ニッコリと微笑みながらも、絶対に誤魔化しを許さないという強い意思を孕んだ瞳で釘崎野薔薇が問いただしてくる。
私は顔から火が出そうなほど真っ赤になりながら、両手をぶんぶんと振って全力で否定した。
ナマエ「いや、違うのよ野薔薇ちゃん! 違、あ、いや、結果的に違くないかもしれないけど、そういうエッチな意味のそっちじゃなくて! ほんっとに変なことは何にもなくて!」
私の動揺を目の当たりにした釘崎野薔薇が、嬉そうに身を乗り出してくる。
釘崎「へぇ、違くないかもしれないんだ? 面白そうじゃん。その辺の詳しい大人の事情、お姉さん詳しく教えてよ、…詳しくッ♡」
好奇心に満ち溢れた女子高生の凄まじい眼力にこれ以上抗うことができず、私は完全に観念して、チューハイの冷たい泡を思い切り飲み込んでから、小さな声で話し始めた。
諦めて白状するようにトーンを落す。
ナマエ「実はね、一回目の任務の帰りにさ、彼から身体の芯がガチガチに凝り固まってるからマッサージして欲しいって言われて、半分強制的に部屋に連れて行かれたのよ。…硝子から私が昔、野球界でスポーツマッサージをしてたっていう前職の話を聞いたみたいで。まぁ、それで仕方なく背中に乗ってマッサージをしてたらさ、私との術式のバイタルリンクが完全には解けきってなかったみたいで。指先から彼の体温とか感覚を私も共有しちゃって、なんだか身体がポカポカして気持ちよくなっちゃって」
釘崎野薔薇がゴクリと息を呑み、次の言葉を急かすように身を乗り出す。
釘崎「ほうほう、それで? その先はどうなったのよ」
恥ずかしさのあまり両手で顔を覆いながら、私は一気に喋り倒した。
ナマエ「気がついたら、甚爾さんの両腕に抱きしめられる形でお布団の上で眠っちゃってて。パッと目が覚めたらさ、私の目の前がむにゅってしてて、あの男の無駄に分厚い胸板に私の顔が完全に埋まっちゃってて! 飛び起きたら、任務完了の連絡をしてからもう三時間も過ぎてることに気づいて本当に心臓が止まるかと思ったんだから!」
私の必死の告白を聞いた釘崎野薔薇は、ついに堪えきれなくなったように手でしっかりと口元を押さえ、クスクスと肩を大きく震わせて爆笑し始めた。
全力で抗議するように彼女の肩を揺さぶる。
ナマエ「もー! 笑わないでよ野薔薇ちゃん! ほんっとに、目覚めた瞬間に最強の男二人の顔が脳裏をよぎって、びっくりしすぎて本気で死ぬかと思ったんだからね!」
私は可笑しそうに大ウケしている野薔薇の細い肩を、赤面しながらゆさゆさと激しく揺さぶって恥ずかしさを紛らわせた。
ようやく息を整えた彼女を見つめながら、私は何気なく明日の予定を口にする。
ナマエ「大体さ、あの人の部屋、カップラーメンの空き容器とかばっかりで食べ物も栄養バランスもデタラメだったからさ。明日の休みに、また甚爾さんのところに行って、何日分か健康的なお弁当を作り置きしてくる予定なんだよね」
私が何の一物もない屈託のない笑顔でさらりと告げたその爆弾発言を聞いた瞬間、それまで大笑いしていた釘崎野薔薇の動きが、まるで時が止まったかのようにピタリと完全に停止した。
釘崎野薔薇が信じられないものを見るような目で私を見つめる。
釘崎「は? え、いま何て言った? 明日、あの男の部屋に個人的に料理を作りに行くってこと!?」
私は彼女の驚きに対して、不思議そうに小首を傾げた。
ナマエ「え?あぁ、うん。管理栄養士の資格をせっかく持ってるんだから、それを活かしてプロとしてのアドバイスってことだよ? 呪術師も身体が資本だものね、放っておけないじゃない」
私がどこまでも純粋な善意の笑顔で告げると、釘崎野薔薇は顔を微かに引きつらせた奇妙な笑みを浮かべ、椅子の背もたれからガタッと立ち上がった。
釘崎野薔薇が後退りしながら苦笑いを浮かべる。
釘崎「あー、なるほどね、プロとしての管理ね。うん、まぁそういうことにしておくわ。いやー、今日も実に良い最高の話が聞けたわ。その明日の料理の話の続き、また今度じっくり聞かせてくださいねー! じゃ、おやすみ!」
それだけを嵐のように捲し立てると、釘崎野薔薇は脱兎のごとき勢いで食堂を去っていった。誰かにこの特大のネタを話しに行こうとしているのが見え見えだった。
静まり返った食堂に一人残された私は、ふぅとため息をつきながら、二本目の缶チューハイをトクトクと音を立てて開けた。
明日、あの男のために一体何を作ってあげようか。彼のあの不健康極まりない空っぽの冷蔵庫の光景を思い出しながら、私は頭の中で明日の具体的な献立をあれこれと楽しく考え始めるのだった。
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