左馬刻夢
西洋風の墓石の前で初老の男――火貂退紅が手を合わせている。左馬刻は一瞬戸惑うも、それに倣った。神だろうが仏だろうが、とりあえず同じように祈っておけばいいだろう。そもそも、ヨコハマをぶらぶらしていたところで偶然出会った退紅に「付き合え」と突然連れてこられたのだ。何の用意も無いし、故人が誰なのか左馬刻は知らない。
雨上がりの外人墓地は寂しいほどに静かだ。些細な気配にすら音があるように感じる程に。しばらく後、退紅は「また来ますわ」と一言、墓石に、いやその墓の下の人間に話しかけると立ち上がった。
「もういいのか」
とっくに祈りも終え、退紅を待つだけだった左馬刻はそれに倣う。
「ああ。新しい若頭の紹介も出来たしな」
そうか、という言葉に照れくささを隠すと、退紅に続いて墓地の出入り口の方へと足を向けた。
「あそこにいるのはオジキの恩人でな、俺も組立ち上げる時に随分世話になった」
「オジキ?」
「こっち側に足突っ込んじまった俺を育ててくれた男だ」
お前と雰囲気が良く似てる、と退紅は懐かしそうに目を細めた。退紅が左馬刻を火貂組の若頭に取り立てたように、退紅にとっての“オヤジ”がそのオジキなのだろう。
「オジキこそ、火貂組の組長になるべき男だった。その前に逝っちまったがな」
誰しも故人を偲びたい時がある。長話は好きではないが、こういう時は黙って付き合うものだと左馬刻は知っていた。
その人物は随分苦労人だったという。第二次世界大戦で家族を失った孤児はヤクザになることも少なく、オジキもその一人だった。外国人だった恩人と出会ったのはオジキがまだ十代か二十代かそこらの頃らしく、到底家族には話せない秘密の友情は生涯続き、晩年には退紅とも交流があったそうだ。
退紅の昔話に、適当に相槌を打ちながら墓地の坂道を登っていく。ふと左馬刻の目線の先に何かが見えた。女だ。だがその服装は古いモノクロ写真で見るようなもの。なんでそんな格好、と考え始めた時、女と目が合った。途端にぞわり、と冷たいものが背中を走る。
「お前もこのまま帰るか?」
退紅の問いに振り返ると、既に墓地の門をくぐっていた。待たせていた車のドアを付き添いの舎弟が恭しく開ける。
「いや、銃兎たちと待ち合わせてる。このまま中華街まで行くわ」
左馬刻は退紅を乗せた車が遠ざかっていくのを見送ると、改めて女のいたほうに目をやった。女の姿は無い。安堵して息をふぅと吐くと煙草を一本取り出して咥えた。
ああは言ったが約束の時間まで随分と時間がある。適当に時間を潰せて中華街に近い場所、と思い浮かんだヤマシタ公園まで足を延ばした。
先刻まで雨が降っていたせいか人気は少ない。適当に水気を払い、海に面したベンチに腰を下ろす。湿気を孕んだ海風が幾度となく左馬刻の髪を揺らしていく。
『良い天気になりそうですね』
「そうだな」
自然と返事をしたが、自分の隣に誰かが居た覚えも来た覚えも無い。横を見ると、先程墓地で見かけた女が左馬刻のすぐ横で嬉しそうに笑っていた。みっともない大声を上げそうになったが何とか堪える。嘘だろ、後をつけてた気配なんてなかった。俺様が気付かないはずがない。音もなく忍び寄って来たのか? まるでユウレイみたいに。
「なんか用かよ」
『私のこと、見えてますよね?』
「は?」
『私、幽霊なんです』
何を言ってるんだ、こいつは。再び背筋が凍るのを感じつつも、左馬刻は冷静を装う。
「で、幽霊が俺様に何の用だよ」
『私のこと見える人、あなたが初めてなんです!』
今にも小躍りしそうな程に、女幽霊は嬉しそうだ。
「さっきから何なんだテメェ、訳の分からねえことを――」
「左馬刻、お前さっきから誰と話してるんだ?」
聞き慣れた声の方に顔を向けると、銃兎が怪訝そうに、理鶯が不思議そうに左馬刻の様子を窺っていた。中華街に向かう道すがら、左馬刻を見つけたのだろう。
銃兎との押し問答の後、理鶯の返答を聞いた左馬刻は女が幽霊であることを認めざるを得なかった。二人とも、そこにいるのは左馬刻だけだと答えたのである。
☆
左馬刻の様子がいつもと違うのは銃兎や理鶯から見ても明白だった。これが一般人であればヤクを疑われるところだろうが、何せ左馬刻であるし、自分たちへの反応はいつも通り。何も無い、誰もいないところに向かって何かしらのリアクションを取っているところだけが変なのだ。
本人の説明によれば幽霊のせいだというが、あの左馬刻が非科学的な存在のせいだと言うのだから困惑する他ない。
「呼び出したからには何か用件があるのだろう、銃兎?」
とある中華料理店の個室に三人――いや、四人というべきなのか――が入り、席に着くなり理鶯が口火を切った。
「流石、察しが良いですね。まあ先日の礼がメインではあるのですが」
先日、というのが、とある違法薬物の密売集団を三人で大量に捕縛した件であることは左馬刻と理鶯にもすぐにわかった。行きつけの店よりも質の良い店内装飾や調度品、料理からしても、随分良い点数稼ぎになっただろうことがわかる。
「どうやらまだ残党がいたようでな」
銃兎がスマホをタップすると、左馬刻と理鶯のスマホが同時に音を立てた。銃兎から送られてきたファイルはどうやら三枚の顔写真のようだ。
『どういう方々なんですか?』
突然顔のすぐ横から女幽霊の声がして、左馬刻は思わず飛び上がった。さっきまで部屋の隅に居たはず……。何か文句を言ってやろうかとも思ったが、悪気があったわけではないだろうと思うと気が咎めた。
「あー……、簡単に言えばだな、ヤクを売ってる悪い奴ら」
『ヤク?』
そこからかよ、と左馬刻は銃兎と理鶯に“ヤク”の昔の呼び方を尋ねる。暫しの沈黙の後、理鶯がもしかすると、と口を開いた。
「アヘンやヒロポンと言えば通じないか?」
『なるほど! “ヤク”って薬物のことですね!』
最初からそういえばよかったのかと左馬刻は肩を落とした。そんな左馬刻を他所に、女幽霊は左馬刻のスマホを再び、そしてじっくりと覗き込む。
『左馬刻さん、私、この人たちを見たことがあります』
☆
「おい、さっさと返しやがれ」
左馬刻が火貂組の屋敷の庭の、桜の大木の前で叫ぶ。大木の花はとっくに散り、青々とした葉が茂っている。
『いやですぅー』
桜の木の随分上の方で、あの女幽霊が拗ねた声で左馬刻に言い返した。その手には左馬刻のヒプノシスマイク。どういう訳かこの幽霊、ヒプノシスマイクには触れるらしい。
『それにしても、ヒプノシスマイクはすごいですね』
女幽霊がヒプノシスマイクを高く掲げる。左馬刻たちがヤクの売人たちと繰り広げたバトルを思い出しているのだろう。
先日、銃兎の言っていた残党は、彼女がもたらした情報のお陰で今度こそ一網打尽に出来た。それどころか、左馬刻にしか見えないという特性を活かし、積極的に他の売人たちを見つけてくるので逮捕した売人は結構な数になった。
銃兎にとっては喜ばしい話のはずだが、左馬刻に報告をする銃兎の表情は少しばかり浮かないものだった。どうやらマッチポンプを疑われたらしい。勿論そんなことは無いので即刻黙らせたらしいが。
そもそも、銃兎には左馬刻の言う“女幽霊”は見えていないし、その存在は半信半疑だ。信頼関係が無ければ銃兎が左馬刻にマッチポンプを疑っていたかもしれないし、余計な疑念が火貂組まで及んでしまっては困る。それに本来、彼女はこの世に居てはいけない存在だ。いつまでも彼女の力を借りる訳にはいかない。何とか捜査協力を辞めさせなければと女幽霊に説得を試みるも、却って怒らせてしまい現在に至る。
ふいに左馬刻のスマホが鳴った。メールを着信したらしい。
「そういやお前、スマホもヒプノシスマイクも知ってたな。死んだのは最近か?」
スマホから顔を上げると、左馬刻はいつか聞こうと思っていた疑問を女幽霊にぶつけた。
『さあ、どうなんでしょう?』
「どうって、お前、自分のことなのに分かんねえのか?」
『私、生前の記憶が無いんです』
自分がいつどこで生まれ育ったのか、どうして死んだのか、そして自分の名前さえも思い出せない、と女幽霊は眉を下げて答えた。何か手がかりは無いか、自分を知る人に見つけてもらえないかと彷徨っているうちに、何十年、もしくは何百年と経ってしまったという。果たして、自分が知っていることは生きていた頃の記憶に依るものなのか、それとも死んで今の姿になってからのものなのか、死んだ時の記憶が無いせいで区別がつかないらしい。
『なので最近のことや物はだいたい分かりますよ』
「それは分かったが……。もしかして、お前が成仏出来てねぇのは」
こくり、と木の上で女幽霊が頷いたように見えた。
いつだったか、この世に残した未練を無くしてやれば霊は成仏できると聞いたことがある。そして届いたメールにも同様の事が書かれていた。そもそも、その話はメールの送り主である空却から聞かされたものだったかもしれない。
あんななりとはいえ、空却が修行僧であることを思い出した左馬刻は『霊に取り憑かれた時の対処法を教えろ』と密かにメールを送っていた。しかし、その霊自身が未練どころか生前のことを覚えていないのでは対処のしようがない。流石の空却もそこまでは想定していないのだろう。
『早く成仏したほうが良いことは私もわかってます』
さて、どうしたものか。左馬刻はとスマホの画面に指を走らせる。簡単に状況を書き、何とか出来ないかと改めて空却にメールを送る。が、数分もせずに戻ってきた返事には空却にもわからないということと修行でヨコハマには行けないということしか書かれていなかった。
「修行とかゼッテェ嘘だろあのクソ坊主……」
再度スマホがメールの着信を知らせた。書き漏らしでもあったのか、空却からだ。
“悪い霊じゃなさそうなんだろ? 満足するまで付き合ってやったらいいんじゃね”
軽いノリの文面が癪に障るが、強ち間違いではないだろう。何もしないよりかはマシだ。左馬刻はスマホをポケットに収めると、いつの間にか木から降りてきていた女幽霊が話しかけてきた。
『左馬刻さん、私が成仏するまで付き合ってくれませんか?』
「……お前、メール見たのか?」
『何のことです?』
ニコニコと笑う女幽霊に、左馬刻は大きく溜め息をついた。
「何をしたら良い?」
『そうですね……』
うーん、と首を傾げてしばらく考え込む。
『今の“横浜”を案内してください』
「散々うろついたんじゃねえのかよ」
『ひとりよりふたり、って言うじゃないですか。それに』
そう言いかけて、やっぱり何でも無いです、とはにかんだ。
☆
江戸時代末期の開港をきっかけに大きく発展したヨコハマだが、見どころはそれなりにある。
ヨコハマ港に面したヤマシタ公園、時計型大観覧車のある遊園地、かつては灯台でもあった海の名を冠するタワー、港に浮かぶ引退した船に、現在は商業施設としても文化財としても有名な赤レンガの洋風倉庫。
気が付けば、左馬刻がヨコハマを案内“されて”いた。無理もない、左馬刻がヨコハマに来てからの月日に対し、女幽霊は“ヨコハマ”が“横浜”の時代から彷徨っているのだから。行く先々で以前はどうだったとかいつかはこうなる予定だとか、地元の人間による噂話などなど、とにかくよく喋った。
『街が発展していくのは良いことなんでしょうけど、自分の知る姿が少なくなっていくのはやっぱり寂しいですね』
最近出来たばかりのロープウェイのゴンドラの中で、女幽霊はポツリと呟く。その姿はどうにも儚げで、左馬刻の目に焼き付くほど印象的だった。
さて、ヨコハマのYの字を模した照明塔が建つ野球場では実際に試合を観戦したし、丘陵地帯の動物園や、中心地からは離れた場所にある水族館にも足を運んだ。ヨコハマ象徴するビルの展望階からトウキョウの方も眺めたし、理鶯がベースキャンプを構えている森にも行ってみた。それでもまだ、彼女の記憶は戻っていないようだった。
『やっぱり、生きてたら着てみたかったなー』
名残惜しそうに、喫茶店の二階の客席からおしゃれなショーウィンドウがいくつも並ぶ西洋風の通りを見下ろす。先程、女幽霊はその通りのある洋服店の前で立ち止まった。その店の洋服、同じ通りにある店のバッグと靴で揃えたファッションをハマトラファッションと呼ぶのだと彼女は楽しそうに話した。
いつだっただろう、誰かとこんな風に食事をした憶えがある。女幽霊に連れられて、ナポリタン発祥のレストランやら有名な喫茶店やらに行っては、彼女の代わりに食べたいメニューを食べるということはここ数日繰り返している。だがその時のことではない。あの時、自分の正面にいたのは。
「合歓……」
そういえばこの女幽霊、見たところ合歓と同じくらいの年だろうか。もし、合歓とこの西洋風のショッピングストリートに来ていたら。合歓の欲しがる服を買ってやって、今と同じように目の前のレモンケーキを食べていただろう。だがそれが現実になることはきっと無いのだろう。
『左馬刻さん、どうかしましたか?』
「いや、何でもねえよ。それより、これからどうするつもりだ?」
ヨコハマの有名な場所にはもう行き尽くした気がする。「トランプのキング・クイーン・ジャックになぞらえて親しまれる洋風建築の塔を、一度に見られる場所を巡ると願いが叶う」という知る人ぞ知る伝説を耳にして、その場所にも行ってみたがその効果は今のところ無さそうだ。
女幽霊は少し思案してから真剣な面持ちで言った。
『行ってみたいところがあるんです』
ショッピング街を出ると、近くの坂を登る。この先は古い洋館が立ち並ぶことで有名な小高い丘で、既に二人で行った場所だ。それでも、幽霊が行きたいのであれば行くしかない。
坂の頂上に、公園の入り口が見えた。女幽霊はそこへ入っていく。
ヨコハマの港を一望出来るという公園、そんな風の名前が付いているが、銃兎曰く、一部の地元民からは“港の見えない丘”と揶揄されているらしい。というのも、かつて見えていただろう港は、鉄筋コンクリートの無骨な建物や高速道路の高架が邪魔をして、よく見えなくなってしまっている。それでも全く見えない訳ではないし、夜になればヨコハマの街や港や海に浮かぶ橋の明かりが幻想的な、いわばロマンチックなデートスポットとして定着しているようだ。実際、先日立ち寄った時は夜景を楽しむカップルばかりで、一人で来たようにしか見えない左馬刻は好奇の目にさらされて随分居心地の悪い思いをしたのだった。
「この前来たじゃねえか」
『でもこっちは行ってませんよね?』
展望エリアに繋がる大きな道の途中で、今度は右に曲がる。
そこは庭園だった。この前は夜だったせいか、あるいは左馬刻の気が立っていたせいか、いずれにしても気付かなかった。色とりどりの花が左馬刻たちを出迎える。掲示を見るに、どうやら本来はバラの庭園らしいが、旬は過ぎているようで咲いているものは少ない。だが、遅咲きのバラが大きく誇らしげに咲いている様は見事なもので、普段は花など興味がない左馬刻でも心惹かれる程だ。
『左馬刻さーん!』
素敵、と花から花へ、まるで蝶のように移動していた女幽霊は、いつの間にか左馬刻から離れたところにいた。左馬刻に向かって笑顔で手を振っている。はしゃぎすぎだろ、と左馬刻は思わず苦笑した。
噴水やカスケードの水音をBGMに、園内を散策する。途中、青葉を纏った巨木の前で女幽霊は足を止めた。近くの石碑にはそれがソメイヨシノであることが書かれている。以前、理鶯がサクラはバラの仲間だと教えてくれたことがある。なるほど、だからバラ園に植えられてるのか。
「お前、もしかして桜が好きなのか? この前ウチの庭の桜の木に登ってたよな」
『……そうだったのかもしれません』
幽霊は桜の木を見上げたまま微笑んだ。何か思い出したのだろうか。左馬刻は声を掛けようとしたが、行きましょう、と遮られてしまった。
道なりに庭園内を進むと、開けた場所に出た。四方から伸びる小路は中央の小さな噴水の周りに繋がっており、小路の両側にはバラのアーチ。
そして左馬刻たちから噴水を挟んで反対の小路、その先は小さな展望台になっていて、ちょうど登り階段がついた小さなステージのようだ。その風景を女幽霊はしばらくじっと見つめる。
『左馬刻さん』
「どうした」
『ヒプノシスマイクを貸してくれませんか』
思いもしなかった頼み事に驚いたが、言葉からも目からも、決してふざけて言っているのではないことが左馬刻にも分かった。理由はわからないが、意味のあることなのだろう。左馬刻は渋ることなくヒプノシスマイクを手渡す。
『左馬刻さんはそこから見ていてください』
女幽霊は階段を駆け上がり、登り切ると噴水を背にした左馬刻の方にくるりと向き直った。そしてヒプノシスマイクを両手で挟み込むように握り直すと、途端にマイクは光を放ってみるみるうちに変形し、クラシカルなスタンドマイクとスピーカーが顕れた。
目の前で起きていることに、左馬刻は驚きのあまり言葉を失う。そのうちにスピーカーからはゆるやかな音楽が流れ始め、それにあわせるように女幽霊が歌い始めた。
風のように透き通った声が、辺りに響き渡る。ラップのそれとは違う、随分古めかしい長調の伴奏が彼女の声を引き立て、遠くまで届くような。
――こうして最後に歌ったのは、いつだっただろう。
歌う女幽霊の瞼の裏に、懐かしい光景がスライドのように次から次へと浮かんでいく。その光景の殆どに“彼”はいた。私を本当の妹のように守ってくれた、“彼”。
最後に港で見た“彼”は嬉しそうで、寂しそうで。
それを思い出しながら、私はひとり、海に沈んでいった。
せめて最期に歌いたかった、“彼”の前で、“彼”のために。
“彼”は私にとって大切な――
歌の終盤、女幽霊はたった一人の観客に目を向けた。一瞬だけ、“彼”が居た。瞬きをすると、“彼”は消え、そこにいるのはこの数日、自分の我儘に付き合ってくれた男だった。
女幽霊は歌い終えても、しばらくは遠くを見つめたまま動かなかった。左馬刻もそんな彼女を見つめたまま。歌で圧倒されたのはいつぶりだろう、と脳の奥の方でぼんやり考えていた。
ヒプノシスマイクが元の形となって彼女の手の中に収まると、左馬刻は我に返った。幽霊に近づいて手を差し伸べると、女幽霊は
『ありがとうございました』
と満面の笑みでマイクを渡した。清々しいほどの笑顔に、左馬刻は言葉に詰まった。ある予感がした。ぷいと彼女から顔を背け、
「思い出してないこと、どうせまだあんだろ? 次行くぞ」
背中越しに声をかける。しかし、返事は無い。振り返ると、そこに女幽霊の姿はなかった。
左馬刻は近くのベンチに体を預けると、手の中にあるヒプノシスマイクを天に翳し、
「あんなモン、見せやがって」
と悪態をついた。ヒプノシスマイクは何も答えない。もし彼女が生きていたら、今の若者たちも知るような時代を代表する歌姫になっていたことだろう。
左馬刻はマイクを仕舞うと、代わりに煙草を一本取り出して火をつけた。そして、マイクを通して伝わってきた女幽霊の感情を、煙草の煙と一緒に吐き出す。その間も、彼女の歌声が耳から離れずに優しく響く。
「そういやこのところ、あんま吸ってなかったな」
自覚しているほどヘビースモーカーの自分が、どうして吸おうとも思わず禁断症状もなく済んだのだろう。別に遠慮していた訳でも、幽霊は煙を嫌うという話を信じていた訳でもない。
左馬刻は再び煙草を咥える。まあいいか、理由なんて。
内心で独りごちた時、海風が一際強く吹いて、左馬刻の髪を撫でると、バラの香りを纏って街の方へと駆けて行った。
☆
「火貂組に女性の来客とは珍しいですね、左馬刻」
屋敷の縁側で庭を眺める左馬刻に、理鶯を連れた銃兎が意味ありげな笑みを浮かべて話しかけてきた。左馬刻は舌打ちをして
「オメーもかよ……」
と自分の髪をくしゃくしゃとさせた。すかさず理鶯が訊ねる。
「お前も、とはどういう意味だ?」
「一昨日くらいから、若い連中が屋敷ン中に知らない女がいるって騒いでてな。けどよ、俺様も親父も誰も、女なんか連れこんじゃいねえんだよ」
「は?」
銃兎は自分の顔から血の気が引くのを感じた。先日左馬刻に取り憑いていた幽霊は成仏したと本人から既に聞いている。では、自分たちが見たものは何だったのだろうか。お前も軽く会釈していたよな、と理鶯の方を見る。酷く動揺しているようなことは無いがやはり驚いてはいるようだ。
左馬刻は二人を気にかけることもなく、先程と変わらず庭を眺めていた。銃兎と理鶯も釣られて視線をそちらに目を向けると、満開になっている桜の木があった。
「港の方で桜やバラが狂い咲きしている公園があるとは聞いたが、ここもか……」
これ以上、自分が見たものについて考えるのは止めよう。銃兎はわざとらしく咳払いをし、今朝聞いたばかりの噂でお茶を濁すことにする。
一方、それを聞いた左馬刻は口を開きかけて、何かを言うことなくそのまま閉じた。女幽霊がヒプノシスマイクを起動し、あの歌声を披露したのも港の方の公園だ。だが、あの公園と銃兎の言う公園が同じと確かめたところで、一体何だというのだろう。
「ちょっといいか」
いきなり後ろから声がして、理鶯以外の二人、左馬刻と銃兎はびくっと体を小さく跳ねさせた。三人の後ろに火貂退紅が立っている。
「悪い、話の邪魔しちまったか」
「大した話はしちゃいねえよ。それより親父、何か用か?」
「たまたまオジキの写真が出てきたもんだから、お前に見せたくなってな」
古びたモノクロの写真に二人の男が写っている。初老の日本人顔の男が"オジキ"、もう一人の西洋顔の男が先日行った墓に眠るオジキの友人らしい。
「“オジキ”と呼ばれるこの男、少し左馬刻に似ているな」
という理鶯に、退紅は「だろ?」とにやりと笑う。
「そういえば、ウチでヤクのシノギがご法度な理由、話してなかったな」
「親父がヤクを死ぬ程嫌ってるからじゃねえのか」
「当然そうだが、俺にヤクのクソさを最初に教えてくれたのはオジキだ。オジキは俺以上にヤクを憎んでたからな、組立ち上げる時も“ヤクのシノギはご法度”ってのは早々にオジキと決めてたんだわ」
家族を亡くした直後から、オジキは自分と同じような戦争孤児の一人を妹のように可愛がっていた。それぞれ成長し、独り立ちを考えていたある日、その妹分は船上の歌手としてある客船に招かれ、横浜を発った。だが、横浜に戻ってくることは無かった。
実は、客船というのは隠れ蓑。実態はヤクザによるアヘンの密輸・運搬用の船であり、横浜を出港した後、船内で取り分を巡ってヤクザの抗争が勃発。その際の混乱に巻き込まれた者は少なくなく、行方の分からない妹分は逃げようと海に飛び込んだか、時化の荒波に揺さぶられた船から放り出されたのではないか。必死で情報を探すオジキに、命からがら生還した人物はそう話したという。
この場の誰もが知るはずのない既に死んだ人間の話に、場は水を打ったように静まり返った。各々が見知らぬ人物の人生を想像し、思い巡らせる。しかし、左馬刻だけは違った。自らの身で経験したはずがないのに、あまりにもリアルな情景――あの日、彼女がヒプノシスマイクを手に歌い、彼女の感情と共に伝わってきた光景が脳裏に浮かんでいた。
「そういえば、あの桜はオジキが死ぬ直前に植えたモンだったな」
退紅が狂い咲きの桜に目を遣る。風が吹いて、花びらが舞い落ちていく。現実的で論理的な確証は無いものの、左馬刻の中では自分の考えが正しいように思えてならなかった。
「親父、ちょっといいか」
その後、火貂組の屋敷に神棚が一社増えた。その日から、「屋敷の中に知らない女がいる」と言う者はいなくなった。
だが時々、屋敷の中で海の潮とバラの香りがどこからともなく漂ってきたり、聞き覚えのある歌声が聞こえるような気が、左馬刻だけはするのだった。
(了)
2025.7.3 初稿
Special thanks:リクエストくださったhpmi先輩フォロワーのC様
Lemon Ruriboshi.
雨上がりの外人墓地は寂しいほどに静かだ。些細な気配にすら音があるように感じる程に。しばらく後、退紅は「また来ますわ」と一言、墓石に、いやその墓の下の人間に話しかけると立ち上がった。
「もういいのか」
とっくに祈りも終え、退紅を待つだけだった左馬刻はそれに倣う。
「ああ。新しい若頭の紹介も出来たしな」
そうか、という言葉に照れくささを隠すと、退紅に続いて墓地の出入り口の方へと足を向けた。
「あそこにいるのはオジキの恩人でな、俺も組立ち上げる時に随分世話になった」
「オジキ?」
「こっち側に足突っ込んじまった俺を育ててくれた男だ」
お前と雰囲気が良く似てる、と退紅は懐かしそうに目を細めた。退紅が左馬刻を火貂組の若頭に取り立てたように、退紅にとっての“オヤジ”がそのオジキなのだろう。
「オジキこそ、火貂組の組長になるべき男だった。その前に逝っちまったがな」
誰しも故人を偲びたい時がある。長話は好きではないが、こういう時は黙って付き合うものだと左馬刻は知っていた。
その人物は随分苦労人だったという。第二次世界大戦で家族を失った孤児はヤクザになることも少なく、オジキもその一人だった。外国人だった恩人と出会ったのはオジキがまだ十代か二十代かそこらの頃らしく、到底家族には話せない秘密の友情は生涯続き、晩年には退紅とも交流があったそうだ。
退紅の昔話に、適当に相槌を打ちながら墓地の坂道を登っていく。ふと左馬刻の目線の先に何かが見えた。女だ。だがその服装は古いモノクロ写真で見るようなもの。なんでそんな格好、と考え始めた時、女と目が合った。途端にぞわり、と冷たいものが背中を走る。
「お前もこのまま帰るか?」
退紅の問いに振り返ると、既に墓地の門をくぐっていた。待たせていた車のドアを付き添いの舎弟が恭しく開ける。
「いや、銃兎たちと待ち合わせてる。このまま中華街まで行くわ」
左馬刻は退紅を乗せた車が遠ざかっていくのを見送ると、改めて女のいたほうに目をやった。女の姿は無い。安堵して息をふぅと吐くと煙草を一本取り出して咥えた。
ああは言ったが約束の時間まで随分と時間がある。適当に時間を潰せて中華街に近い場所、と思い浮かんだヤマシタ公園まで足を延ばした。
先刻まで雨が降っていたせいか人気は少ない。適当に水気を払い、海に面したベンチに腰を下ろす。湿気を孕んだ海風が幾度となく左馬刻の髪を揺らしていく。
『良い天気になりそうですね』
「そうだな」
自然と返事をしたが、自分の隣に誰かが居た覚えも来た覚えも無い。横を見ると、先程墓地で見かけた女が左馬刻のすぐ横で嬉しそうに笑っていた。みっともない大声を上げそうになったが何とか堪える。嘘だろ、後をつけてた気配なんてなかった。俺様が気付かないはずがない。音もなく忍び寄って来たのか? まるでユウレイみたいに。
「なんか用かよ」
『私のこと、見えてますよね?』
「は?」
『私、幽霊なんです』
何を言ってるんだ、こいつは。再び背筋が凍るのを感じつつも、左馬刻は冷静を装う。
「で、幽霊が俺様に何の用だよ」
『私のこと見える人、あなたが初めてなんです!』
今にも小躍りしそうな程に、女幽霊は嬉しそうだ。
「さっきから何なんだテメェ、訳の分からねえことを――」
「左馬刻、お前さっきから誰と話してるんだ?」
聞き慣れた声の方に顔を向けると、銃兎が怪訝そうに、理鶯が不思議そうに左馬刻の様子を窺っていた。中華街に向かう道すがら、左馬刻を見つけたのだろう。
銃兎との押し問答の後、理鶯の返答を聞いた左馬刻は女が幽霊であることを認めざるを得なかった。二人とも、そこにいるのは左馬刻だけだと答えたのである。
☆
左馬刻の様子がいつもと違うのは銃兎や理鶯から見ても明白だった。これが一般人であればヤクを疑われるところだろうが、何せ左馬刻であるし、自分たちへの反応はいつも通り。何も無い、誰もいないところに向かって何かしらのリアクションを取っているところだけが変なのだ。
本人の説明によれば幽霊のせいだというが、あの左馬刻が非科学的な存在のせいだと言うのだから困惑する他ない。
「呼び出したからには何か用件があるのだろう、銃兎?」
とある中華料理店の個室に三人――いや、四人というべきなのか――が入り、席に着くなり理鶯が口火を切った。
「流石、察しが良いですね。まあ先日の礼がメインではあるのですが」
先日、というのが、とある違法薬物の密売集団を三人で大量に捕縛した件であることは左馬刻と理鶯にもすぐにわかった。行きつけの店よりも質の良い店内装飾や調度品、料理からしても、随分良い点数稼ぎになっただろうことがわかる。
「どうやらまだ残党がいたようでな」
銃兎がスマホをタップすると、左馬刻と理鶯のスマホが同時に音を立てた。銃兎から送られてきたファイルはどうやら三枚の顔写真のようだ。
『どういう方々なんですか?』
突然顔のすぐ横から女幽霊の声がして、左馬刻は思わず飛び上がった。さっきまで部屋の隅に居たはず……。何か文句を言ってやろうかとも思ったが、悪気があったわけではないだろうと思うと気が咎めた。
「あー……、簡単に言えばだな、ヤクを売ってる悪い奴ら」
『ヤク?』
そこからかよ、と左馬刻は銃兎と理鶯に“ヤク”の昔の呼び方を尋ねる。暫しの沈黙の後、理鶯がもしかすると、と口を開いた。
「アヘンやヒロポンと言えば通じないか?」
『なるほど! “ヤク”って薬物のことですね!』
最初からそういえばよかったのかと左馬刻は肩を落とした。そんな左馬刻を他所に、女幽霊は左馬刻のスマホを再び、そしてじっくりと覗き込む。
『左馬刻さん、私、この人たちを見たことがあります』
☆
「おい、さっさと返しやがれ」
左馬刻が火貂組の屋敷の庭の、桜の大木の前で叫ぶ。大木の花はとっくに散り、青々とした葉が茂っている。
『いやですぅー』
桜の木の随分上の方で、あの女幽霊が拗ねた声で左馬刻に言い返した。その手には左馬刻のヒプノシスマイク。どういう訳かこの幽霊、ヒプノシスマイクには触れるらしい。
『それにしても、ヒプノシスマイクはすごいですね』
女幽霊がヒプノシスマイクを高く掲げる。左馬刻たちがヤクの売人たちと繰り広げたバトルを思い出しているのだろう。
先日、銃兎の言っていた残党は、彼女がもたらした情報のお陰で今度こそ一網打尽に出来た。それどころか、左馬刻にしか見えないという特性を活かし、積極的に他の売人たちを見つけてくるので逮捕した売人は結構な数になった。
銃兎にとっては喜ばしい話のはずだが、左馬刻に報告をする銃兎の表情は少しばかり浮かないものだった。どうやらマッチポンプを疑われたらしい。勿論そんなことは無いので即刻黙らせたらしいが。
そもそも、銃兎には左馬刻の言う“女幽霊”は見えていないし、その存在は半信半疑だ。信頼関係が無ければ銃兎が左馬刻にマッチポンプを疑っていたかもしれないし、余計な疑念が火貂組まで及んでしまっては困る。それに本来、彼女はこの世に居てはいけない存在だ。いつまでも彼女の力を借りる訳にはいかない。何とか捜査協力を辞めさせなければと女幽霊に説得を試みるも、却って怒らせてしまい現在に至る。
ふいに左馬刻のスマホが鳴った。メールを着信したらしい。
「そういやお前、スマホもヒプノシスマイクも知ってたな。死んだのは最近か?」
スマホから顔を上げると、左馬刻はいつか聞こうと思っていた疑問を女幽霊にぶつけた。
『さあ、どうなんでしょう?』
「どうって、お前、自分のことなのに分かんねえのか?」
『私、生前の記憶が無いんです』
自分がいつどこで生まれ育ったのか、どうして死んだのか、そして自分の名前さえも思い出せない、と女幽霊は眉を下げて答えた。何か手がかりは無いか、自分を知る人に見つけてもらえないかと彷徨っているうちに、何十年、もしくは何百年と経ってしまったという。果たして、自分が知っていることは生きていた頃の記憶に依るものなのか、それとも死んで今の姿になってからのものなのか、死んだ時の記憶が無いせいで区別がつかないらしい。
『なので最近のことや物はだいたい分かりますよ』
「それは分かったが……。もしかして、お前が成仏出来てねぇのは」
こくり、と木の上で女幽霊が頷いたように見えた。
いつだったか、この世に残した未練を無くしてやれば霊は成仏できると聞いたことがある。そして届いたメールにも同様の事が書かれていた。そもそも、その話はメールの送り主である空却から聞かされたものだったかもしれない。
あんななりとはいえ、空却が修行僧であることを思い出した左馬刻は『霊に取り憑かれた時の対処法を教えろ』と密かにメールを送っていた。しかし、その霊自身が未練どころか生前のことを覚えていないのでは対処のしようがない。流石の空却もそこまでは想定していないのだろう。
『早く成仏したほうが良いことは私もわかってます』
さて、どうしたものか。左馬刻はとスマホの画面に指を走らせる。簡単に状況を書き、何とか出来ないかと改めて空却にメールを送る。が、数分もせずに戻ってきた返事には空却にもわからないということと修行でヨコハマには行けないということしか書かれていなかった。
「修行とかゼッテェ嘘だろあのクソ坊主……」
再度スマホがメールの着信を知らせた。書き漏らしでもあったのか、空却からだ。
“悪い霊じゃなさそうなんだろ? 満足するまで付き合ってやったらいいんじゃね”
軽いノリの文面が癪に障るが、強ち間違いではないだろう。何もしないよりかはマシだ。左馬刻はスマホをポケットに収めると、いつの間にか木から降りてきていた女幽霊が話しかけてきた。
『左馬刻さん、私が成仏するまで付き合ってくれませんか?』
「……お前、メール見たのか?」
『何のことです?』
ニコニコと笑う女幽霊に、左馬刻は大きく溜め息をついた。
「何をしたら良い?」
『そうですね……』
うーん、と首を傾げてしばらく考え込む。
『今の“横浜”を案内してください』
「散々うろついたんじゃねえのかよ」
『ひとりよりふたり、って言うじゃないですか。それに』
そう言いかけて、やっぱり何でも無いです、とはにかんだ。
☆
江戸時代末期の開港をきっかけに大きく発展したヨコハマだが、見どころはそれなりにある。
ヨコハマ港に面したヤマシタ公園、時計型大観覧車のある遊園地、かつては灯台でもあった海の名を冠するタワー、港に浮かぶ引退した船に、現在は商業施設としても文化財としても有名な赤レンガの洋風倉庫。
気が付けば、左馬刻がヨコハマを案内“されて”いた。無理もない、左馬刻がヨコハマに来てからの月日に対し、女幽霊は“ヨコハマ”が“横浜”の時代から彷徨っているのだから。行く先々で以前はどうだったとかいつかはこうなる予定だとか、地元の人間による噂話などなど、とにかくよく喋った。
『街が発展していくのは良いことなんでしょうけど、自分の知る姿が少なくなっていくのはやっぱり寂しいですね』
最近出来たばかりのロープウェイのゴンドラの中で、女幽霊はポツリと呟く。その姿はどうにも儚げで、左馬刻の目に焼き付くほど印象的だった。
さて、ヨコハマのYの字を模した照明塔が建つ野球場では実際に試合を観戦したし、丘陵地帯の動物園や、中心地からは離れた場所にある水族館にも足を運んだ。ヨコハマ象徴するビルの展望階からトウキョウの方も眺めたし、理鶯がベースキャンプを構えている森にも行ってみた。それでもまだ、彼女の記憶は戻っていないようだった。
『やっぱり、生きてたら着てみたかったなー』
名残惜しそうに、喫茶店の二階の客席からおしゃれなショーウィンドウがいくつも並ぶ西洋風の通りを見下ろす。先程、女幽霊はその通りのある洋服店の前で立ち止まった。その店の洋服、同じ通りにある店のバッグと靴で揃えたファッションをハマトラファッションと呼ぶのだと彼女は楽しそうに話した。
いつだっただろう、誰かとこんな風に食事をした憶えがある。女幽霊に連れられて、ナポリタン発祥のレストランやら有名な喫茶店やらに行っては、彼女の代わりに食べたいメニューを食べるということはここ数日繰り返している。だがその時のことではない。あの時、自分の正面にいたのは。
「合歓……」
そういえばこの女幽霊、見たところ合歓と同じくらいの年だろうか。もし、合歓とこの西洋風のショッピングストリートに来ていたら。合歓の欲しがる服を買ってやって、今と同じように目の前のレモンケーキを食べていただろう。だがそれが現実になることはきっと無いのだろう。
『左馬刻さん、どうかしましたか?』
「いや、何でもねえよ。それより、これからどうするつもりだ?」
ヨコハマの有名な場所にはもう行き尽くした気がする。「トランプのキング・クイーン・ジャックになぞらえて親しまれる洋風建築の塔を、一度に見られる場所を巡ると願いが叶う」という知る人ぞ知る伝説を耳にして、その場所にも行ってみたがその効果は今のところ無さそうだ。
女幽霊は少し思案してから真剣な面持ちで言った。
『行ってみたいところがあるんです』
ショッピング街を出ると、近くの坂を登る。この先は古い洋館が立ち並ぶことで有名な小高い丘で、既に二人で行った場所だ。それでも、幽霊が行きたいのであれば行くしかない。
坂の頂上に、公園の入り口が見えた。女幽霊はそこへ入っていく。
ヨコハマの港を一望出来るという公園、そんな風の名前が付いているが、銃兎曰く、一部の地元民からは“港の見えない丘”と揶揄されているらしい。というのも、かつて見えていただろう港は、鉄筋コンクリートの無骨な建物や高速道路の高架が邪魔をして、よく見えなくなってしまっている。それでも全く見えない訳ではないし、夜になればヨコハマの街や港や海に浮かぶ橋の明かりが幻想的な、いわばロマンチックなデートスポットとして定着しているようだ。実際、先日立ち寄った時は夜景を楽しむカップルばかりで、一人で来たようにしか見えない左馬刻は好奇の目にさらされて随分居心地の悪い思いをしたのだった。
「この前来たじゃねえか」
『でもこっちは行ってませんよね?』
展望エリアに繋がる大きな道の途中で、今度は右に曲がる。
そこは庭園だった。この前は夜だったせいか、あるいは左馬刻の気が立っていたせいか、いずれにしても気付かなかった。色とりどりの花が左馬刻たちを出迎える。掲示を見るに、どうやら本来はバラの庭園らしいが、旬は過ぎているようで咲いているものは少ない。だが、遅咲きのバラが大きく誇らしげに咲いている様は見事なもので、普段は花など興味がない左馬刻でも心惹かれる程だ。
『左馬刻さーん!』
素敵、と花から花へ、まるで蝶のように移動していた女幽霊は、いつの間にか左馬刻から離れたところにいた。左馬刻に向かって笑顔で手を振っている。はしゃぎすぎだろ、と左馬刻は思わず苦笑した。
噴水やカスケードの水音をBGMに、園内を散策する。途中、青葉を纏った巨木の前で女幽霊は足を止めた。近くの石碑にはそれがソメイヨシノであることが書かれている。以前、理鶯がサクラはバラの仲間だと教えてくれたことがある。なるほど、だからバラ園に植えられてるのか。
「お前、もしかして桜が好きなのか? この前ウチの庭の桜の木に登ってたよな」
『……そうだったのかもしれません』
幽霊は桜の木を見上げたまま微笑んだ。何か思い出したのだろうか。左馬刻は声を掛けようとしたが、行きましょう、と遮られてしまった。
道なりに庭園内を進むと、開けた場所に出た。四方から伸びる小路は中央の小さな噴水の周りに繋がっており、小路の両側にはバラのアーチ。
そして左馬刻たちから噴水を挟んで反対の小路、その先は小さな展望台になっていて、ちょうど登り階段がついた小さなステージのようだ。その風景を女幽霊はしばらくじっと見つめる。
『左馬刻さん』
「どうした」
『ヒプノシスマイクを貸してくれませんか』
思いもしなかった頼み事に驚いたが、言葉からも目からも、決してふざけて言っているのではないことが左馬刻にも分かった。理由はわからないが、意味のあることなのだろう。左馬刻は渋ることなくヒプノシスマイクを手渡す。
『左馬刻さんはそこから見ていてください』
女幽霊は階段を駆け上がり、登り切ると噴水を背にした左馬刻の方にくるりと向き直った。そしてヒプノシスマイクを両手で挟み込むように握り直すと、途端にマイクは光を放ってみるみるうちに変形し、クラシカルなスタンドマイクとスピーカーが顕れた。
目の前で起きていることに、左馬刻は驚きのあまり言葉を失う。そのうちにスピーカーからはゆるやかな音楽が流れ始め、それにあわせるように女幽霊が歌い始めた。
風のように透き通った声が、辺りに響き渡る。ラップのそれとは違う、随分古めかしい長調の伴奏が彼女の声を引き立て、遠くまで届くような。
――こうして最後に歌ったのは、いつだっただろう。
歌う女幽霊の瞼の裏に、懐かしい光景がスライドのように次から次へと浮かんでいく。その光景の殆どに“彼”はいた。私を本当の妹のように守ってくれた、“彼”。
最後に港で見た“彼”は嬉しそうで、寂しそうで。
それを思い出しながら、私はひとり、海に沈んでいった。
せめて最期に歌いたかった、“彼”の前で、“彼”のために。
“彼”は私にとって大切な――
歌の終盤、女幽霊はたった一人の観客に目を向けた。一瞬だけ、“彼”が居た。瞬きをすると、“彼”は消え、そこにいるのはこの数日、自分の我儘に付き合ってくれた男だった。
女幽霊は歌い終えても、しばらくは遠くを見つめたまま動かなかった。左馬刻もそんな彼女を見つめたまま。歌で圧倒されたのはいつぶりだろう、と脳の奥の方でぼんやり考えていた。
ヒプノシスマイクが元の形となって彼女の手の中に収まると、左馬刻は我に返った。幽霊に近づいて手を差し伸べると、女幽霊は
『ありがとうございました』
と満面の笑みでマイクを渡した。清々しいほどの笑顔に、左馬刻は言葉に詰まった。ある予感がした。ぷいと彼女から顔を背け、
「思い出してないこと、どうせまだあんだろ? 次行くぞ」
背中越しに声をかける。しかし、返事は無い。振り返ると、そこに女幽霊の姿はなかった。
左馬刻は近くのベンチに体を預けると、手の中にあるヒプノシスマイクを天に翳し、
「あんなモン、見せやがって」
と悪態をついた。ヒプノシスマイクは何も答えない。もし彼女が生きていたら、今の若者たちも知るような時代を代表する歌姫になっていたことだろう。
左馬刻はマイクを仕舞うと、代わりに煙草を一本取り出して火をつけた。そして、マイクを通して伝わってきた女幽霊の感情を、煙草の煙と一緒に吐き出す。その間も、彼女の歌声が耳から離れずに優しく響く。
「そういやこのところ、あんま吸ってなかったな」
自覚しているほどヘビースモーカーの自分が、どうして吸おうとも思わず禁断症状もなく済んだのだろう。別に遠慮していた訳でも、幽霊は煙を嫌うという話を信じていた訳でもない。
左馬刻は再び煙草を咥える。まあいいか、理由なんて。
内心で独りごちた時、海風が一際強く吹いて、左馬刻の髪を撫でると、バラの香りを纏って街の方へと駆けて行った。
☆
「火貂組に女性の来客とは珍しいですね、左馬刻」
屋敷の縁側で庭を眺める左馬刻に、理鶯を連れた銃兎が意味ありげな笑みを浮かべて話しかけてきた。左馬刻は舌打ちをして
「オメーもかよ……」
と自分の髪をくしゃくしゃとさせた。すかさず理鶯が訊ねる。
「お前も、とはどういう意味だ?」
「一昨日くらいから、若い連中が屋敷ン中に知らない女がいるって騒いでてな。けどよ、俺様も親父も誰も、女なんか連れこんじゃいねえんだよ」
「は?」
銃兎は自分の顔から血の気が引くのを感じた。先日左馬刻に取り憑いていた幽霊は成仏したと本人から既に聞いている。では、自分たちが見たものは何だったのだろうか。お前も軽く会釈していたよな、と理鶯の方を見る。酷く動揺しているようなことは無いがやはり驚いてはいるようだ。
左馬刻は二人を気にかけることもなく、先程と変わらず庭を眺めていた。銃兎と理鶯も釣られて視線をそちらに目を向けると、満開になっている桜の木があった。
「港の方で桜やバラが狂い咲きしている公園があるとは聞いたが、ここもか……」
これ以上、自分が見たものについて考えるのは止めよう。銃兎はわざとらしく咳払いをし、今朝聞いたばかりの噂でお茶を濁すことにする。
一方、それを聞いた左馬刻は口を開きかけて、何かを言うことなくそのまま閉じた。女幽霊がヒプノシスマイクを起動し、あの歌声を披露したのも港の方の公園だ。だが、あの公園と銃兎の言う公園が同じと確かめたところで、一体何だというのだろう。
「ちょっといいか」
いきなり後ろから声がして、理鶯以外の二人、左馬刻と銃兎はびくっと体を小さく跳ねさせた。三人の後ろに火貂退紅が立っている。
「悪い、話の邪魔しちまったか」
「大した話はしちゃいねえよ。それより親父、何か用か?」
「たまたまオジキの写真が出てきたもんだから、お前に見せたくなってな」
古びたモノクロの写真に二人の男が写っている。初老の日本人顔の男が"オジキ"、もう一人の西洋顔の男が先日行った墓に眠るオジキの友人らしい。
「“オジキ”と呼ばれるこの男、少し左馬刻に似ているな」
という理鶯に、退紅は「だろ?」とにやりと笑う。
「そういえば、ウチでヤクのシノギがご法度な理由、話してなかったな」
「親父がヤクを死ぬ程嫌ってるからじゃねえのか」
「当然そうだが、俺にヤクのクソさを最初に教えてくれたのはオジキだ。オジキは俺以上にヤクを憎んでたからな、組立ち上げる時も“ヤクのシノギはご法度”ってのは早々にオジキと決めてたんだわ」
家族を亡くした直後から、オジキは自分と同じような戦争孤児の一人を妹のように可愛がっていた。それぞれ成長し、独り立ちを考えていたある日、その妹分は船上の歌手としてある客船に招かれ、横浜を発った。だが、横浜に戻ってくることは無かった。
実は、客船というのは隠れ蓑。実態はヤクザによるアヘンの密輸・運搬用の船であり、横浜を出港した後、船内で取り分を巡ってヤクザの抗争が勃発。その際の混乱に巻き込まれた者は少なくなく、行方の分からない妹分は逃げようと海に飛び込んだか、時化の荒波に揺さぶられた船から放り出されたのではないか。必死で情報を探すオジキに、命からがら生還した人物はそう話したという。
この場の誰もが知るはずのない既に死んだ人間の話に、場は水を打ったように静まり返った。各々が見知らぬ人物の人生を想像し、思い巡らせる。しかし、左馬刻だけは違った。自らの身で経験したはずがないのに、あまりにもリアルな情景――あの日、彼女がヒプノシスマイクを手に歌い、彼女の感情と共に伝わってきた光景が脳裏に浮かんでいた。
「そういえば、あの桜はオジキが死ぬ直前に植えたモンだったな」
退紅が狂い咲きの桜に目を遣る。風が吹いて、花びらが舞い落ちていく。現実的で論理的な確証は無いものの、左馬刻の中では自分の考えが正しいように思えてならなかった。
「親父、ちょっといいか」
その後、火貂組の屋敷に神棚が一社増えた。その日から、「屋敷の中に知らない女がいる」と言う者はいなくなった。
だが時々、屋敷の中で海の潮とバラの香りがどこからともなく漂ってきたり、聞き覚えのある歌声が聞こえるような気が、左馬刻だけはするのだった。
(了)
2025.7.3 初稿
Special thanks:リクエストくださったhpmi先輩フォロワーのC様
Lemon Ruriboshi.
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