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03.気になる人

 新とファミレスで食事をしてからもうすぐ一週間が経とうとしている。
 あれからの翔吾と言えば、仕事でパソコンに向かって書類を作成していても、家で怜と過ごしていても、何となく新の事が忘れられずにいた。食事をした時に、「金をくれない人にしつこく迫ると殴られる」と言っていた事を思い出しては、今日も無事なのだろうかと気になっていた。
 自分は新の生活している地域も知らなければ、連絡先すら知らない。だけど、新の方は翔吾の名刺を持ったままで、連絡先を知っている。一度は自分からもう会わないと断った身であるが、もう一度連絡が来ないだろうかと都合のいい事を思っていた。

 今日も無事に仕事を終え後片付けをして、怜の待つ家に帰る為に支度を進めた。仲間達に挨拶をしながら事務所を後にする。エレベーターに向かう間、スマートフォンを取り出し、日課となっているメールや着信のチェックをした。
 いつも、仕事の終わる頃合いを見計らって怜から「お疲れ様」の一言と、買い忘れた物があればそれが書かれたメールが来ていた。それ以外だと、行きつけの居酒屋のクーポン付きのメルマガが一件来ているくらいだ。
 今日の妻からの伝言は……とメールを開くと、「お疲れ様~! 牛乳買ってきて」という言葉と、お願いを意味した顔文字が入っていた。

「牛乳……? そんな慌てて買わなきゃいけないものか……?」

 飲む物だったら、牛乳の他に珈琲だって紅茶だってぶどうジュースだってあるのに。そう思いながらも翔吾は、「わかったよ」と返事を返し、近くのコンビニに足を運んだ。



 家に帰ると、何故牛乳じゃなければいけなかったのかを知る事になった。今日の夕飯はホワイトシチューだ。牛乳がなければ何も始まらない。むしろ、シチューのメインとなる牛乳を忘れるか? 照れたように笑う怜に、牛乳の入った袋を渡す。怜は少しドジっぽい所もあったが、翔吾はそういう所も含めて怜が好きだ。憎めないところも、愛嬌のうちだと思っていた。

「翔吾さん、ありがとう。危うく、ただのポトフになるところだったわ」
「まぁ、それでも良かったけど……。仕事辞めてから気が緩んでんのか? 忘れ物が多いぞ?」
「幸せボケってやつかなぁ~?」
「ボケるにはまだ早いと思うけどなぁ」

 買ってきた牛乳を鍋にトポトポと入れている姿を見ながらスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めた。
 
 牛乳をよく馴染ませ、鍋の中をゆっくり掻き混ぜながら火を止め、ようやく夕飯の完成となった。皿に入れてくれたシチューが目の前に運ばれてくると、腹の虫も鳴き出した。先に用意されていたスプーンを手に取り、一口食べると、まろやかで美味しいシチューに頬の内側が蕩ける。

(……新くんは、ちゃんと飯を食えてるのか……?)

 日々の生活費をその日その日で、体で稼いでいるという新の事がまた気に掛かる。いい男を捕まえられなければ、飯にもあり付けないだろう。体型が華奢だったのはその所為か? まさか、満足に飯も食えていないんじゃ……。
 手を止め、ゴロゴロとしたジャガイモや人参を見つめていたところで、「翔吾さん?」と怜に声を掛けられ、翔吾は我に返った。

「お口に合わなかった……?」

 心配そうに翔吾を見上げる怜に目を向ける。また、一夜を共にした男の事を考えてしまっていたというのを振り払うかのように、怜に笑顔を向けた。

「美味しいよ。牛乳がこんな風になるんだなぁって思って」
「それは、私の腕がいいせいね」

 ニコリと笑う自分の妻が愛おしい。愛らしい笑顔を向ける怜を柔らかに見つめて、翔吾も笑みを返した。

「そういえば……。今日、翔吾さんのお義母さんから電話が来て……」
「ん? おふくろ? なんか言ってた?」
「うーん……。子供はまだ作らないのかって……」
「あぁ……」

 シチューの中をスプーンで掻き混ぜる怜の姿を見て、翔吾は目を細めた。
 この若い夫婦の間に子供はいない。子作りは何度か挑戦しているが、これまで授かる事が出来なかった。
 どちらが……と言うのを調べてもらった事はない。それを明確にしてしまうとトラブルの元になると思ったからだ。

「ごめんな。おふくろには焦らせるなって言うよ」
「う~ん……。やっぱり私が悪いのかなぁ……」
「そんな事ないよ。ゆっくり進んで行こう?」

 少し落ち込む妻の姿を見て、翔吾は腕を伸ばしてスプーンを握る怜の手を握った。
 
(新くんの事を気にかけている場合じゃないな……)

 そう思って瞼を伏せたままの怜に優しげな笑みを向けた。



 新の事など気にかけている場合ではない──。

 そう思っていたのに再会したのは本当に偶然だった。
 その日はたまたま、仕事帰りに二駅向こうの総合病院まで同僚と共に出向いていた。職場の嫌味な上司が胃潰瘍で入院したというのだ。
 嫌味を言うだけ言って、なんであの人が胃潰瘍? こっちもどれだけ胃が痛かったかという愚痴は給湯室でお茶を飲んでいる女性社員達が毎日のように言っていた。それには翔吾や、他の男性社員も同感だったが、まさか見舞いに行かない訳にもいかず、渋々と社員代表として翔吾と仲の良い田中という男が見舞いに行く事になった。
 適当にフルーツが盛り合わせてあり、ビニールで包まれたバスケットを持ちながら電車に揺られ約二十分。バスケットを胸の前で抱えていると、目の前に立っていた年配の男性が迷惑そうな顔を向けていた。

 入院病棟、東館の七階。
 ナースステーションで上司の名前を出し、見舞いに来た事を告げると、右の一番端の部屋だというのを教えてもらい、そこに向かった。
 翔吾と田中はアイコンタクトを送り合い、気合いを入れて病室の扉を開ける。四人部屋の入って右側の手前に、少し憔悴した上司の姿を見つけた。いつも吊り上がった目は情けなく垂れ、キツめに閉じられていた口も口角が下がり気味だ。よほど参っているのか、上司の変わり果てた姿を見て哀れんだ。
 「早く治して復帰してくださいよ、みんな待ってますから」というテンプレのような言葉も、今のその人の心には沁み入るように響いているようだ。見舞いの果物盛り合わせの籠を棚の上に置き、少し雑談をしながら励ましの言葉を掛ける。
 鬼も病に冒されてしまうと、こんなにも弱々しくなってしまうものなんだなと、翔吾はしみじみと感じていた。

 しばらく滞在した後、田中と翔吾は病室を後にする。最後に頭を下げていた上司の姿が印象的だった。

「だいぶ弱ってたなぁ」

 翔吾がエレベーターのボタンを押しながら呟くと「な」と田中が返事を返した。

「会社に復帰したら人が変わってたりして」
「いや……あの人に限ってそれはねぇよ。きっと戻ってきたらまた嫌味の嵐になると思うぜ?」

 開いたエレベーターに乗りながら田中がそう言うのを聞いて、「そんなもんか」と翔吾も返事を返した。

 病院の入口を出ると外は薄暗く、田中と並んで敷地を後にする。また駅に向かって、今度は我が家へ帰ろうとしている時に、歩道の先に見た事のある姿が向かって来るのが見えた。

 明るい髪色のマッシュパーマ。今日はトレーナーとジーンズという格好で歩いている。隣には誰もおらず一人だ。

 翔吾の心臓がドクンと音を立てる。

 向こうは少し俯き加減で歩いているからこちらには気付いていない。このまま知らないフリをして通り過ぎようか、それとも「久しぶり」と声を掛けようか。話し掛けた後はどうする? 田中もいるのに何を話すんだ? そもそも、あんなに若い知り合いがいるという事を変に思われないだろうか。

 田中が隣で軽快に話している内容など、翔吾の耳には入っていなかった。声を掛けるか否かと悩んでいる間にも、お互いの距離が縮まってしまう。新はずっと俯いていてこちらには気付いていない。
 飯はどうしているのかと気になる相手ではあったが、もうあの日の事は金で精算し終わった筈だ。ここは無視を決め込んで、もう新の事を考えるのは今後一切よそうと決めた。

 二人の距離が一歩一歩近付いてくる。もう三メートル、二メートル、一メートル。とうとう翔吾の隣を擦れ違うという時になって、新は視線を翔吾に向け、口許をにこりと笑わせた。
 ばっちり視線の合った翔吾は思わずその場で歩みを止める。
 隣を歩いていた筈の翔吾がいなくなった事に気付いた田中は足を止め、翔吾に振り返った。

「朝比奈ァ~。どうした?」
「……田中。悪い、ちょっとこっち方面で寄らなきゃ行けないとこがあるのを思い出した」
「ん~? そお? じゃあ俺、帰るね~」
「あぁ、また会社で!」
「おう」

 軽く手を上げ、また進行方向へ歩き出す田中の背を見送る。しばらくそうした後、後ろを振り向くと、まだ新の姿は確認出来る所にあった。
 自然と足が駆け出し、新の後を追う。新が細い道を右に曲がるのを見て、少しペースを上げた。

 何で追ってしまったんだ。家では怜が夕飯を作って待ってくれているのに……。
 そう思いながらも、新の曲がった道を曲がる。すると、新は道に入ったすぐの所に立っていた。

「……っ!?」
「翔吾さん。どうしたの? こっちに何か用事?」

 そう言う新の口元は悪戯に笑っている。翔吾に近付くと新は首に腕を回して抱きついた。

「新くん……!?」

 慌てた翔吾が体を引き離そうと肩を掴んだが、しっかりと腕は首に回されたままだった。

「名前。ちゃんと覚えていてくれて嬉しい……」

 新はそう言って笑うと少し背伸びをして、翔吾の唇に吸い付いた。
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