第1章 縁
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=== 五条Side ===
五条悟は、自分の視界が急速に狭窄していくのを感じていた。世界のあらゆる情報を無尽蔵に処理するはずの「六眼」が、捉えるすべてのリソースを、目の前の最悪な「イレギュラー」だけに割き始める。
急いで医務室の前へと向かい、最愛の先輩であるナマエの元へ駆け寄ると、彼女はスマートフォンを眺めながら不思議そうに首を傾げていた。
ナマエ「伏黒甚爾って誰かしら。そんな人、私が高専にいた頃にいたっけ。聞いたことない名前ね」
彼女がその薄汚い男の名前をごく自然に口にした、その瞬間のことだった。
五条「は? 誰って。よりによって何でその男の名前が先輩の口から出てくるわけ? 行かなくていいよ、そんなクソ任務。断りな。伊地知にでも行かせればいいじゃん。あいつ、そういう押し付けられた雑用とかパシリが得意でしょ」
五条悟の口から飛び出したのは、自分でも制御が利かないほどの激烈な拒絶だった。彼女の清らかな唇から、あの男の名前が吐き出されたということ自体に、ハラワタが煮え繰り返りそうだった。
ナマエがその愛らしい声で呼ぶのは、世界で俺の名だけでいい。他の男の名前なんて、一文字だって染み込ませたくなかった。
大人気ないやりとりを廊下で繰り広げていると、背後の医務室の重い扉が、音もなく静かに開いた。
そこに立っていたのは、自分たちが呪術界において最も忌み嫌い、軽蔑している「術師殺し」、伏黒甚爾だった。
甚爾「おい、ナマエ。任務だ。行くぞ」
その低く掠れたドスの効いた声が、俺たちの神聖な聖域に泥靴のまま踏み込むようにして、五条悟の鼓膜を酷く汚した。
それだけではない。あろうことか、甚爾はその大きくて無骨な手で、ナマエの華奢な肩を当然のようにグイと抱き寄せたのだ。
五条「……離せよ、その手。誰の許可得て触ってんだよ、アンタ」
絞り出すような低い声は、激しい怒りのあまり細かく震えていた。
だが甚爾は、五条悟をあざ笑い挑発するように鼻でフンと笑うと、そのままナマエの身体を抱えたまま、迷いなく出口へと背を向けた。
彼女が戸惑いながらも強引に連れ去られていくその後ろ姿を、五条悟はただ、奥歯を噛み切らんばかりの激しい悔しさで見送るしかなかった。
夏油「悟、落ち着きなさい。……これ以上呪力を漏らすと、本当に高専の床が抜けるよ」
後から歩いてきた夏油傑が背中から静かに告げるが、その親友の声もまた、いつもとは違って深い不快感と憎悪の底に沈んでいるのが分かった。
二人は連れ立って生徒が待つ教室へと向かったが、五条悟の脳内に居座る苛立ちは収まるどころか、一分一秒の時間を追うごとに醜く膨れ上がっていった。
イライラが止まらず教壇を激しく叩きながら、五条悟は捲し立てる。
五条「ねえ傑、さっきの見た!? あのクズ、ナマエの肩にめちゃくちゃ馴れ馴れしく触ってただろ! あいつが一体誰だか分かってんの? 禪院の落ちこぼれの、ただの金で動く薄汚い殺し屋だよ! そんな奴とナマエが二人きりで任務に行かせるなんて、上層部のジジイどもは全員狂ってんのかよ!」
夏油「ああ、分かっている。胸糞が悪いね。……だが、今は待つしかないよ。彼女からの無事な報告をね」
夏油傑が静かにスマートフォンを制服のポケットにしまう。だが、その白くて長い指先がピリピリと微かに震えているのを、五条悟の六眼は見逃さなかった。傑だって、今すぐあの男を呪霊の群れで生き埋めにしたいはずだ。
やがて、任務関係者のグループLINEに、待ち侘びていたナマエからのメッセージがぽつりと届いた。
ナマエ『伏黒さんとの初任務、予想外に早く終わりました。これから彼を家に送ってから戻ります』
その画面に表示された文字を凝視した瞬間、五条悟の思考が停止した。
五条「……は? 早く終わったなら、さっさと高専に戻ってくればいいじゃん! なんでわざわざあんな男の家まで送る必要があるわけ!? タクシーでもそこらの道端で拾わせればいいだろ、あんな男!」
五条悟が座っていた椅子を背後に蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がる。
だが、そこから時間は非情なほどに冷酷に経過していった。
一時間。二時間。そして、…ーー三時間。
彼女は一向に戻ってこない。そればかりか、追加の連絡も完全に途絶えてしまった。
五条悟の周囲から際限なく漏れ出す青白い呪力が、教室の大きな窓ガラスをビリビリと共鳴させ、生徒たちが怯えたように顔を見合わせる。
一年生達の会話の中で釘崎野薔薇が、こちらの空気を察して悪戯っぽく、だけど致命的な一言を放った。
釘崎「ねえ、もしかしてさ、エミさんとあの男、現場での相性が良すぎて、そのまま男のボロ家にお持ち帰りされちゃったとか? ほら、今頃ベッドの上でそのままお楽しみ中だったりしてね」
一年生の釘崎野薔薇が、面白半分に放ったその軽口。
しかしそれが、五条悟と夏油傑が必死に理性の蓋で力任せに押さえつけていた「最悪の仮説」を、これ以上ないほど残酷に肯定してしまった。
五条「……お持ち、帰り……?」
五条悟の呟きが、地獄の底から響くような、呪いに満ちた低い音になった。
脳裏に焼き付いて離れない、甚爾のあの不敵で余裕に満ちた笑み。
ナマエの持つ、対象のステータスを二倍にする『カタシロ』の術式。それが、あの呪力を全く持たない暴力の塊のような男に、かつてない快楽と全能感を与えてしまったのではないか。
術式で深く繋がってしまった後の、あの精神が溶け合うような独特のトランス状態。
非戦闘員で、おっとりした優しい彼女が、あんな獣のような男の腕の中で、抗う術もなく組み伏せられて――。
頭の中で最悪の妄想として浮かんでは消えていた仮説を、他人の言葉として生々しく聞いてしまうと、もうどうにも心の内の黒いドロドロしたモノは抑えきれなかった。
夏油「悟。……もう、限界だね」
夏油傑が静かに立ち上がる。その背後からは、無数の悍ましい呪霊の気配が、黒い不気味な霧となって壁から溢れ出していた。彼のいつもの穏やかな優等生の仮面は完全に剥がれ落ち、そこにあるのは、一番大切な愛しいものを奪われた雄の、剥き出しの濁った殺意だった。
夏油「私も、あのような危険な男に彼女を一人で預けた自分を、今激しく呪っているところだ。今すぐ、あの男のいる場所を更地にしてこよう。いいね?」
その時、再びポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
ナマエからの、三時間越しの大切な返信だった。
ナマエ『本当にすみません、極度の疲労で車内で寝落ちしていました! 今すぐ全力で戻ります!』
五条「……寝落ち? どこで? 誰と?」
五条悟の口から漏れたのは、純粋な疑問というよりは、もはや世界を呪うような禍々しい呪詛だった。
ドォン、という凄まじい衝撃音と共に、彼が両手をついた木のテーブルが、上からかかった圧倒的な重圧に耐えかねて中央から真っ二つにバキバキと割れる。
漏れ出した鮮烈な青白い呪力が、食堂の古い照明をバチバチと激しく明滅させ、周囲の空気を特有のオゾン臭で満たしていく。
五条「寝落ちしたって、どういうことだよ。……二人きりの閉ざされた部屋で、あんな男のすぐ隣で、無防備に身体を預けて眠ってたってことか? そんなの、もう事後だって自分から言ってるようなもんじゃん!!」
五条悟の叫びと共に、高専の頑丈な校舎全体が地震のように大きく揺れた。
六眼が捉える未来の輝かしい可能性が、嫉妬と怒りですべて真っ黒に塗りつぶされていく。
あのおっとりした大好きな先輩が、自分たちが十年もの歳月をかけても決して踏み込めなかった神聖な領域に、あの最低の男を簡単に招き入れた。その最悪な妄想が、五条悟の男としてのプライドと、歪みきった独占欲をズタズタに引き裂いた。
五条「傑、……言い訳なんてさ、あいつをこの世から綺麗に消した後に、ゆっくりあいつの死体に聞けばいいよね」
夏油「ああ、そうだね悟。……彼女に付いた不浄な汚れは、私が綺麗に拭い去ってあげよう。その男の流す血でね」
現代最強と呼ばれた二人の男が、暗い高専の廊下をゆっくりと歩き出す。
その広い背中から際限なく溢れ出る狂暴な呪力は、もはやそこらの特級呪霊のそれを遥かに凌駕し、触れるものすべてを絶望の淵に叩き落とすほどの、圧倒的な死の重圧を放っていた。
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