第1章 縁
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高専の果てしなく続く長い廊下は、まるで時が止まったかのような重苦しい沈黙に支配されていた。
あのボロアパートから大急ぎで戻り、焦りからひどく乱れた呼吸をなんとか整えようと足早に進む私の視界に、行く手を完全に塞ぐようにして二つの巨大な影が立ちはだかる。
木造の壁に大きな背中を預け、薄暗がりの中でトレードマークのサングラスを外し、青白い瞳を不気味に発光させている五条悟と、そのすぐ隣で一切の人間らしい感情を排した冷徹な面持ちで佇む夏油傑。
まだ何も言葉を発していないというのに、二人の周囲から際限なく漏れ出す狂暴な呪力が、廊下の壁や天井を物理的にミリミリと軋ませていた。
五条「あのさァ。…僕たちに納得のいく説明をしてよ。寝落ちってなに? 三時間の寝落ちって、あのゴミクズ男の部屋で、一体どうやったら発生できるワケ?」
五条悟の声は、いつもと違って低く、聴覚の奥の鼓膜を直接冷たい針で深く刺すような、鋭利で容赦のない響きを帯びていた。
完全に外された目隠しの奥から、剥き出しになった美しい六眼が、私の全身の隅々までを舐め回すように執拗に走る。乱れた髪の毛、制服に付いた不自然な皺、そして肌の奥に微かに残るあの男の体温。
そのすべてを視覚情報として克明に読み取り、自分たちの都合の良いように勝手に解釈し、最悪な絶望へと変換しているのが痛いほどに分かった。
夏油「甚爾に一体何をされたんだい? ナマエ。……怯えなくていいから、僕たちに正直に言ってごらん。その身の程知らずな男が君に、どのような不届きな真真似を働いたのかをね」
夏油傑が静かに一歩、私との距離を詰めるようにしてにじり寄ってくる。
彼の声はどこまでも優しく穏やかだったが、それがかえって底知れない恐ろしさを際立たせていた。
後ろにがっしりと組まれた彼の手が、激しい怒りと嫉妬で血の気が引き、白くなるほど強く握り締められているのを、私はただ恐怖で見つめることしかできなかった。
ナマエ「そんな怖い顔で詰め寄らないでよ。……任務が終わった後、甚爾さんに身体の芯が凝り固まってるからマッサージして欲しいって、半ば強制的に頼まれて。それで、断れなくて彼の家まで送って行ったの。……本当にそれだけよ、絶対に嘘じゃないわ」
私の喉からようやく絞り出したその必死の言い訳を聞いた瞬間、二人は息を合わせるようにして、同時に口の片端を醜く吊り上げた。
それは決して、私の言葉を「信じている」という安堵の顔ではなかった。
『そんな子供騙しの稚拙な嘘で、俺たちの目を眩ませて誤魔化せるつもりなのか』という、底冷えするような哀れみと、烈火のごとき苛立ちが混ざり合った、歪な嘲笑だった。
五条「マッサージぃ? 冗談はよしてよ。自分の汚い部屋に綺麗な女を連れ込んでさ、三時間も大人しくマッサージだけさせてそのまま帰すような殊勝な男じゃないだろ、あいつは。何がマッサージだよ、笑わせないでよ」
夏油「そうだよ先輩。……それに、君のその今の顔。ただ移動の疲れで眠っていただけの無防備な顔には、僕たちの目には到底見えないな」
二人のぎらついた獰猛な視線が、私の衣服から露出した喉元や鎖骨のあたりに、穴が開くほどの熱量で一斉に集中する。
実際には、彼らの想像するような不潔な行為など一切起きておらず、甚爾が眠る私の額に落とした一瞬の接吻以外は何もされていない。
けれど、私の身体の内側にはまだ、戦場で彼と魂の奥底まで融け合わせ、身体能力を二倍に引き上げた「バイタルリンク」の濃密な残滓が、熱い澱のようにどろりと溜まっていた。
ナマエ「…なんだかリンクが解けきらずに残っちゃってるみたいで。術式を解除した後も、彼と感覚が深いところで繋がったままだったの。それで、背中に乗ってマッサージをしてたら私まで身体がポカポカしてきて……なんだか気持ちよくなって、そのまま意識がなくなって眠っちゃってたみたいで」
私が「気持ちよく」という言葉を無意識に漏らした、まさにその瞬間のことだった。廊下全体の空気が、一瞬にして爆発的に凍りついた。
五条「気持ちよく、なったんだ? へえ、あいつの身体に触れて、あいつの部屋で、あいつの目の前で」
五条悟の六眼が、今まで十年の付き合いの中でも一度も見たことがないほど暗く、深い暗黒の色に沈み込んでいく。
隣に立つ夏油傑の周囲では、ドロドロとした黒い呪霊の残滓が大量に湧き出し、床の上を蛇のようにのたうち回りながら、頑丈な床板にピキピキと深い亀裂を無数に刻んでいった。
夏油「それじゃあ、車の中で寝落ちってのも…話が違うじゃないか。」
ナマエ「…うっ。それは…その…。」
五条「……もういい。たくさんだ。二度と、何があってもあいつとは任務を組ませない」
夏油「全く同感だね。悟、今すぐ総監部のジジイどものところへ掛け合いに行こう。彼女の今後の安全を完全に確保するためにも、あの危険な男を、彼女の半径一キロ以内に二度と近づけてはならない」
二人は私の必死の返事を聞くことさえせず、怒涛の勢いで踵を返し、廊下の奥へと歩き去っていった。
その広い背中からは、大切な愛する者を他の雄に奪われかけた、剥き出しの狂気と歪んだ独占欲が、見る者を戦慄させるほどの重圧となって溢れ出していた。
しかし、事態は最強と呼ばれた二人の男の思惑通りには、何一つとして運ばなかった。
それから数日後、補助監督の現場配備と術師の組み合わせを最終決定する呪術総監部から下された正式な通達は、あまりにも非情で冷酷なものだった。
五条悟と夏油傑の二人が、どれほど強硬に総監部へ抗議し、伏黒甚爾という男の人間性や危険性を声高に訴えても、腐りきった上層部の判断が揺らぐことは決してなかったのだ。
五条「……『天与呪縛である伏黒甚爾の身体能力を、呪力に頼らず、かつ呪術的なノーコストで完全に倍化できるのは彼女以外に存在しない』……だと? ふざけるなよ」
手元にある分厚い通達書を、怒りのままにメリメリと音を立てて握り潰しながら、五条悟が地を這うような禍々しい声で吐き捨てた。
その隣で、新しく書き換えられた任務報告書を冷ややかに眺めていた夏油傑もまた、その切れ長の瞳から一切の光を消し去っている。
夏油「『甚爾という制御不能な暴力を、最も単純に、かつ効率的に最大強化できる彼女こそが、今後の任務において最も適任である』、か。……なるほどね。上層部の薄汚い連中にとっては、彼女の心身の安寧や尊厳など、戦力強化という極上の果実の前では、道端の塵に等しいということか」
呪術総監部の老人たちにとって、伏黒甚爾は「御し難いが非常に便利な最強の武器」であり、私はその威力を維持するための「都合の良いメンテナンスキット」に過ぎなかったのだ。
甚爾の持つ圧倒的なフィジカルの暴力が、ナマエの『カタシロ』という術式によってのみ、完全なる神の領域へと昇華される。
その残酷なまでの「戦闘における最適解」を、彼らは戦力として手放すつもりは微塵もなかった。
最強の二人がどれほど必死に歪んだ独占欲を燃え上がらせようとも、それを嘲笑うかのように、抗えない運命は私をあの飢えた野獣の元へと強力に繋ぎ止めてしまった。
ナマエ「……はぁ。実質専属のお墨付きを貰っただけじゃない…。」
新しく手元に届いた、伏黒甚爾との同行を指示する新しい任務通知の画面を見つめる。
まるで、あの日のアパートで結ばれたバイタルリンクの太いパスが、未だに私の奥深くで繋がっているかのように、私の心臓をドクンと強く、激しく叩いた。
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