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3章 星を継ぐ希求
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死線を潜り抜けた呪術高専の敷地内は、本来であれば勝利の余韻と安堵に包まれるはずだった。しかし、その中庭に降り立った一同を待ち受けていたのは、平穏とは程遠い、文字通りの「大事件」の勃発だった。
原因は、あの海ほたるの上空を飛び交っていた報道ヘリの生中継だ。
画面の端に映り込んだ、青白く緻密な星屑の幾何学光を纏って海へダイブした『伝説のヒーラー』の姿。
そして、術師や呪力を感知できる者であれば、どれほど遠目であっても一目で判別できる、五条悟と夏油傑という二人の現代最強の特級術師の姿。それらが決定的な証拠として、呪術界の網膜に焼き付いてしまったのだ。
これまで呪術界の上層部や各名家が、血眼になって探しても一切見つからず、情報すらほとんど存在しなかった謎の至高の存在。…それを、他ならぬ東京呪術高専が密かに囲い込み、独占していたという事実が、最悪の形で外部に露呈してしまった瞬間だった。
学長室では、夜蛾正道が眉間に深い皺を刻み、机の上に並んだ何台もの固定電話と携帯電話を前に、怒涛の対応を迫られていた。部屋中に入り乱れる電子音が、狂ったように鳴り響いて止からない。
夜蛾「ああっ、ーー家の方々ですか。いえ、ですから現在、詳細を確認中でして……! 待ってください、そちらの独断で動かれては困る!」
受話器の向こうからは、耳をつんざくような権力者たちの怒声や、欲望を丸出しにした交渉の言葉が、ひっきりなしに溢れ出ていた。
『おい夜蛾! あの伝説のヒーラーに一目お会いしたい! 今すぐ場を設けろ!』
『お金ならいくらでも積む、国家予算並みでも構わんから、身柄をこちらに渡せ!』
『もう手配は済ませた。いつ高専に伺ってもよろしいですか? 拒否は許さんぞ!』
『高専ごときで独占なんて有り得ない話だ! なぜ事前に我々へ報告しなかった!?』
『ところで、あの光の主は男かね、女かね? ぜひウチの直系の婿か、あるいは嫁に迎え入れたいのだが……!』
呪術界の老舗の家々、政財界の権力者、さらには海外の呪術組織や大富豪からの莫大な金銭オファー。あらゆる欲望の矢が、一斉に高専へと向けられていた。
そして何より厄介なのは、すでに高専の厳重な玄関門の前に、黒塗りの最高級外車が何台も列をなして横付けされていることだった。
「直接会いに来た。門を開けろ」
そう言って、高専の結界を揺らすように横柄に圧をかけてくるのは、無視することなど絶対にできない総監部の上層部の老人たちや、名家の使者たちだった。
高専の事務方全員が叩き起こされ、総出で門前でのひっぱりだこの対応を迫られている。まさに、蜂の巣をつついたような大騒ぎだった。
そんな地上の喧騒と怒号が遠くから響いてくるなか、中庭に立つ一同の空気だけは、奇妙なほどに切り離されていた。
伏黒甚爾の逞しい腕の中で、ナマエはまだ気を失ったままだ。その美しい銀髪や、いつもは滑らかな白い肌には、激しい海風と波飛沫を浴びたせいで、塩分が白くザラついて付着していた。
家入「あーあ、こりゃひどいな。ナマエのやつ、海水をまともに被って全身ザラザラじゃない。甚爾、ひとまず私に預けな。私がシャワーで体を綺麗に洗って、ベッドに寝かせておくのが一番いいだろ」
家入硝子が気怠げに煙草を指に挟みながら、医療の専門家として、および同じ女性としてのケアを申し出た。
だが、甚爾はその大きな腕でナマエの身体をさらに内側へと引き込み、低く短い声で遮った。
甚爾「いや、硝子。お前の手は要らねぇよ。こいつは俺が連れていく。俺が洗う」
そのあまりにも自然で、当然のような言い草に、周囲にいた一、二年生たちの視線が一斉に点になった。
伏黒「……おい、親父。お前、何を言ってるんだ。相手は女性だぞ。いくらなんでもデリカシーがなさすぎるだろ」
伏黒恵が頭を抱えながら、実の父親に向けて最大限に冷ややかな、および引き気味の視線の投げかける。
釘崎「ちょっと、何それ、えっちー! 最低、エロ親父! 意識のない女の子をどさくさに紛れてお風呂に入れようなんて、完全に犯罪の領域じゃないのよ!」
釘崎野薔薇が顔を真っ赤にして叫び、露骨に甚爾を指差して非難の声を上げた。
隣にいた虎杖悠仁にいたっては、状況の生々しさにすっかり戸惑ってしまい、顔を茹でダコのように真っ赤にしながら、キョロキョロと周囲を見回して視線のやり場に困り果てている。
虎杖「え、いや、あの、甚爾先生……!? それはさすがにまずいっていうか、その、目のやり場に困るっていうかさ!」
五条「おや、甚爾。まさかこの状況で職権乱用? 僕が代わりにナマエを美しく清めてあげてもいいんだよ?」
夏油「悟、君が言うと冗談抜きで事案になるから黙っていなさい。……しかし甚爾、彼女の尊厳を考えるなら、硝子に任せるのが筋だと思うがね」
最強二人がニヤニヤしながら、あるいは呆れながら言葉を挟む。
しかし、甚爾はそんな非難の嵐を、これっぽっちも堪えた様子なく、鼻でフンと笑い飛ばした。
甚爾「るせぇよ、ガキ共も五条も。外野がガタガタ騒ぐんじゃねぇ。……こいつは俺の嫁なんでな。嫁のケアを旦那がして、何の問題があるんだよぅ?」
「嫁」――その決定的な単語が甚爾の口からあまりにも堂々と、重みを持って放たれた瞬間、中庭に一瞬の沈黙が落ちた。
パンダ「わーお……。多感な時期の子供たちの前で、なんて堂々とした既成事実の宣言。さすが大人の余裕っていうか、図太さがカンストしてるな」
真希「けっ、とんだエロ親父だぜひき肉にするぞ。まぁ、あのナマエが最近アイツにベタ惚れなのは見てりゃ分かるが、このタイミングで惚気るなよ、見せつけやがって」
真希は呆れ果てたようにチッと舌打ちをしつつも、その口元にはどこか、二人の関係を認めるような苦苦が浮かんでいた。
呪術界の歴史に残るような大仕事をして帰ってきたばかりだというのに、いつものような、くだらなくて騒がしい掛け合い。上層部の老人たちが門前で喚いていることなど、彼らにとっては心底どうでもいいことなのだ。
甚爾「ほら、行くぞ。……夜蛾には、俺に構うなって伝えておけ」
甚爾はそれだけ言い残すと、驚く一同をその場に残し、ナマエを抱きかかえたまま、自らの居住スペースへと大股で歩き去っていった。
自室に戻った甚爾は、ナマエを一度柔らかなソファに横たえ、すぐに浴室へと向かって浴槽に熱いお湯を溜め始めた。
湯気が狭い浴室にじんわりと広がり、白い視界を作っていく。
甚爾は再びナマエを優しく抱き上げると、浴室内へと連れていき、潮風で汚れてしまった白い法衣を、細心の注意を払いながらゆっくりと脱がせていった。
現れたのは、息を呑むほどに白くどこか儚い、一人の女性の美しい肢体だった。衣服の重みから解放されたその身体は、驚くほどに軽くて、細い。
甚爾「……チッ、本当に、折れちまいそうな身体しやがって」
甚爾は自らの無骨な、数々の命を奪ってきた大きな手をじっと見つめた。
そして、お湯を含ませた柔らかなタオルを手に取ると、まるで世界に一つしかない、極めて壊れやすい高価なガラス細工を丁寧に綺麗にしていくかのような手つきで、ナマエの身体を拭い始めた。
ジャァ……、ジャァ……と、温かいお湯が流れる音が心地よく響く。
彼の大きな掌が、ナマエの銀色の長い髪を優しく梳き、頭皮に残った塩分を丁寧に洗い流していく。続いて、首筋から鎖骨、細い背中へと、手のひらを滑らせて撫で洗い流していった。
その手つきには、普段の彼からは想像もつかないほどの、深い慈しみと優しさが込められていた。
お湯の温もりが肌に染み渡るにつれ、ナマエの青白かった頬に、ほんのりと赤みが戻ってくる。その無防備で、完全に自分を信頼しきって眠る表情を見つめていると、甚爾の胸の奥底から、ドクドクと熱い感情が昂ってくるのが分かった。
あの暗黒の海の底で、もし一歩間違えていたら。もし彼女が地獄のような地脈門にのまれていたら…
そう考えると、今、自分の手のひらの中に確かにある、この小さな体温が、奇跡のようにつくづく愛おしかった。
甚爾「……お前が生きてて、本当によかった」
誰の耳にも届くことのない、彼自身の本当の本音が、湯気の中にぽつりと漏れ出した。
いつもは冷酷で、世界を呪っていた最低の男が、一人の女性の生存に、これほどまでに救われている。その事実が、自分でも驚くほどに心地よかった。
丁寧に湯浴みを終え、ナマエの身体を大きなバスタオルで包んで水分を拭き取る。
甚爾は自らのクローゼットから、自分が普段着ている中で最も肌触りの良い、黒い大きなTシャツを引っ張り出してきた。そして、ぐったりとしたナマエの頭から、それを優しく被せる。
甚爾「あ……。そういや、下着がねぇな」
着せ終えた後で、甚爾はふと、その決定的な事実に気がついた。
自分の部屋に女性用の下着などあるはずもない。結果として、ナマエの華奢な裸体の上には、甚爾の規格外に大きなTシャツが一枚、直接纏わされているだけの状態になってしまった。
それは、非日常的であり、同時に言葉にできないほどに扇情的な光景だった。
ナマエの小さな身体に対して、Tシャツの襟元は大きくはだけ、片方の白い肩が丸ごと露出している。裾は太もものあたりまでダボリと垂れ下がり、そこから伸びる細くしなやかな二本の脚が、湯上がりでほんのりと桜色に火照っていた。
彼女が息をするたびに、生地の向こう側にある柔らかな肉体の輪郭が、生々しく浮き彫りになる。
…甚爾は一瞬、喉の奥がカッと熱くなるような衝動を覚えたが、大きく頭を振ってそれを理性で押さえ込んだ。
彼はナマエを自らの大きなベッドの真ん中へと静かに横たえ、上から厚手の布団を優しく掛けてやった。
布団の中から覗く、彼のTシャツを着た小さなナマエの寝顔。
その姿を見つめる甚爾の視線は、どこまでも深く、熱かった。
甚爾「……あぁ、本当に、愛おしいな」
胸の奥が締め付けられるような、強烈な愛着の情。かつて一度失い、二度と手に入るはずがないと諦めていた
『誰かを心から愛する』
という特権を、彼は今、この異星の少女によって完全に奪い返されていた。
甚爾は自らの頭から垂れる水を、首にかけたタオルで乱暴にぐいと拭った。
そして、大きく胸いっぱいに部屋の空気を吸い込み、肺の中に溜まった熱を、ゆっくりと、長く吐き出しながら窓の外へと視線を向けた。
カーテンの隙間から差し込んできたのは、眩いばかりの、黄金色の旭光だった。
そこには、門前で強欲な老人たちがいくら喚いていようとも関係のない、自分たちが先程、命を懸けて確かに守り抜いた、美しく輝かしい朝を迎えた世界が広がっていた。
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