エイトリ短編

この夜に名前をつけたら


「主任、このあと一杯行きません?」
 HAMAツアーズのオフィスで残った仕事を片付けていた椛に、同じく居残って何やら作業をしていた添が突然投げかけてきた。パソコンの画面に向けていた視線を添の方へと向ける。顔を見てもただニコニコと笑っているだけで、その言葉の意図は読めない。
 このどこか見覚えのあるシチュエーション。椛の頭の中にはある一つのことが思い浮かんでいた。
「……添くん、またストーカーでもされてるの?」
 つい最近、彼と二人で飲みに行った日のことを思い出す。添の元カノが付きまとってくるので、恋人のフリをしてほしいというものだった。そのことを知ったのはストーカーを目の前にしてからだったが。あの時はストーカー相手がたまたま良い人だったから良かったけれど、次はどうなるかなんて分からない。自分自身ももちろんそうだが、添の身も危なくなるかもしれない。それだけは絶対に避けたいところだ。そう思うと、添の誘いに素直に頷けなかった。
 あの日のことを思い返しながら疑り深く見ていると、添はいつになく申し訳なさそうな顔をした。その珍しい姿に椛は内心驚く。
「あの時はすみませんって。でも、今回は違いますよ。ただ主任と飲みに行きたいだけです」
「本当に?」
「本当ですよ。それとも主任はオレが嘘ついてるって思ってるんですか? 信頼してるのに悲しいなー」
「い、いや、そうは思ってないけど……」
 まるで、しゅんとした子犬のような顔をされ、椛は思わずうろたえる。まさかそんな顔をされるとは。一層断りづらくなってしまった。
「じゃあ、行きましょう」
「うっ……はぁ、仕方ない。行くけど、ちょっと待ってね。キリのいいとこまで終わらせるから」
「はーい」
 気づけばいつも通りのニコニコとした顔をしていて、なんだか一杯食わされたかのようだ。だが、もう行くと言ってしまったので仕方がない。
(――何も起こりませんように!)
 そう心の中で願いながら、椛はまたパソコンの画面と向き合うのだった。

 仕事をキリの良いところまで進め、添に流されるようにしてオフィスを出ていった。『いい店がある』と言うのでついていき、とある居酒屋へと入った。今のところ物騒なことは何一つ起きていない。嫌な視線も感じない。それに、前は添からのスキンシップがやたら多かったが、今回はそれが全くない。むしろ、ちょっとだけ距離が空けられているぐらいだ。気を遣わせているようで申し訳なく感じる。椛は添を疑ってしまったことを反省した。空いていたカウンター席に案内され隣に座ると、真っ先に彼に向けて頭を下げた。
「添くん、ごめん……」
「別にいいですよ。気にしてませんから。この間はオレも悪かったですし。それよりほら、主任何飲みますか?」
 何も気にしてなさそうな涼しい顔でメニュー表を渡してくる。また気を遣わせたようで面目なくなったが、せっかく添が誘ってくれたのだ。めいっぱい楽しまなくては――

(ふわふわしてる……飲み過ぎたな……)
 二時間ぐらい経っただろうか。少し飲み過ぎたのか頭がふわふわとしてきた。ここ数日はオフィスに籠っていることが多く、疲れも溜まっていたのだろう。思わず酒も進んでしまい、羽目を外し過ぎたようだ。
「主任、大丈夫ですか?」
 隣に座っている添が先程と変わらず涼しい顔をして声を掛けてきた。自分と同じか、それ以上は飲んでいたはずなのに全く変わらぬ表情に驚く。
「う、うん。でも、ちょっと飲み過ぎちゃったかも」
「ここのお酒おいしいっすもんね」
「うん。それもあるんだけど、添くんとしゃべるのがなんだか楽しくて」
「え?」
 椛の一言に、添の涼し気な表情が崩れた。酒に酔ってふわふわとしている視界には、驚いている様子の彼が見える。けれど、それは一瞬のことだったのか、それとも酔っ払っていたせいで見間違えたのか、いつの間にか添は先程と変わらぬ笑みをたたえていた。気のせいだったのかもと椛は気を取り直す。
「添くん、聞き上手だからさ。楽しくなっちゃって。今日は誘ってくれてありがとうね」
 聞き上手なのはもちろん、些細なことにも気を遣ってくれて楽しい時間を過ごすことができた。まだ添と一緒に仕事をするようになって日は浅いが、今日は知らない一面を垣間見れたようで良かった。彼のことを好きになってしまう女の子たちの気持ちもよく分かった気がする。
「……主任が楽しかったなら何よりです」
「本当にありがとうね……それにしても、なんだか眠くなってきたなぁ」
 ふわりとあくびを一つ漏らす。おいしい酒を飲んで、おいしい料理でお腹を満たしたからか、急激に眠気が襲ってきた。そういえば、仕事が忙しかったせいで禄に睡眠も取れていない。だからか、重くなった瞼が閉じていくのも一瞬のことのようだった。

   ***

「ほんとに寝やがった……はぁ……」
 ここ最近、椛が根を詰めているようだったのでなんとなく連れ出してみたが、まさか目の前で寝られるとは。自分の目の前で誰かに眠られるのは何度目だろう。勘弁してほしい。このまま起きなければ、添が寮まで椛を連れ帰らなくてはならない。
(……社長とかに見つかると面倒だな)
 可不可どころか誰に見つかっても面倒なことになる未来しか見えない。やはり起こすしかない。
「主任起きてください。そろそろ帰りますよ。しゅ〜に〜ん〜」
 いくら声を掛けてものんきにすやすやと寝ている。その幸せそうな寝顔に、連れ出して良かったのかもしれないなんて柄にもなく思ってしまった。
 何気なく、彼女の艶々とした髪に手を伸ばす。さらさらと何度か梳いてみるが、起きる気配は微塵もない。
「……椛さん」
 普段は口にしない彼女の名を呼ぶ。呼んだところで起きる訳など――
「……ん」
 椛が小さく声を上げ、身動いだ。嘘だろと内心思ったが、彼女のとろりとした瞳がこちらを映している。
「あ、てんくんだ」
 いつもの明るく元気な感じとは違う、優しくてやわらかい、とろけたような甘い笑みを浮かべていた。きっと酔っているからなのだろうけれど、普段と違う様子に少しだけ言葉に詰まってしまった。
「……主任帰りますよ」
「は〜い」
 ふらついている椛の手を取り、店を出ていく。結局添が連れ帰る羽目になってしまった。歩くのも一苦労している姿にため息を零す。反対に、椛は相変わらず幸せそうに笑っていた。
(社長は、こういう主任の顔見たことあんのかな)
 どちらかといえばしっかりしていて、仕事もきちんとこなしている椛が、こんなに幼いかわいらしい子供のような表情を見せるとは思わなかった。
 ――これが自分だけだったら悪くないのかもしれない。なんて、そんな柄にもないことをまた考えてしまう。案外自分も酔っているのかもしれない。今はそういうことにしておこう。どうせ夜風に当たればそのうち忘れるだろうから。
 添は未だふらふら歩いている椛の手を握り直し、寮へと向けて歩き出すのだった。
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