第1章 縁
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=== 甚爾Side ===
高専の医務室の扉を乱暴に開けようとした、まさにその瞬間のことだった。
中からタイミングよく飛び出してきた女の身体と正面から勢いよくぶつかり、その柔らかくて確かな質量が俺の胸に沈み込む。
ふいに重なった互いの鼓動に同期するようにして、俺の脳内の奥底に眠っていた古い記憶の断片が、ガラスのように派手に弾け飛んだ。
よろめいて後ろに倒れそうになった女の背中に、反射的に大きな手のひらを添えて引き留める。その薄い制服越しに指先から伝わってくるどこか懐かしい体温が、かつて腐りきっていた禪院の薄暗い屋敷の中で、俺が唯一マシなものだと思って眺めていた遠い過去の光景を鮮烈に呼び起こした。
一族が総出で集まる年始の挨拶。あの陰湿な血の繋がりのなかで、どこか子猫のような愛らしさと、毒気の一切ない穏やかさを湛えていた特別な一族。
呪力を持たないというだけで人間の扱いすらされず、呪術界の最底辺を泥水をすすりながら這いずっていた当時の俺にとって、術師を無条件で献身的に支えることに特化していたあの一族の存在は、眩しすぎるほど純粋な異物だった。
なかでも、俺の汚れた足元を小さな足取りでちょこちょことついて回っていた、あの懐かしいチビの面影が脳裏をよぎる。
十ほども歳が離れていたはずのあの幼いガキが、まさか二十年の時を経て、こんな色気のある一端の女に仕上がっているとは夢にも思わなかった。
甚爾「……気をつけろよ、お嬢ちゃん」
自分の心臓が一瞬大きく跳ね上がった事実を必死に隠すようにして、俺はぶっきらぼうに短い言葉を吐き捨てると、すぐに手を離して医務室の中へと足を踏み入れた。
今回の目的は、単なる仕事用の定期採血だ。家入硝子に促されるまま椅子に腰掛け、腕に冷たい針を刺されながら退屈な時間を潰していると、薄い壁を隔てたすぐ外の廊下から、驚くほど澄んだ声が聞こえてきた。
ナマエ「伏黒甚爾ってだれかしら。そんな人、私が高専にいた頃にいたっけ。聞いたことない名前ね」
それは、拍子抜けするほどに俺に関する記憶が抜け落ちている、無知で綺麗な響きだった。俺のことを綺麗さっぱり忘れているのか、あるいはあの頃のガキは、最初から俺という存在を認識さえしていなかったのか。まあ、そのどちらでもいい。
腕から血を抜く硝子の手元を眺めながら、俺は気怠げに声をかけた。
甚爾「おい硝子、さっき外でぶつかった奴、最近じゃ見ねぇ顔だな。ここで何してた奴だ」
家入硝子は注射器の手を止めず、白衣のポケットからタバコの箱を覗かせながら、からかうような視線をこちらに向けてニヤリと笑う。
硝子「あぁ、ナマエ? 私の一個上の先輩でね、いろいろあって今回高専に戻ってきて貰ったのよ。高専を卒業してからは、呪術界とは全く関係のないところで、プロ野球選手の管理栄養士と専属マッサージ師としてスポーツ界にいたのよね。それにしても、アンタが他人の女をそんな風に気にかけるなんて珍しいこともあるのね。もしかして一目惚れでもした?」
硝子が指先で上手に針を抜きながら、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて揶揄うように言う。
甚爾「はん、惚れただのなんだの、ガキじゃねぇんだから寝言は寝て言え。」
((あいつ、呪術界から完全に離れてたのか。どおりで裏の仕事のネットワークでも、名前すら一切見かけなかったわけだな))
俺は心の中で一人静かにそうごちた。
あの眩しかったガキが、泥にまみれた呪術の戦場ではなく、陽の当たる野球界で他人の身体を癒やしていたという事実に、妙な納得感を覚える。
採血を終えて医務室の扉を開けると、案の定、外の廊下では五条のガキが顔を真っ赤にして、不細工にキャンキャンと吠え散らかしているところだった。俺という存在が彼女の近くにいること自体が許せないらしい。
俺はそんな現代最強の青二才を鼻でフンと笑い飛ばし、突然の険悪な空気に怯えているナマエの細い肩を、これ見よがしに力強く引き寄せた。五条の放つ刺すような強烈な殺気が肌をビリビリと刺激するが、今の俺にとっては、それすらも退屈な任務前の愉快なスパイスに過ぎない。
五条「おいクズ、誰の許可得て触ってんだよ」
背後から呪いの塊みたいな怒号が飛んでくるが、そんなものを気にする義理はない。俺は彼女に抗う隙も言い訳する時間も一切与えず、大きな手で半分引きずるようにして高専の駐車場に停めてある車へと強制的に連行した。
現場の廃宗教施設に到着し、ナマエの手によって帳が下ろされる。彼女が、頭に奇妙な形の布を被り、意識を深く精神の奥底へと沈めた、まさにその瞬間だった。
身体の奥深く、心臓の鼓動の中心から、今まで経験したこともないような爆発的な全能感が身体中を凄まじい速度で突き抜けた。
甚爾「っ、おい、これか、これが術式の効果か」
呪力を完全に持たない天与呪縛の俺の肉体が、外側からの絶対的な干渉によって、強制的に最高効率へと書き換えられていく。筋繊維の一本一本がマグマのように熱く沸騰し、視界の隅々の情報までが恐ろしいほど鮮明に研ぎ澄まされていくのが分かる。
二倍。口にすればただの単純な数字の羅列に過ぎないが、元々の身体能力が人間の規格を遥かに超えている俺の定数に、その倍率を掛け合わせれば、それはもはや人間の域を超えた、神の領域に近い。
目の前に現れた特級クラスの呪霊の群れを、ただの紙細工でも引き裂くように、一瞬で文字通り蹂躙した。戦いと呼ぶことすら生温い一方的な虐殺だった。
だが、真に驚くべき変化はその戦闘の先にあった。
バイタルリンク。かつて昔、彼女がまだガキだった頃に繋がった細いパスは、ただの無邪気な子供からの気持ちの交流に過ぎなかった。
しかし、完全に大人へと成熟した今、その接続を通じて、彼女の戦場に対するリアルな恐怖や、俺という男に対する強い困惑、そして術式が完璧に噛み合ったことによる微かな官能的な高揚が、ドロドロとした熱い塊となって俺の心臓へと直接流れ込んできたのだ。
脳内をマヒさせるような、濃密な同調トランス。一度でもこの極上の感覚を味わってしまえば、二度とこの手を離したくないと、野生の本能が全身の細胞を通じて激しく絶叫していた。
甚爾「これじゃまるで、俺のために作られた術式じゃねえか。最高の気分だぜ…」
このまま、この深い精神の接続を解くことなく、彼女の奥深くまでどこまでも沈んでいきたいとさえ本気で思った。
任務を終え、さっき硝子から仕入れた貴重な情報は、ここで有効に活用させてもらうことにする。
プロ野球選手の管理栄養士と、疲労を回復させる特別なマッサージ。その経歴も、その器用な指先の技術も、これからはすべて俺という飢えた獣を維持するためだけに捧げてもらう。
車を走らせ、俺が普段使っている薄暗くて狭いボロアパートの一室に彼女を引きずり込む。部屋に入るなり、俺はナマエに本格的にその身体のケアを要求した。
甚爾「いいから黙って俺のマッサージをしろ。さっきの強烈なバフのせいで、身体の芯がガチガチに凝ってんだよ。責任取れ」
観念したのか、彼女はため息をつきながら俺の背中に跨ってきた。その瞬間、彼女の細い指先が、凝り固まった俺の頑丈な肩の筋肉にぐっと深く食い込む。
甚爾「あぁ、そこだ。お前、見た目に反して随分といい力加減してんじゃねぇか」
ナマエ「当然でしょ。これでも何人もの一流アスリートの身体をケアしてきたんだから。でも貴方の身体、筋肉の密度が異常すぎて、指が折れそうだわ」
確かなプロの技術。だがそれ以上に、指先からダイレクトに伝わってくる彼女自身の高くて心地よい体温が、まだ微かに脳の底でリンクしたままの俺の意識を激しく掻き乱していく。衣服越しに擦れ合う身体の感触が、戦いとは別の意味で俺の熱を昂らせた。
彼女は自分の行動に対する解説を時折交えながら、小さな手のひらで丁寧に、優しく俺の強張った肉体を解していく。その包み込むような温もりに身を委ねているうちに、戦場で獰猛に猛り狂っていた俺のどす黒い血が、ゆっくりと穏やかに凪いでいくのを感じていた。
…心地よい静寂が部屋を満たす。
バイタルリンクで俺の心地よさを受け取っていたナマエは、いつのまにか自分自身が眠りへと誘われていたようだ。
甚爾「……おい、手が止まってるぞ。寝てんじゃねえよ」
気づけば俺は、自分の腕の中にすっぽりと収まったままの彼女の身体を、二度と外へ逃がさないようにと強い力で抱きしめていた。
いくら声をかけても、愛らしい返事はもう戻ってこない。
すーすーと胸のあたりから規則正しい小さな寝息が、俺の厚い胸板に直接、心地よい振動となって伝わってくるだけだ。
俺の逞しい腕の中で、何一つとして警戒することなく、無防備にすやすやと眠りこけている最高の獲物。
五条のガキも、あのすました夏油も、もし今のこの甘い光景を目の当たりにすれば、間違いなく嫉妬と怒りで発狂して、世界を滅ぼそうとするだろうな。そんな想像をするだけで、口元が自然と歪んだ。
…俺は微睡む彼女の白い額に向けて、音もなく静かに、深い独占欲を込めた唇を落とした。
あの頃、年の始めに退屈な挨拶に来ていたあの子猫が、巡り巡って、俺の乾ききった喉元を潤す最高のバッテリーになって目の前に戻ってきた。
運命なんていう反吐が出るような綺麗事の言葉は俺の柄じゃねぇが、この奇跡的な再会だけは、あの禪院のゴミ溜めで腐っていた頃の若き日の俺に、今すぐ教えてやりたい気分だった。
甚爾「さて、どうやってこの手の中に囲ってやろうか。二度とあのガキどもの元には返さねぇよ」
遠く高専の方から聞こえてくるはずのくだらない喧騒を脳内で完全に遮断し、俺はただ、腕の中にあるこの世界で最高の「私物」を愛おしむように抱きしめながら、彼女の温もりに引きずられるようにして深い眠りへと誘われていった。
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