雨空の下の勇気
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7月を間近に控えた、とある日の事。
その日は朝からガンガンと照り付ける陽射しと身体中にまとわり付くような蒸し暑さとが、人々を不快な憂鬱へと誘っていた。
…が、昼を過ぎた頃から突然黒い雲が空と太陽を覆い始め、遂には雨が降り出す。
叩き付けるような雨、あるいはバケツを逆さにしたような、という表現が相応しいくらい、その雨は激しさを帯びていた。
梅雨の時期故の非常に不安定な空模様が最も顕著に表れた一日であった。
＊ ＊ ＊
「あー、折りたたみ傘持ってきてて良かったあ。やっぱり今の時期は必需品だよね、うん」
そう言って私は、徐ろに折りたたみ傘をバサッと開いた。
備えあれば憂いなし、とはまさにこの事ね。
天気予報に惑わされずちゃんと傘を用意してた私は、多分勝ち組。
「今日の講義は終わっちゃったし、これから暇だなあ…どうしよう。…あ、そうだ！ 漫喫にでも行こっかな。こないだあの漫画の新刊、発売されたばかりだったよね」
打ち付ける雨音と、周りに誰もいないのを良い事に、そんな他愛もない独り言をぶつぶつ呟きながら私は傘をさし歩き出した。
白地に淡いピンクの水玉模様がプリントされたその傘は、何だかちょっとだけ、梅雨時のじめっとした気持ちを和らげてくれるように感じる。
「……ん？ あれ……」
途中通りかかった公園でふと人の気配を感じ、立ち止まる。
見ると公園内の公衆トイレの前のひさしで、一人立ち尽くしている男の人の姿があった。
この大雨の中だ。他には人の姿は見当たらない。
一体あの人、何してるんだろう…？
何故かその人が気になった私は、身体を前に乗り出し、その人の顔をよーく確認してみる事にした。すると…。
(えっ？ ……皇…君…!?)
それは…その人は、私と同じ大学部に通う皇昴流君だった。
ちょっと距離が離れているし、私はそこまで視力が良い訳じゃないけど、間違いない。
この私が、彼の顔を見間違う訳なんてない。
だって私、いつもずっと見ていたんだもの。彼の事……。
そんな事を考えるうち、いつの間にか私の心臓は右肩上がりにうるさく高鳴っていた。
…あ、心臓が右肩上がりって、一体どういう表現よ。なんか意味分かんない。心臓が肩みたいって、もう何が何だか。
日本語の範疇を越えてるわ。
…とにかく今の私には『挙動不審』っていう四字熟語がぴったり当てはまるくらい、それくらい気が動転している。
あぁ…どうしよう。
私って、こういう咄嗟の出来事にホント弱いんだってば！
私はどうする事も出来ず、傘をさしたまま独り、しどろもどろになっていた。
…ただ彼の方はちょうど私に背を向けるような体勢で立っていたから、彼にこんなカッコ悪い様を見られなかった事だけが唯一の救いだ。
…ふう、本当にどうしよう。
てか彼、なんでこんな所で何してるんだろう。
まあこの状況からして普通に考えたら、トイレで用を足している最中に雨に降られて、それ以降身動き出来ずじまい…ってな感じよね。
……なんでだろう。
クールそうな皇君のそんな姿を想像したら、間抜けっぽくてちょっと笑えてくる。
あ、クール『そう』って言ったのは…実は私、彼の事良く分からないからなんだよね。あまり話した事なくて。
あくまで私の想像。もしくはパブリックイメージ。
彼の方もそんなに真面目に講義に出てる感じじゃないし、本当に、たまーにすれ違って挨拶する程度だから…。
でも。
…でもさ。
これって…ある意味チャンスじゃない？
傘を持ってない彼と、逆に傘を持っている私。
となると、今私がやるべき事はひとつ。
まさにこれは彼にアプローチする、絶好の機会なんだと思う。
でも…今一歩のところで私には勇気が出ない。
やっぱり怖いのだ。彼に否定されたらどうしよう…って。
だって彼は私の名前はおろか、顔すら覚えていないかもしれないんだから。
でも……だけど。
私、変わりたいよ。
今のちょっぴりシャイで引っ込み思案な自分を、変えてみたいよ。
そうすればまだ見た事もない新たな世界が、私を待っているような気がして。
…なんてね。流石にそれは言い過ぎかな。
でも…きっと。きっとね。
私を変えるのは…ほんの少しの勇気。
それだけは確かなんだろうと思う。
……よし、決めた。
考えるより行動あるのみ。
当たって砕けろ、女は度胸よ！
「……」
傘の柄をぎゅっと握り直し、私は彼に向かって歩き始めた。
泥でぬかるんだ道の中を、お気に入りのミュールが汚れないよう気を配りながら、そぉっと、ゆっくり歩いていく。
……彼に、あの人に、少しでも近づきたくて。
「あ…、あのっ！」
彼の間近まで来ると、私はわざとらしいくらい大きな声で彼に呼び掛けた。
この降りしきる雨の音と、今にもここから逃げ出したくなる弱気な自分に負けないように。
…虚勢かもしれないけれどちょっと強がってみる。
「……！ …君は……」
いきなり声を掛けられ、最初は驚いたような彼だった。だけど……。
「…偶然だね。こんな所で会うなんて」
そう言って、彼は笑った。
少し物悲しいけれど優しい、私が初めて見た彼の笑顔だった。
皇君って…こんなふうに笑うんだ…。
それと、私の事……覚えててくれたんだ……。
…よかった…。
「あ、あの…。えっと、ね……」
「……？」
口ごもり俯いた私を、彼は不思議そうに見つめている。
…あと少し。もう少しよ。
頑張れ、頑張るのよ私！
「あ、あのっ！ 皇君…！」
「何…？」
しばしの沈黙の後、私はようやく顔を上げた。
そして、こう言葉を紡いだ。
この押し潰されそうなくらい大きな雨空の下。
ほんのちっぽけな私が、ほんのちっぽけな勇気を振り絞り、こんな言葉を。
「あのね…皇君。……良かったら、私と……」
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