本当に不可解なおとぎ話


西遊記は発祥国の中国のみに留まらず、イスラム圏を除く世界の多くの国で知られているアドベンチャーファンタジーである。
日本でも忘れた頃にドラマ化され、その度にわかブームになる。

知らない人はいないとは思うが、簡単にストーリーを説明しておこう。

その昔、まだ天と地が繋がっていた頃、手がつけられない無法者の石猿の妖怪がいた。

その名を斉天泰聖孫悟空という。

不死身の肉体で怪力と妖術を振りかざし、我が物顔で地上狭しと暴れ回り、欲しい物は何でも手に入れていた孫悟空は、天界までも手中に治めようと企んだ。
いざ天界へと出向いた孫悟空は、お釈迦様に勝負を挑むが、あっさり敗退…
「この世の果てまで行ってみせる」と豪語し、斤斗雲に乗って颯爽と飛んでいったが、彼がこの世の果てだと思った場所は、まだお釈迦様の手の中…
この世の果てに行った証拠に自分名前を書いた柱は、実はお釈迦様の指だったのだ。

仏教の話らしい、実に哲学的に考えさせられるエピソードである。
お釈迦様がとてつもなく巨大だったのか、はたまた孫悟空が颯爽と飛んでいるつもりでもルームランナーで走るように、その場でバタバタ足踏みしていただけなのかは解らないが、どっちにしても妖怪の王になれる程の力を持っている孫悟空であろうと、お釈迦様の手の中すら抜け出せないちっぽけな存在なのだと暗に語っているのだ。

負けた孫悟空は戒めのため、五行山に岩で封印されてしまうのであった。
孫悟空が身動きできないまま500年程が経過した頃、天竺へ経典を求めて旅する僧、三蔵法師と出会う。
三蔵法師の弟子となり、旅のお供をする事を条件に、五行山から解放された孫悟空は、その後弟子に加わる猪八戒や沙悟浄らと、三蔵法師の行く手を阻む妖怪達を片っ端から倒していくのである。


昔から語り継がれる物語に登場するヒーローといえば、聖人君子の正義の味方がほとんどの中、斜に構えたひねくれ者に描かれる孫悟空は、現在よりも抑圧された当時の人々にとって憧れずにはいられない存在であったに違いない。


天竺までの道のりはかなり長く険しいものであった。
三蔵法師一行はひっきりなしに襲い来る敵の妖怪達を片っ端から蹴散らし、不幸な人々を救いながら、果しなく遠い10万里もの彼方の天竺へ、ありがたい経典を求める旅は続くのであった…

昔の尺貫法は国によって様々だが、中国における1里とは約500mである。
すなわち10万里をメートル法に直すと、50,000kmという事になる。

遠いなぁ…
三蔵法師一行は基本的に徒歩で天竺を目指していたが、50,000kmはあまりに遠い…
現代の交通機関に置き換えても、自動車で時速60kmでノンストップで走ったとしても34日と17時間、最低一日8時間は休憩すれば53日間を要する。
ジェット機でマッハ1で飛んだとしても2日と2時間掛かる距離なのだ。

これはちょっと、いくらナンでも遠すぎやしないだろうか?
天竺とは現在のインドであるが、中国とインドってそんなに遠かったっけ?

地球一周はほぼ40,000kmである。
単純に考えれば、唐の国から天竺までの距離は地球を一周と1/4という事になる。

しかし、お釈迦様が10万里だと言い張る以上、それを疑う事はできない。
お釈迦様のおっしゃるとおりの検証にしなければならない。

これは遠いというより、三蔵法師一行がかなり無駄な迂回をしてしまっていると解釈する方が妥当ではないだろうか?

細かくは、天竺が現在のインドのどこを指すのか、また三蔵法師が唐の国のどこから旅立ったのかは解らないが、どう長く見積もってもせいぜい10,000kmだろう。
そう考えればなまじ無謀な距離とも言えない。
地球一周してから10,000kmを旅したと考えれば、天竺の位置はちょうどいいのだ。
つまり三蔵法師の旅路にはちょうど地球一周の無駄な迂回があったという事になる。

ようするに一行は一度天竺を通り越して、地球を一周してまた天竺までたどり着いたという事なのだ。

三蔵法師が途方もない方向音痴だったと解釈できなくもないが、思ったよりも近い天竺までの旅路に「これではイカン!!」とあえて迂回したとも考えられる。

さすがは三蔵法師。
孫悟空の斤斗雲は唐の国から天竺まで一飛らしいが、それでは意味がない。
この旅は同時に修行の旅でもある訳だから、より苦難な道を選んだという事だろう。
まぁそれにしたってやり過ぎのような気もするが、三蔵法師には三蔵法師なりの考えがあったのであろう。


西遊記は思った以上のスケールで描かれた作品だったのだ。

天竺目指して旅をしていたけど途中で道を間違えてそのまま地球一周しちゃいましたてへぺろ的に、例え自分のミスであろうとも決して悲観せずにミスはミスで受け入れて、それをどう取り返すのかを考えるという深い物語だったのだ。

ん?まてよ、だとすると、最初の孫悟空とお釈迦様の勝負にも疑問が生じる。

唐の国から天竺まで一飛という斤斗雲にとって、地球一周など造作も無い事であろう。
つまり、「この世の果てまで行ってみせる!!」と豪語した孫悟空は、地球を一周して戻って来たところをお釈迦様に捕まった可能性が高いのだ。


さて、三蔵法師一行には沙悟浄というキャラクターが存在する。
我々日本人には河童としておなじみの沙悟浄であるが、河童とは日本古来の妖怪であり、西遊記の舞台である中国には存在しないのである。

実は本場中国では沙悟浄の正体は河童ではないのだ。
大まかに水から現れた妖怪という事で、日本では「河童」と解釈されたと思われる。
本来のモデルはヨウスコウカワイルカではないかと言われている。

まぁ頭の皿が渇くと死んでまう河童の身でありながら、ほとんど砂漠のシルクロードの旅は苛酷であったろうと思ったが、とりあえず一安心である。

しかし、日本人の私にすれば、やはり「沙悟浄=河童」というイメージは拭いされない!
なんとかして沙悟浄は河童という事にはならないだろうか?と思っていたが、三蔵法師一行が地球を一周する旅をしたとすれば、日本にも立ち寄っている事になり、そこで沙悟浄と合流したとすれば、河童であってもなんら不思議は無い。

よかった!
やはり日本人には「沙悟浄=河童」でしょう!

つまり西遊記の旅は以下のとおりとなる。

唐の国を出発した三蔵法師は五行山で孫悟空と出逢い、その後猪八戒と出逢う。
シルクロードを旅した一行は天竺には寄らず、そのまま黒海を抜け、ヨーロッパを通り、船に乗って大西洋へ出る。
アメリカ大陸を横断し、また船に乗って太平洋を渡り、日本にたどり着き、そこで沙悟浄に出逢う。
また船に乗って東シナ海を渡り、再び唐の国につき、後はそのまま天竺を目指したという事なのだ。

まぁその場合、沙悟浄は旅の終盤間近で一行に参加したことになり、苦難の旅の達成感にも他のメンバーよりかなりの温度差があった事であろう。

【注釈】
↓[イスラム圏を除く]
豚を忌み嫌うイスラム教では、猪八戒のキャラクターを受け入れられないらしい。

↓[斉天泰聖]
「せいてんたいせい」と読む
孫悟空が妖怪の王として君臨していた頃の名前。
まぁ意味はよく解らんが、とにかく「偉い」とか「強い」という意味であろう。
現在の東アジアでは孫悟空をこの名で神として奉っている地域もある。

↓[仏教の話らしい…]
ブッダがひらいた黎明期の仏教は、宗教というより哲学に近い。
元々仏教は、現在の仏教のように仏様を神様の如く祀り、救いを求めるような救済型の宗教ではなかった。
それらが始まったのは、シルクロードの時代にヨーロッパからキリスト教などヘブライ系の宗教が多く東洋に渡り、仏教より先に中国に広まった事による影響と考えられている。
現在の日本の仏教は90%以上が平安時代に中国から持ち込まれた真言宗や天台宗などの密教系の派生宗派で、密教は原始仏教よりもキリスト教などの契約救済系宗教やゾロアスター教などシャーマニズム系宗教の影響が強いとされている。

↓[三蔵法師]
正しくは「玄奘三蔵」
実在の人物で、7世紀頃の中国からインドまで旅をして、仏教の経典を持ち帰ったとされている。
元々「西遊記」とは玄奘三蔵の旅の記録であり、孫悟空などは後々小説化した時に登場させたエピソードである。
そういえば三蔵法師が女性だと思っている人が結構多いようだ。
理由は日本でドラマ化された際、女優が演じるのが通例となっているからだ。
無論、三蔵法師は男性であり、ドラマ内でもちゃんと男性という設定になっている。
美男子で弟子の妖怪達に比べて脆弱なイメージから女性が演じる方がハマるからであろう。
まぁ出演者が男ばかりというのもむさ苦しいという理由もあるのだろう。

↓[尺貫法]
日本では1里は約3,900mになる。
もしかしたら、日本語に翻訳された際に、日本式の尺貫法に直されたかもしれない。
その場合の10万里は390,000kmで、地上から月までの距離にほぼ等しい。

↓[地球一周はほぼ40,000km]
これはヨーロッパでメートル法が成立された際に、赤道から北極点までの距離の1/10,000を1kmと定めた事に由来する。
従って、縦方向の地球一周は40,000kmと断定しても間違いないが、地球は正確な球体ではなく、やや楕円形であるため、横方向の距離は正確な40,000kmとは言えない。

↓[ヨウスコウカワイルカ]
哺乳綱クジラ目ハクジラ亜目カワイルカ科
淡水に生息する世界的にも4種類しかいないカワイルカの仲間。
現在、中国の急速な工業化により川が汚され、絶滅の危機に瀕している。
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