光り、砕けろ


 風邪をひいた時の夢というものは、まあそれは酷いものと相場が決まっている。

 私は、賢者になる前のごく普通の日本人だった頃のことを夢に見ていた。

 真木晶という人間は普通の人間で、ごくありふれた会社員であった。
 辛いことも楽しいことも清濁合わせて人生を送っている最中であったのだが、なんの因果か、この魔法の世界へ連れてこられたのである。
友達は多くもなかったが非常に親しい子が数人いたし、両親との中も良好で、嫌だなと思うことも多くあるが仕事も頑張っていた。いつか自分の家で猫を飼おうと思っていたし、その準備もしていた。

 そんな時、満月が綺麗なある夜、私はこの世界に否応がなく連れてこられた。

 最初は何が何だかわけも分からないうちにあれよあれよと賢者という身分不相応な役職が与えられ、周りの力を借りながらやっとのことで仕事をこなしてきたのである。よく考えてみたらおかしな話だ。他国から来たこちらの世界のことを何も知らない小娘なんかに大いなる厄災へ立ち向かう魔法使いを指揮させるなど、あってはならない。そんなこの世界の行く末を左右するような責任を押し付けられても、こちらも困る。

 いつ帰れるのかもわからない状態で、このまま賢者を続けることへの漠然とした不安も募っていた。次また来る厄災に勝利したからとて、次の次の厄災に勝てるのだろうか? 勝てなかった場合、この世界はどうなってしまうのだろうか。私が背負うには重すぎる問題だ。
 もしこの世界からおさらばするとなった時にも無事に帰れるのか分からない。もしかしたら、世界の狭間に取り残されてしまうかもしれないし、必ずしも私が元いたところに戻れる保証もない。
 どうしてこんなところへ来てしまったんだ、という思いは表には出さないが心の奥底では燻っていた。

 さらに最悪な考えが頭を支配する。大いなる厄災との戦闘で私はあっけなく命を落とし、死ぬ。その後、新しい賢者が訪れてまた賢者の魔法使いたちを従え、次の年の大いなる厄災に立ち向かう。その様を、あと何度繰り返し、あと何度魔法使いも人間も死んでゆくのだろうか。そしてやはり気にかかるのは、歴代賢者の行く末である。彼らは、不自然なくらい魔法使いたちの記憶に残っていない。そして、どこへ行ったのかも定かではない。

 これはもしかすると、死ぬよりももっと怖いことが起こってしまうのではないだろうか。

 こちらの世界の人々から忘れられるだけだったらまだいい。しかし、もしも元いた世界の方でも私の存在が忘れ去られてしまっていたらどうすればいいだろうか。私の居場所が全て、なくなってしまっていたら。私のことを覚えている人なんて一人もいなくなってしまったら。私がいるはずだった場所が、私のことを覚えていなかったらどうだろう。

(いやだ)
(もう、逃げ出したい)

 そう思っているうちに、いつの間にか夢は入れ替わり、私は元いた世界の父と母の前に立っていた。無事に元の世界に戻ってこれた喜びで、弾んだ声を出しながら両親に「ただいま!」と声をかけると「あなたは誰?」と言われて、次の瞬間にはそっぽを向いてどこかへ行ってしまう。私はドッキリにでもかけられているのかと思ってその後を追って話しかけるが、めんどくさそうに私をあしらうだけで誰もまともに取り合ってくれないのである。
それならばと交番に駆け込むと、身分を証明するものを何一つ持っていないのでお巡りさんたちも困った顔をして私に質問をしてくる。あなたの名前は? 職業は? 今までどこで何をしていたの等々。
 どれだけ本当のことを言っても、誰も信じてくれない。もう、真木晶という存在はこの世界ではなかったことにされているらしい。
 そこで視界は暗転し、今度はこの魔法の世界へ再びやってくる。そうすると、私にはもう賢者という肩書きはなく、すでに新しく派遣された賢者様が賢者の魔法使いたちと楽しそうに笑い合っているのだ。
 魔法使いに声をかけても皆不思議そうな顔をしていて、時には変なやつに絡まれてしまったと迷惑そうな顔をする人もいるし、なんとか助けになってあげたいと私に手を伸ばす優しい人もいる。そこで、もうこの世界にも私を必要とする人なんていないことを悟って、「なんでもないです」と言ってその場から立ち去る。行く当てもなくふらふらと彷徨っていると、もといた世界とは比べ物にならないほど治安が悪いため、数日後には私は彷徨った先で数人の男たちに取り囲まれた後に弄ばれ、最終的には殺されて死ぬ。

 そんな結末を見届けたところで、ハッとして夢から覚める。

 汗のせいで体に服が張り付いている。
 脇から横腹にかけて冷たい汗が流れるのを感じた。全身汗びっしょりで、己の体温が急速に奪われていくのを感じる。
寝そべっていた床には私の汗が滲み、灰色の染みを作っていた。

(そうか、私床で寝ちゃってたんだ)

 こんな調子では休まる体も休まらないと思い、まだ痛む頭を抑えて備え付けてあるベッドの方へ移動しようとそちらへ目線を向ける。そして、私はギョッと目を見開いて固まってしまった。

(これも夢だろうか)

 もう一人の私が、ベッドの傍に腰をかけていた。

 もう一人の自分がいる、なんてドッペルゲンガーとしか思えないのだが、それでも「あなたは誰?」と声をかけてしまう。そうすると”それ”はにこりと寂しそうな顔をして笑い、私の体に覆い被さって馬乗りになった。あまりの恐怖で、叫び出すこともできない。

『かわいそう』

 目の前にいる私は、私のことを憐んでいるように語りかける。
 口の動き、眉の動き、声の調子など、他人から見た自分はこんな感じなのかと見入る。

『私たち、おんなじですね』
「……誰なの、あなた」
『あなたですよ』
「違う。そんなの信じられるわけない」
『でも、本当なんです。あなたのこと、なんでも知ってるんです』
「何、それ……」
『あなたの見ていた夢、私もそばで見ていました。怖いですよね』
「……」
『誰かが代わりになってくれたら、どうして私ばっかりって思っていましたよね。そうですよね、わかります。なぜ私が選ばれたんでしょうね。きっと、私でなくてもよかったんですよね。これって誰でもできることなんですよ。それなのに、理不尽に一方的に連れてこられて協力を求められて、普段関わったことのないような人たちに囲まれて、ひどく気を揉んで気を使って、これっておかしくないですか? だって、私が呼ばれた側なんだから、私の方こそ丁重に扱われるべきなのに……それなのに、時には脅され、いいように使われ、蚊帳の外にされ……』

 聞きたくなかった言葉、しかし、確かに私が思っていた言葉を吐露される。

『あなたは確かに、自分以外の誰かにこの立場を変わって欲しいと願いましたよね。それなら、私がその代わりを勤めるのはどうでしょうか?』
「そんな……!」
『大丈夫です。あなたは死ぬわけではありません。ただ、私があなたの代わりにあなたの体を使役するというだけですよ。その間、あなたは、暖かい夢を見れるでしょう。あなたの大切な人と一緒にいつも通りの生活をして、笑みを交わし合い、心穏やかに日々を過ごせます。私が少し、脳を拝借するだけです』
「……」
『誰でもいいから変わってくれと、思いましたよね。それじゃあ、別に……

__私があなたになり変わったとしても、構いませんよね』

『自分の発言には責任をとってくださいね』と、穏やかな声色でたしなめられる。一人で勝手に結論を出すなと叫び出したかったが、いきなり手で口を塞がれて、思ったように声がでない。

『人間の肌って、こういう感触がするんですねぇ。暖かい……』

 そう結論づけると、目の前にいる私の顔がぐにゃりと歪んで、液体のようになる。その流動体は、どんどん重力にしたがって私の顔へと垂れてきた。人間だと思っていたものがいきなり形を変えたため、私はパニックになる。叫んで助けを乞おうとしたところで、口を手で塞がれる。
 その手は冷たくて、スライムみたいな感触がする。そう思っていたのも束の間で、どんどんその感触は人肌に似てきて、体温もどんどん高くなっていく。まるで、私が体温を分け与えているみたいに。
 先ほどから垂れてくる液体は徐々に私の顔を覆うようになり、息もできなくなってくる。口や耳、鼻の穴にもグングン侵入してくる。息ができない。これは溺れた時の感覚と似ていた。
 終いには頭蓋骨を突破することを目指しているのか、瞼を圧迫されている。このままいくと、目玉が頭蓋骨の中に落っこちてしまいそうな勢いである。この生き物は、確実に私の脳みそを狙っている。口の中にも生暖かい液体が充満しており、咳き込めば咳き込むほど気管の奥へ侵入してくる。

(ああもう、いいか)

 私は半ば諦めの境地に達していた。もうこれは助からないであろう。

(もう、いい)

 そう思っているのは本当だけれど体はやけに抵抗し、目の前にいる私に両腕をを拘束されてもなお、その束縛から離れようと身を捩る。体重を乗せてがっちりと固定されている足も、膝を曲げようとしては重みでまっすぐに伸ばされ、満足に抵抗ができない。

 耳に鋭い痛みが走った。おそらく、鼓膜が破れたのだろう。それを感じたもう一人の私がすかさずその奥へ、奥へと侵入しようとしているとーー

 くぐもった音しか聞こえない世界の中で、やけに明瞭に、彼の魔法の詠唱が聞こえた。



《クアーレ・モリト》



 その瞬間、パアン! と風船が割れるような音を発して、急に視界が明瞭になる。目の前のそれが、破裂した。
 スライムのような感触だったそれは、急に私の衣類に染みこむ橙色の液体となり、確かな重量を持って私に降り注いでいる。
 激しく咳き込みながら、勤めて呼吸を整える。
 次第に少し冷静になって辺りを見回してみると、扉を開け放ったところにオーエンが立っていた。月明かりがもたらす逆光によって、彼の表情は見えない。

「お、オーエ、」
「少し痛い目を見ればいいと思って、黙って見てたんだ。感想は?」
「はあ、はあ、はっ……」
「嫌な匂い。だからあんまり破裂させたくなかったんだ。色も気持ち悪い。橙色の血液なんて、普通の生物ではありえない。所詮、鮮血になり損ねた生物もどきなんだよ」
「ゔ……」
「……何? 吐くの? 吐くならあっち行ってよ」
「ちが……」

 違う、と言いたかったのだが、喉が熱くなってその後の言葉は出てくることはなかった。言葉を詰まらせ、今まで感じたことのないくらいおおきな耳鳴りを体験し思わずうずくまった私を、オーエンはさほど迷惑そうでもなく見つめている。本気で吐くとは思っていなかったのだろう。泣きそうになっている私をじっと観察している。

「こ、これは、何ですか。生き物ですか」
「……」
「オーエン、その、さっきの、こ、殺して」
「殺した」
「そ……ですか」
「何? 助けてほしくなんてなかった?」
「いや、そんなことは」
「嘘をつくなよ。隠し通す知性も能力もないくせに」
「あの、オーエ、」
「おまえは何にもわかっていない。何で世の中に禁止されていることが山ほどあるのか、考えたこともないんでしょ」
「……」
「おまえみたいな馬鹿がルールを破ることでこっちの手を煩わせるのが不愉快。馬鹿はホイホイルールに従っていればいいんだよ。余計なことは考えないで」

 そう言ってオーエンが指さした先には、砕け散った水晶のような石が転がっていた。割れていない姿を想像してみると、先ほど見たものとおんなじである。どうしてここに? もしかして、先ほど私が転んでそれを見逃してしまったことが原因だろうか。

「もしかして、これが原因なんですか」
「この期に及んでそんなことも分かってなかったの?」
「これは、なんですか」
「……核だよ。そいつらの本体」

 本当に聞きたいのかと鋭い目を向けられる。私に引く気がないと知ると、厄介そうな顔をしながら冷たく言葉を発する。

「厄災の影響の一つだよ。人にも魔法使いにも認知が及ばない存在で、この世の秩序も理も通用しないくせに、周辺の環境の真似をして姿形や声なんかも擬態をする厄介なヤツ。透明な核しか持たないけれど、そいつらにとっては僕たちの声を出す声帯が羨ましくて、雪を踏みしめる足が羨ましくて、衣ずれの音が羨ましくて仕方がないんだ。だから、おまえが発した何らかの音に反応して付いてきたんじゃないの? 普段はこの施設に隔離されて一面を雪で覆われているから、せいぜい雪玉くらいにしか擬態ができない。何にでもなれるが故に、あいつらに人間の知性を与えてはいけない。与えてしまったが最後、何が起こるか分からない。だから、こうやってこの施設で研究されている。さっき、おまえの夢の中に入り込んで、記憶を盗み見て、おまえそっくりに擬態したんだ。短時間であの吸収力。……まあ、あいつらにたかられてもどうと言うことはないよ。僕がひと突きすれば、あっけなく破裂して生命活動は停止される……」

 そこまで言うと、開け放たれた扉の方から物音が生じた。
 そこで気が付いたのだが、扉の向こうに大勢の誰かが待機している気配がする。この施設にいる人々だろうが、何故か部屋までは入ってこないため、それがすごく不気味であった。

「おまえが余計なことを知りたがるから、僕も余計なことを言った。本来おまえが知ってはいけないことを……今のは全部、魔法舎に帰る前に忘れろ」
「忘れろって……」
「おまえはいつもそうだね。問題ごとを持ち込むくせに、一人で解決する能力は持ち合わせていない……知ってる? 賢者様。居なくなっていい人間なんていないけど、居なくなることで社会が円滑に進む人間はいるんだよ」
「そんな......!」
「何? 違うって言いたいの? 高慢で無知な賢者様。僕は1000年以上生きてきたんだ。お前なんかより、この世の仕組みは手に取るように分かるよ」

 そこまで言わなくてもと思ったが、彼には共感性が欠如しているため言葉は止まることを知らない。もう少し優しい言葉で注意してほしいとか、そんな甘っちょろいことを思っているわけではない。けれど、こうもまざまざと自分が厄介者扱いをされると自己嫌悪に陥って、塞がった気分になってしまう。
 泣くまでには至らない、けれど心の奥深くでは確かに悲しいと感じる。叫び出したいくらい心に重くのしかかる彼の言葉は、反芻するたびにどんどん根付いていく。泣けないことが、かえってこんなに辛いとは思わなかった。

「本当に申し訳ありませんでした。私がもっと早くこの石を見つけたことを誰かに伝えていたら、あなたの手を煩わせることもなかった」
「いや、あの古ぼけた顔したこの施設の奴らは知っていたよ。知ってて放置したんだ。大方、新しい研究結果を得られるだろうと思ったんだろ。おまえも、廊下を歩いていたときにたくさん窓があったのをみたでしょ。僕たちも建物の外壁に沿って村を探索した。あれはミラーガラスだ。僕たちをずうっと観察していたんだよ。嫌な趣味だね」

 そこまで言い切ると忌々しそうに扉の方を見やる。すると蜘蛛の子が散るように人々は解散し、今度こそ正真正銘私とオーエンが二人きりになる。部屋は少しの間静寂に包まれ、オーエンは一つ上品なため息をつく。苛立った怖い顔をしていた。

「僕の知らないところで勝手な行動をして、その上勝手に死のうとしているし……くそ」

《クーレ・メミニ》

 彼が魔法を詠唱をすると、私の体はぼうっと湯の膜に包まれ、洗浄される。橙色の染みはすっかり綺麗になり、ここへ訪れる前よりも服が綺麗になったような気がした。そこでふと気が付いたのだが、嗅いだことのある香りが漂っている。その香りに思わず安堵し、何故か視界が滲んでくる。

「は、なに?」
「う、うぅ……」

 嗚咽を漏らしながら泣く私に、オーエンは理解ができないと顔を歪める。

(オーエンの香りだ)

 以前カインが言っていた自浄魔法の話を思い出す。やはり、オーエンのこの香りは彼の魔法によるものであったのだ。不本意ではあるが、今はそれがとても安心させてくれるものであったため、涙を流してしまう。

 こんなに厳しい言葉を与えられて、もう私の心はズタズタに引き裂かれている。おまけに、まだ体調も悪い。最近の彼との交流で少しは彼の心を手繰り寄せられたと思ったけれど、手繰り寄せたのは私ではなく彼で、しかも気まぐれだった。一生かかっても詰められない距離がある。絶望するには十分な材料である。

 それでも、彼が助けに来てくれたことでひどく安堵したのも事実だった。

「あの、オーエン」
「何」
「助けてくれて、ありがとうございました」
「はっ」

 鼻で笑われる。
 一度笑ってからは、ぼんやりとした顔で私の方を見つめてくる。
 次の言葉を待っているかのような間があったが、私が話すことができないでいるのを悟ったらしく、彼の方から言葉を投げかけられる。

「そんなこと、少しも思っていないくせに」
「思っています。本当です」
「あっそう」

 確かに先ほどまではもうこの体を手放そうとしていた人から発せられる言葉は信用ならないだろう。私もそう思う。


「オーエンは、死ぬのが怖くないんですか?」
「怖くない」
「でも、魂を隠しているんですよね。なぜ……」

 キッと睨まれる。踏み込んでくるなと釘を刺されている。
 私は、延命の花瓶に自らを活け続けるオーエンのことをただ、美しいと思っていた。

「私は死ぬのが怖いんです。それは何も肉体の死だけではなくて、このままこの世界にいて、たくさんの人と交流を深めた後に別れがやってきて、しばらくしたら皆が私のことを忘れて日常生活を送っていくんです。それが、とても耐えられなくて……それに、私が元の世界に帰られる保証だってないんです。もしかしたら、私は永遠に、彷徨って……永遠が怖い、怖いんです。終わりがなくて、だったらもうここで終わらせてしまおうかと思ってしまうくらいには……どうしよう……私は、私、どうすれば……」

 思わず、また涙が溢れる。
 我慢できなかった涙は、止めどなく瞳からこぼれ、地面にシミを作る。
 うずくまって泣き出した私を、オーエンは黙って見つめている。慰めるわけでなく、鬱陶しそうな顔をするわけでもなく、ただ、見つめているだけだ。

「寂しい……」
「……」

 寂しいとは言ったが、別に本当に寂しいとだけ思っているわけではなく。この感情に当てはまる適切な言葉が出てこないのだ。自分の語彙をもどかしく思うと共に、目の前にいる彼なら、この感情にどのような名前をつけるのだろうか。私よりも何倍も何十倍も生きてきたんだろう、知っているはずだ。答えを求めるように彼を見上げると、その端正に整った顔はすぐそばにあって、遅れて、頬に手が触れる。産毛に触れるように柔く撫でられ、そして、毛繕いをされるように、慰められるようにキスをされた。

 突然のことでびっくりしているのは私だけで、彼はさも当然のような顔をしてもう一度口付けをした。訳もわからず後退りをすると、彼も一歩こちらへ踏み込んでくる。

 彼の浮かべている表情を見て、じっとりと冷や汗をかいた。

 100人いたら100人が、彼は侮蔑の表情を浮かべていると思うだろう。
でも、わたしは、この世にたったひとりだけ、彼から仄かな愛を感じ取ってしまった。彼のことを見抜いてしまった。

 それはそれはもう、愛おしそうな顔をして、こちらを観察している。
この人にとって、私は子供なんだ。何も通りがわかっていない幼い存在。これまでは、逆にオーエンの方が秩序がなく、子供っぽい振る舞いをする人物だと思っていたが、逆であることを思い知らされる。なんて失礼なことをしていたんだろう。この人の生きてきた年数なんて、私の理解できる範疇にないのである。

 彼は、私の頬に当てていた手を少しずつ下に持っていき、少し迷うように、答えを導き出すように私の首筋をなぞった。親指でクッと喉仏を押され、思わず生唾を飲む。嚥下した動きが面白かったのか、クスリと笑われた。

 安寧を覆す愛が、垣間見えた。それに溺れたら、浸かったら、触れてしまったら。もう貴方なしで死ぬことは出来ない。輪廻の果てまで離してくれはしない。

 オーエンに惹かれていたことは確かである。

 しかし、彼とどうこうなりたいわけではない。今日、越えてしまった境界線をどうしたらいいのか見当もつかない。

 行先は分からない。
 結末も、分からない。そんな船に乗ってもいいのだろうか。
 慎重な私は、決断を下せないままでいる。

 それでも愛しいと思った。きっと、ずっと前からそうだった。顔も知らない過去の賢者の陰を見る度に、チリチリと嫉妬もしてしまう。

 彼は一体何を考えているのだろうか。情欲も恋心も何も、その瞳には映っていなかった。ただ、信じられないくらいの重さの愛を今、与えられている。私の短い一生を費やせば、この人の推測不明の愛しさは解明されるのだろうか。

 私があとどれくらい彼と一緒に居れるのかはわからないが、本当は知りたい、全部知りたい。あなたの香りも
や名前の由来も、あの村のことも、私を気に掛ける理由もーー

 でも、聞かない。聞いてしまったが最後、この人から離れがたくなって、また、涙を流すのだろう。

 もうこれ以上私を泣かす要因を増やさないでくれ。その願いは彼に届いたのか、まあ大方さっき言ったこのことは忘れろという言葉に呼応しているのだろう。


 次の瞬間には魔法が詠唱され、晶のここ数時間の記憶は綺麗さっぱりと無くなって、再び深い眠りについたのだった。













《クアーレ・モリト》


























 次の朝、晶はスッキリと目覚めた。体の調子も良く、とても寝心地の良いベッドで眠れたと歓喜した。なんとなく体を動かしたくなって、早くベッドから出ようとすると、床に砕け散っている綺麗な石を見つけた。
 少し首を捻り逡巡しているようであるが、やがてその欠片の一つ一つを拾い上げて、ハンカチに包んだ。
 ちょうどその頃、なかなか起きてこない晶に痺れを切らしたオーエンが彼女の部屋の扉を乱暴に叩き、返事を待たずに入ってくる。ズカズカと人の部屋に侵入してくる彼に、晶は特に気にした感じもなく、慣れているようであった。
 彼女はその石をどうしたものかと相談していたが、オーエンはそのハンカチ包みを彼女から取り上げると、自分のジャケットの内ポケットへ仕舞う。
何事もなかったかのように外套を翻し、彼は部屋を出て行く。取り残された晶は、急いで支度をして、彼の後を追いかけた。

 その時、やけに晶は自分の体からいい香りがすることに気がついた。
さて、なんの香りだったのだろうかと逡巡するも、思い出せそうで思い出せない。
 そのうち、せっかちな魔法使いにせかされて、彼らはこの無機質な雪景色からはおさらばする支度をするのであった。

















『光り、砕けろ』(終)
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