アオハルプリズム
アオハルプリズム
今日も中庭には陽の光が優しく差し込み、空を見上げれば澄んだ青い空が広がっている。部長と小鳩の二人はそこにあるベンチに並んで腰掛けていた。膝の上にはそれぞれお弁当を広げている。
「ブッチョ、そんだけ?」
「そうですけど」
部長は自分の膝の上に置いてあるお弁当箱を見つめる。丸くてかわいらしいお弁当箱に、ごはんとおかずがバランス良く入れられている。対して隣の小鳩のお弁当箱はというと、部長のものより二倍、もしくは三倍ぐらいありそうな量だった。中身もボリューム満点という感じだ。
「腹減らないの?」
「そうですね……別にお腹は空かないかも」
「ブッチョ細いし、なんか不安。オレのおかずあげる」
「ありがとうございます?」
部長のお弁当箱に唐揚げとウインナーが足された。もらってばかりも悪いような気がして今度は部長から小鳩のお弁当箱に卵焼きを入れる。
「ブッチョって自分で弁当作ってんの?」
「たまに作ったりしてますね。今日は違いますけど」
そう言うと、小鳩は見るからに残念そうな顔をした。
「一瞬手作りかと期待しちまった……」
「そんなに食べたいなら今度作ってきますよ」
「エッ⁉ マジ⁉」
今度は一転、うれしそうに目を輝かせている。まるで小さい子供のようだ。そんなに喜ぶなら早く言えば良かったものだ。
「何か食べたいものがあれば言ってくれると。あと、苦手なものとかも」
「……考えとく!」
部長の言葉に小鳩は真剣な顔をして考えているものだから、思わず笑みが零れた。
今までは自分が食べるだけだったのでそんなに手の凝った料理はしてこなかったが、小鳩に食べてもらうならちゃんとしたものが作りたい。ささらや切子にでも教わろうかと考えつつ、もらった風祭家の唐揚げの味を堪能する。。
「それにしても今日めっちゃ天気いいな。午後の授業受けたくねぇ〜」
小鳩が空を見上げながら恨めしそうに呟く。確かにリドゥは晴れの日が多いが、今日は一段と気持ちの良い天気である。教室で授業を受けるより外にいたくなる気持ちも分からなくはない。
「授業なんかサボってどっか行きて〜。こういう日は駅前で遊ぶより海とか行くと気持ちいいんだろうな〜」
最後の言葉に部長の箸が止まる。――海。
「……リドゥって海あるんですか?」
ここに来てからそれなりに月日も経ったが、海なんて行ったことも見たこともなかった。そもそもここは、いわゆる都会の真ん中といった感じで自然に触れることもあまりない。ここで自然を感じられるのは橋姫御苑ぐらいだろう。
「あるよ、海。オレもそんな行ったことないけど。遠いし」
特段海が好きとかそういう訳ではないが、たまには自然にも触れたくなる。いつか一度ぐらい見に行けたら良いなと考えながらお弁当を食べ進めていると、小鳩が顔を覗き込んできた。
「ブッチョ行ったことないんだ? じゃあ、今から行く?」
驚きでごはんが喉に詰まりかけた。慌ててお茶を飲み込み、小鳩の顔を見る。
「今から行くって……授業をサボるってことですか?」
「そう!」
満面の笑みで小鳩はそう言ってのけた。数秒前にいつかと思っていたのがこのままだと今日になりそうである。小鳩は残っていたお弁当を一気に平らげ、どう見ても行く気満々だ。その姿を見て部長は逡巡する。
「もしかして、ブッチョってあんまサボったことない? でも、こうやってサボれるのも学生の特権だぜ? だから、行こうよ」
授業を受けるのも学生の特権なのではと思ったが、小鳩のうれしそうな顔を見ると断わるに断れない。どうせここは仮想の世界。半日ぐらいサボったところでなんともないだろう。部長は一つ息を吐き出した。
「……分かりました。一緒に行きますよ。でも、お弁当食べてしまうのでちょっと待ってください」
そう伝えると小鳩の顔が一層パァッと輝く。かわいいなと思いながら、部長もお弁当を全て食べ切った。隣ではすでに準備を終えた小鳩がうずうずしている。なんだか小鳩のことが犬のように思えてきた。大きな黒い犬がしっぽをブンブン振り回している様が脳裏に浮かんで思わず笑いそうになる。大型犬を頭の隅に追いやりながら部長がリュックに荷物を詰め終わると、待ってましたと言わんばかりに小鳩が立ち上がった。
「じゃあ、早速行こうぜ!」
小鳩に手を引かれ、改札口へと向けて歩いていく。まだ昼休み真っ只中なのでエントランスには人も多く、この中を通っていくのは中々心苦しい。小鳩はサボり慣れてるからか全く気にしてなさそうだが。部長は、親しい誰か――特に帰宅部の誰かに見られていないことを祈るばかりだった。
改札口に着き時刻表を見てみると、ちょうど海がある方面の電車がもうすぐ来るようだ。そのままホームへ向かうと当たり前だが誰もいない。二人だけである。
「……あ、吟と茉莉絵に一応連絡しておこうかな」
ふと二人のことを思い出し、ポケットからスマホを取り出す。二人のことだ、突然午後の授業からいなくなっていたら心配するだろう。WIREを開いて三人でのグループにメッセージを打ち込む。
「ノトギンとマリマリ心配するだろーからオレと行くって書いといたら?」
「じゃあ、小鳩先輩に誘拐されてますって送っておきますね」
「待って⁉ それは語弊を生むから‼ 絶対帰宅部内に広まってどこぞの風紀委員がすっ飛んで来るから‼」
「冗談ですよ」
必死な小鳩を横目に、部長は『小鳩先輩と一緒だから心配しないで』と文章を打ち込んだ。送信すると、目的の電車がちょうどホームへとやって来た。
停車した電車に乗り込むと、こちらにはまばらにだが人が乗っている。でも、ほとんどがNPCのようで顔は窺えない。逆に視線が気にならなくて良かったかもしれない。二人で空いている席に座り、電車は海の方へと向けて出発した。
「なんか、いいな。こういうの」
小鳩が呟くように零した。
「いっつも一人でサボってたし、ましてや好きな女の子と一緒とかさ。すげぇ青春っぽい」
「そうですね。私もなんだかワクワクしています」
それはきっと非日常感とかそういうのもあるのだろうけれど、一番は小鳩と一緒だからだろう。だから今自分はこんなにもワクワクしているのだと思う。流れていく外の景色を眺めながら小鳩とお喋りするのは、なんだかちょっとした旅行みたいで楽しい。
一駅進むたびにだんだんと車内の乗客は減っていき、いつの間にか車内には部長と小鳩の二人だけとなっていた。電車の走る音、暖かい日差し、小鳩の声。その全てを心地良く感じる。
それから少し時間が経つと、車内に終点のアナウンスが流れ電車は緩やかに停車した。窓から外を見ると、見たことのない景色が広がっている。
「よっしゃ、行こうぜ」
小鳩に手を引かれるまま外へと飛び出すと、ふわりと潮の香りが鼻を掠める。きっと海はすぐそこだ。
駅からほどなくしてその場所へと辿り着くことができた。
「わぁ……!」
部長は思わず声を漏らす。青い空の下、白い砂浜に透き通るような波が寄せては引いてを繰り返している。太陽の光を浴びて海面はキラキラと輝き眩しい。そこには現実世界となんら変わりない本当の海があった。
「本当にあるんですね」
「ウソだと思ってた?」
「いや、そんなことはないんですけど……びっくりしちゃって」
砂浜へと繋がっている階段を降り、海へと近づいていく。青空を映した水面がきれいだ。しばらく眺めていると、隣にいた小鳩が徐ろに靴を脱ぎ始めた。
「もしかして入るんですか?」
「せっかく来たんだしな。ブッチョも一緒に……」
小鳩が部長の足に目線を移した。部長の足は黒いタイツで包まれている。さすがにここで脱ぐのは忍びない。かと言って、辺りには隠れられそうな場所もない。ただずっと白い砂浜が続いているだけだ。
「オレしかいないしここで脱いじゃえば?」
「それでもさすがにちょっと……」
「じゃあ、こうするか」
小鳩が自身のパーカーを脱いで部長の腰部分にぐるりと被せた。パーカーは大きいのでゆとりがあり、タイツを脱ぐくらいだったらできそうだ。
「これで見えないんじゃね?」
「先輩からは見えるんじゃ……」
今小鳩は部長の正面に膝をついて座っていて、パーカーが落ちないようにファスナー部分を握っている。明らかにちょうど見えそうな位置に顔がある。
「大丈夫だって! 目瞑っとくから!」
「……不安なのでファスナー閉めますね」
「アッ⁉」
しょげている小鳩のことは放っておいて、ファスナーを閉め素早くタイツを脱いだ。素足で砂浜を踏み締めると、じんわりと熱が伝わってくる。砂粒もそんなに大きくなくサラサラしているのであまり足は痛くならなそうだ。
「小鳩先輩終わりましたよ」
なんだかんだで小鳩はしっかりと目を瞑ってくれていた。パーカーを返すと、なぜだか口元がニヤニヤとしている。
「ブッチョの生足……」
「じゃあ、私先に行ってますね」
「あっ、ブッチョ! 待って!」
部長は小鳩を置いて波打ち際へと駆けていく。髪を撫でていく風が心地良い。先に到着した部長はそっと水に片足をつけた。ちゃぷんと音を立て、そこから波紋が広がっていく。水はひんやりとしているが今日のこの気温だと気持ち良いぐらいだ。もう片方の足も水につけ、浅瀬を歩いてみる。
「ブッチョ!」
「わっ、びっくりした」
遅れてやって来た小鳩が後ろから体を抱き締めてきた。部長の肩に頭を押しつけてくる。先に行ったから拗ねているのかもしれない。
「せっかく一緒に行こうと思ったのに!」
「だって先輩が変なこと言うから」
二人でそう言いながら顔を見合わせると、自然と口元が緩み笑い出す。そのまま二人でしばし笑い合うのだった。
***
小鳩は海を見つめながら、一人物思いに耽っていた。どこまでも続いているように見える海。現実世界ではそうだろうけれど、きっとこの世界では途中で途切れ、終わりがあるのだろうなんてぼんやりと考えていた。
部長と海に来て数時間が経った。あれから浅瀬の方を歩いてみたり、水を掛け合ったりとまるで童心に返ったように海での時間を満喫していた。半ば強引に連れてきてしまったのではと小鳩は内心思っていたのだが、珍しくはしゃいでいる部長の姿を見るとそれは杞憂に過ぎなかったのだと思う。
「何してんの?」
ふと、部長の方を見ると砂浜にしゃがみ込んで何かしている。
「きれいな貝殻が落ちてたんです。キィにあげようかなって」
こちらに向けた手のひらには小さなピンク色の貝殻が乗せられていた。キィの喜ぶ姿が容易に頭に浮かぶ。今日も気を遣ってか、キィは表に出てこない。小鳩も部長の隣に座り込み、何かないかと砂の上を探してみる。すると、小さなガラスの破片のようなものを見つけた。長い間海を漂っていたのだろう。角は取れ丸く、少し曇ったようになっている。小鳩は部長にそれを見せるように手のひらを向けた。
「こういうの小さい頃しませんでした? 貝殻とかガラスのかけら拾ったり」
「オレはどっちかと言うと泳いだり遊ぶほうだったな」
「ふふ、なんか想像できます」
小鳩と部長、二人の笑い声と、さざ波だけが辺りに響く。周りには誰一人いない。まるで世界に二人だけみたいだ。本当にそうだったら良いのに、なんて。隣に座る部長の横顔を見つめながら、小鳩はふとそう思った。
「いつかみんなでも来たいですね」
小鳩とは違い、部長の頭の中にはみんなの姿もあるようだ。邪なことを考えているのは自分だけかもしれない。そのことに気づいて心の中で苦笑する。
「……そうだな。その時は水着着よーぜ。ブッチョの水着姿見たい!」
「えぇ……まぁ、考えときますね」
いつものごとく断られるかと思ったが、恥ずかしそうに言われた言葉に心の中でガッツポーズをする。案外言ってみるものだ。
「あとは、夜だったら花火とかも楽しそう」
「それもイイな〜。じゃあ、浴衣も」
「もう、小鳩先輩が見たいだけじゃないですか」
少し呆れたように部長が笑っている。男だったら、彼女の水着も浴衣もどんな姿も見たいと思うのは当然のことだろう。今からその日のことが楽しみでしょうがない。
頭の中でみんなで海に来た光景を想像する。きっといつもよりにぎやかになることだろう。海で泳いだり、ビーチバレーをしたり、砂でお城を作ったりするのはさすがに子供っぽいだろうか。夜になったらみんなで花火をして、線香花火の飴玉が落ちるあの儚い瞬間までめいっぱい楽しみたい。その時、きっと隣には――
「小鳩先輩?」
部長の声にハッとする。頭の中の光景と今見ている景色の境界線が曖昧になり、いつの間にかぼうっと部長のことを見つめてしまっていた。なんでもないからと小鳩が口にしようとすると、なぜか部長がこちらを向いて目を瞑っている。その顔は何かを待っているようだった。――そう、まるで小鳩からのキスを待っているかのような。
「もしかして、オレがキスしたいのかと思った?」
小鳩が声を掛けると、部長は目を見開き頬を赤く染めた。図星のようだ。
「先輩こっち見つめてたから、キスしたかったのかと……今のは忘れて下さい」
「あっ、待って」
顔を背けようとする部長に手を伸ばし、こちらに抱き寄せて触れるだけのキスを落とす。視線を合わせると、恥ずかしさからか瞳を潤ませていた。それを見て、今度はまぶたにもキスを落とす。そのまま続けていると、くすぐったそうに笑い出した。
「海でキスすんの、なんかロマンチックだな」
「……そうですね」
海を背にキスをして、抱き合っているなんてロマンチックな光景に他ならないだろう。この光景を見ていて小鳩は思いついたことがあり、ポケットからスマホを取り出す。そして、それを当たり前のように部長に向けた。
「ブッチョ、写真撮ってもいい?」
「私だけですか? せっかくだから、小鳩先輩も一緒に撮りましょうよ」
「え、いいの? ツーショット」
「恋人同士って普通こういうのするんじゃないんですか?」
恥ずかしがって嫌がるかと思っていたが、部長もこの関係に慣れてきたのかもしれない。うれしくて堪らない。
「じゃあ、ブッチョこっち寄って。ほら、もっと」
海をバックに肩を抱き寄せて、画面に収まるように体を密着させた。画面に収まる自分たちを見ていると、不思議な気持ちになる。あの頃は恋人同士になれるなんて思いもしなかったから。
この大切な瞬間を、記憶を切り取るように小鳩はシャッターのボタンを押した。
「……まだ、見てるんですか?」
暗くなる前にと電車に乗り込み、空いている席に二人で並んで座っていた。その間も小鳩はずっと先程撮った写真を愛おしむように眺めていた。初めての部長とのツーショット写真。うれしくない訳がない。
「だってうれしいからさ〜。てか、ブッチョ眠そうじゃん。寝なよ、まだ長いんだし」
部長のまぶたはさっきから開いては閉じてを繰り返している。珍しくはしゃいでいたから疲れたのだろう。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
数分後、隣から規則正しい寝息が聞こえてきた。小鳩は自身のパーカーを脱いで部長の膝に掛ける。こてん、と肩に頭が寄りかかった。幸せそうな寝顔に今日が楽しかったことが窺えてうれしくなる。
小鳩も眠気が襲ってきたのか一つあくびを漏らした。人が増えれば目も覚めるだろうし、少しぐらい寝ても大丈夫だろう。そう思いまぶたを閉じると、いまだに今日のあのキラキラと輝く世界と、隣で幸せそうに笑う部長の姿が脳裏に焼きついている。
「……今度こそ持って帰れますように」
小さく呟いた願いはきっと誰も知ることはないだろう。愛おしい人の手を握り締め、小鳩はゆるやかにまどろみの中へと誘われるのだった。