私の神様(仮)
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「 す 」
地面が揺れる。
土が跳ねて、泥が飛ぶ。
人の流れは止まらない。
咆哮。
喉をつぶすような絶叫。
「――…っ」
目を剥く。
腕がはじけ飛ぶ。
首が転がる。
人が焼ける。
ここは、まごうことない地獄だ。
私の神様(仮)
低い音と揺れを感じて目を開けた。
最初に見えたのは赤茶けた土で、薄らと生えた雑草がぬかるみの中に沈んでいる。
耳の奥で、まだ誰かが叫んでいる。
けれど何を叫んでいるのかは、まったく入ってこない。
音だけが、体を殴る。
ここは――
そう思った瞬間、影が覆いかぶさる。
目の前に足が振り下ろされた。
「!!」
泥が跳ねて額に冷たく張り付く。
思わず目を見開く。
足はすぐに走り去っていった。
私はそれが遠ざかるのを感じてゆっくりと顔を上げる。
走り去っていったのは足軽だ。槍の刃先が陽光にぎらりと光っている。
軽微な鎧をまとって槍を持って駆けていく。
私はその背中をじっとみて、それから気が付く。
――…ここはどこ
ハッと息をのんだ。
そうだ、私コタと一緒に雷塵の穴に飲み込まれてそれで…!
コタ…と思って起き上がろうとすると、目の前に手が差し伸べられた。
コタの手だ、と思って私は迷わずその手を取った。
「あ、ありがと…」
「……」
コタに腕を引き起こされて私はバランスを崩しながら立ち上がる。
周りには人がいる。走っている。倒れている。叫んでいる。
だけど誰も私たちを見ない。
見ている余裕なんて、誰にもない。
「ッ押し返せーーーッ!!」
「殺せ!一人でも多く!!」
「っ!!!」
遠くで砲撃の音が轟く。
走る人間の足音が、まるで地鳴りのように響く。
びちゃびちゃと人が走ってはぬかるみをえぐり取る。
またすぐ隣を足軽が駆け抜けていく。構えた刀の切っ先がすぐ真横をすりぬけていって、私は思わず身をすくめた。
こ、こは
狼狽する。
あちこちから黒煙が上がり、怒号ばかりが耳を叩いて言葉を聞き取れない。
喉の奥がヒュ、と鳴った。
「せん…じょう…?」
戦だ。
人が人を殺すために走っている場所。
風に流されて、焦げた布の臭いが鼻の奥に貼りつく。
視界の端で、誰かが倒れた。
倒れた瞬間、別の誰かが踏みつけて、そのまま走り去った。
悲鳴も怒号も全部音の塊になって私に襲いかかる。
その大きさに…ぐらりと重心の置き場が分からなくなって身体が後ろに揺れる。
背中をコタが支えて、そして私の顔を覗き込んできた。
「……(だい、じょう、ぶ?)」
「っっ」
見知った顔があることに酷く安心する。
私はコタの腕を両手でしっかり掴んで、もう一度辺りを見回した。
人が走る。
怒鳴る。
武器を振りかざす。
倒れる。
踏みつけられる。
叫ぶ。
焼ける。
現実なのに、現実じゃないみたいな光景。
な、なにこれ…っ
コタの腕をつかむ手のひらに嫌な汗が浮かぶ。
足が震えて思考がまとまらない。とにかく状況を理解したくて…辺りを見回していると、遠くに旗が揺れたのが見えた。
家紋が書いてある、細長い旗。
あれ、は、
見覚えがある。だけど、混乱する頭はそれを考えられない。
コタは上空に視線を投げると、私の腕を丁寧にほどいた。
離れるような動きのそれが嫌で顔を見上げると、コタはとてもゆっくりと口を動かす。
「……(みて、くる)」
「ッ…!!」
「……(ここ、に、いて)」
「まっ…!!!」
言うより早くコタは空中に溶けた。
残されたのは、私の鼓動と、地面の震えと、 耳を裂くような怒号だけ。
ドッドッ、
周囲の音に自分の心音が混ざる。
――独りだ。
どう、しよう……!
とにかく…安全な場所に、と思って振り返ろうとした。
その瞬間、私の体が強い衝撃に吹き飛ばされた。
「ッ」
「進めーーーッ!!」
「うああああああああ!!!」
人の波が私を飲み込む。
肩を押され、腕で押しのけられて、私は訳も分からないままに地面に倒れた。
馬の蹄の音が聞こえてきたから急いで頭をかばう。
力強い音がすぐ真横を駆け抜けて、土煙が頬を叩く。
そして再び、人の足音。
「や…!」
目も開けられない。
ぎゅっとつぶった瞼の向こうから地響きが続く。
身体を固くしたその上から衝撃。
「――ハ…ッ」
背中を踏まれる。
肺から全部空気がでた。
上手く息ができない。
震える肺でどうにか息をしようとする私の体を、人が踏みながら進んでいく。
足を蹴られる。
頬を甲冑が掠めていく。
体を踏みつけられる。
口から息を吸おうとしたそこに泥が飛び込んでくる。
鼻に土と血のにおいが入り込んで、頭がくらくらする。
「殺せーーーッ!!」
「浅井軍が流れてくるぞ!!押し返せ!」
「下がるな!!」
こわい、
こわい
人の声と音が濁流みたいに私の体を押し流す。
身体中が感じたことないくらい痛みを訴える。
まともに吸えない息が思考を奪う。
転がった私を、誰も見ていない。
私は地面にへばりついたまま、ただそれを受け止めるしかない。
何もできない。
何も言えない。
ただ、怖い。
それ以外考えられない。
怖くて怖くて目を強く閉じる。
ドサッ!
すぐそばで何かが落ちる音がした。
恐る恐る目を開けると、人の背中があった。
矢が無数に刺さっていて、血が服と鎧を染めていく。
どくどくと拍動に合わせて血が噴き出している。
撒き上がる。
伝い流れる――…
「あ…」
あ、ああ…
脳裏に、月光がよぎる。
見たくないのに、重ねてしまう。
(は、くちゃ…ん……)
音もなく崩れ落ちる背中を。
満ちた血の匂いを。
冷えた夜の空気を。
「うっ…」
冷たい月の色にピントが合った瞬間、胃から物がせりあがってきた。
止める間もなく、私は横になったまま口から胃液を吐き出した。
喉の奥が焼けて独特の匂いが鼻を突く。
その匂いでさらに胃が痙攣する。
「ッ…オぇ…っは、…は…」
どろりとした感覚が口と喉からあふれる。
ぬるい液体が泥に混ざっていく。
反射で涙がにじむ。
喉の奥がひゅっ、ひゅっ、と変な音を立てるたびに、喉の奥がチリチリとした痛みを放つ。
胸が縮まるみたいで、肺が痛い。
(――…)
くるしい
訳が分からない。
だれか
断片的に言葉が浮かぶ
――私も、このまま、彼みたいに死ぬのだろうか
涙が目頭を伝う。
目の前に吐瀉物が広がる。
吐き気とは違う熱が喉までせり上がってくる。
(なんで)
なんで私は…こんな所にいるんだろう
独りで倒れて
言葉にもできずに押し流されて
…馬鹿みたいだ。
『止まったら、…。その先は無い』
白ちゃんに言われた言葉を思い出す。
私だって、止まりたくない。
でも、……
なにも分からない
なにも言えない
涙がせりあがってきて、零れる。
なんで、私はこんなところにいるんだ
なんで、こんなところで泣かなきゃ、いけないんだ
私は何が言いたい?
私は何をしたい?
なんで何一つ言葉にできない?
目に映る指先の爪は欠けている。
泥まみれの手。
手のひらが震える。
――悔しい
ひとつ浮かぶ。
こんなところで一人で
泣いてる場合じゃないのに
くやしい
溢れそうな感情を掌に押し付ける。
ぐっと握れたのは泥ばかりだ。
爪の中に泥が入り込む。
ッ
「く、やしい……ッ!!!」
あんなに白ちゃんに言葉で刺されたのに。
まだ、何も言えない…!
このままここにいたら死ぬのに、動けない…!
拳を地面にたたきつける。
力の無さを知らしめるようにその音は戦場の音にかき消された。
いやだ。
いやだ…!
私は、私の頬を全力で叩いた。
頬の内側がじん、と痛む。
視界が揺れる。
精一杯腕に力を込めて、地面を押す。
泥に手がめり込んだ。
指が震えて、うまく立てない。
けど。
「……っ……!」
重たい体をなんとか引き上げて、私は立ち上がる。
身体が大きく左右に揺れる。
踏まれ蹴られた場所がずきずきと痛む。
口の中に泥が入っている。
喉の奥に、胃液が残っている。
「ッ……」
言葉はない。
だけど、行かなきゃいけない
足を動かさないといけない
私はふらつく身体で、ゆっくりと、この地獄を歩き出した。
土煙が立ち昇る。
その間から見える地面に人が織り重なって倒れている。
甲冑が砕け、竹の束が裂けて転がっていた。
炎に巻かれて大きな塊が燃えているのが見える。
空気は熱を持ち、あちこちから吹きつけてくるのに、べたりとしている。
熱気と煙で目をまともに開けられない。
「はっ、」
口の中が気持ち悪い。
唾を飲み込みたいけど、泥のジャリジャリした感じがある。吐き捨てようとして…顎を伝う。
「っ」
服の裾でそれを拭って、前を見る。
人の波に逆らうように進む。
行く宛も、方向もわからない。
けどとにかくこの場から離れなきゃと思った。
人を跨いで、泥濘に足を取られる。
踏まれた時に足を痛めたのか、左の脹脛が痙攣して痛みを訴える。
どれだけすすんでもこの地獄のような光景は終わることがない。本当に終わりがあるのかも分からない。
だけど……もしここで足を止めたら、2度と足を動かせないと思った。
もう、立ち上がれない気がした。
だからとにかく…どうしたらいいか分からないけど、前に進む。
そうやってどれくらい歩いたろう、ふと視界の隅に懐かしさを感じた。
浅い息を吐いたまま目を動かす。
小さな塊が、人の山の片隅で動いている。
一瞬自分の目を疑った。
だけど、どれだけ凝視してもそこにいるのは、子供だ。
「…………、よ、いち」
「――!!」
掠れた声は砲撃音で掻き消えたと思った。
だけど、ぱっと顔を上げて一瞬辺りをみて……私は与一と目が合った。
「ね、……姉ちゃん…ッ」
くしゃりと顔が歪むと同時に与一が駆け出す。
勢いで飛び込んでくるのを、私はそのまま受け止めた。
抱き止めたら、与一の肩に私の手が泥をつける。
「よかっ…よかった……!!」
「与一…」
夢心地のまま名前を呼ぶ。
手のひらの感覚がない。目の前にいるのが本物なのか確信がない。
与一の体温がわからない。
痺れる指先で、頬の泥を払う。
与一は息を詰まらせると大きな吊り目を濡らして、私の身体にしがみついた。
どうして、ここに与一が?
ここはどこ?
何が起きてるの?
私はどうしたらいいの?
いろんな疑問が浮かんでは消えていく。
与一は私の身体にしがみついたまま私の体に顔を押し付けてぎゅうぎゅうと力を込めた。
「……姉ちゃん……っ、ひどいケガ……こんな……」
「け、が……?」
感覚がどこか遠くて、全部、ぼんやりしている。
与一は一度、ぎゅっと目を閉じて息を吸い込むと、無理やり切り替えるみたいに顔を上げた。
「……っ、姉ちゃん、動ける?」
「…え?」
言葉の意味がすぐには頭に入らない。
けど、与一はもう迷っていなかった。
私の腕を掴んで、引っぱる。
「来て……っ」
「あ……」
与一は私の腕をぐいぐいと引く。
私はその血の気の引いた指先を見て、それから与一の後頭部を見る。
与一の髪も塵や火の粉でべたついている。
どこに行こうとしているのかはわからない。けれど、この覚束ない足で行かなきゃいけないところがあるらしい。
「ここ…陣医所だったんだ……、だけど…敵が迫ってきて…」
与一の言葉はとても遠い。ぐっと肩に力が入ったのが分かる。
だけど…
私の頭はまだ霞の中にあるようで、どこかぼやけている。
舌を転がすと、カサカサとした感覚があった。
「……まだ逃げ遅れた人もいて…」
「――ッぐ…だれか…」
「!!」
うめき声に与一が顔を跳ね上げさせた。
あたりを見回して、がれきの山に駆け寄る。そして大きな竹を束ねたものを体で押しのけた。
その先から腕が覗く。
人だ。
「大丈夫!?今助けるから…!!」
そう言って与一はその腕を引き始める。
私は与一に倣って近づく。その人を見て――、
「っ」
一瞬時間が止まる。
男の人は頬が抉れて裂けていた。
歯の奥が見える。
それに、片腕はぐちゃぐちゃになっている。
重たいものにひき潰されたのか、もはや片腕はなくなっているといってもいい。
脳が、処理できない。
足がすくむ。
「……ッねえちゃんッッッ!!!!」
「!!!」
与一が怒鳴るように叫ぶ。
私は大きな声にハッと我に返った。
そう、だ、ぼんやりしている場合じゃない、…与一を手伝わなきゃ…
与一と一緒に腕を引く。
けれど上に乗ったがれきが重たくて、二人の力を合わせても引き抜くには足りない。
私は上に乗ったがれきを退かすために手をかける。
破裂したような形で重なる丸太を全力で押す。
肩がジンジンと痛むほどに押し込んだけど丸太は少し揺れるばかりだ。
どう、しよう
もう一度力を込めて丸太を押す。
すると、不意に隣に手が添えられた。
「…ッコタ……!」
「(みつけた)」
「…!小太郎兄ちゃん…!これ…下に人が…!!手伝って!!」
与一が喉を詰まらせながら言う。
コタは首を軽く動かすと、ぐっと丸太を押す腕に力を込めた。
ズッ、と重たい音を立てて動きはじめたのを見て、私は与一の方へもう一度戻る。
「ッ…せー、のっ!!」
「ぐ、ううう」
うめき声を上げながら、男の人は私と与一に引きずり出された。
足からも腕からも血が出ていて、身体は白く、硬くて冷たい。
目をさ迷わせた私の隣で、与一は迷わず懐から布を出して、腕に縛り付ける。
強く力を込めて布を結びつけるのをコタが手伝う。
「っ…ありがとう…!」
「……」(フルフル
「もっと南にも陣医所があるんだ…!この人運ぶの手伝って…!」
言葉を聞いて、コタは男の人に肩を貸した。
そして、与一に先導してほしいのか顎で先に行くよう指し示す。
与一はこくりと頷いて小走りに走り出した。
私も与一の後を追う。
コタはちらりと担いだ男の人を見て、それから何も言わず私たちのあとを追いかけてきた。
与一が足早に前を行く。
やがて目の前に土の壁と布で覆われた空間が見えてきた。
「早く…!あそこ!!」
与一はそう言いながら一目散に駆け込んでいく。
少し遅れて私とコタが足を踏み入れると、そこにはたくさんの人が横になっていた。
横たわった人も、うめく人も、血が止まらない人もいる。
布を噛んで叫び、誰かを呼び、名前を呼ばれなくなった人もいる。
血の匂いと薬草の匂いと、焦げた臭いが混ざった空気が鼻を突く。
なんの匂いかはわからないけどツンとした匂いが目を焼く。
息が苦しい。
「小太郎兄ちゃんそこに寝かせて!!」
与一はそういって物資が積まれているだろう場所へと駆けていく。
与一に指示された場所は気持ちばかしのわらが置いてあるだけで、ただの地面だ。
本当にここでいいの?
与一に聞き返そうとしたけど、声も届かないほど離れてしまった。
その後ろ姿を見て、私はコタを振り返る。
コタ、と声をかけようとして息をのむ。
「……!」
男の人の体は脱力していた。
足は地面を擦るばかりで……
「……(しんだ)」
皮一枚でつながった肉片が揺れている。
ぽたぽたと勢いを無くした血液がゆっくりと滴っていく。
その光景に……視界が揺れる。
コタはもう一度男を一瞥すると、そのまま音もなくスッと消えた。
頭の奥がガンガンと叩かれているかのように痛む。
……どうして
呆然とコタがいなくなった後を見ていたけれど、パタパタと聞きなれた足音が聞こえてきて私は振り返る。
そして与一と目があって…与一はギュッと唇をかみしめた。
「…っ」
わかってるんだ、と思う。
泣きそうなくらい眉を寄せて目を閉じた与一は、手に布と薬草を持ったままかぶりを振った。
そして迷うことなく、別の人へ向かっていく。
ぐっと唇をかみしめながら、必死に手当てをしていくのを私はただ見ていた。
呆然とする私の隣を通って誰かが運ばれてくる。
左でも誰かが泣いている。
後ろでは別の人が必死に呼びかけている。
与一が誰かの指示を聞きながら、
別の負傷者に走り寄り、手を取って、支えて、布を当てて……
あんな小さな身体で、
震えてる腕で、
それでも誰より速く、誰より迷わず動いていた。
胸の奥が、急に熱くなった。
ああ。
ああ、そうだ。
(……やらなきゃ)
咄嗟に与一の元へ駆け寄る。
「な、なにすればいい…?!」
「!姉ちゃん…っそしたら足持ってて!固定しないと!」
頭はまだぼんやりしているし、指先は痺れているけれど、与一の声は鮮明に聞こえる。
私は言われた通りに与一が布を巻きやすい高さに足を持ち上げる。人の足は存外に重たくて、少しよろめく。
与一は黙々と布を巻きながら、ぐっと唾を飲み込んだ。
「――…元親が、居てくれたんだけど、…さっきの陣医所が襲われて、前線を上げに行っちゃって――」
「…チカちゃん…?」
「うん…」
ぽつぽつとこぼす与一だけど、その眼は真剣で、手は止まることはない。
チカちゃんの、軽快な笑い声がよぎる。
「みんな、いるの…?」
「……。幸村の兄ちゃんたちもいるよ、……相手は豊臣と織田、徳川だって…」
「――…!!」
幸村。
思わず来た方向を振り返る。
黒煙に巻かれた空はほとんど見えない。
――この地獄のどこかにみんないる。
そう思ったら胸がぎゅっと絞られて、涙が滲んだ。
(あい、たい)
切望する。
政宗なら、チカちゃんなら、ナリちゃんなら絶対に助けてくれる。
この地獄から逃げ出すために全力を出してくれる。
幸村なら、
(――…)
ぶわりと強く風が吹きつける。
体を持っていかれそうになって、私は慌てて足を支え直した。
……だめだ
与一を見る。キッと真剣な目で布を縛り付けて足の固定をしている。
この子は逃げていないのに、こんな場所でも、まっすぐにやることを見つけているのに。
私が泣いている場合じゃない
私だけが助けてって言えない
私は、ただ安心したいだけだ。
唇をかみしめる。
みんなの笑顔が脳裏を過ぎる。
心が引っ張られそうになってかぶりを振った。
(……私が行っても、何も変わらない。だったら――ここにいる)
喉が詰まる。
言葉は出ない。
でも、手は止まらなかった。
血で滑りそうな指先で布を押さえながら、ただ必死に息をした。
ここで倒れるわけにはいかない。
逃げるわけにもいかない。
たぶん、今私がやれるのは――これだけだ。
どんなに心が叫んだって。
助けてほしい気持ちがあっても。
「与一、私あっち見てくる…!」
「!うん…!!」
私はここで戦わなきゃいけないんだ。
どのくらい経っただろうか。
――手が、少しだけ動くようになってきた。
さっきまで痺れていた指先が、
与一の声に合わせて、ゆっくりと温度を思い出していく。
「姉ちゃん、そのまま押さえてて…!」
「う、うん…!」
息がまだ浅い。
心臓はうるさい。
でも、さっきよりずっとマシだ。
視界もちゃんと色がある。
耳もまだ聞こえる。
(……できてる)
この場所で、出来ることがある。
ほんの一瞬だけ、胸の奥に灯りみたいなものが揺れた。
私はここにいて…やれることもある。
ぼんやりとしていた思考が遠くなる。
「っ与一、次は――」
いい終わるより前に。
ズド、と地面が揺れた。
そしてそれと共に空気がひっくり返るかのような衝撃が飛んでくる。
薬草と血の匂いが吹き飛んで、篝火が消えてしまいそうなほどに揺らめいた。なんとか消えなかったのが見えたと同時に、悲鳴が上がる。
「な、に…」
わからない。
でも、ただ事じゃない。
陣の外から、金属の擦れる音と、布を裂くような叫びが一気になだれこんできた。
与一が顔を上げる。
「……っ!姉ちゃん、伏せて――!」
再び衝撃。
巨大なものが地面を抉る。轟音。
巻き上がった土がパラパラと降り注いでくる。
なにが起きている?
私が短く息を吐くのと同時に、声がした。
「――なぁんだ、案外すんなり行っちゃったな」
高い子供の声。
一瞬それが現実に聞こえているのかわからなかった。
顔を上げる。
聞き覚えがある声だった。
「……!」
「ん?……あ!!シズカ!!」
戦場に真っ直ぐな笑顔が咲く。
にぱ、と目を細めて頬を染めて、人懐っこい笑顔を浮かべている。
「……みつな、り」
「うん!!久しぶり!!」
ブンブンと大きく手を振って…石田三成が笑っている。
この地獄に不釣り合いなほどに明るい声に…前の私ならきっと安心していただろう。
けれど。
手を振る三成の、反対の手には人の頭が握られている。
髪の毛を乱雑に掴んで、だらりと脱力する人間を、三成はなんて事のないように持っていた。
「――…」
人の頭が目に入った瞬間、心がスッと冷えていく。
さっきまで出来ると思っていたことが霧散する。
「あれからどうしてたんだ?急に城からいなくなったから、私たち探してたんだぞ!」
秀吉様は笑ってたけど。
そう言う三成の声は、あの日の縁側と同じ温かさを持っている。なんてことない、日常の、世間話みたいに。
私は掴まれた人の頭から目を逸せない。
反応がない私に首を傾げた三成は私の視線を追いかけた「あぁ」と、納得したような声を上げた。
「西海の鬼だかなんだか知らないけど……脇が甘いよなー」
アイツ、私が大将だとも知らずに左近たちを追ってるんだもん!
ケラケラと笑う声が響く。三成はなんて事のないように頭を掴んでいた手を緩めた。
ドチャッ
湿った重たい音がして、地面に放り出された。
自由になったと言うのに、その人は動く気配がない。
耳元で激しく心臓が揺れている。ようやく少しは息ができるようになったと思っていたのに、また震えてしまう。
心臓に氷を落とされたみたいに芯が冷えている。
「さて、と!私はここを片付けるからさ。シズカも早く逃げた方がいいぞ!」
そう言った瞬間、三成は瓦礫を駆け降りる。
そして――横たわる人に足を振り落とした。
「………ッ」
形容し難い音。
反射的に目を閉じていた。瞼の裏で行き場を失った光が白く弾ける。
耳に届いた音に耐えられなくて、顔を逸らす。耳を塞ぐ。
それでもその隙間から、空気が震えて、悲鳴がつぶれるような音が聞こえてくる。
理解したくなくて、脳が本能的に拒む。
見ちゃだめだ
これを見たら、壊れてしまう
怖いとか、気持ち悪いとかじゃなくて
もっと根源的な感情だ。
生物として、人間として、……1番奥底にあるものが震える。
「シズカ」
呼ばれる。
「逃げないのか?」
うっすらと目を開ける。
そこには無邪気な顔の三成がいる。
服も髪からも強い、強い血の香りが漂っている。頬に三成のものじゃない色の髪がついている。
その拳は恐ろしいまでに黒々としているのに、三成は気にも留めていないようだった。
「――…」
喉からカラカラに乾いている。
言葉が喉に張り付いて、上手く出てこない。
はく、はくと浅く呼吸をして、ようやく声が絞り出た。
「……どう、して」
「んー?」
「――……、ここ、…怪我した人ばっか、だった」
三成はこてり、と首を傾げる。
「どう……って。」
「だって、ここを潰せば兵の補給がなくなる。物資がなくなる。まともに反撃もされない。前線の兵たちの退路を断てる。そんなの当たり前だろ」
……。
ぐらりと世界が歪むのを感じる。
違う、
違う………
当たり前…当たり前だと言った?
ほんとうに?
だってそんなの、……非人道的、だ。
「で、でも……そんなの……。…違う……」
「んんん?」
三成はさらに深々と腕を組んで首を傾げた。
考えるように視線が動いて、頭を傾けて、もう一度私を見る。
「だって…秀吉様の邪魔になるものは要らないだろ?」
「!!!」
眩暈がする。
違う、違う――
だって、そんなの。
目の前にいる三成は曇りなく私を見ている。
本当にわからない、という表情で…なんなら少し困った顔ですらあった。
本当に、違う
この子との根本的な差を……――まざまざと見せつけられている。
価値観が、世界が、時代が……"理"が異なるのだと。
心の中、当たり前にあったものがグシャリと音を立てて潰れた感覚があった。
それと共に…私の言葉は、本当に無くなってしまった。
「なぁ、逃げないのか?」
三成は私が黙ったのを見て言う。
私の目は三成を見ている。
だけど、目の前にあるもの全てが壊れていて…私はその言葉を受け止めきれない。
心臓だけがはち切れそうなほどに音を立てて鼓動する。
「――だったらシズカも邪魔だから、」
要らないよな。
その言葉を聞く。
私の体がふらついた、その瞬間。
世界がスローモーションになる。
三成は浅くステップを踏んで拳を振り落とす。
数瞬前まで私がいた場所を躊躇なく砕く。硬い地面が破片になって巻き上がる。
その破片の中――
三成の目は爛と輝いたまま、私をしっかりと顔で追っていた。
破片の中で、三成の眼光が届き続ける。
瞳孔が、開く。
口角をこれでもかというほどに持ち上げてみせた。
その顔にゾワリと鳥肌が立つ。
殺される。
三成は、躊躇わない。
直感する。
次の一瞬、その拳を私に叩きつけると。
ダンッ、強く地面を踏み鳴らす音が響く。
迷いなく軌道が迫る。その瞬間……
――…
「っなんだお前!!」
「……」
「っ、こ」
喉が震えて名前を呼べない。
コタは…一瞬にして私と三成の間に体を捩じ込むと、三成の拳を払い弾いた。
パンッ!!鋭く乾いた音が響いて、三成の腕が逸れる。
三成は牙を剥いて追撃を放つ。コタに後ろ手に突き飛ばされて、私は尻餅をついた。
ぐちゃりと柔らかい感覚がある。
ガッ
ギッ!!
三成の追撃をコタは素早く受け止め、返し、流す。その動きに三成は険しい顔を浮かべた。そして、数発の応酬ののち、互いに間合いをあけた。
「――フッ」
「……」
「――…」
静寂が落ちる。
そして、ハ、と私が息をついたと同時にグッと身体が浮かび上がった。
「…!」
「……」
コタに担がれた。
私の足は宙を揺れて、体が上空に飛び上がる。
「――お嬢!!」
「左近!!」
駆けつけた左近が私たちを見上げるけど、もう攻撃は届かない。
そうとわかるや否や、三成たちは数度言葉を交わして、迷うことなく陣医所に火を放つ。
その時私はようやく全景を見た。
まだ、多くの人が残っている。
三成も左近も、迷わない。
私と与一が止血をした人が、意識のないまま焼かれている。
両足を痛めた人が逃げきれずに潰される。
人の命が容易く奪われていく。
そんな場所から、私は、逃げている。
「――っ、まっ、てコタ!!まだ、人が……!!」
私はコタの背中にしがみつく。
手を伸ばすけど、そんなの届くはずもない。
「ッねぇ!コタ!!!」
コタは声を張った私を、振り返る。
「――……(違う)」
「――!!!」
心臓が止まった。
ちがう、………違う?
私の、…助けなきゃ、が?
――『違うと思うなら、言え。言えないなら現実に存在しないのと同じだ』
白ちゃんの声が聞こえる。
迷いなくて、鋭利で、遠慮のなさすぎる言葉。
あの時だって、私は違うと思ってた。
今だって――…
――…違う
多くの人が殺し合っている。
目の前で、逃げれない人たちが言葉もなく死んでいく。
私があそこに戻ったところで、何もできない。
そんなこと分かっている
痛いほどわかっていたはずだ。
それでも咄嗟に助けなきゃ、と思ったのは
優しさでも、
罪悪感でもなくて…
私が育ってきた時代で
そうであるべきだって教わってきたからだ
それが人間として正しいから、
そう言う物語たちで溢れていたから。
ヒュウ、肺が音を立てて空気が流れ込んでくる。
背中の方で縮こまっていた何かが、メリメリと音を立てて膨らんでいく。
――違う
私を育ててきた物語たちは、私のものじゃない。
そこに、どれだけの言葉があったとしても、それは全部誰かの言葉、なんだ
――違う
私のこの心臓の奥に固まっている全てを表すには
それじゃ足りない
…この感情を、この思いを。
今ここで苦しいって思ってる私を
形にできるのは、私だけなんだ。
脳に酸素が行き渡る。
ずっとあったモヤモヤとした塊が急速に形を持っていく。
ずっとぼやけて霞んでいた視界が開けるような、色を取り戻すような感覚。
「ッ」
息を飲む。
強く、強く、風が頬を打つ。
痛い。
――違う…!
私は弱い。
この場所で何もできない。
コタに拾われて逃げている。
多くの人を見捨てようとしている。
自分のことすら言葉にできない。
悔しい。
無力で、悔しくて、吐き気がする。
悔しい
だけど、
…だけど
逃げたくない。
できないことばかりだったとしても
それでも私は向き合いたい。
――『シズカ!早く来ないと全部食っちまうぞ!』
『お前そんなに食えんのかよ?』
『俺だけじゃねえ元就だって食うだろ』
『我が?』
『そうだよ前のときすっごい食べてたからね大福』
『はて、覚えておらぬな』
与一が、政宗が、チカちゃんが、ナリちゃんが、笑っているこの世界を。
――『……そうか』
白ちゃんが生きていたこの地獄を
――『某は――貴女をお慕い申し上げている』
幸村が、真っ直ぐに気持ちを伝えてくれたこの時代を。
「は………………」
爆発音。その熱気がここまで吹き付ける。
炎が巻き上がって、風を燃やす。
吸い込んだ息がチリチリと肺を焼き尽くしていく。
背中が痛い。
身体中が、脳が、心が痛い。
痛みに押されて、モヤモヤとした物の核に手が伸びる。
――ちが、う!
私は生きていきたいのだ。
踏み躙られるとしても、
無力だとしても、
当たり前が壊されても、
誰1人助けられないとしても、
泥を被っても、
こんなにも、喉が裂けるほど苦しいとしても
ひゅうう、
肺が燃える。
身体の中で「悔しい」が燃えている
私は生きたい
こんな地獄で
「っ……!死にたく、ない…!!」
モヤモヤとした気持ちの核に指が触れる。
私はこの形がなんなのか知る。
「こんな、ところで……死ねない!!」
慟哭。
「だって…私っ!!幸村にまだ告白の返事してない……ッッ!!!」
叫ぶ。
コタの背中に指が沈む。
衝動が体を貫いて、心臓が大きな音で拍動する。
熱風が脂でベタついた前髪を巻き上げる。
「このまま死んだら一生…ッ!悔いが残るっつーーーの!!!!!!!!!!」
喉が裂ける。
血の味がする、肺が痛い。
だけど視界がとてもクリアだ。
ッハ、
息をする。
指先が風を掴んだ。熱で指が焦げる。
泥まみれでアザができた腕が宙を掻く。
欠けた爪に泥が詰まっているのが見えて、私は手のひらを握りしめた。
遠ざかっていく陣医所を真っ直ぐに見つめる。
やがて熱風に巻き取られた黒煙の向こうに消えて、見えなくなっていった。