アオハルプリズム
雨音と
小鳩がついた盛大なため息によって、キィによる本日何度目かの言葉が放たれた。
「コバト! 今日はパトロールだからな! キィもいるからな!」
「分かってるって! だからそんな何回も言うなよ」
まるで念押しするように口うるさく言うキィに、小鳩は内心苛ついていた。
放課後、部長から今日のパトロールに付き合ってほしいと言われ、小鳩はすぐさま了承した。部長と二人でパトロールなんて、ほぼデートみたいなものだろうと思っていたからだ。今はその頃の自分が少し恨めしい。しかも小鳩が苛つく原因は他にもあり、キィは小鳩と部長、二人の間を遮るようにいるのだ。そのせいで部長と手も繋げやしない。パトロールの予定は一時間。あともう少しでそのぐらい経つはずだ。終わったらキィには戻ってもらい、部長の体を抱き締めてキスをして、手を繋いでどこかにでも遊びに行こう。そんなことを考えながら奥歯を噛み締め怒りを抑える。
「だいぶ歩いたね」
「そうだな〜この辺ってあんまり来たことないよな〜」
辺りを見渡してみると、いつの間にか住宅街の方へとやって来ていた。公園では子供が楽しそうに遊んでいたり、主婦たちは井戸端会議に勤しんでいる。見る限り平和そのものといった感じだ。周りの風景を見ていると小鳩はあることに気づいた。
「つか、この辺オレんちの近くだな」
イライラしていて、周りの景色を見る余裕がなかったから気づかなかったのだろう。
「小鳩先輩のお家この辺りにあるんですね」
「ブッチョはこっちじゃないもんな」
「はい。あまり来たことがないのでなんだかちょっと新鮮な気持ちです」
楽しそうに笑う部長に頬が緩む。その姿を見ると、パトロールをしているということを忘れそうだ。今日見て回ったどの場所も何事もなく平和だったので、パトロールというよりはただ散歩をしていただけかもしれない。
「……そろそろ一時間経ちますから終わりにしましょうか。先輩、家近くならこのまま解散にします?」
「エッ⁉ ちょっ、まっ……」
部長に解散を切り出され小鳩は慌てる。まだ手を繋ぐのもハグもキスも何もできていない。ただイライラさせられて歩き回っただけだ。このまま帰るわけにはいかない。
「ブッチョ、このあと良かったらオレと」
――遊びに行かないか、と小鳩が続けようとすると突然辺りが暗くなってきた。
「なんか暗くなったぞ?」
「急に曇ってきた……?」
空を見ると先程まで雲一つない青空が広がっていたのに、今は薄暗い雲が空を包んでいる。まるで今にも雨が降り出しそうな。小鳩がそう思っていると、ポタリと何か雫のようなものが頬に落ちてきた。一粒、二粒と頬を滑り落ちていく。本当に雨が降ってきたようだ。公園で遊んでいた子供たちや井戸端会議をしていた主婦たちも慌てて駆け出していく。そんな中、三人だけが空を見上げ道に突っ立っていた。
「これって雨ってやつか?」
「そうだけど、リドゥで雨って初めて見たかも」
部長の言うように今までリドゥで雨が降ったことはない。部長より長くここにいる小鳩ですらも見たことがなかった。
呆然と立ち尽くしていると、最初は小さな雨粒だったのが次第に大きな雨粒に変わっていく。雨足が強くなってきた。
「一旦どこかで雨宿りしましょう! キィは濡れないように私の中に戻って」
雨宿りできそうな場所がないか辺りを見渡すと、先程見た公園に屋根のある場所を見つける。そこまで部長と二人で走っていった。
「うぇ〜びっしょりだな」
「そうですね」
髪は濡れて額に張り付くし、服は水気を吸って重くなっている。パーカーの裾を絞りながら、空を見上げてみるが一向に止む気配はない。
「小鳩先輩、良かったらこれ」
そう言って、部長は小鳩にハンカチを差し出してきた。部長の顔には水滴がついており、自分はまだ拭いていないのだろう。
「いやいや、ブッチョ自分を先に……んん⁉」
小鳩はそう言いかけて目を見張った。部長の胸元、多分下着であろうものが透けていたからだ。シャツが黒いおかげで色までは分からないが、濡れて完璧に下着のラインが出ている。いつもの自分だったら大喜びのところだが、ここは外である。誰かにこの部長の姿が見られるという可能性が大いにある。そして、本人はこの感じから全く気づいていないのだろう。
「どうかしました?」
「ブッチョこれ着てろ‼」
小鳩は急いで自分のパーカーを脱ぎ部長の肩に掛けた。
「え、なんでですか?」
「いいからお願い!」
部長は首を傾げながらも小鳩のパーカーに袖を通した。小鳩のパーカーは部長にとってはぶかぶかで手もスカートもすっぽり隠れている。こんな状況でなければ諸手を挙げて大喜びだっただろう。
「雨止みませんね」
ザーザーと降りしきる雨にどうしたものかと頭を悩ませる。このままでは二人とも風邪を引いてしまうかもしれない。どこか温まれる場所があれば良いのだが。――場所。その瞬間、小鳩は閃いた。
「そうだブッチョ、オレんち行こう! 風呂入れるし! 雨止むまでさ!」
小鳩の家まで行けば、お風呂に入って体を温めることができるし、着替えも貸せるだろう。部長に向かってそう提案してみたが、本人の表情は悩ましげだ。
「突然お邪魔するのは悪いですよ。コンビニとかだったら傘売ってるかもしれないし、それなら電車に乗って……」
「いやいやいや‼ それは絶対にやめといた方がいい‼」
「な、なんですか? さっきから変ですよ先輩」
不審な目でこちらを見つめている。言わない方が良いと思っていたが、こうなったらちゃんと説明するしかない。周りに人はいないが、部長の耳へとそっと口を寄せる。
「……下着、透けてる」
「っ⁉」
途端に顔を真っ赤にして小鳩の顔を見る。小鳩は本当だと言うように頷いた。部長は恐る恐る自分の胸元を見ると、バッとパーカーで前を隠した。
「……すみません」
「別にブッチョが謝ることじゃないだろ。だから、その……オレの家に来ない?」
部長は恥ずかしげにこくりと頷いた。
◇◇◇
雨が降る中を走り抜け、なんとか小鳩の家までやって来た。玄関を開けると、しんと静まり返っている。もしかしたら母親がいるかもと思っていたが、どうやら誰もいないようだ。
濡れたまま上がり、風呂場にタオルを取りに行く。ついでに浴槽にお湯を張るようにしておいた。体を拭き終わる頃には入れるようになっているだろう。
「はい、タオル」
「ありがとうございます」
「キィが拭いたる!」
飛び出してきたキィがタオルを受け取り部長の体をワシャワシャと拭いていく。
「今風呂入れるようにしてるから、ブッチョ先入っていいよ」
小鳩がそう言うと部長は遠慮するように両手を振った。
「え、悪いですよ。小鳩先輩のお家なのに。それに先輩も体冷えてますよね?」
「じゃあ、一緒に入る?」
「……お先にいただきます」
冗談のつもりで言ったのに、顔を真っ赤にしているものだからかわいくてしょうがない。ニヤける口元を必死に隠す。
一通り拭き終わると、ちょうどお湯をため終わったことを知らせる音が流れたので、部長を風呂場へと連れて行く。
「あとでブッチョが着れそうな服探してくるから、とりあえずはこれ着といて」
着替えを渡し、簡単に説明してから小鳩は脱衣所から出た。
部長が出てくる前に濡れた床でも拭いておこうと玄関に戻る。その間にだんだんと頭が冷静になってきて、この状況が大変まずいのではという気持ちになってきた。誰もいない家に二人きり。しかも部長は今、毎日自分が使っている風呂に入っている。こんなシチュエーション誰だって興奮するだろう。そんな煩悩を振り払うように一心不乱に床を拭き、無心になるように心がける。
「……いや、無理だろ」
雨音に混じり、浴室の方からシャワーの水音が微かに聞こえてくる。それだけでも小鳩の胸は非常に高鳴っていた。一時間ほど前までのイライラが嘘のようだ。このままでは良くないと思い、冷静さを取り戻すために頭を振る。
床もずいぶんきれいになったので部長の着替えを探してこようと姉の部屋へと向かい、何着か見繕って風呂場の前へと戻ってきた。
「お前ここで何してんだよ?」
風呂場のドアの前でなぜかキィが腕を組み仁王立ちしている。
「コバトが覗かないように見張ってるのだ!」
「は、ハァ⁉ の、覗いたりとか⁉ しねーし⁉」
否定しようとしたのに動揺してしまい逆に怪しさが増してしまった。正直、ほんの少しくらいはそんな邪な気持ちもなくはなかった。
「動揺しすぎじゃないか?」
「二人ともどうかしたの?」
「ワーーーーーッ⁉」
突然ドアが開いて部長が顔を覗かせたので、小鳩は思わず叫んでしまった。部長も驚きでビクリと体を揺らす。
「部長おかえりー!」
「お風呂ありがとうございました。おかげで体が温まりました」
よく見るといつもは一つに括っている長い髪を下ろしている。湯上がりなのと普段見ない姿とで胸がドキドキとしてきた。悟られないように平静を装う。
「どーいたしまして。着替え一応用意したから着れそうかあとで見て」
「わかりました」
そうは言うものの、部長はずっとドアの隙間から顔を覗かせるばかりでこっちに出てこようとしない。
「どうかした?」
「えっと、あの小鳩先輩。できればズボンも欲しいんですけど……」
もじもじとしながら部長はこちらを見つめている。小鳩はとりあえずの着替えとして普段自分が着ているスウェットを部長に渡していた。それも上だけである。どうせ自分の服では大きいだろうし、ズボンはいらないのではと思ったからだ。あとは、ただ自分の服を着せたいという欲に忠実になっただけである。
「どーせオレの服デカいし、下見えないんじゃね?」
「それはそうなんですけど……」
おずおずと小鳩の前に出て来た部長は、恥ずかしそうにスウェットの裾を掴んで引っ張っている。ぶかぶかすぎて今にも肩がずり落ちそうである。
「えろ……じゃなかった、どーせオレしかいないんだし!」
「心の声漏れてるぞ。あとキィもいるんだからな!」
キィに白い目で見られたが、部長の姿があまりにも愛おしすぎて痛くも痒くもない。欲望に忠実になって良かった。この姿を写真に収めたい気持ちもあるが、絶対に断られるだろうからしっかり目に焼きつけておこう。
「先輩次入りますよね。私どうしたらいいですか?」
「んー。とりあえずオレの部屋でも行くか」
いつ誰が帰ってくるか分からないし、リビングに居るよりは自分の部屋に居てもらう方が良いかもしれない。
「じゃあ、コバトの部屋にレッツゴー!」
小鳩は部長とキィを連れて自分の部屋へとやって来た。ドアノブを捻りながら、そういえば片付けていないのではないかと一瞬頭に過ぎる。だが、そう思うには遅すぎた。バッと開いた先のテーブルの上には一番見られてはいけないものが置いてあった。反射的にドアを閉める。
「あ……」
後ろから小さな声が聞こえたので小鳩は戦慄した。恐る恐る振り返ると、部長が手で口を押さえている。そして、目が合うと視線を逸した。
「……もしかして、見た?」
「いや、あの、その……」
「絶対見てるじゃん‼」
部長は頬を赤らめ目が泳いでいる。よりにもよって部長に見られてしまい、小鳩の頭の中はパニックだ。どう言い訳しようかと考えていると、状況がよく分かっていないであろうキィがきょとんとしている。
「どうしたんだ? 入らないのか?」
「そ、そうだよな。ちょっと片付けてくるわ」
小鳩は二人を置いてそそくさと部屋の中に入ると、テーブルの上にあった雑誌を棚の中に隠し、その他の散乱している物も片付けた。そして、廊下で待っている二人を招き入れる。
「はい、どーぞ‼」
「お邪魔しまーす!」
「お、お邪魔します……」
部長だけ動きがなんだかぎこちない。なぜ今日に限って片付けなかったのかと悔やむばかりだ。部屋の中に変な空気が漂う。
「もしかして、アレか? 空気読んだ方がいいやつ?」
この雰囲気を感じとったのかキィが部長と小鳩の顔を交互に見やる。
「パトロールは終わったし、キィもう疲れたから戻って寝ておくな! あとは若いお二人で! おやすみー!」
そういうやつだろ、と言いたげに親指を立てながらキィは部長の中へと戻っていった。何か勘違いされているような気もするが、二人になれるのは好都合である。
小鳩はベッドの縁に腰を下ろし、部長を見ながら隣をポンポンとたたいた。戸惑いながらも部長も同じようにそこに座った。どういう風に切り出すか迷っていると、先に部長が口を開いた。
「……先輩もああいうの見るんですね」
呟くようにぽつりとこぼした。小鳩が何も言えないでいると、パッと顔を上げた。
「えっと、怒ってるとかそういうのじゃなくて! ちょっとびっくりしたというか……先輩も男性、ですもんね……」
その言葉に、小鳩は突然部長の肩を掴んだ。驚いた部長が身を固まらせる。ほんの数秒だけ見つめ合い、小鳩は口を開けた。
「そういうことするのもしたいのもブッチョだけだから!」
「……それはそれで反応に困るんですけど」
部長は頬を赤く染め目を伏せている。――かわいい。そう思ったら勝手に体が動いて、薄桃色の柔らかなそれに口づけていた。部長の目が驚きで見開かれる。
「ごめん。かわいくて、つい」
いつの間にか耳まで真っ赤に染まっている。顔を見る限り嫌ではなさそうだ。もう少しだけと、今度は角度を変えて口づける。ちゅ、と小さな音が雨音に混じって消えた。すると、肩を少しだけ押され部長の顔を見る。
「……先輩、お風呂行かないんですか?」
「後でいーよ。ブッチョが先。だって今日全然イチャイチャできなかったし」
もう一度唇に触れた。それから何度も何度も柔らかな唇を味わうようにキスを落とす。その間、部長は一切抵抗しなかった。
「んっ」
最初は聞こえていた雨音も次第に遠くになっていく。リップ音とたまに混じる吐息。ただそれだけが小鳩の脳内を支配していた。
「ふっ……んんっ」
幾度となく繰り返していると、小鳩の肩を掴んでいる手にぎゅっと力が入った。唇を離すと、とろんとした瞳が小鳩のことを見つめている。
「ごめん。苦しかった?」
「……はい。ちょっと息、できなくて。あと、いっぱいされると……おかしくなっちゃう、から……」
「あんま煽んないでよ」
背中に腕を回し、自分より小さな体を抱き締めた。風呂上がりからか、それともキスをしたからなのか、部長の体はとても温かい。肩に頭を預けると、ふんわりと自分と同じ香りがして興奮が高まる。
いつの間にか部屋には明るい光が差し込んでいた。どうやら雨が上がったようだ。あの突然の雨がなければ今こんなことにはなっていなかっただろう。小鳩にとっての恵みの雨だったのかもしれない。さすがに雨も止んだし、そろそろ部長を帰さなくてはいけない。もう少し一緒にいたいけれど。
「あと一回だけイイ?」
「……これで最後ですよ?」
困ったように微笑む部長に、愛おしさが込み上げてくる。その愛おしい顔を両手で包み、もう一度キスをして、温かな体を抱き締めるのだった。