アオハルプリズム
青春のはじまり
「……ブッチョのこと好きだな」
心に秘めていた言葉が不意に口から零れ落ちた。一瞬、自分が何を言ったのか分からず思考が停止する。小鳩の視線の先――読書をしていたはずの部長が、手元の本に落としていた視線をこちらに向けた。驚きと戸惑いに満ちた瞳が小鳩のことを見つめている。瞬間、先程のことが脳内を駆け巡り全身に熱が迸る。慌てて口を押さえたが零れたものはもう戻らない。
――数分前。小鳩は授業を終えると、いつものようにキィトレインへとやって来ていた。電車内に入ると、他の部員は見当たらず、部長一人だけがそこにはいた。
「小鳩先輩、こんにちは」
そう挨拶した部長の膝の上には何やら本が置かれている。読書中のようだ。
改めてよく見渡してみても、部長以外の姿はどこにもない。同じクラスメイトの吟や茉莉絵、それどころか部長の半身であるキィの姿もないことを不思議に思っていると、小鳩の様子に気づいたのか部長は答えてくれた。
「吟も茉莉絵も用事があるそうで、遅れて来るそうです。キィだったら向こうの車両にいますよ」
そう言って隣の車両を指差す。ということは今この車両には小鳩と部長の二人しかいないということだ。誰もいない車両に二人っきり。
「隣、いい?」
「どうぞ。あ、私に何か用事とかあります?」
「いや、別になんもないから。読んでていいよ」
「ありがとうございます。キリがいいところまで読みたかったんです。もし何かあったら声掛けてくださいね」
そう言って、部長はまた手元の本に視線を落とした。隣にと自分から言ったものの、そこに座るほどの勇気はなくて一人分空いたところに小鳩は腰を下ろした。
特にすることもないのでGossiperでも見るかとスマホを取り出した。いつものようにⅮⅯが来ていないか、最近流行っているものなどをチェックする。電車内はしんと静まり返っていて、時折聞こえてくるのは本のページを捲る音と小さな息づかいだけ。やけにそれだけが耳の奥に残り、心臓の音が早くなるのを感じる。鎮まれとスマホの画面を凝視してみるが、正直ちっとも頭に入らなかった。
ふと、ちらりと横目で部長の様子を窺う。真剣な表情で本に綴られた文字を追っていた。本の表紙を見たところで小鳩にはどんな内容かも分かりっこない。けれど、小鳩の視線にも気づかず集中しているほどだ。これだけのめり込んでいるのだからおもしろい内容なのだろう。
少し伏せられた瞳は長いまつ毛で縁取られ、呼吸を続ける唇は薄桃色に色づいている。小鳩はぼうっとその横顔を見つめていた。見惚れるとはこういうことを言うのだろう。部長は表情がころころと変わるような子ではないが、ちょっとした表情の変化がかわいらしくて見ていて飽きることがない。出会ったばかりの頃はミステリアスで少し近寄りがたいような雰囲気もあったが、帰宅部に入って一緒に過ごすうちにその印象も変わっていった。近づきたいと思っていたあの頃とは違う感情が小鳩の心の中に芽生えていた。
いつからだろう、部長のことを好きになったのは。今だって、きれいだなとか、かわいいとか、やっぱり好きだ、なんてそんな気持ちばかりが頭の中を占めていた。だからだろう、ついぽろりと口から好きが零れてしまった。
「アッ⁉ いや、えっと、今のは口が滑って⁉」
思わず立ち上がりなんとか誤魔化そうと試みる。部長の顔を直視するのが怖くて、視線をきょろきょろと彷徨わせた。部長は未だ何も言わない。次第にだらだらと嫌な汗が押し寄せ、背中にも服が張り付いているような気がして気持ち悪い。
「全然そんなつもりじゃなくてですね⁉ ほ、ほら、ブッチョってば、本読むのほんと好きだな〜って! ね⁉」
我ながら無理のある誤魔化し方である。喋れば喋るほど墓穴を掘っているような気がしてならない。
このまま部長に嫌われてしまうのが一番怖い。いっそのこと、弁明などせず潔く認めて振られてしまったほうが少しはマシかもしれない。でも、その後部長と普通に接していけるのだろうか。今までみたいな関係に戻れなかったら。どうしても嫌なことばかりが頭を過っていく。もう、どうしたらいいか小鳩には分からなかった。
「……本当にそういう意味で言ったんですか」
ずっと黙り込んでいた部長が口を開いた。自然と部長の方へと目線が向いてしまう。その表情と声からは、怒っているようにも悲しんでいるようにも受け取れて、もうどうしたらいいか小鳩には分からなかった。
異様に張り詰めた空気の中、部長は突然立ち上がった。そのまま小鳩に向かって一歩距離を詰める。縮まった距離に後ずさりしそうになったが、部長の瞳がこちらを真剣に見つめており動けなかった。そして、部長の凛とした声が静かな空間に響いた。
「私、小鳩先輩が好きです」
部長が何を言ったのかすぐにはうまく飲み込めなかった。放心状態のまま数秒後。
「……ま、マジ?」
回らない頭ではこんなことしか言えなかった。
「嘘ついたりしませんよ」
部長の顔を見るかぎり嘘をついているようには見えないし、そもそも嘘をつくようなタイプではない。しかし、まるで夢のようで中々信じることができずにいた。
「でも、ほら! 好きにもいろいろ種類あるじゃん! 友達とか親愛みたいな……」
そう言うと部長は頬を赤く染め、目を伏せた。その姿だけでも充分なくらいだった。
「……恋愛感情の好きですよ」
「エッーーーーー⁉」
小鳩の大きな叫び声が電車内に響き渡った。部長がビクリと肩を揺らす。
「あっ、ごめん。デカい声出して」
「大丈夫です。ちょっとびっくりしただけで……」
そのまま二人して黙りこんでしまった。部長が自分のことを好きだという事実に驚きすぎて、うまく思考がまとまらない。少し間が空いて部長がぽつりと呟いた。
「先輩はどう、なんですか」
潤んだ瞳がまっすぐとこちらを見つめている。その姿を見て、なんて自分はカッコ悪いのだろうと思った。部長は相変わらずかっこいいな、とも。もう部長にそんな姿は見せられない。自分の思い描いていた理想とは違ったけれど、それでも――
「オレも……ブッチョが好き。だから、オレと付き合ってください」
「……はい」
顔を上げた先には、目を細めてうれしそうに笑う部長がいた。うれしさのあまり、この胸の中に抱き寄せたくて部長の方へと手を伸ばす。あと数センチというところでそれを遮るように機械的なドアの開く音がした。
「オイ、コバト! 向こうまで声聞こえてるぞ! もうちょっと静かに……って、何二人とも顔赤くしてるんだ?」
小鳩の叫び声を聞きつけたのか、隣の車両からやって来たキィが何やってるんだと訝しげな顔をしている。小鳩は自身の顔が赤くなっているとは思わなかったので驚いた。伸ばしかけた手をぺたりと自分の頬に当てるとそこから熱が伝わってくる。部長を見ると自分と同じことをしていたので思わず頬が緩んだ。
「二人して風邪とか? いや、キィ元気だし違うか。……まさか、アレか? コクハクってやつ?」
「なんでお前そんな勘がいいんだよ」
「アタリなのか! その感じだとうまくいったんだな? 良かったな、部長!」
キィは部長の手を取りその場をぐるぐると回る。はしゃぐ姿はまるで小さな子供のようだ。
そんな中、ふと一つ疑問が頭に浮かんだ。キィの今の言い方だと前から部長が自分のことを好きなのを知っていたような口ぶりだ。部長とキィは一心同体だし、そういうのももしかしたら分かるのかもしれない。ひとしきり回り終わったあと、キィは小鳩の方に向き直る。
「部長はな、ずっと前からコバトのことがすっ⁉ んぐっ⁉」
後ろから部長がキィの口を押さえていた。キィは離せとでも言うように暴れている。頭に浮かんでいたものはどうやら当たりのようだった。
「キィ、ちょっと黙っててね」
「オレは続き聞きたいなー」
「聞かなくていいです!」
顔を真っ赤にして恥ずかしそうにする様は、今まで見たことのない姿でちょっとだけ優越感を感じた。
「ブッチョと恋人になれるとか夢みたいだぜ。……夢じゃないよな⁉」
「ふふ、夢じゃないですよ」
隣にいる部長が顔をほころばせている。夢のような世界だけれど夢じゃなくて。なんだか不思議な感覚だ。張り詰めていた緊張の糸が解けたようで、座り直すとドッと疲れが押し寄せてきた。キィは気を遣ってか、また隣の車両へと戻っていった。
「それにしてもさっきのオレ、カッコ悪かったな……」
先程のことを思い出すだけで心の傷が抉られる。告白するにしても、もっと雰囲気のある場所で良い感じのときに言いたかったものだ。結果的に部長から言わせてしまった感じになったことも含めて本当にカッコ悪い。
「そんなことないですよ。先輩はいつもかっこいい」
どうしてこうもすぐに喜ばせてくるのだろう。いとも簡単に心が乱されてしまう。
「でも、私、恋人ができるの初めてで」
「エッ⁉ ブッチョ、オレが初めて⁉」
「そうですね。現実でもいなかったですし」
美人な部長のことだ。男の一人や二人ぐらい付き合ったことがあるのだと思っていた。小鳩にとってそれは意外なことであり、また自分が初めてなのはうれしくもあった。
「だから、恋人同士ってどういったことをするのかあんまり分からないんですよね」
瞬時に、小鳩の脳裏にはあんなことやこんなことが浮かんだが、すんでのところで理性が口にするのを止めさせた。初めての部長にあまり慣れないことをさせるのは負担になるかもしれないし、何より引かれたり嫌われたくない。少しずつ慣れてもらうのが一番良いだろう。
「大丈夫! オレが優しくリードするから!」
「先輩、女性経験多そうですもんね」
「……それは褒めてる?」
「褒めてはないかも。でも、先輩だったら大丈夫って思ってますから」
こちらに向けて微笑まれ、ついドキマギとする。こんな状態ではすぐに理性などどこかへ飛んでいってしまうだろう。このままではダメだと、頭を振って邪な思考を片隅に追いやる。
「ブッチョのこと大事にするから」
「はい。こちらこそよろしくお願いしますね。小鳩先輩」
そう言って微笑んだ部長の顔を小鳩は幸せな気持ちで見つめる。これからどんな日々が待っているのだろうか。部長となら、きっと最高の青春が始まることにちがいない。
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