このもどかしい世界で、
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「…あ、もうこんな時間」
シャープペンを動かす手を止め、壁に掛かった時計を見ながら京珂がそう呟いた。
現在時刻は深夜23時ちょうどを回ったところだった。
「ふぁーあ…。なんか眠くなっちゃったなぁ…。今日はもう寝よっと」
欠伸をすると京珂は、テーブルの上に開いていたテキストをパタンッと閉じ、着替えをするために立ち上がった。
* * *
「…ふぉあぁぁぁああ…」
パジャマ姿になり寝支度を整えた京珂は、鏡の前で髪を解かしながら再び欠伸をかました。
しかも先程のものより更に豪快でやたら猛々しい。
こんな大口を開けて、みっともないところを昴流に見られたら幻滅されるだろうか。
ふとそんな事を思った京珂は突然姿勢を正し、誰も見ていないにも関わらず、慌てて口元を淑やかな手つきで隠した。
(昴流君…どうしてるかな)
そうして京珂は、しばらく会えていない恋人に思いを馳せる。
最後に彼と会ったのは五日前、クリスマスイブのあの日だ。
昴流が言っていたように年の瀬はやはり仕事が立て込んでいるらしく、それ以降会う時間はおろか、電話やメールでのやり取りも無沙汰になっていた。
京珂の方もそれを分かっていたからこそ、彼の仕事の妨げにならないよう連絡を絶っていた。
だから京珂は最後に昴流に会った日の事を、クリスマスの日の出来事を思い返し、幸せな余韻に浸りつつ日々を過ごす。
忘れる事など出来ない。京珂にとっては何より大切でかけがえのない、夢のような一日だった。
(でも、夢じゃ…ないんだよね。そうだよね)
京珂はパジャマの胸ぐらに手を入れ、あの日が夢ではなかったという証を確かめる。
目の前の鏡に映し出されたのは、首から提げられたか細く華奢なペンダント。
小指の爪よりももっと小振りな、淡い薄紅色の花。
それは小さいながらも確かに京珂の胸元で優しい色合いを放ち、存在感を示していた。
「…えへへ…。えへへへへ…」
京珂はそれをひとしきり満足げに眺めた後、先程閉じたばかりの口元を再び緩め、にやけた。
こんな自分の姿は我ながらだらしないし、他人が見たら絶対おかしいと思うに決まっている。
でもあのクリスマスの日の事を思い出すと、このペンダントを見ると、自然とこうなってしまうのだ。抗える術などない。
大切な人から貰った初めての贈り物は、京珂にとって何より大きな意味を持っていた。
今後もし彼がこうして何かを与えてくれたとして、それももちろん京珂にとって喜ばしいし胸弾む事には違いないが、『初めて』はたった一度しかない。
初めての気持ちは、今この時にしか感じる事が出来ない。
だから京珂はこの『初めて』がたまらなく、心も身体もどうにかなってしまいそうなほど嬉しかったのだ。
今はただ、彼のくれた『初めて』の温もりに、思う存分浸っていたかった。
気が済むまでずっとずっと触れていたかった。
「とは、言ったものの。寝る時は流石に外さなきゃまずいよね…」
鏡の中の映ったペンダントを眺めつつ、京珂がぽつりと呟く。
いついかなる時も絶対に肌身から離したくないというのが正直なところだが、もし寝ている間に揉みくちゃになって壊れでもしたら目も当てられない。
昴流が自分のために一生懸命選んでくれたその思いを、台無しにする訳にはいかないのだ。
「じゃ、外そっと…」
そう言って京珂は両手を首の後ろに回し、ペンダントの留め具に手をかけた──ものの、まだためらいがあるのかすぐに外そうとはしなかった。
その体勢でピタリと静止したまま、時間だけが刻々と過ぎていく。
「……」
そのまま数分。
じっと思いつめたような顔つきの京珂が、鏡に映されている。
「………。う…うぐぅ…っ」
次第に京珂の様子に変化が訪れる。
その眉間には皺が寄せられ、明らかに苦悩の色が表れた。低く呻き声まで上げている。
──そして。
「……んああぁぁっ! やっぱり嫌だあぁっ! …外したく、ないよ…」
遂に感極まった京珂が本音を口にした。
やはり京珂はペンダントを手離したくなかった。例え寝る時であっても。
このペンダントを着けていると、なかなか会えない時でも、昴流が側にいてくれるような気がして。そんな不思議な感覚になれる自分がいた。
だから眠っている時も、昴流の夢が見られそうな予感がしていた。
直接会えないなら、夢の中で彼と──。
いや、実際会えないからこそ、せめて夢の中では一緒にいたいのに。
「……昴流、くん…」
そんな事を考えるうちに段々と胸の奥が苦しくなって、切なくなる。
京珂は胸元の小さな花にいとおしげに触れ、両手でそっと包み込んだ。
この世界に数多くいる恋人同士の中には、何らかの事情で会う事すら困難な人達すらいる。
週に一度、月に一度、あるいは数年に一度会えるか会えないかといういわゆる織姫と彦星のようなカップルまでいると聞く。
それでも彼らは互いへの『会いたい』という気持ちを拠り所に、その想いを励みにして毎日を生きている。
そしてゆっくりと、じっくりと愛を育んでいるのだ。
そんな人達からしたら自分はまだ恵まれている方だ。
たった五日会えないぐらいで何を言っているんだ、そんなのは贅沢な悩みだと叱責を受けるかもしれない。
でも、会えない期間が例え一時間でも一日でも一年であっても、『会いたい』という気持ちは何も変わらないのだ。
大切な人に会いたい、恋しいと思う気持ちに時間や環境は関係ない。
一度でも会いたいと願ってしまったなら、それはもう止められない。誰にもどうしようもない事なのだから。
──会いたい、でも会えない。
そんな矛盾やもどかしさ、寂しさを抱えて今この時を生きているのは私だけじゃない。
そう思うと、京珂は何故か心強くもあった。
出来る事なら、彼も──昴流も今こんな気持ちでいてくれたら良い。
この思いを共有してくれていたら良いのに。
「……会いたい。会いたいよ…昴流君…」
1/1ページ