38
「何考えてる」
不意に飛んできた声に、及川は顔を横に向けた。荷物をしまっていた幼馴染みを見てふっと笑う。
「何もないよ」
「何もって顔じゃなかっただろ」
「ええー、そんなことないって」
ひらひらと手を振って荷物を持ち上げる。
「じゃ、先帰るね」
「おう」
それ以上は追求することなく、岩泉はまた自分のロッカーに向き直った。部室の扉を閉めながらそれをちらりと確認し、及川はこっそりと息をつく。
(まあ、何もないっていうのは嘘なんだけど)
試合の最中は試合にだけ集中できる。だが、こうしていると途端に別のことが頭を占め始める。
それは岩泉も気づいていて、突っ込んで訊いてこないだけだろう。
なぜなら、岩泉自身もまた、思い悩んでいるはずなのだから。
(どうしたら、いいんだろうね)
今日の烏野の試合が頭に浮かぶ。その後、観客席で自分達の試合を見ていた彼らのことも。
どちらのときも、影山はチームメイト達に囲まれていた。何か声を掛け合っては笑っていた。その笑顔はチームの中だけでなく、金田一と国見にも向けられていて、──表情を取り繕うことができないほどに、うらやましかった。
がたん、と部室の中で音が聞こえて我に返る。そろそろ岩泉も帰り支度を済ませて出てくる頃だ。
何もないと言った手前、ここでまた顔を合わせるのは少し気まずい。
もう一度ゆっくり息をついて、及川は階段に向かった。
ゆっくりと自転車を走らせる。
急いで帰る気分ではないのは影山も同じなようで、静かに自転車をこいでいた。
「なー、影山」
「ん」
短い返事は穏やかだ。昔、それこそ“前回”の今頃はあまりなかった柔らかな空気の会話が、日向はけっこう気に入っている。
「“前回”と同じ試合、2つやったけどさ」
「ん」
「人生二度目でも、勝ったうれしさとか、ドキドキとか、変わらないんだな」
「そうだな」
ふわりと風が吹き抜ける。初夏の夜の匂いがした。
「明日も勝とうな」
「当たり前だ」
明日の試合は、“前回”では負けてしまった試合だ。けれど、それは不安要素にはならなかった。
自分達は勝てる。そう思えるだけのチームになっている。
「あとはまた変な絡まれ方しないように気を付けないとなー」
「分かってる。1人にならなきゃいいんだろ」
「ま、それさえ気を付けてれば今は大丈夫かな」
影山は本人が自覚している以上にみんなに大事にされている。だから、大丈夫だろう。もちろん油断はできないし、日向だっていざとなれば大事な相棒を守る気は満々だが。
話しながら自転車をこいでいるうちに家が見えてくる。
「じゃあな」
「おう! また明日!」
影山が自分の家の門に入っていくのを見送り、日向も家に入った。
昨日と同じく賑わっている廊下を歩く。
昨日と違うのは、周囲から見向きもされなかったはずの烏野がやたらと視線を向けられていることだ。
「なんか、見られてない?」
後ろを歩いていた山口がそっと声をかけてきた。日向がくるりと振り返る。
「昨日伊達工に勝ったからなー」
「う、そうだね…」
突き刺さる視線が痛いらしい山口と谷地がそろって肩をすくめて、日向がけらけらと笑った。その後ろを月島が我関せずと言わんばかりに歩いている。
普段通りの光景がなんだかおかしくて、影山も小さく微笑む。
「影山!」
ぽん、と腕を叩かれた。横を見るといつの間にか前の列からこちらまで下がってきていた西谷と目が合う。
「楽しそうだな!」
「楽しいっす」
高校を卒業して大学に入っても、プロの選手になっても、ずっと胸の奥に大切にしまわれていた宝物のような光景をまたこの目で見ている。
それはいつだって、とても楽しい。
「いつも通りだな」
なぜか、西谷はいつもの元気な笑顔とは少し違う僅かに柔らかい色を宿した顔をする。
「…?」
「なんでもない! 今日も頼りにしてるからな!」
べしべしと腕を叩かれた。少し痛かったが嬉しくて、影山はにへらっと笑う。
「ウッス!」
「ノヤさん! 俺は? 俺は?」
「お前ももちろん頼りにしてるぞ!」
いつからやり取りを聞いていたのか、日向が飛び込んできた。わしわしと頭を撫でられてご満悦な相棒に、月島が呆れた顔でため息をつく。
「子供か」
「なんだよー、うらやましいならそう言えよ」
「は?」
「お? お前も撫でくりまわしてやろうか?」
「遠慮シマス」
余計ににぎやかになった周囲に、影山はまた、笑顔をこぼした。
「影山、いつも通りっすよ」
隣に来た西谷に言われて、澤村は1つ頷いた。
「ありがとうな」
「へへっ」
頭をかいた西谷は、ほかの1年達とわちゃわちゃと話している影山に視線を向ける。
「大地さん、実はけっこう心配してたんすね」
「まあ、今までの様子を見るとあいつは平気だとは思っていたんだけどな。…去年のことがあるから」
青葉城西との練習試合では普段通りだったし、昨日顔を合わせたときも戸惑いは見せたもののあまり動揺はしていなかった。かつての先輩達と顔を合わせることに、影山本人はあまり不安はないのだろうと思う。
だから、こちらが勝手に心配しているだけと言えばそれだけなのだが。
「可愛い後輩に傷ついてほしくない。変な不安なんか抱えずに思いっきり試合をしてほしい。…先輩として、当たり前のことだ」
近くにいた菅原がパチパチと拍手した。
「いよ! 先輩の鑑!」
「カガミ?」
「ミラーのほうの鏡じゃないぞ?」
「ほかのカガミって何かあるんすか?」
「鑑っていうのはなー」
気の抜けた会話に苦笑して、澤村はチームのメンバーを見回す。
「そろそろ準備しろよ」
一斉に返事の声が上がった。羽織っていたジャージを脱ぎ出したメンバーの中で、影山もさっさとユニフォーム姿になっているのが見える。
(さあ、3試合目だ)
よし、と内心で気合を入れて、澤村も自分のジャージに手をかけた。
不意に飛んできた声に、及川は顔を横に向けた。荷物をしまっていた幼馴染みを見てふっと笑う。
「何もないよ」
「何もって顔じゃなかっただろ」
「ええー、そんなことないって」
ひらひらと手を振って荷物を持ち上げる。
「じゃ、先帰るね」
「おう」
それ以上は追求することなく、岩泉はまた自分のロッカーに向き直った。部室の扉を閉めながらそれをちらりと確認し、及川はこっそりと息をつく。
(まあ、何もないっていうのは嘘なんだけど)
試合の最中は試合にだけ集中できる。だが、こうしていると途端に別のことが頭を占め始める。
それは岩泉も気づいていて、突っ込んで訊いてこないだけだろう。
なぜなら、岩泉自身もまた、思い悩んでいるはずなのだから。
(どうしたら、いいんだろうね)
今日の烏野の試合が頭に浮かぶ。その後、観客席で自分達の試合を見ていた彼らのことも。
どちらのときも、影山はチームメイト達に囲まれていた。何か声を掛け合っては笑っていた。その笑顔はチームの中だけでなく、金田一と国見にも向けられていて、──表情を取り繕うことができないほどに、うらやましかった。
がたん、と部室の中で音が聞こえて我に返る。そろそろ岩泉も帰り支度を済ませて出てくる頃だ。
何もないと言った手前、ここでまた顔を合わせるのは少し気まずい。
もう一度ゆっくり息をついて、及川は階段に向かった。
ゆっくりと自転車を走らせる。
急いで帰る気分ではないのは影山も同じなようで、静かに自転車をこいでいた。
「なー、影山」
「ん」
短い返事は穏やかだ。昔、それこそ“前回”の今頃はあまりなかった柔らかな空気の会話が、日向はけっこう気に入っている。
「“前回”と同じ試合、2つやったけどさ」
「ん」
「人生二度目でも、勝ったうれしさとか、ドキドキとか、変わらないんだな」
「そうだな」
ふわりと風が吹き抜ける。初夏の夜の匂いがした。
「明日も勝とうな」
「当たり前だ」
明日の試合は、“前回”では負けてしまった試合だ。けれど、それは不安要素にはならなかった。
自分達は勝てる。そう思えるだけのチームになっている。
「あとはまた変な絡まれ方しないように気を付けないとなー」
「分かってる。1人にならなきゃいいんだろ」
「ま、それさえ気を付けてれば今は大丈夫かな」
影山は本人が自覚している以上にみんなに大事にされている。だから、大丈夫だろう。もちろん油断はできないし、日向だっていざとなれば大事な相棒を守る気は満々だが。
話しながら自転車をこいでいるうちに家が見えてくる。
「じゃあな」
「おう! また明日!」
影山が自分の家の門に入っていくのを見送り、日向も家に入った。
昨日と同じく賑わっている廊下を歩く。
昨日と違うのは、周囲から見向きもされなかったはずの烏野がやたらと視線を向けられていることだ。
「なんか、見られてない?」
後ろを歩いていた山口がそっと声をかけてきた。日向がくるりと振り返る。
「昨日伊達工に勝ったからなー」
「う、そうだね…」
突き刺さる視線が痛いらしい山口と谷地がそろって肩をすくめて、日向がけらけらと笑った。その後ろを月島が我関せずと言わんばかりに歩いている。
普段通りの光景がなんだかおかしくて、影山も小さく微笑む。
「影山!」
ぽん、と腕を叩かれた。横を見るといつの間にか前の列からこちらまで下がってきていた西谷と目が合う。
「楽しそうだな!」
「楽しいっす」
高校を卒業して大学に入っても、プロの選手になっても、ずっと胸の奥に大切にしまわれていた宝物のような光景をまたこの目で見ている。
それはいつだって、とても楽しい。
「いつも通りだな」
なぜか、西谷はいつもの元気な笑顔とは少し違う僅かに柔らかい色を宿した顔をする。
「…?」
「なんでもない! 今日も頼りにしてるからな!」
べしべしと腕を叩かれた。少し痛かったが嬉しくて、影山はにへらっと笑う。
「ウッス!」
「ノヤさん! 俺は? 俺は?」
「お前ももちろん頼りにしてるぞ!」
いつからやり取りを聞いていたのか、日向が飛び込んできた。わしわしと頭を撫でられてご満悦な相棒に、月島が呆れた顔でため息をつく。
「子供か」
「なんだよー、うらやましいならそう言えよ」
「は?」
「お? お前も撫でくりまわしてやろうか?」
「遠慮シマス」
余計ににぎやかになった周囲に、影山はまた、笑顔をこぼした。
「影山、いつも通りっすよ」
隣に来た西谷に言われて、澤村は1つ頷いた。
「ありがとうな」
「へへっ」
頭をかいた西谷は、ほかの1年達とわちゃわちゃと話している影山に視線を向ける。
「大地さん、実はけっこう心配してたんすね」
「まあ、今までの様子を見るとあいつは平気だとは思っていたんだけどな。…去年のことがあるから」
青葉城西との練習試合では普段通りだったし、昨日顔を合わせたときも戸惑いは見せたもののあまり動揺はしていなかった。かつての先輩達と顔を合わせることに、影山本人はあまり不安はないのだろうと思う。
だから、こちらが勝手に心配しているだけと言えばそれだけなのだが。
「可愛い後輩に傷ついてほしくない。変な不安なんか抱えずに思いっきり試合をしてほしい。…先輩として、当たり前のことだ」
近くにいた菅原がパチパチと拍手した。
「いよ! 先輩の鑑!」
「カガミ?」
「ミラーのほうの鏡じゃないぞ?」
「ほかのカガミって何かあるんすか?」
「鑑っていうのはなー」
気の抜けた会話に苦笑して、澤村はチームのメンバーを見回す。
「そろそろ準備しろよ」
一斉に返事の声が上がった。羽織っていたジャージを脱ぎ出したメンバーの中で、影山もさっさとユニフォーム姿になっているのが見える。
(さあ、3試合目だ)
よし、と内心で気合を入れて、澤村も自分のジャージに手をかけた。